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笑顔と情熱

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第一章


第一章

                       笑顔と情熱
 彼は漫画家である。若い頃から、いや物心ついた時からいつも何かを描いていた。
「また描いてるの?」
「うん、そうだよ」
 うんざりとした口調の母親に対しても平気な顔で描きながら答える。
「ちょっとね。兵隊さん描いてるんだよ」
「兵隊さんってもう軍隊もないのに」
「あれっ、そうだったの」
「あれはええと」
 ここで母親は己の記憶を思い出し。そのうえでまた言うのだった。
「警察予備隊だったかしら」
「お父さんが今いるところだったよね」
「そうよ。今はそこにいるわ」
 実は急にできたばかりなので夫の勤務先であっても忘れていたのである。時代はまだそんな状況だった。何かと忙しい頃だったのだ。
「そこにね」
「何だったっけ。大尉だったよね」
「ええと、確か」
 また記憶を辿ることになった。彼、小此木龍二の父は海軍にいたのだ。そこで戦闘機のパイロットをやっていた。彼にとっても母親、つまり妻から見ても自慢の父であり夫であった。
 しかし時代は変わって海軍はなくなり警察予備隊になっていた。それまでは普通に働いていた龍二の父も警察予備隊ができてすぐにそこに入ったというわけなのである。
「今は一尉だったかしら」
「一尉って何なの?」
「さあ。大尉にあたるらしいけれど」
 母親にもその違いがわからなかったのである。
「何でも今はそう呼ぶらしいわね」
「そうなんだ」
「そらしいわ。とにかく兵隊さんを描いてるのね」
「他にも描いてるよ」 
 見れば小さな男の子や女の子も描いている。確かに色々と描いている。他には四角いロボットや車といったものも描いているのだった。
「どうかな、これ」
「いいんじゃないの?」
 少し見るとわりかしいい感じだったので素直に褒めたのだった。
「それで」
「そう。じゃあもっと描くね」
「野球選手も描いてるのね」
「うん、青バットね」
 当時セネタースというチームがありそこの看板選手だった大下弘である。後に西鉄ライオンズの主砲にもなる一世を風靡した名選手だ。
「大下選手好きだから」
「赤バットの川上選手は描かないのね」
「だって巨人嫌いだもん」
 だから描かないというのだった。
「巨人以外なら何でも描くよ」
「そうなの。じゃあ大きくなったら絵描きさんになるのね」
「ううん、漫画家になるよ」
 しかし彼はここでこう言うのだった。
「漫画家になるんだ、絶対にね」
「漫画家って」
 当時漫画家といってもその地位も評判も決していいものではなかった。母親も自分の息子が漫画家になると聞いて眉を顰めざるを得なかった。
「それより兵隊さんになった方がいいんじゃないの?」
「兵隊さんは兄ちゃんがなるんでしょ?」
 しかし龍二はここでこう反論した。
「だったら僕が兵隊さんでなくていいじゃない」
「あんたもなったら余計にいいと思うけれど」
「だって僕兵隊さんになりたくないから」
 これが彼の本音であった。
「だから漫画家になるんだ。絶対にね」
「そういえば最近手塚治虫って人がいるらしいわね」
 丁度出て来た頃である。漫画界にその名を残す異才の名が出て来た頃なのだ。何もかもが黎明期にある、そんな時代であった。
「面白いのかしら」
「うん、面白いよ」
 龍二は手塚治虫の話が出たところですぐに答えた。
「とてもね。面白いよ」
「そうなの。じゃあ一度読んでみようかしら」
「僕絶対手塚治虫先生みたいな漫画家になるんだ」
 彼はこのことを誓うのだった。
 
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