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あげは

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4部分:第四話


第四話

「飲むととことんまで飲む性質でして。その時もそうでした」
「潰れるまで飲んだのじゃな」
「そうです。本当に潰れるまで」
「それでか」
 十郎にも何故彼女が死んだのかわかった。酒の飲み過ぎでそれに飲まれたのであった。これで死ぬ者もいる。酒が毒だとも言われるのはそのせいであった。
「眠ったまま死にました」
「眠ったままか」
「顔は穏やかでしたが。身体は熱うございました」
「酒を飲んでいたからな。当然か」
「だと思います。それで申し上げにくいのですが」
「わかっておる」
 彼は頷くしかなかった。
「それでは帰らしてもらおう。邪魔したな」
「はい」
 こうして彼は仕方なくその場を後にした。肝心の相手がこの世にいなくなってはもうどうしようもなかった。為す術もなく帰るだけであった。
 十郎はそのまま暫くは吉原に行くことはなかった。だがどうしても三吉のことが忘れられなかった。起きても覚めても思うのは三吉のことばかりであった。いたたまれなくなって遂に吉原へと足を向けた。婿に入ってはじめて呼出しを呼んだのであった。
 何回か会ってようやく床を共にすることができた。何処か三吉を思わせる色の白いあどけない娘であった。まだ呼出しになって間もないか、若しくは花魁そのものになって短いのか。花魁とは思えぬ初々しい感じの娘であった。
「のう」
 床を共にした後で十郎は窓のところに出た。着流しを着てその花魁に声をかけた。
「あい」
 花魁はまだ布団の中にいた。赤い布団の中から彼に声をかける。その白い裸身が行灯の朧な灯りに照らされていた。
「わしは。はじめてか?」
 彼は煙管を吸いながらそう尋ねた。この呼出しから貰ったものである。
「あい」
 女は俯いて答えた。
「ここに入って。すぐでありんす」
「そうか。それで呼出しか」
「運がよかったでしょうか」
「よかったのじゃろうな」
 彼は煙管から口を離してそう返した。
「花魁でもな。呼出しになれれば違う」
「左様でありんすか」
「うむ。それもわかる」
 そう言いながら煙管を花魁に返した。
「いずれな。そして色々と見るじゃろう」
「吉原のことでありんすか?」
「それもある」
 彼は言った。
「しかしそれだけではない。他にも見えるものがあるじゃろうな」
「花魁は吉原からは出られんでありんすが」
「外で見えるものだけではないぞ」
 彼はそれでも言った。
「空を見上げるとな。見えるものがあるそうじゃ」
「空を?」
「左様じゃ」
 そう言いながら上を見上げ続ける。
「空に。蝶が飛んでおる」
「昼間はそうでありんすな」
「昼間だけではない」
「はて」
 花魁はそれを聞いて首を傾げた。その間に十郎は杯を手にしていた。そこに花魁から酒が注がれる。
「酒か」
 十郎はその透き通った酒を見てふと呟いた。
「あれも。好きじゃったのう」
「あれっていいますると?」
「いや、何でもない」
 だがそれは誤魔化した。伊達に男意気で売ってきたわけではない。昔の女のことを今床を共にしたばかりの女の前で言うような無粋な男ではなかった。
「まあ飲め」
 そして花魁にも酒を勧める。
「ただし飲み過ぎぬようにな」
「わっちは酒には弱いんで」
「それでも飲めないというわけではあるまい」
「あい」
 それに応えて飲む。その飲みっぷりは中々見事なものであった。
「飲めるではないか」
「左様でありんすか」
「そこまで飲めれば見事なものじゃ。まあそれでも程々にな」
 三吉が酒で死んだことが頭にあった。それでこう言ったのである。ああしたことがあってはとても飲めとは勧められなかったのだ。
 自分も杯を近付けた。そしてその中を覗き込む。
 そこには月が映っていた。白銀の大人しい光をたたえていた。そこにはもう一つ別のものが映っていた。
「むっ」
 それは蝶だった。色彩り彩りのあげは達がそこに映っていた。
 黄色いのもいれば青いのもいる。白いものや黒いものもいた。それは濃紫の空の中に上から白銀の光を浴び、下から赤い提灯の光を浴びて舞っていた。そして夜の空を飾っていた。
「酒に映っておるか」
 十郎はそれを見て呟いた。
「酒の中に。じゃからか」
 三吉がどうして死ぬまで酒を飲んだのかわかった。この蝶達を見る為であったのだ。
 今それがようやくわかった。そしてそれがわかると急にいとおしい気持ちが胸に湧いてきた。
「あの時に言えばよかったのにのう」
 蝶のことを言った晩のことを思い出した。不意に目に涙が宿る。
「どうしたでありんすかいな」
「何でもない」
 咄嗟に誤魔化した。
「目にゴミが入っただけじゃ」
「左様でありんすか」
「それよりな。また注いでくれ」
 こう言って杯を前に出した。
「今宵は。飲みたい」
「それでは」
 花魁はそそっと十郎の側に寄った。言われるがままに酒を注いだ。
「どぞ」
「うむ」
 また杯を見た。そこにはまた蝶が映っていた。
「吉原にだけ見られる蝶か」
 心の中で呟く。
「これが夢か。成程な」
 夢幻と現実の狭間にある場所。そしてそこで現実にいながら夢幻により近付いた時に見えるもの。それが蝶であったのだ。
 十郎はそれを眺めながら酒を飲む。ふと上を見上げる。そこにはあげは達が美しい羽根を拡げて飛んでいた。そして夜空を覆っていた。

あげは   完

                         2006・2・18


 
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