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聖女

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第四章


第四章

「それで時にだ」
「何ですか?急に」
「後ろを見てみろ」
 不意にこう言ってきたのだ。
「後ろを。ちらりとな」
「ちらりとですか」
「そう、ちらりとな」
「何かよくわからないですけれどわかりました」
 師匠の言葉を受けて後ろを少しだけ振り向く。するとそこにいたのは。
「ああ、そういうことですか」
「いい感じだな」
「はい。奇麗ですね」
 師匠に顔を戻しながら述べた。
「はっきりとした美人ですね」
「ああいうのは奇麗とは言わないな」
 ミショネの先程の言葉は否定した。
「ああいう美人はな」
「じゃあ何ていうんですか?」
「妖艶だ」
 ワイングラスを右手に不敵な笑みで述べた言葉だった。
「ああいうのはな。そう呼ぶんだ」
「妖艶ですか」
「言葉の意味はわかるか?」
「何となくですけれど」
 師匠の笑みと言葉に含ませた響きからそれを察した。
「わかります。そういうことですか」
「美人といっても色々あるものだ」 
 こうミショネに話すのだった。
「それであの美人さんは」
「妖艶ですか」
「その通りだ。しかしな」
 不意に力の抜けたような言葉を漏らすジョバンニであった。
「それとはまた違うな」
「違うっていいますと」
「だから。僕が今描きたいものだよ」
 また急に画家としての顔に戻るジョバンニだった。
「あれじゃないんだよ」
「女の人じゃないんですか」
「女の人かも知れない」
 その可能性は否定しなかった。
「けれど。どうも」
「ああした人じゃないんですか」
「少なくとも娼婦じゃない」
 そしてこう言った。
「娼婦じゃないな、それは」
「娼婦っていいますと」
「娼婦というものは妖艶なものさ」
 ミショネに語る言葉はこれだった。
「そうだろう?といっても」
「そういう遊びはまだですよ」
 少し生真面目にこのことを述べたミショネだった。
「僕は。まだです」
「そんなに生真面目に言う必要はないだろ」
「いえ、やっぱり好きな相手としたいことですし」
「やれやれ、純粋なことだ」
「それでもいいと思いますけれど?」
「まあそれも粋ってやつだな」
 それでくくってよしとしたジョバンニだった。そしてそのうえで話を戻してきた。
「それでだ。描きたいのは娼婦じゃない」
「そうですか」
「あの美しさは娼婦の美貌さ」
 彼から見て向かい側にいるその美女を見ての言葉だ。黒い髪と瞳に紅い唇。肩も胸も大きく開いた紅いドレスから見えるのは大きな形のいい胸だった。
「夜のな」
「夜ですか」
「どうも今描きたいのは夜じゃない」
 そしてまた言った。
「どうにも。だから」
「絵のヒントにはならないですか」
「残念だがな」 
 言いながらワインを口に含んだ。
「それじゃないのなら仕方がない」
「そうですか」
「そしてこのワインでも料理でもなかった」
「どちらでもなかったですか」
「けれどいい気分転換にはなったさ」
 しかし満足もしているジョバンニだった。
「何か憂いがあったら飲むに限る」
「お酒ですか」
「それも楽しく飲む。やっぱりこれだよな」
「それも粋なんですね」
「その通り。まあ今は」
 ここでまた美女の方を見る。一人で酒を飲むその美女の黒髪が目に入った。漆黒の絹を思わせる艶の。波がかった長い髪が。
「しかしな」
「しかし。今度は何ですか?」
「いや、やっぱりいいか」
 言葉を途中で止めてしまったジョバンニだった。ミショネにとっては実に歯切れの悪い進展あった。それなので思わず問い返してしまった。
「何かあるんですか?」
「やっぱり絵がな」
 話に出すのはやはりこのことだった。
「どうにも。思い浮かぶものがな」
「ありませんか」
「やっぱり飲んでもそう簡単にはいかないものだ」
 顔はもう真っ赤になっているがろれつはそのままだった。酔いは全体としてそれ程ではなかった。見ればミショネものである。
「難しいものだね、本当に」
「まあまあ。それよりもですね」
「それよりも?」
「そっちのケーキはどうですか?」
 気分転換にと尋ねたのは師匠が食べているケーキのことだった。
「それ。美味しいですか?」
「素材が実にいいね」
 弟子に応えてまずはこう言うジョバンニだった。
「味は最高だよ」
「最高ですか」
「その素材をよく活かしていて。やっぱりフルーツケーキはこうじゃないとな」
「そんなにいいんですか」
「そっちの苺のタルトはどうだい?」
 質問に答えてから自分からも質問してきた。
「見たところそちらもかなりの味みたいだけれど」
「わかりますか」
「食べ具合でね」
 そこから味を見抜いているのは流石だった。美食を愛するイタリア男らしい。
「わかるものさ。美味しいのか」
「美味しいですよ」
 食べているミショネ自身もそれを認める。
「苺の味の使い方が。最高です」
「果物だけでも、スポンジだけでも駄目だな」
「そういうことですね」
「思えばあれだよな」
 ケーキを食べつつワインの残りを口に含んで言うジョバンニだった。
「女の人にしてもだ」
「今度は女の人ですか」
「そうさ。艶やかなだけじゃ駄目なんだよ」
 自分が食べているケーキを見つつ述べるのだった。
「もう一つのものがないとね」
「もう一つのものですか」
「それが何かだけれどな」
 ケーキを食べ終わってからふう、と溜息を吐き出した。
 
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