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伊予の秋桜

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第一章


第一章

                     伊予の秋桜 
 伊予の国の話だ。ここの武士に梶本吉太郎という男がいた。
 幼い頃より桜の好きな男だった。彼はいつも桜の側にいた。
「もう散ったぞ」
 父が晩春にも桜の下にいる彼に言ったことがある。もう桜は緑になっていた。
「それでもよいのか」
「はい、それでも構いません」
 彼はにこりと笑って答えるのだった。
「緑の桜もまたいいものです」
「よいのか」
「私は好きです」
 やはりにこりと笑って答える。
「この緑も何もかも。それが桜ですから」
「ふむ。真に好きなのだのう」
 父は我が子の言葉を聞いて感心した。見れば桜の下に書や木刀を持って来ている。学問や修業も桜の下で行っているのだ。
「やることはやっておるようだしな」
「桜に顔見せできませんから」
 彼はそう答えた。
「ですから。そちらは当然のことに精進します」
「うむ、それはいいことだ」
 それを聞いて安心した。やることをやっていれば何も言うつもりはなかった。彼はそうした寛大な父であったのだ。何かと口煩いのが多い武士の父とは少し違っていた。
「では今日はずっとそこにおるのだな」
「そのつもりです」
 吉太郎は桜を見上げて父に返した。緑が豊かに繁っている。
「夕食には戻りますので」
「戻って来るのだぞ」
「はい」
 その日も次の日もずっと桜の下にいた。それは元服してからも変わらず妻を迎えてもであった。時間があれば桜の下にいるのだった。
「雪なのに」
 妻が迎えに来て苦笑いを浮かべて彼に声をかけた。
「出られずともよいでしょうに」
 この日は深い雪だった。辺り一面が白く化粧されている。吉太郎はその中で一人桜の木の下にいたのである。桜もまた白く化粧されていた。
「いや、こうした日もいいものだ」
 吉太郎は穏やかに笑って妻に返す。杯を手に雪の桜を見ている。
「雪の桜もな」
「まだ咲くには早くても」
「構わんさ」
 彼は酒を一口飲んだ後で妻に述べた。
「わしはとにかく桜が好きなのだからな」
「左様ですか」
「うむ、その方と同じ位にな」
 妻に顔を向けて言った。穏やかな笑顔をそのままに。
「だから。一緒に見ぬか」
「桜をですか」
「雪の桜は嫌いか?」
 そう妻に問う。
「ならよいが」
「いえ。御一緒させて頂きます」
 妻もにこりと笑って彼に言葉を返した。
「私も。何か見たくなりましたから」
「そうか。では見ようぞ」
「はい」
 明けても暮れても桜だった。彼にとって桜はなくてはならないものでありそれは老年になってからもそうだった。妻もいなくなり子供達が家を継ぎそれぞれ家を出てもそれは変わらなかった。
 隠居になった彼はこの日も桜の下にいた。季節は冬も終わり頃になっていた。
「お爺様」
 そこに孫達がやって来た。
「今日も桜を御覧になられているのですか?」
「その通りじゃ」
 彼は優しい顔で孫達に述べた。
「もうすぐじゃしな」
「咲くのがですか」
「うむ。もうすぐじゃな」
 優しい目で桜を見上げて言う。もう蕾が出来ていた。もうすぐである。
「咲くぞ。満開の桜が」
「それを待っておられるのですか?」
「ここで」
「いや、実はそうではない」
 そう孫達に述べる。
「わしはずっとここにおるのじゃ。それだけじゃ」
「それはどうして」
「好きだからじゃ」
 それが彼の答えだった。
「桜がですか」
「うむ」
 また孫達に答える。
「それこそ御主達の歳からのう。好きじゃったのじゃ」
「私共の歳からですか」
「もう遥か昔じゃ」
 そう述べる。
「わからんかな。そこまでは」
「ちょっと」
「何か掴めません」
「ははは、歳を取ればわかる」
 孫達に言う。笑いながら。
「何れな。それでじゃ」
「はい」
「どうじゃ?一緒に」
 彼等を手招きしての言葉だった。
「見るか?今の桜を」
「宜しいのですか?」
「よいよい。桜は皆で見るものじゃ」
 また笑いながら言う。
「じゃからな。見ようぞ」
「わかりました」
「それでは」
「桜は。ずっとここにおる」
 自分の側に寄って来た孫達と桜に対しての言葉だった。彼は桜に声をかけることも多かった。彼にとってはそうした存在になっていたのだ。
「ずっとな。わしがいなくなっても」
「お爺様がおられなくなっても」
「ずっと。見ておいてくれよ」
 今度も孫達と桜への言葉だった。
「わしの分までな」
「はい」
「わかりました、お爺様」
 孫達が彼に答える。彼等の声は直接聞いた。それと同時にもう一つの声も聞いたのだった。だがそれは孫達には聞こえはしなかった。
 
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