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山の人

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第十章


第十章

「その時。いつも合わせてくれてるじゃない」
「?いつもって」
「私の歩くのに合わせて」
 亮子もまた前に進む。そのうえで述べる。
「一緒にね。歩いてくれてるわよね」
「それはまあ」
 言われてみればわかった。だがこれは彼にとっては。
「それ位はね」
「それ位でも。心がないと」
 亮子は言う。
「できないじゃない」
「そういうものかな」
「自覚していなくても。そうなのよ」
 自覚していない善意、心遣いというものなのだ。
「だから。それがあるから」
「僕にあるんだ」
「そうよ。だから私も」
「合わせてくれる為に」
「走ってたのよ」
 そういうことであった。
「いつもね。けれど走ってみると」
「気持ちいいとか?」
「爽やかに汗をかくのっていいわね」
 実際に話す側から爽やかな笑顔になる亮子だった。
「気持ちがいいわ」
「そうだね。汗をかくのはね」
「だから。今も」
 亮子の足取りが勇んでいた。
「行きましょう、元気よくね」
「それはいいけれど途中で息切れしないでね」
「それはわかってるわよ」
 そこも考慮に入れているのだった。
「ちゃんとね。わかってるから」
「だったらいいけれど」
「お昼に頂上に言って」
「頂上でお弁当だね」
「そっちも努力したから」
 夫の横で話しながら右手を力瘤にしてみせる。そしてその力瘤に左手を添える。頑張ったということを話すその仕草であった。
「ちゃんとね」
「料理は元々上手いじゃない」
 実際料理には自信のある亮子である。
「けれどそれもなの」
「そうよ。そっちも一段とね」
 声が誇らしげなものになっている。
「頑張ったから。期待していてね」
「そうさせてもらうよ。じゃあそのお弁当を楽しみにして」
「頂上までね。行きましょう」
 何としても頂上に行くつもりなのだった。
「お茶も熱いのを魔法瓶に入れておいたし」
「そこまで用意してるんだ」
「おやつの蜜柑も」
 本当に抜かりがない。
「あるから。紅葉を見下ろしながらね」
「行こうか。二人で」
「ええ。あなたの好きな山にね」
 話しながら宗重の顔を見る。その顔はやはり髭の剃り跡が青々としておりその濃さが窺える。しかも髪の毛だけでなく体毛全体が濃く身体も大柄でがっしりとしている。彼女はそんな夫の容姿に彼の山の民の血を感じていたのだった。決して言葉に出しはしないが。
「登りましょう」
「山はやっぱりいいね」
 宗重は妻の言葉に答えながら笑顔になっていた。
「何度入っても落ち着くよ」
「前から?」
「うん、子供の頃から」
 こう妻に答えるのだった。
「ずっとね。怖いって思ったことはないよ」
「そうなの」
「山に入れば食べ物だっていつもあったし」
「いつも?」
「野苺にあけびに」
 どちらも山にある果物だ。
「他にも色々とね」
「だから山は怖くないのね」
「蛇や蜂だって」
 山で最も怖いものである。蝮にスズメバチの毒が下手をすれば死に至るものであるのは山を知らなくても誰でも知っているものである。
「怖いと思ったことはないよ」
「そうなの」
「うん。むしろ車の方が怖いね」
 宗重はこう答えたのだった。
「僕にとってはね」
「やっぱりね」
 ここではつい亮子の本音が出た。
「そうなのね」
 そしてさらに言ってしまった。
「山だから」
「山って?」
 宗重も今の妻の言葉に気付いた。
「山がどうかしたの?」
「あっ、何でもないわ」
 自分の失言に気付き言葉を慌てて止めた。
「というか山が本当に好きなのねって思って」
「それでなの」
「そうなの。それだけだから」
「まあ。本当に山はね」
 宗重は妻の言葉にこれ以上突っ込むことはなく歩きながら目を細めさせて言うのだった。
 
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