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武后の罠

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2部分:第二章


第二章

「しかしじゃ」
 それでも最後にこれだけは言われるのだった。
「どう思うのじゃ」
「どう思うとは」
「だからじゃ。白か黒か」
 抽象的であるが誰が聞いてもはっきりとわかる問いであった。
「どちらじゃ。皆はどう思うか」
「それはやはり」
「これは」
「どちらじゃ」
 何故かそこを念入りに問う者がいるのだった。
「この場合は」
「やはり。黒ではないのか」
「どうも。怪しい」
「そうじゃな。黒じゃ」
「黒じゃ」
 この黒が皇后を覆うのだった。それは宮中だけではなく政事の場においても広まっていった。常に皇帝である高宗の側にいる武昭儀は涙を流さぬ時はなかった。
「あの娘は。私が部屋に戻って来た時にはもう」
「うむ、わかった」
 高宗は昭儀を慰めて言う。
「わかっておるから。もう泣くのは止めよ」
「しかし一体誰が」
 ここで昭儀は常にこの言葉を口にするのであった。
「この様な恐ろしいことを」
「人ではない」
 高宗は歯噛みして言った。その言葉と共にいつも昭儀の美しい顔を見る。切れ長の黒が勝っている目に白い雪の如き肌、そして透き通った艶のある顔立ち。彼よりも五歳年上であり彼はこの艶に魅入られているのだ。
「この様なことをするのは人ではない」
「そうです。人ではありませぬ」
 嘆き悲しむ顔で皇帝の耳に囁くのであった。
「この所業は」
「許せぬ」
 そして彼はいつもこう誓うのだった。
「我が娘を殺した者は。誰であろうが」
 彼は自分と愛する昭儀の間に産まれた娘を殺した者を決して許すつもりはなかった。そして当然ながら宮中や朝廷、そして巷での噂話が耳に入っていた。つまり彼もまた皇后を疑いはじめていたのだ。そのうえここでもう一つ噂話が世に出ていたのである。
「今度はそれか」
「皇后様と淑后様が仲良くされていると」
「今度は嘘ではないらしい」
 今度は皇后とかつては彼女のライバルであった淑后の関係が噂にのぼったのだった。
「それに根拠もあるではないか」
「根拠!?確かにな」
「それはな」
 かつてはライバル関係にあった二人が手を結ぶようになった理由は誰もがわかるものだった。それは他ならぬ昭儀に大いに関係のあることだった。
 彼女は今や世継ぎを産み皇帝の寵愛を独占している。宮廷内では比類なき力を持つようになっている。それに対して皇后と淑后はどうか。これで二人が手を結んで昭儀にあたるのは当然の流れであった。実に政治的な流れである。
 宮中も朝廷も政治の場だ。言うまでもなくその流れには非常に敏感である。だからこそ二人のこの動きは彼等の間にすぐに浸透した。浸透すればそれが定着するのもまた自然だった。何よりも二人、とりわけ皇后には昭儀の子を殺す個人的な動機があった。それは宮中ではそれを為すにあたっては最も説明が不要な動機であった。
 皇帝の寵愛を奪われた、これであった。宮中では皇帝の寵愛を得られるかどうかに全てがかかっている。皇帝の正妻である皇后もまたそれは同じだ。ここまでの状況証拠が重なり皇后と淑后に疑いがかかったのだった。
「これは何かの間違いです」6
「その通りです」
 この流れに対して無忌と遂良は果敢に皇帝に対して述べるのだった。先帝である太宗に仕え彼から直々に後を託された二人の重臣達はそれだけに賢明でありかつ剛直だった。彼等は皇帝である高宗に対しても直言して憚らなかった。
「そなた等は違うというのか」
「その通りです」
 二人は堂々とそのことを述べるのであった。皇帝を前にしても全く臆してはいない。
「確かに昭儀様の御子様は殺されました」
「朕の子がな」 
 ここで高宗の顔が怒りで歪む。
「何者かによって殺されたのだ」
「ですがそれは皇后様ではござらぬ」
「証拠はあるのか」
「証拠ですか」
「そうだ」
 彼が重臣達に対して問うのはそれであった。皇帝の座に座りつつ彼等に対して問うていた。
「皇后が殺していないという証拠はあるのか。それはどうか」
「それは」
「ないのだな」
 怒りを隠した顔で二人に言うのだった。
「その証拠は。ならばだ」
「確かに証拠はありませぬ」
 無忌はそれは認めた。
「我々とて宮中の全ては知りませぬ」
「ですから」
 遂良もまたそれは同じであった。
「証拠はありませぬ」
「ですが」
「ですが?」
「先帝は仰いました」
「むっ」
 先帝と聞いて高宗の表情が固まった。他ならぬ彼の父だ。それで表情が強張らない筈がなかった。
 
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