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あげは

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1部分:第一話


第一話

                          あげは
 夜の蝶は幻、今十郎の耳に入った言葉であった。
「何か言ったか?」
 彼はそれを聞いて部屋にいた花魁に声をかけた。
 今彼は吉原にいた。文政の頃、爛熟している江戸においてこの界隈もよく熟れていた。夜は遅くまで灯りが消えることはなくそこでは多くの男と女が仮初めの愛に戯れていた。
 赤い豪奢な着物を着た女達が店に並び客の目を受ける。そして二人で床に入る。そのまま共に一夜を過ごす。それが吉原であった。一夜の仮初めの愛の世界、そこはうたたねの夢と儚い現実の狭間にある世界であった。現実にあり、同時に夢幻にある世界であった。
 十郎は今その現実と夢幻の狭間の世界にいた。そして偽りの愛を貪っていた。その相手が今ここにいる花魁三吉がふと呟いたのである。
 三吉はこの吉原で名の知られた呼出しである。吉原において最も位が高いとさえそうおいそれと会えるものではない。だが十郎はそんな彼女と気兼ねなく会える身分にあったのである。
 彼の家は六千石の大旗本であった。そこの次男坊であり遊ぶ金には困らなかった。彼もまたある家の養子に入ることが決められていたがそれでもここで遊ぶことは止めてはいなかった。当時は遊郭や男色もある程度することが粋とされていたからである。江戸生まれで粋を愛する彼にとってこうした吉原での遊びは手馴れたものであり愉しみでもあったのだ。
 髷も髪結いに見事に整えさせ歯は念入りに磨き白くしてある。そして着物や褌にまで気を使いその身なりは助六と比べても引けはとらぬ程であった。その彼が自分に釣り合うと認めた花魁こそこの三吉であった。 
 仙台の方の生まれでありその顔立ちはほっそりとしており目は大きく黒かった。唇も赤くそれが白粉で白く化粧された顔によく似合う。そしてその肌も化粧されたように白くまるで雪の様であった。抱くとその身体にひっつくようでありそれがまた十郎の気に入った。この街ではかなり遊んできたがその中でもとりわけ素晴らしい花魁であった。十郎は金が入ると三吉のところにやって来る。そして二人で束の間の時を愉しむのであった。
 この時彼は布団の中から出て外を眺めていた。もう夜も深いというのに吉原の街は明るいままであった。吉原は戌の時刻になるまでは灯りは消えないのである。
 そこで声が聞こえてきた。見れば襦袢のままの三吉が布団から起き上がってそう呟いたのであった。
「いえ、ちょっと」
 三吉は澄んだ声で応えた。まるで笛の音の様に澄んだ声であった。
「今蝶が見えましたから」
「窓の外にかい?」
「あい」
 三吉は布団から出て来た。そして十郎の側にまでやって来てまた言った。
「ほら、あそこに」
 夜の空を指差す。だがそこにあるのは夜の闇だけで十郎には何も見えなかった。
「わしには何も見えないな」
 彼は言った。
「気のせいじゃないのかい?」
「いえ、気のせいじゃありません」
 しかし彼女はそれを否定した。
「わちきには見えるんです」
 花魁独特の言葉遣いであった。花魁達はこの吉原で生まれた独特の言葉を使っていた。わちきという一人称がその最たるものであった。
「はっきりと」
「どんな蝶なんだい?」
 十郎は煙管を手にした。そしてそこに煙草を入れながら尋ねる。
「あげはでありんす」
 三吉は吉原の言葉で答えた。
「あげはかい」
「あい」
 そしてまた吉原の言葉で。十郎はそれを聞きながら煙草を吸った。その後でゆっくりと煙を吐き出す。
「黄色いあげはがかい」
「そうでありんす。それも何匹も」
 三吉は言った。
「夜の吉原に。まことに綺麗でありんす」
「そんなに綺麗なら見てみたいもんだねえ」
 十郎は笑いながら言った。
「一度。それでそのあげははどんな色だい?」
「黄色でありんす」
 三吉は答えた。
「黄色かい」
 十郎はそれを聞きながら夜空と下の街を見た。そこには提灯の赤い光があった。
「それに青くて。白いのも黒いのもいます」
「いいねえ、派手で」
 煙管から口を離す。そして煙をぷかり、と吹いた。その白い煙が煙管から出る青い煙と混ざり合う。そして黒い空の中へと消えていく。
「それが皆。夜の街に舞っているでありんすよ」
「けれどどうしてそんなのが見えるんだい?」
 十郎は不思議に思ってそれを尋ねた。
「御前さんだけにまたどうして」
「それはわちきにもわからないことでありんす」
 三吉は首を傾げて言った。
「どうしてなのか。けれども見えるんでありんすよ」
「妙なこともあるこった」
 十郎はまた煙管に口をつけた。そしてゆっくりと吸いながらそう思った。
「どうしたもんだかね」
「一度十郎様にもお見せしたいでありんすが」
「残念だけれどわしには見えないよ」
 煙管にも飽きた。三吉に渡して言う。元々この煙管は三吉のものであった。吉原では遊女が煙管を客に渡すということは好いているということの証である。助六が煙管を山の様に貰うのは彼がそれだけの色男でありもてているということの証なのである。
 十郎も煙管を貰ったことが何度もある。三吉に貰ったのもその中の一つだ。その吸い終わった後の煙管をまた三吉が吸う。煙管を通して口付けをしたのであった。

 
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