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リリカルってなんですか?

作者:SSA
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A's編
  第三十二話 後



 トンネルを抜けると雪国であった、という下りから始まる雪国という小説があるが、今回の場合を表現するならば、トンネルを抜けると闇だけが支配する空間だった、という表現するのが正しいのだろうか。リインフォースさんがいた空間が夜だとしたら、ここは闇だった。何もない暗いだけの空間。先ほど、リインフォースさんはここにアリシアちゃんがいると言っていたが、本当にこんな空間にアリシアちゃんがいるのだろうか。

 きょろきょろと周囲を見渡してみても闇が広がるばかり。いや、一見すればそのように見えるだろう。だが、よくよく目を凝らしてみれば、まったく星々が瞬かない夜空にポツンと浮かぶ月のように金色が見えた。それは一度気付いてしまえば、あたかも黒い布の上にあるビーズのように目立っていた。

 リインフォースさんの言葉を信じるならば、その色は間違いなく彼女のものであることは間違いないだろう。そして、何より心のどこかであの姿が僕の妹のものであることに気が付いていた。だから、僕は彼女の言葉と自分の直感を信じて歩みを進める。

 まるで宙を歩いているような感覚。実際に歩いたことはないが、まるで水の上でも歩いているようなふわふわと危うい感覚が靴の裏から感じられる。本当にどうやって歩いているのかわからないが、僕は間違いなく彼女に近づいていた。

 彼女の姿がだんだんとはっきりしてくる。最初は目立つ金髪のみが見えていたが、だんだんと彼女がここに来る前から着ていたであろう白い服―――聖祥大付属小の制服を着て、膝を抱えている彼女の姿がはっきりと見えるようになった。

 彼女を見下ろせるような位置に近寄っても彼女はピクリとも反応しなかった。気付いていないはずがない。なぜなら、その距離は僕が手を伸ばせば、彼女に触れられるような距離なのだから。つまり、それは僕がその気にになれば、彼女に危害を加えられる距離ということである。その距離で誰が近づいているか確認しないということは人の反応としてありえないはずである。

「アリシアちゃん?」

 それでも反応しない彼女に対して、僕は彼女の名前を口にしてみた。だが、それでも彼女が答えるような気配はない。ピクリとも反応しない。うずくまって、膝を抱えたままである。

 まさか、と嫌な予感が頭をよぎるが、リインフォースさんの言葉から考えるにアリシアちゃんが最悪の状況になっているとは考えにくい。

 ならば、なぜ、彼女は反応しないのだろうか? 眠っているのだろうか。そんな風に考えた僕は。彼女を起こすために手を伸ばす。

「アリシアちゃん、どうしたの?」

「お兄ちゃん、違うよ。彼女はアリシアじゃないよ」

 手がアリシアちゃんの肩に触れる直前、まさかの否定が目の前の彼女からではなく、僕の背後から聞こえた。僕は、彼女の肩に触れようと伸ばしていた手を止めて、声が聞こえた背後を確認するために振り返った。

「………アリシアちゃん?」

「そうだよ、お兄ちゃん」

 まるで、やっほー、とでも言わんばかりに手を振って僕からやや離れた位置に立っていたのは、僕の妹と瓜二つの―――いや、彼女の言葉を信じるならば、彼女こそが僕の妹ということになる。ならば、この目の前の彼女は一体誰なんだろう?

「う~ん、やっぱり、動かせる身体があるっていいね! この空間じゃ、私は認識されてなかったから、お兄ちゃんが名前を呼んでくれて助かったよ」

「………どういうこと?」

 アリシアちゃんが伸びをしながら、僕には理解できないことを言う。残念ながら、『この空間』とか『認識』などと言われてもこの空間の仕組みを理解していない僕にはチンプンカンプンである。そもそも、この空間とやらを理解しているであろうアリシアちゃんも謎だが。

「う~んとね、この空間は、この子専用なの。この子が望んだものだけがこの空間には存在できる。だけど、何も望まない、望むだけの意志がないこの子の空間は何もないの。だから、私も表には出てこれなかったの。そこに意志はあるんだけどね」

 もちろん、お兄ちゃんは別口からの許可だから話は別だよ、と続けて彼女は説明を続ける。

「この子の空間なんだけど、そこにお兄ちゃんっていうある種別口の存在が現れて、お兄ちゃんが私の名前を呼んでくれたから私はこうやってこの空間に顔を出すことができたのでした」

 ありがと~、といつも浮かべていた笑顔のまま礼を述べるアリシアちゃん。その笑顔を見れば、僕は目の前の少女がアリシアちゃんであることは疑いようのない事実であることが容易にわかる。ならば、先ほどからアリシアちゃんが『この子』と呼ぶ少女は一体誰なんだろうか?

「お兄ちゃんはもう知ってるはずだよ」

 アリシアちゃんからこの子と呼ぶアリシアちゃんと瓜二つの少女を見ていた僕に対してまるで心を読んだようにアリシアちゃんは真面目な顔をして言う。

 ―――僕がこの子を知っている?

 だが、記憶の中をさらってみてもアリシアちゃん以外に彼女と同じ容姿を持った少女と出会った記憶は―――いや、あった。あの日―――僕が時の庭園へと拉致された時、僕はアリシアちゃんと瓜二つのアリシアちゃんを見ている。その時、プレシアさんから言われたことは、なかなか忘れようにも忘れることはできない。

「さあ、お兄ちゃん。呼んであげてよ。その子の名前を」

 すべてを包み込むような優しい声で、目の前の彼女を慈しむような声でアリシアちゃんが促す。

 ああ、僕は知っている。彼女の名前を。アリシアちゃんが本来名乗るべき本当の名前を。だから、僕は確認するようにその名前を口にした。

「フェイトちゃん?」

 その名前に反応したのか、アリシアちゃんと呼びかけた時にはピクリとも反応しなかった肩が反応して動く。そのままつられるように膝を抱えて、顔をうずめている体勢からゆっくりと顔を上げた。上げた顔はやはりアリシアちゃんと瓜二つだった。だが、たった一つだけ明らかに異なる点があった。

 それは目だ。彼女の瞳にはおおよそ、覇気というかやる気というものが見えなかった。

「その子は疲れちゃったの」

 どうしたんだろうか? という僕の疑問に答えるようにアリシアちゃんが口を開いた。

「母さんが好きだったから、好きだと言ってほしかったから、自分の身体を顧みず頑張ったの。頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、その先に母さんがきっと笑ってくれると信じて」

 まるで娘を誇るような口調で、アリシアちゃんは彼女のことを語る。

 確かに、話だけ聞けば、それは麗しき娘から母親への愛だろう。だが――――

「でも、その願いはあの日、全部根こそぎ奪われちゃった」

 先ほどまで笑顔で誇らしげに彼女のことを語っていた表情とは打って変わって俯いて痛ましいものを見るような表情でぽつりと零すように言う。

 あの日―――それは、僕とフェイトちゃんが初めてであったあの雨の日のことを言っているのだろう。

 そう、僕は知っている。彼女の頑張りが願いが叶うことがなかったという事実を。

 亡くなったプレシアさんの本当の娘さんであるアリシアちゃんの身代わりとして生まれた少女。しかし、当然のことながら、アリシアちゃんの代わりになどなれなかったがために母親のいいように扱われ、そして贋物と、ごみと言われて捨てられた薄幸の少女。それが、前の前で膝を抱えて座っているフェイトちゃんだ。

「そして、すべてを諦めた彼女は思ったの。『もしも、私が本当のアリシアだったら、こんなことにはならなかったのに』って。そんな願いから生まれたのが、私。お兄ちゃんの妹であるアリシアだよ」

 自分を指さして当然のことのように告げるアリシアちゃんだが、僕は突然の思わぬ告白に驚くことしかできなかった。

 確かに、僕が聞きかじった知識からすれば、確かに幼年期のころにはそういったことがありうるのは知っている。原因もすべて特定されているわけではないが、現実からの逃避という意味で別の人格を作り出してしまうことがある。

 しかし、仮にそれがアリシアちゃんの正体だったとしても、そこまで別人格が事情を把握して、明確に僕に伝えられるものだろうか?

「………信じられないようなことだね」

 現実には起きているのだが、にわかには信じがたいというのが正直な感想だ。だが、目の前の現実を否定できるほど僕の考えは固くない。なにせ、『転生』やら『魔法』やら、今までの人生経験を考えれば、到底ありえない現実を目の当たりにしているのだから。今更、不可思議なことが一つや二つ増えたところで、本当に今更である。

「あはは、そうだね。今言ったことも、本当はお兄ちゃんに説明しやすいように事実を省略しているからね」

「どういうこと?」

「ん~、確かに私が意識として生まれた原因はその子―――フェイトがアリシアであることを望んだからだけど、その前にフェイトには私が生まれる下地があったんだよ」

「アリシアちゃんが生まれる下地って?」

「お兄ちゃんも知っているでしょう? その子はアリシアの代わりだって」

 僕はアリシアちゃんの言葉にコクリとうなずいた。

 その事実を僕は知っている。現に僕はプレシアさんから、こういうと語弊があるかもしれないが、本当のアリシアちゃんを見せられた。水槽の中で眠ったような表情のまま安置されたアリシアちゃんの姿を。その際に聞かされたことを統合すれば、目の前のフェイトちゃんはアリシアちゃんのクローンとして作られたことは間違いないだろう。

「でもね、たぶん、お兄ちゃんが想像しているだけのクローンじゃないの」

「どういうこと?」

 僕の問いにアリシアちゃんは明快に答えた。

「お兄ちゃんは身体のコピーだけで全くおんなじ人間ができると思う? そんなわけないよね。確かに体のつくりは一緒かもしれないけど、肝心の中身は全くの別人だよ。そのことを母さんが―――アリシアを生き返らせようとした母さんがわからないはずはないんだよ。だから、母さんはその子に体と一緒にコピーしたものがあるんだよ」

「……まさか」

 そこまで言えば、僕にだって、プレシアさんが何をコピーしようとしたのかぐらい容易に想像がつく。確かに僕が知っているだけの世界の技術では不可能だろう。だが、別の技術を使えば可能かもしれない。たとえば、『魔法』とか。

 僕がアリシアちゃんが言おうとしている答えにたどり着いたことに気付いたのか、意地悪そうな笑みを浮かべてアリシアちゃんは言う。

「そうだよ。その子に母さんは、アリシアの記憶を転写したの。でも、それは失敗しちゃったんだけどね」

 沈痛な面持ちで言うアリシアちゃん。

 それは、そうかもしれない。たらればの話になってしまうが、もしも、その計画が成功していたならば、今のフェイトちゃんは、アリシアちゃんとしてプレシアの元で仲のいい親子として生活していたのかもしれないだから。

「そして、そのアリシアとしての転写された断片的な記憶とフェイトの望みが合体して生まれたのが私―――お兄ちゃんの妹として生活しているアリシアなんだよ」

 まあ、今の私は明確にその子と別れてるからもう少しアリシア寄りだけどね、とまるでなんでもないことにように笑って告げる。

 なるほど、と僕はアリシアちゃんの言葉を受けて納得する。納得できるというよりもなんとなく理解できた、というほうが正しいだろうか。僕には精神やら心に関する正確な知識はない。せいぜい、聞きかじった程度の知識である。だが、それでも、予想はできる。

 つまり、フェイトちゃんはもともと人格的に分裂しやすい下地ができていたのだろう。本来、望まれたアリシアちゃんとしての人格。だが、それをプレシアさんが何らかの要因で消した。もっとも、まるでPCのハードディスクからデータを消すように記憶を簡単に消せないと思う。確かに魔法は僕が想像できないこともできるが、一方で人間の脳というのも完全に理解できるものではない。それは、プレシアさんが記憶の転写に失敗したことからも明らかだ。もしも、完全に解析できているなら、こんな悲劇は起きなかったのだから。

 よって、もともとフェイトちゃんの中には複数の人格が生まれるだけの下地があったのだと思う。最初のアリシアちゃんの人格。それから、アリシアちゃんであることを忘れたフェイトちゃんとしての人格。そして、今回は、大好きな母親から拒絶されたフェイトちゃんが自己逃避のために求めた人格―――僕の妹としてのアリシアちゃんである。

「アリシアちゃんのことはわかったよ。でも………僕はどうしたらいいのかな?」

 そう、確かに状況は理解した。

 つまり、フェイトちゃんの時間はあの時から止まっているのだろう。母親―――プレシアさんから拒絶された時から。母親からゴミと贋物と言われた彼女は、別の人格を作り自分は殻に閉じこもり、これ以上、傷つかないように自分の心の奥深くに閉じこもった。

 もしも、こうして闇の書に閉じ込められなければ彼女が表に出てくることは一生なく、そのままアリシアちゃんとして生涯を終えたのかもしれない。

 だが、幸か不幸か、アリシアちゃん―――フェイトちゃんは今回の事件に巻き込まれ、こうして僕の前の姿を見せることになってしまった。

 自分の殻に閉じこもることが悪いことだとは思わない。自衛手段の一つなのだから。だが、こうして救いの手を差し伸べられる機会があるのであれば、迷いなく差し出したいと僕は思う。だけど、今回に限って、それは―――

「お兄ちゃんが望むようにしたらいいと思うよ」

 きっと、その結果がわかっていながら、アリシアちゃんは笑いながら言う。

「いいの? だって、フェイトちゃんが立ち直るってことは………」

「うん、たぶん、私はフェイトに統合されちゃうだろうね」

 そう、体は一つで心が二つあった場合、どうしても主人格であるフェイトちゃんのほうが優先されてしまうだろう。つまり、この状況を壊すということはアリシアちゃんを消してしまうということに他ならないだろうから。

 だが、それでも彼女は笑っていた。

「うん、でもいいんだよ。今はまだ大丈夫かもしれないけど、もしも、何かの拍子で均衡が崩れちゃったら、フェイト自身が壊れちゃうかもしれないからね」

 アリシアちゃんの説明によれば、フェイトちゃんはもともと人格の境界が薄いそうだ。アリシアちゃんが、ゴミだとか、贋物とかそういう言葉に反応するのがフェイトちゃんと少なからずつながっている証拠だという。だから、もしも、今後、何かの拍子にその境界線が壊れて二つの人格がまじりあうようなことになれば、今度こそ本当にフェイトちゃん自身が壊れてしまう。生きた人形になる可能性があるのだという。

「どこかで誰かがやらなくちゃいけなかったことだよ。だから、気にしないで。どうせ、お兄ちゃんのことだから、見捨てることなんてできないでしょう」

 どうやら、たった半年程度の兄妹生活ではあるのだが、僕の性格は見抜かれてしまっていたようである。

 確かにアリシアちゃんが言うとおりである。傷ついたフェイトちゃんをこのまま放置して何食わぬ顔で闇の書の外へと出ることはできない。それは、僕がこの世界に生まれ変わってきて、培ってきた世話焼きとしての性分かもしれない。傷ついた女の子をそのままにしておくことなんてできない。この先の危険性を知っていればなおのことだ。おそらく、アリシアちゃんが想定している事態に陥った時、ここで行動しなかったことを悔いるだろう。

「フェイトちゃん」

 だから、僕は片膝をついてフェイトちゃんと目線を合わせながら、彼女の名前を呼んだ。目線を合わせたのは一人で見下すように話すのが僕が好きではないからだ。フェイトちゃんも立ち上がってくれるなら話は別だが、それが不可能だとわかっている以上、僕が合わせるしかないだろう。

 それから僕は何度か彼女の名前を呼んだ。

「フェイトちゃん、聞こえる? フェイトちゃん」

 最初は、虚空を見ているだけのような空ろな視線だったが、やがて、僕のことを認識してくれたのか、あまりはっきりとした焦点は結んでくれなかったが、それでもゆっくりと口を開いた。

「…………だれ?」

 しばらく待ってようやく開いてくれた口から洩れた言葉はそれだけだった。だが、今更ながらようやく僕と彼女―――フェイトちゃんは初対面であることに気付いた。まったく容姿が同じアリシアちゃんが僕のことを知っているものだから勘違いしてしまったが。

 ああ、僕はどうやら礼儀からして間違っていたようだ。お話をするのであれば、まず名乗るのが礼儀だろう。

「ごめんね、僕から名乗るべきだったよ。僕は、蔵元翔太。外の世界では、君のお兄さんだよ」

「………おにいちゃん?」

 そうだよ、と僕は頷く。その反応に彼女は少しだけ考え込むようにぼうっと僕を見ていたが、やがて眼をそらし、話しかける前と同じように俯き、抱えた膝に顔を落とすと呟くように言葉を漏らした。

「嘘だ………わたしにお兄ちゃんなんていない………私には母さん………母さんだけ」

 母さんだけ、というのはプレシアさんのことだろう。聞いた話だとプレシアさんから相当ひどい目にあったはずである。それにも関わらず、彼女はまだ母親を求めている。もっとも、事例としてはあり得ることだ。子どもは親に対して無償の愛情を求め、また逆に無償の信頼を与える。虐待されていた子供が、親をかばうのは珍しい話ではない。

「う~ん、本当のことなんだけどね」

 僕はわざと困ったような口調で、母さんの発言を聞かなかったことにした。

 僕は知っているからだ。彼女が完全に母親から捨てられたことに。いや、捨てたという表現はおかしいのかもしれない。なぜなら、最初から最後までプレシアさんは彼女を―――フェイトちゃんという存在を見ることはなかったからだ。

 プレシアさんは最初から最後までフェイトちゃんを見なかった。彼女自身を慰める人形―――道具としか見ていなかった。いや、見られなかったかもしれない。なぜなら、フェイトちゃんとプレシアさんが求めたアリシアちゃんはあまりにも瓜二つだったから。

 フェイトちゃんを娘と認めてしまってはどうしても考えてしまうのだろう。

 ―――どうして、アリシアはそこにいないのか、と。

 だから、彼女は仮に少しでもフェイトちゃんを娘と見ることがあったとしても、娘とは見られなかった。プレシアさんは0か1しか許容できなかったのだろう。だから、中途半端なフェイトちゃんを拒絶したのだろう。

 もっとも、これは僕の想像でしかなく、プレシアさんから真意を聞けない以上は真相があきらかになることはないのだが。

「フェイトちゃん、こんなところに蹲っていても、何も変わらないよ。一緒に外の世界にいかないかい?」

 僕は片膝をついたまま差し出すように手を伸ばす。だが、フェイトちゃんからその手が差し出されることはなかった。

「………そと? どうして? 母さんはもういない。母さんから認められなくちゃ、生きている意味なんてない。ゴミの私には………贋物の私には」

 ―――ゴミと贋物。

 その二つはフェイトちゃんが我が家に来てからずっと恐れていたものだ。僕の家では禁句に近いものになっている。

 現実のアリシアちゃんがその二つをどうして、あんなにも取り乱すように否定するのかわかったような気がした。

 僕が今まで接していたアリシアちゃんは、フェイトちゃんの分裂した姿であり、フェイトちゃんが考えたプレシアさんに捨てられないフェイトちゃんだ。だから、名前もアリシアだ。

 だから、彼女は『ゴミ』でも『贋物』であってはいけないのだ。そこにいるのはフェイトちゃんが理想とした『アリシア』―――正確にはプレシアさんが望んだ『アリシア』ちゃんでなければならなかった。だから、プレシアさんに言われたであろう『ゴミ』や『贋物』という言葉を必死に否定したのであろう。

 だが、僕がわかったのはそこまでだ。どうして彼女がそこまで母親であるプレシアさんを望むのかわからない。確かに親への愛情は強いとはいうが、それでも生きていけないほどなのだろうか。もっとも、これは僕が今の姿である小学生としての思考を持っていないからかもしれないが。

「あ~あ、もったいないな」

 僕とフェイトちゃんの会話に入ってきたのは、僕の後ろにずっと立って様子を見ていたであろうアリシアちゃんだった。

 どうしたの? と僕が後ろを振り向いて彼女に視線を送るが、彼女から返ってきたのは、おそらく、「任せて」という意味合いのウインクだった。もしかして、アリシアちゃんはフェイトちゃんとの話をするためのきっかけとして僕を使ったのだろうか。最初から話しかけても彼女が答えてくれないから。

 ならば、僕はしばらく様子を見ることにしよう。きっと、僕よりも彼女は彼女を知っている。だって、自分自身なのだから。

 そう結論付けたところで彼女たちの会話は続く。

「………どうして、あなたが? あなたが外に行って。母さんに認められてよ。私は、それを夢で見てるから」

「夢で?」

 一瞬、アリシアちゃんを見て、びくっ、となったフェイトちゃんだったが、自らが生み出したという自覚があるのか、あるいはフェイトちゃんの言ったことに反感を持ったからか、僕に相対していた時よりもやや強気な態度でアリシアちゃんに言う。だが、一方でアリシアちゃんも負けていなかった。フェイトちゃんが言った「夢で見ているから」の部分を嘲笑うかのように鼻を鳴らす。

「フェイトが夢でみているわけないでしょう? だったら、この場所はこんな風にはなっていないでしょう?」

 この場所というのは、この空間のことだろうか。確かに、彼女は言った。この空間は、彼女が求めるものが存在できる場所であり、彼女が何も望まないからこそ、この空間は暗闇なのだと。

 なるほど、フェイトちゃんが、自身の言うとおり、プレシアさんに認められることを望むのであれば、この空間はそのように作られるというのだろう。だが、そうはなっていない。ただ暗闇が広がるのみだ。

「ねぇ、フェイト。あなた、本当は理解しているんでしょう?」

 そして、アリシアちゃんは、嗤いながらフェイトちゃんが認めたくなかったであろう一言を告げた。

「もう、母さんがフェイトを認めてくれることなんてなくて、あなたは完全に捨てられたんだって」

 アリシアちゃんの言葉を聞いたフェイトちゃんの変化は劇的だった。今までは、微動だにせず膝を抱えて蹲っていただけのフェイトちゃんだったが、アリシアちゃんの言葉を聞いて、まるで冷凍庫に薄着で放り出されたようにガタガタガタと身体を震わせていた。

「………ち、違う………そ、そんなことない」

 ようやく否定するようなことを口にしたが、その声はか細い。ようやく否定できたというような感じだ。

「そんなことあるでしょう? だって、気付いていないなら、理解していないなら翔子母さんをプレシア母さんと間違ったりしないもの」

 あ、という形でようやく僕は気付いた。

 確かにアリシアちゃんの言うとおり、もしもアリシアちゃんがフェイトちゃんの望む完璧なアリシアちゃんなら、母さんを『母さん』と呼ぶことはないのだ。なぜなら、フェイトちゃんにとって母さんとはプレシアさんだけだから。だが、それを何かの手違いで母さんをプレシアさんと間違えた。それは、きっと、アリシアちゃんが言うとおり、フェイトちゃん自身が心のどこかで気付いていたからだろう。

 ―――もはや完全にプレシアさんに認められることはないのだ、と。

 だから、プレシアさんの代わりに母さんを―――母親としての誰かを探した。その結果ではないだろうか。

「それに。仮に私が認められたとしても、それはあなたが認められたわけじゃないよ。フェイトが作り出したアリシアが認められただけ。なら―――」

 それは優しい口調だった。今までのような攻め立てるような口調ではなく、詰問するような口調ではなく、ただ優しい声。その声でアリシアちゃんは残酷なことを口にする。

「ねえ、フェイト。あなたはどこにいるの?」

 ああ、それは、それはきっと一番言ってはいけない事実だった。

 確かにアリシアちゃんが認められた場合、それはフェイトちゃん自身が認められたわけではない。ただ、フェイトちゃんが作り出した影が認められただけだ。ならば、フェイトちゃんはいつまでたっても認められたわけではなく、誰からも意識されることはなく、ただアリシアちゃんの影に沈むだけ。

 それは果たして生きていると言えるのだろうか。

 あまりに意地の悪い一言。プレシアさんに認められるためにはフェイトちゃんではなくアリシアちゃんである必要があり、だが、一番認められたいのはフェイトちゃんなのだ。つまり、彼女はプレシアさんを求める限り、認められることはない。

 気付いていなかったわけではないのだろう。気付かないふりをしていただけなのだろう。だから、フェイトちゃんはガタガタガタと震えている。認めたくない事実を突きつけられて、その小さな身体で受け止めるにはあまりに大きな恐怖を相手にして。

「そう、どこにもねなかったんだよ。フェイトの居場所なんて。たった一つを除いてはね」

 え? という顔でフェイトちゃんが顔を上げる。そこには理性の光が少しだけ戻っていた。おそらく、アリシアちゃんから事実を突きつけられたせいだろう。そのせいで、今まで凍っていた思考が動き出した。いや、もしかしたら、自分自身でもあるアリシアちゃんと相対することで意識レベルが上がったのかもしれないが。

「………そんな場所があるの?」

 それは救いを求めるような、懇願を求めるようなそんな口調であった。まるで、神に救いを求めるような純粋で、混じりっ気のない白い願いだった。

「言ったでしょう? もったいないなって」

 そう言って、僕の顔を見る。つられるようにフェイトちゃんも僕の顔を見ていた。初めて目を合わせた彼女の瞳は、期待と不安で揺れていた。

 それは、自分の―――フェイトちゃんとして居場所があってほしいという期待と、否定されれば唯一の救いすらなくなってしまうかもしれない、という不安なのだろう。だから、僕はうなずいた。

「そうだね、僕は君のお兄ちゃんだ。君が居場所を―――誰かから認められて、フェイトちゃんとしての居場所を望むのであれば、君が望み続ける限り、僕の妹は君―――フェイトちゃんだよ」

「わたし………が?」

 不思議そうに小首を傾げて、信じられないものを見るような目で僕を見る。だが、僕はその不安に揺れる目を見ながら、その不安を吹き飛ばすように強くうなずいた。

「そうだね。フェイト・テスタロッサさん。君だよ。君だけの場所だよ」

「今は私の場所でもあるけどね!」

 忘れないでよっ! と自己主張するように茶目っ気を出した声で自己主張するアリシアちゃん。そんな場合じゃないだろう!? と思い、嗜めようとも思ったが、今はフェイトちゃんから視線を外すべきではないと判断した僕は彼女に何も言うことはなくフェイトちゃんをただ真正面から見据えた。信じてくれ、というように。

「ほんとうに……」

 やがて、どれほどの葛藤があったのだろうか。考え込むようにして無言になった時間がいくばくか流れて、ようやくフェイトちゃんは一言だけ口にし、それを切り口にして言葉を続ける。

「ほんとうに………アリシアではない私を、妹として認めてくれますか?」

 あれだけ僕が言っても彼女は心の底から信じられないのだろう。当たり前と言えば、当たり前だが。彼女は今まで最愛の母親からも認められてこなかったのだ。それにも関わらず初対面の男が妹として認める、なんて言われても信じられるはずがない。本来であれば、信頼を積み重ねていかなくてはいけないのだろうが、時間が限られている今の僕では、信じてもらえるように言葉を重ねるしか方法はない。

 何度でも、何度でも。フェイトちゃんが、本当に信じてくれるまで。

「もちろんだよ。君はアリシアちゃんじゃなくて、フェイトちゃんだ。それでも、やっぱり君は僕の妹だよ」

 それは揺るぎようのない事実だ。だから、僕は彼女がその場所が欲しいと望むのであれば、喜んで手を差し出そう。

「君が笑えることがあれば一緒に笑うし、悲しいことがあれば一緒に悲しむし、寂しいのであれば一緒にいるよ。そんなどこにでもいる兄妹だよ」

 一番近い他人―――それが家族を称するときに使われる比喩だ。その絆―――つながりははたして血筋によるものだけではないことはすでに知っての通りだ。大事なのはお互いの認識であろう。一方通行の想いでは関係は成り立たない。お互いの認識があって、初めてその関係は成り立つのだ。

 だから、僕はフェイトちゃんを妹と認めた。そして、フェイトちゃんは――――

「わたしは………」

 何かを悩みながら葛藤するフェイトちゃん。彼女が何を悩んでいるのか僕には理解できない。僕はすでに手を差し出したのだ。僕にできることはあとは、フェイトちゃんが差し出した手を握ってくれるかどうかである。

「ねえ、フェイト。ここから始めてみない?」

 その言葉は、僕の後ろにずっと立っていたアリシアちゃんから発せられた。気が付けば、少し離れて立っていたはずなのに、僕のすぐ後ろまで来ていた。

「今まで母さんの言うことを守ることしか考えていなかったフェイトが自分を始めるのは難しいかもしれないけど、でも、お兄ちゃんの隣ならきっと大丈夫だから」

 そう言いながら、僕の横を通り抜け、フェイトちゃんの隣に立った。アリシアちゃんが浮かべる表情は、やはり優しい笑みだ。先ほどまでとは違う。どこか年上めいた―――姉のようなそんな笑みだった。

「ほかの誰が言っても信じられないかもしれないけど、それでも―――自分自身の言葉なら信じられるでしょう。それに―――」

 そう言いながら、アリシアちゃんは、首からぶら下げていたアクセサリーを取り外してフェイトちゃんの前に掲げた。それは、アルフさんが紐を通して、アリシアちゃんに持っておくようにお願いしたアクセサリーだ。三角形の金色のアクセサリー。

 僕は、それを単なるアクセサリーだと思っていたのだが、違うのだろうか?

「フェイトは一人じゃない。ずっと一緒だった人がいるでしょう?」

 その言葉にピンと来たのか、フェイトちゃんは今まで半開きだった目を驚いたように見開いた。そして、その小さな口から零れる名前。

「あるふ……ばるでぃっしゅ……」

 ゆっくりと、まるで壊れ物でも触れるのかようにゆっくりとフェイトちゃんの手が動き、やがてアリシアちゃんが掲げている金色のアクセサリーを手に取った。それを愛おしそうに頬へともっていくフェイトちゃん。その瞳からはいつからか、雫となった涙が流れていた。

「わたしの………私たちのすべてはまだ始まってもなかったのかな? バルディッシュ………」

 そんなフェイトちゃんからの問いかけるような、そんな言葉にそのアクセサリー―――ここまでくればわかる。それはフェイトちゃんのデバイスだったのだろう。それは主からの問いに簡潔に答えた。

 ―――Get set.

「………バルディッシュ」

 自分のデバイスの言葉を聞いたからか、だんだんとフェイトちゃんの瞳に光が戻ってきた。

「私は………ここから始めていいのかな?」

「違うよ、フェイト。始めていいんじゃない。始めるべきなんだよ。ずっと一緒にいてくれた人がいて、隣に支えてくれる人がいて………一人で始めるのは怖いかもしれない。でも、今なら、フェイトを支えてくれる、見守ってくれる人がいる。今、始めなくて、いつ、始めるの?」

 だから―――、そのあとの言葉はアリシアちゃんが口にしなくてもフェイトちゃんはわかっていたようだった。

 うん、と大きくうなずくとバルディッシュを持った手とは逆の手で僕の手を握り返してくれた。そのまま、僕は彼女の手を引っ張って、一緒に立ち上がらせる。

 立ち上がったフェイトちゃんは、やっぱりアリシアちゃんと瓜二つで、並んでしまえば、どちらがどちらか見分けはつかないほどにそっくりだった。もっとも、話してさえしてしまえば、彼女たちが纏う雰囲気はまったく違うため判断できるのだが。

 ほんわかと柔らかい雰囲気なのがアリシアちゃん。少し凛々しい雰囲気を持っているのがフェイトちゃんと言えば分るだろうか。

 そのアリシアちゃんは、フェイトちゃんが立ち上がったのを見て、うんうん、と満足そうにうなずいていた。

「――――ありがとう。あなたがいたから私は、自分を始めようと思うことができた」

「あはは、気にしないで。自分のことだもん。私が私に力を貸すことは当然だよ」

 アリシアちゃんは、フェイトちゃんから生まれたもう一人のフェイトちゃんと言っても過言ではない。だが、フェイトちゃんはアリシアちゃんの言葉に首を横に振った。

「違う。そうでしょう?」

 フェイトちゃんが何を理解したのか僕には分からなかった。だけど、二人の間には通じる何かがあったようだ。フェイトちゃんの言葉にアリシアちゃんは、あはは、と悪戯が見つかった子供のように笑っていた。それは、フェイトちゃんの指摘が的を得ていたことを示している。

 もっとも、僕には彼女が何を言っているのか全く分からなかったが。

「あはは、わかっちゃった? うまく隠せたと思ったんだけどな」

「わかるよ。こんな形で出会うとは思わなかったけど」

「私もだよ。いや、こんな形じゃないと私たちは出会えなかっただろうね」

 彼女たちの会話を聞いているうちに僕の中にある推測が首をもたげた。しかし、それを確認することは無粋だろう。それが正解だろうが、不正解だろうが、この場における彼女たちの邂逅は一瞬なのだ。僕のくだらない好奇心でこの雰囲気を壊すものでない。

 片方は笑いながら泣いていた。もう片方はうつむいて泣いていた。本当にこの時間が愛おしくて、悲しい時間だというように。両者の表情は対照的だった。だが、それでも、おそらく二人の心情は同じ類のものだろう。

「うん、悲しいね」

「だからこそ、この出会いに感謝しようよ。そして、私のことを想ってくれるなら………行って! フェイト!」

 最後はほとんど叫んでいるようなものだった。だが、それはフェイトちゃんの胸を打ったのだろう。彼女の大きな瞳から大粒の涙が流れていた。だが、それも少しの間のことで、すぐに彼女は涙をぬぐうとその下から向日葵が咲いたような明るい笑顔を浮かべていた。

「はい、行ってきます」

 それが崩壊の始まりだったのだろう。先ほどまで暗闇で包まれていた空間に光という形で罅が入る。それはまるで、卵の内部から無理やり壊されるのを見ているようなそんな気分だった。

「時間がないよ、フェイト!」

「うん………バルディッシュ、行ける?」

 ―――Yes、Sir!

 その言葉とともに一瞬、彼女が片手に握るバルディッシュが光ったかと思うと、空中にばさっ! という効果音を残して広がるマント。同時に光に包まれるフェイトちゃんの聖祥大付属の制服。やがて、上から落ちてきたマントがフェイトちゃんの肩に装着され、光が収まるころには、僕が初めてフェイトちゃんと出会ったときと同じく黒いレオタードのようなものに包まれていた。

「一緒に行ってくれるんだよね?」

 僕が何をしていいのかわからず、呆然としているとおずおずと言った様子で問いかけてくるフェイトちゃん。まだ、アリシアちゃん以外には慣れていないのかもしれない。だから、僕は彼女を安心させるように握ったままの手を少し強めに握って、大きくうなずいた。

「もちろん、僕は君のお兄ちゃんだからね」

 その様子を見ていたアリシアちゃんは満足そうにうなずき、僕が握った手から少しでも安心を受け取ってくれたのだろうフェイトちゃんも安心したようにはにかみながら笑うと次の瞬間には真剣な顔をして正面を見ていた。

「行きますっ!」

 その声と同時に、僕たちは何もないはずの暗闇の空間を蹴りだし、割れ目へと向かって飛び出す。しかし、その割れ目もまだ人が通れるには小さい。こじ開けるしか方法がないのだが、そのための手段は今―――彼女の手の中にある。

「バルディッシュ!」

 ―――Yes,Sir.

 バチバチと電子が激しく音を立てる。黒い戦斧から発されるのは金色の雷である。それは、アリシアちゃんが使えず、フェイトちゃんだけが使えるある種、彼女を象徴する存在であるはずだ。それを彼女は使う。

「サンダー――――」

 僕たちの目の前には彼女の魔力で編まれた大きな魔法陣。その中心部に向けて彼女は黒き戦斧を振り下ろす。

 その先にあるのは、彼女を閉じ込めるかのように存在した黒い檻。それが彼女自身の手で壊される。フェイトちゃんだけが手にした魔法の力で。彼女自身の力で彼女は自分自身の檻を打ち破る。

「レイジ―――」

 金色の魔法陣で編まれた魔法陣から飛び出したのは、力を持った魔法の力であり、彼女特有の力で増幅された金色の雷。それらは狙い澄ましたかのようにひび割れた黒い檻に直撃し―――窓ガラスが割れたようなパリンという薄い音を立てて、派手に砕け散った。

 僕たちは崩れ去り、大きく穴が開いたそこから手をつないだまま飛び出していく。そして、いよいよ、そこから脱出できる直前に声が聞こえたような気がした。



 ―――妹をお願いね。お兄ちゃん。



  ◇  ◇  ◇



 最初に感じたのは光だった。脱出するときの衝撃で、目をつむったままだったが、それでも外に出たことを証明するように肌に風を感じたので、恐る恐る目を開けてみると、そこは大海の海原だった。陸地ははるか向こう側で、なぜか海から岩が飛び出しており、僕とフェイトちゃんは手をつないだまま、その岩の上に立っていた。

「えっと………外に出られたのかな?」

「そう……みたいだね」

 僕が隣にいるフェイトちゃんに確認するように問いかけると、彼女ははにかみながら返答してくれた。

 しかしながら、この状況はどういうことだろうか?

 ずっと闇の書の中にいた僕には状況がわからない。大海のど真ん中にいる意味も、この海から飛び出した岩肌の意味も。それに闇の書はどうなったのだろうか。また、彼女と戦っていたなのはちゃんも。それからクロノさんたち時空管理局の人たちは?

 気になることはたくさんあるのだが、この状況で応えてくれる人は――――

「ショウくんっ!」

 その声には隠しようのない喜びに満ち溢れていた。しかも、その声は僕も聞き覚えがある声だ。ああ、ようやく事情を知っている人が来てくれた。しかも、僕が不安に思っていた人だから、声が聞けて一安心―――そう思いながら振り返ると、目に飛び込んできたのは、黒とその中を走る赤い線だった。

 え? と思う暇もなく、次の瞬間には僕の後頭部には二本の腕が巻きつけられ、僕の顔は何か柔らかいものに包まれていた。簡単に言ってしまえば、僕は誰か―――声から判断するになのはちゃんに抱きしめられているような状況だった。

「な、なのはちゃん?」

 僕は彼女の名前を呼んだだけだ。それでも、彼女は心底安心したように安堵の息を吐いた。

「よかった………今度は本物のショウくんだ」

 僕の髪に顔をうずめるようにしながら、よくわからないことを口にする。髪の毛を通して伝わる彼女からの吐息が少しだけくすぐったい。それと同時に鼻と口が半ばふさがれていたため、息苦しくもなっていた。

 ―――離してくれないか、と僕がふさがれながらも懸命に訴えかけようとしたのだが、その前に僕の手を握ったままだった彼女が動いていた。

「お兄ちゃんから離れて」

 ぶん、という音を残して振るわれる戦斧。その瞬間になのはちゃんが手を離し、僕は息苦しさから解放された。解放されたのは確かにいいことなんだろうが、お兄ちゃんとしては妹が暴力的手段に訴えるのはあまり好ましくない。

 注意しようとして改めて状況を見てみると、僕たちは海から突き出した岩の上に立っているのだが、僕の少し先で少しだけ距離を置いて対峙するなのはちゃん(大人バージョン)とフェイトちゃん。大人と子供の喧嘩のようにも見えるけど、二人の間に、険しく火花が散っているのは僕でもわかる。

 さて、どうしてこんな状況になったのだろうか。僕としては闇の書から脱出できたことを喜ぶだけでいいと思っていたのだが。そもそも、二人がどうして火花を散らしているのかわからないため、止めようがないのも事実である。

 フェイトちゃんからの言葉から察するになのはちゃんが僕に抱き着いたのが原因のような気がするが、それが気に食わない原因がよくわからない。なのはちゃんが僕に近づいて何かするわけではないし。なのはちゃんが怒っている原因は、おそらく水を差されたからだろうし。なら、悪いのはフェイトちゃんということになるのだろうか。

 そんな風に頭を悩ませている最中に頭上から声が降りてきた。

「再会に水を差すようで悪いが、緊急事態なので、許してもらおうか」

 その場の全員が空を見上げる。曇り空が広がる空の中に二点、黒い執務官としてのバリアジャケットと、彼の部族を示すバリアジャケットが風景の中の異色の存在として目立っていた。

「クロノさん………」

 屋上で襲われた時のことを思い出して、不審の目を向けてしまったのは仕方のないことだろう。しかし、それはクロノさんも承知の上なのか、ある一定の距離で立ち止まり、頭を深々と下げた。

「すまなかった。どうやら身内が失礼を働いてしまったようだ。君を襲ったのは僕じゃない」

 状況がよくわからなかった。僕が見た限りではあれば、クロノさんとしか思えなかったのだが、彼の言葉を信じるのならば、あれはクロノさんではなかったようだ。本来であれば、こんな子供にも深々と頭を下げてきたクロノさんを信じたいのだが、直接襲われたという事実はなかなかに覆しがたい。

「それは―――」

「言いたいことはわかるよ。だが、それはあれをどうにかしてからだ」

 クロノさんが指さした先にその場の全員の注意が向く。そこは海原の一部。浮かんでいたのは黒くて大きな繭のような物体。それが何かは理解できなかったが、禍々しいものであることは理解できた。

「あれが、闇の書の闇。今回の事件の真の原因だよ」

 クロノさんの横に浮かんでいたユーノくんが、つぶやくように真実を口にする。

 ―――僕にとっては長々と続いた闇の書事件だったが、事態はようやく最終決戦ということらしい。

 それを今にも天気が崩れそうな空模様の下、険しい目つきで黒い繭を見つめるクロノさんを視界に収めながらそう直感するのだった。




つづく 
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