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黄花一輪

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4部分:第四章


第四章

 聶政が向かうのは濮陽であった。そこに辿り着くとまず嚴仲子のところにやって来た。嚴仲子は彼を見るなり険しい顔で問うてきた。
「決められたのですね」
「はい」
 聶政はそれに頷く。
「その為に参りました」
「わかりました、ではこちらへ」
 嚴仲子は彼を自分の屋敷の奥へと招き入れた。屋敷の中はかなり広く彼の家の権勢を思わせる。だが装飾等は意外と質素である。どうやら生活そのものは清廉であるらしい。
 奥へ奥へと進むと庵に着いた。その中へ入った。
「こちらで宜しいですかな」
「はい」
 聶政は応える。彼としては断る理由がなかった。
「わかりました。それでは」
 二人は向かい合って座った。そこで話をはじめた。
「まずはお話を窺いましょう」
「母が亡くなりました」
 聶政はまずは自身の母の死について述べた。
「それでこちらまで参りました」
「左様ですか。御母堂のことは」
「いえ、それは」
 まずはそれに謙遜する。
「お構いなく。母は天寿を真っ当しましたから」
「左様ですか」
「最後に私に言ったのです」
「何と」
「自分が死んだら私の好きなようにするといいと。それで私も気が楽になりました」
「そうだったのですか」
 嚴仲子はそれを聞き瞑目した。
「立派な方だったのですな」
「はい、こう言っては自慢になりますが素晴らしい母でした」
 聶政もそう述べた。
「その母の葬儀も終わり私は一人になりました。それで」
「こちらに参られた」
「私はほんのしがない男です」
 聶政は言う。
「祖国で人を殺し、そして異国で豚殺しをしていた。名も知られていないそんな男です」
「ですが貴方は」
「いえ、それは事実です。ですがそんな私に貴方は礼を尽くされた。あの花を下さりそして母を褒めて下さった。私の様な者に対して」
「貴方にお願いすることは死を賭したものですが」
「命は。生きているからこそではありません」
 聶政のその言葉には何の淀みもなかった。何処までも清いものであった。
「どの様に生きたかです。違うでしょうか」
「それでは貴方は」
「はい、義と礼に生きます」
 清い声のまま言う。
「最後までそれに拠って生きるだけです」
「そうなのですか」
「ですから」
 声が強くしっかりとしたものになった。
「貴方の申し出、喜んで引き受けましょう」
「かたじけない、まさか引き受けて下さるとは」
「侠累殿は韓におられるのですね」
「はい、韓王の末の叔父でその権勢は比類なきものです」
「やはり」
 それは言うまでもないことであった。
「周りは屈強な兵士達が固め相当なものです。ことを果たすのは容易ではありません」
「それでは今までは」
「はい、残念なことに」
 嚴仲子は首を横に振った。
「成し遂げた者はおりません」
「左様ですか」
「だからこそ貴方にお願いしたいのです」
 そして顔を上げて聶政の目を見た。
「人も出しますので」
「いえ」
 だが聶政はその言葉に首を横に振った。
「それはかえってまずいでしょう」
「といいますと」
「相手は王族であり一国の宰相であります」
「はい」
「それだけに警護が厳重ならば人が多いとかえって目立ちます」
「ですが」
「お聞き下さい」
 聶政は続ける。
「目立てば終わりなのです」
 それは彼が最もよくわかっていることであった。
「警戒されれば暗殺は意味がありません。ましてや人が捕らわれればそれで秘密が漏れます。さすれば韓は国をあげて貴方を滅ぼさんとするでしょう」
「それはわかっております」
「それでは尚更です。人は多くてはいけません」
 彼は言い切った。
「一人でなくては。ですから私が」
「行かれるのですか?」
「はい」
 きっとして言い切った。
「その為にも一人で参りました。私に声をかけて下さったのならば是非」
「・・・・・・・・・」
 嚴仲子は暫し何も言えなかった。だがようやく口を開いた。
「わかりました」
 無理を承知で声をかけたのだ。ここは彼を信じることにした。
「それではお願いします」
「はい」
 聶政は頷く。
「必ずや貴方の期待に添えましょう」
「ではまず宴を」
「宜しいのですね」
「はい、私からのせめてもの気持ちです」
 彼もまた人の心を知る者であった。だから聶政の為に宴を開きたいと思ったのだ。
「どうかお受け下さい」
「かっては私を客として扱って頂き、今もまた」
「貴方はそれだけの価値がある方です。御母堂への孝行もまた」
「かたじけのうございます。それでは」
「はい」
「最後に」
 二人は最後の盃を交え合った。それが終わると聶政は衛を去った。衛を去る時は嚴仲子一人が見送った。彼に別れを告げると。二度と振り向くことなく韓へと入るのであった。己が仕事を果たす為に。


 
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