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乱世の確率事象改変

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残るは消えない傷と

 
前書き
長くなりましたがご容赦ください。 

 
 速く、疾く、ただただ急げ。

 そう願って馬を走らせ続けた。

 届いて欲しいと願って、一縷の望みに掛けて、自分が行けば助かるのだと信じて。

 これは裏切りだと分かっていた。

 どんな責苦を受けてもいいと思ってしまった。

 それだけ、大切になってしまった。

 だから私は大切な人達と話そうと決めた。

 死ぬかもしれない。それでも……私が願えば生きて、生かしてくれると信じたい。

 きっと抜け出して駆けられる手段を残してくれたのは、彼女だけは私の可能性を信じてくれていたからだ。

 たった一度の我がままだから。

 これだけ聞いてくれたら、言われる通りのいい子になるから。

 だから……お願い、届いて。




 †




 耳に届いた矢唸りの音は無意識の内に寒気を齎す。
 凡そ人に放つ事が出来るとは思えない程の殺気を持った一筋の矢は、その余りに暴力的な威力から、一人の兵を打ち抜くでは無く、突き刺さった衝撃で櫓の上から弾き落とした。
 短いうめき声を残して隣から同僚が消えた事に、最上段で弓を構えていた兵士達は瞬く間に恐慌状態に陥った。
 何処から射られたのか、と考える暇も持たせられず、一人……また一人とその場から弾き飛ばされていく。時には吹き飛んだ兵に巻き込まれて、しかし大半は……正確に首を打ち抜かれてであった。
 二十人。それが最上段に昇っていた兵の数である。
 それがたった数分、半刻も待たずして消え去った。
 遠く、黄蓋隊は敵の部隊を牽制しつつ、櫓からであろうと矢の届かぬ位置で自身達の掲げる将を守っていた。
 中央で大きく息を吐いた祭は、額から滴る汗をぬぐい、満足そうに微笑んだ。

「まず一つ」

 祭自身、弓の扱いは大陸でも片手で数える程である自負していた。長い年月を掛けて磨き抜いて来たその武の才は多岐に渡るも、特に弓だけは突出させてきた。
 普段なら戦場で動きながら射掛け、一息に多数の矢を放つ事も出来るが、今回はどっしりと構えを取り、自分が弓であるような錯覚を覚えるほど精神を統一し、ただただ遠距離からの射撃を行った。
 弓術は、武術に於いて最も精神力を使うと言える。祭ほどの達人であろうとそれは変わらず、片手間でこれだけ遠距離の正確な射を行えるほど甘いモノでは無い。
 その為に黄蓋隊は守りに特化していた。
 ひとたび戦場に立ち、祭が敵の制圧を行うと言えば、敵からの攻撃を防ぐ大盾を持ち、一人の兵さえ通さぬ鉄壁と化す。
 呉の宿将黄蓋が手塩に掛けてきたその部隊は、彼女自身が無防備でその場に居られる時間を作る為の、屈強な守りの兵士であるのだ。
 子供のように無邪気な微笑みを見て、やはり我らの将こそ最高だと兵達は確信し、また祭の指示に従って動き出す。
 袁家の陣容は三つの櫓を寄せ会わせて兵達が方円を組み、さらにそれを五つに分けて広く長く横に広がっていた。
 両端の櫓郡が前、二つが後ろ、中央がその中間地点に位置するように。一番の中央に麗羽は居座っている。
 愚かしい……と祭は鼻で笑う。

――どうせ狙われる事が無いから、ど真ん中でふんぞり返りたいとかそんな所じゃろう。目立ちたがりで傲慢な袁紹らしい。

 何時でも、麗羽がバカを演じていた為に、孫呉側は彼女の有能さを知らず、無能であると断じている。
 例え冥琳が一目置いている田豊がいようとも、総大将足るモノの言は絶対の意味を持つ……と連合でも偽りの姿が証明された。
 それは虎牢関に愚かしく取り着き、陳宮の策に大損害を受けた様を見ているから。劉備軍と公孫賛の連携があってこそ、シ水関で華雄を討ち取れたのだと思い込まされたから。洛陽でも臆病に総大将が最後方で構え、勝敗が決した最後に漸く重い腰を上げたから。
 田豊が優秀な軍師だからこそ、もっと有用な策を献策出来たはずだ……そうなるように、思考を限定されている。
 だから祭は気付かない。麗羽が未だに高笑いを上げ、五つの内一つの櫓群の最上部に人が居なくなろうとも、兵数の利でごり押し出来る……などと愚かしい事を考えてはいない事に。
 何も対処という対処の無いまま、三つの櫓の最上部には誰も居なくなった。当然、麗羽から離れた所である為に、短時間で制圧されれば気付けるはずも無いのだが。
 田の旗と郭の旗を反対側と中央付近に確認していたから、祭は右から攻めた。
 櫓から矢が来ないと見て、まず飛び出したのは神速と謳われる霞の部隊であった。
 祭はその部隊の速度に称賛の吐息を零す。
 一部の乱れも無い動きで突撃する騎馬隊は、まさしく神速。方円の最中央に当たるや否や、瞬く間に敵の陣容を乱していく。

「神速とはよう言うたモノよ。あれの二つ名にはそれ以外は認められんじゃろう」

 声に出して褒めた。神速こそ張遼の名に相応しい、シ水関から虎牢関の間でも、その用兵の素晴らしさと隙の無さを目にしていたが故に。
 居並ぶ兵達もその部隊の迅速さと勇猛さを見てゴクリと生唾を呑み込む。されども、祭が楽しげであるがゆえに、心に不安が湧く事は無い。例え敵として現れようと、我らならば打ち倒せるのだと。
 一つ一つ制圧し、中央まで片付けられれば祭にとっては最善。
 張遼隊が顔良隊とぶつかるのを確認して、祭は声を上げた。

「よし、我らも敵左翼の制圧に参加する。一刻でも早くあの場所を抑え、ひよっこ共に次の仕事場を与えてやれ」

 そうして彼女の部隊は突撃を仕掛けて行く。なんら、自分達の行動に違和感を挟まぬまま。
 敵右翼からの兵は、櫓による被害を少々受けながらも郭嘉率いる兵が上手く抑え、中央からの兵も、穏が合わせて漏れ出て来ないようにしていたから、安心して一つの場所を攻めていた。
 袁紹軍の兵が櫓に追加で上らない様を見て、有り得ない速さの制圧だと、曹操軍の誰しもが認める。祭の弓術が敵兵に恐怖を刻み込んだのだと。曹操側は呉の宿将の名をその頭に刻み込み始めた。



 しかし……彼女達は、麗羽が目立ちたがりであると思っていたが故に、その筵が金色に塗られて仰々しく、己が財力を示す為に張っているだけだと勘違いしていた。
 高い櫓の上で、左翼が敵に蹂躙されながらも、櫓の周りにだけ自身の兵達が纏まっている様子を見た麗羽は優雅に微笑み、小さく、ほんの小さく言葉を零した。

「掛かりましたわね、おバカさんたち」

 周りの兵達はその姿に見惚れる。
 高貴にして気品のある含み笑い、自身の部隊の一つが崩され出したとしても自信に溢れ、変わらない主の美しさ。それは麗羽が率いる兵にとっては、何よりの鼓舞となる。

「どうして追加の兵が最上部に上らないのか、どうして未だに兵が櫓を守り続けているのか、教えて差し上げますわ。厄介な呉の宿将が次の櫓の制圧に向かい始めたようですし……ね」

 ゆら……と手を掲げた。半円を描くように逆手で、優雅に、優美に。
 麗羽はその手を斜めに振り下ろしながら、大きな声で、魏呉同盟にとっては絶望の指示を高らかに放った。

「下賤なモノ達に白銀に煌く安息を差し上げなさい! 勇ましく、華麗なる我が臣下達よ!」

 金色の旗が振られた。バタバタと音を上げ、大きく左右に振られた袁の牙門旗の合図を受けて、全ての櫓に張られた筵が次々に落とされていく。
 それの側に寄った霞も、二つ目の櫓群に狙いを定めて射を行っていた祭も、小さく疑問には思っていたのだ。
 何故、櫓の兵を落とし、上がりもしないというのに、その周りにだけ兵が重厚に群がっていくのか。
 逃げるならばもっと広い場所に行くだろう。高い櫓を倒されるを恐れてか。それとも……祭という遠距離に於ける脅威を櫓に乗せさせず、制空権を取られない為か。
 彼女達は迅速な櫓制圧を選んだ為に、浮かんだ疑問を抑え、対処を部下達に任せて自身が一番必要とされている事態を優先した。それは先陣を切る将としては当然であるが……戦全てを掌握するには不足であった。
 横に長く広く配置された陣容は伝令の伝達を遅らせる。
 敵の策を抑える為に、軍師がいる方に軍師が当たるは必然。兵とは隔絶した武力を打ち崩す為に、将がいる所に将が向かうもまさしく正しい。名のあるモノが飛び抜けた力を持つこの世界で正道とも言えるその隙を突いたのが、袁家の二大軍師であった。

「なっ……」

 唖然。曹操軍も、孫策軍も、どちらもが予測など出来ていなかった。
 敵左翼の抑えをしていた郭嘉でさえ、それにまだ気付けてはいなかった。
 筵の陰から現れたのは……袁紹軍の虎の子である強弩部隊であった。そしてそれが……下の足場に詰まっていた。

「このように豪華にして多量の、白銀に輝くお食事は初めてなのでしょう? お腹が張り裂けるほど差し上げますから、たーんと召し上がりなさいな。強弩部隊っ……放てぇっ!」

 轟……と、音が集まった。
 弦の弾かれる音が、幾多も、幾多も集まるとそんな音が鳴るのかと、一人の兵士は場違いな考えを持って……瞬く間に幾本もの矢に貫かれて絶命した。
 逃げるのが遅れれば遅れるほど、被害は甚大に広がっていく。一人、また一人と立ち尽くすサボテンのような死体が増えて行った。
 部隊の大盾に守られながら、祭は……苦い吐息を歯の隙間から漏らし、拳を握る事でその身に滾る悔しさを抑え付け、部隊をゆっくりと引き下げて行く。
 そして神速は……その名の為すままに、一つとして矢を掠らせずに戦場をただただ駆け抜けた。
 敵の陣容を打ち崩すには、立て直す時間と、付け焼き刃では無い連携が必要であると判断して。
 稟も、穏も、その余りに不利過ぎる戦場では、攻めるには難過ぎるとして部隊を引いていく。兵法通りに、まだ攻めるぞと思わせながら、徐々に、徐々に。

 ただ……それさえも、袁家の潤滑な資金と、袁の王佐の前には許されなかった。

「さすがは夕さん。ここまで全て読み筋とは恐ろしく、美しいですわ。これほどわたくしに相応しい戦場を作ってくださるなんて……華琳さんの引き攣る顔が見られない事だけが残念ですが、可愛い美羽さんと我が袁家の繁栄の為に、出し惜しみはしてられませんわね」

 高い場所にて、全ての動きを見透かし、麗羽は自身の王佐の明晰な頭脳に畏怖と感動を覚え、同時に最大の好敵手と考えている華琳が此処に居ない事を悔やみ、されども、手を口元に携えていつものように不敵に笑った。

「おーっほっほっほっ! 敵はわたくしの威光の前に怯えて逃げ出しましたわ! しかし、戦場で背中を向けるとはどういう事か、愚かしくも袁の一族に歯向かったモノ達に教えておやりなさい! 全軍っ、雄々しく、勇ましく、華麗に進撃ですわ!」

 誰もが、そんなモノは見たことが無かった。
 卑怯だ、と言う事は出来ない。
 戦争では、自軍が有利に立つ為に工夫を凝らし、より戦局を傾けやすいモノを投入する事など、どの時代にも行われてきたのだから。
 秋斗が記憶している進みすぎた兵器に用いられるようなモノならば、戦争の仕方に改革が起こり、持ち合った強大な力による牽制の応酬という不和を齎され、先の世に多くの戦乱を残しかねない。
 だが、袁家の投入したその兵器は、ただ現存するモノの組み合わせに頭を捻って作り出されただけのモノである為に、誰もそれを咎める事など無い。着眼点に称賛されこそすれ、後の世にまで響く由々しき事態にはならないのだ。
 袁紹軍は進撃を開始した。櫓を置いて……では無く、櫓すら、ゆっくりと動いていた。
 強弩部隊と動く櫓での二段構えの制空権制圧。袁家の潤滑な資金と、膨大な人員の数があってこそ為し得たモノ。
 袁家側が最重要で隠していたその秘密兵器が、牽制をしつつ徐々に下がっていた部隊に被害が増えるのを見て、祭は舌打ちを一つ。

「動くのか、あれは! ちっ……全軍、最速で撤退せよ!」

 夜を跨いでいきなり現れたのは、動かせるから其処に建てる必要が無かったという事だと祭は思い至る。袁紹軍はバラした櫓を別の場所で組み立てて、出来る限り気付かれないように陣へと組み込んだのだった。
 ただでさえ強弩部隊で厄介だというのに、動くとあっては如何に祭と言えども一つずつ落としていくのも困難であった。
 平地での制空権の制圧によって、もはやこの戦場の優位は一つに決まった。このまま決死の覚悟で長く留まったとしても、後退して曹操軍と話し合ったとしても、櫓ごと変化させられる陣容を打ち崩し、袁術と張勲を討ち取る為にはどれだけの兵を犠牲にしなければならないのか。
 せめてもの救いは……その兵器が平地でしか使えず、動いてくるのはこの戦場に限ってだけであり、撤退をするなら通常の追撃しか為されない事である。
 蜘蛛の子を散らすように、とはまさしくこの事か。
 焦らず、どっしりと余裕を持って進撃する袁紹軍に対して、魏呉の軍はその場から離れる為に全力を尽くした。

 どうにか一里ほど離れ、追撃のそぶりも見せない敵に訝しみながら、魏呉同盟軍は戦線を膠着する事となった。
 守りに入り、攻めようとはせず、己が主達がどうするかの決断を待つ事にしたのだ。
 ただ……互いの主が着いたのは、気付かぬ内に袁家の軍が全て撤退した後であった。



 †



 幾多もの刃の打ち合いは激しく、たった一撃でも当たればすぐさま途切れてしまう。されども、終わる事の無い演舞のように繰り返され、見ていたモノ達はハラハラと心逸らせると同時に、いつまでも見ていたいという矛盾した感情を持て余す。
 そんな一騎打ちに気を向ける事無く、冥琳は只々、戦場の掌握という仕事を一人で指揮していた。

「右翼、出過ぎるな! 中央は圧しきれっ!」

 経験に裏打ちされた正確にして適格な対応によって、二万の軍勢は徐々に、徐々に制圧されていく。
 指揮者の差は、軍を扱うに於いて何にも勝る力である。数が劣っていようとも優秀な頭が据えられるだけで打ち勝つ事も出来るようになる。
 たった一人で万の戦況を引っ繰り返す化け物とは違い、軍という生き物を扱い、敵味方幾千の屍の上に勝利という果実を得る。
 理論に基づいた師の勝利とは、冷徹な計算によって弾き出される生と死の取り引き。それを打ち崩す事は、例え一騎当千の武将であろうとも容易では無い。
 冥琳は勝ちを確信している。この戦場に於いては、であるが。

――紀霊が此処に来たなら袁術は逃げたか。聡い袁家のモノ達なら、いや、張勲でも建業には逃げられないと気付くだろう。袁家大本に合流する……か。

 祭の勘と同じく、確かな計算によって、冥琳は既に袁術軍の逃亡に気付いていた。
 だというのに何故、救援も依頼せずに此処に居続けるのか……彼女はただ、孫呉の先を見ているがゆえに。

――曹操への借りは増えても構わん。曹操が覇王である限り、奴等はどうせ攻めて来るのだ。それに元からあちらは腹を全て割っていなかったのだから、こちらも精々利用させて貰う。劉表の動きも気になるからな。

 優先したのは孫呉の地の掌握遅延よりも、兵の被害総数であった。
 彼女達にとって、一番欲しかったモノは紀霊の出陣によって手に入った事が分かったのだから当然。
 今は如何に被害を抑えて且つ、これからの乱世の為に力を付けるかが最優先ではあるが、それも誰かから攻められた時に守れないようでは話にならない。敵は何も曹操だけでは無いのだ。
 曹操との盟約は互いに手を出さないというそれだけ。だからもう、利害を計算すれば、袁術を追う事は孫呉側にとって利が少なく、例え内部の掌握に幾分かの時間が追加されようとも、冥琳にとっては切り捨てても構わないモノ。
 劉表の名が出た時点で、袁術を自身達の手に掛ける事は、彼女の中で優先度が低くなっていた。
 通常ならば懸念事項が一つ。曹操が次の袁家との大戦に於いて孫呉側の協力を要請する可能性。袁術を代理討伐して貰うという借りを作らない代わりに、袁家という共通の敵と戦うしかなくなる事。
 しかし、冥琳はそれは無いと確信していた。
 あの曹操が、己が力に絶対の自信を持っている強大なる覇王が、より強く大きくなった敵を自分達だけで打ち滅ぼそうとしないわけが無い、と。
 彼女は小さく笑う。

――それがお前の一番の弱点なのだ、曹操よ。覇王足らんとすればするほど、お前は自らの首を絞める事になるだろう。例えその先、大きな名声を得られたとしてもな。

 唯一、孫呉で雪蓮の代わりに王を名乗っても不思議では無いほど、彼女は才気に溢れているが故の断金。
 雪蓮の負担を半分に減らせる程の明晰な頭脳は、遠き視点を持ってあらゆる計算を積み上げていく。覇王に首筋に向ける刃を研ぎ澄ませながら。
 
 一騎打ちが始まってから経った時間は随分になった。
 冥琳が見抜いたのは紀霊隊以外の兵はそこまで強くないという事。如何に一部隊が精強であろうとも、大多数が黒麒麟に恐怖を刻まれている袁術軍では手古摺る事は無かった。
 しかし彼女の思惑は不可測によって崩される事になる。

「なんだ……?」

 遠くで戦場の空気が変わる。
 遥か前方から、土煙を上げて何かが近付いてくるのが見えた。

――バカな……貴様は袁術軍に肩入れする事など有り得ないはず。ましてや敗北が必至の紀霊の為になど、わざわざ貴様が出て来るだと!?

 そこにはためく旗の文字が見えて目を見開き、疾く、冥琳は声を張り上げた。

「陣容を方円に切り替えよ! 張コウが来たぞ!」

 何故、袁紹軍の筈の張コウが此処に来たのか。
 逃走したのはこの戦を諦めたという事。次の戦を思えば、此処で兵を無駄に減らすは悪手である。何より張コウは袁家最強の将である。だからこそ、軍師達の率いる本隊を守らずして此処に現れる事が異常。
 巡る思考は幾多に広がるも、来たという事実をまずは受け入れて対処しなければならない。

――曹操軍の本隊に許緒、そして『あの化け物部隊』が後詰としてもうすぐ追いついてくる。それまで持たせれば張コウも逃げ出すだろう。

 考える間に、最前線で遂に、張コウ隊が孫策軍とぶつかった。張コウ隊の練度は袁術軍の兵とは桁が違う。先程までのようにはいかず、瞬く間に戦場が膠着させられた。
 張コウは用兵の癖がまず読みにくい。
 正道を貫いてくるわけでは無く、被害が増えるも気にせず、戦場を掻き回す事に重点を置くような戦い方。それでいて、最前線は必ずと言っていいほど手堅く、崩しにくい。
 舌打ちを一つ。
 同時に、彼女はまた、戦場に不可測を感じた。しかしそれは、彼女にとって嬉しい誤算であった。
 南方から銅鑼の音が鳴り響き、現れたのは孫の牙門旗。助け出した後に増援として来ていた蓮華の部隊が到着したのだ。
 ほっと安堵の息を漏らして、冥琳はまた、自身の兵がどれだけ減るかを計算しながら、命を操る指揮者として戦場を動かしていく。

 張コウと紀霊がどのような事を考えているかも知らぬまま。

 曹操軍到着まで後一刻ほどの事であった。





「ぐっ!」

 甲高い音を上げて剣が弾き飛び、衝撃によって馬から落とされ、長い一騎打ちにも漸く終わりが訪れた。
 未だに剣を持っていたのは……孫呉の虎にして小覇王であった。
 すっと馬に跨りながら剣を突きつけ、雪蓮は凍りつくような眼差しを向けて声を掛ける。

「私の勝ちよ、紀霊。今すぐ降伏の言を上げれば、部下達の命は助けてあげましょう。これ以上、命を無駄に散らせるな」

 武人としての腕前は普段なら互角と言ってよかったが、長く急いだ行軍で疲れがあったのか、利九の動きは幾分か鈍かった。それでもここまで小覇王と打ち合えたのは一重に、彼女の精神力からであろう。
 にやりと口を引き裂き、昏く鈍い光を放っている利九の瞳。ゾクリと、雪蓮の背筋に寒気が走った。

「クク、無駄な命と言い切るか。そうだ、その通りだ。無駄な命だ。これは私の嫌がらせの為に散らせる、無駄な命なのだからな!」

 続きを言わせまいと雪蓮が剣を振るうよりも先に、利九は見た目も気にせず大地を転がり馬の後ろに回り、身体を起こして声を上げた。

「愛する部下達に告ぐっ! 全てを喰らい尽くせ! 正義は我らにあり! 最後の一兵に至るまで、私と共に死んでください!」

 本来の口調は敬語。だからそれが心よりの懇願だと感じた兵士達は、彼女の言葉が耳に入るや、元より自分達の敬愛する彼女の為だけに捨てていた命だというように、一騎打ちの勝利に沸き立っていた孫策軍へと、雄叫びを上げて武器を振るっていった。一騎打ちの円陣を内側から覆い尽くし、雪蓮と利九の元に誰も近づかせないように。
 憎らしげに顔を歪め馬から飛び降りた雪蓮は、口を引き裂き立っている紀霊へと斬りかかった。

「さあ、仕事です。張コウさん」

 その短い言葉が聴こえずとも同時に、本能が警鐘を鳴らした瞬間に雪蓮は無理やり身体を倒す。
 後方から投げやられたのは二つの槍。背中の薄皮一枚が切り裂かれながらも、どうにか雪蓮はそれを避けた。

「あはっ♪ やっぱり避けちゃうんだ。呆気なく死ねばまだ楽だったのにさー。ま、殺せるとは思ってなかったしいいけどねー」
「張……コウ……!」

 どうして此処にいる、とは言わない。一騎打ちを穢された事も気にならなかった。
 袁術軍の鎧を身に着けている明は、カチャカチャと腰に据えてあった鉤爪を装着しながら楽しそうに笑う。

「不意打ちとかだまし討ちなんか戦場で当たり前じゃん。誇り誇りってお前達はうるさいけど、死んじゃったらみーんな一緒なんだってば。それよりさー、あたしって今は袁術軍の一兵卒に見えるでしょ? 名も無き兵に倒される虎の娘なんて、お笑いだと思わない?」

 軽く言いながら腰を落とし、戦闘態勢に入った明を見て、雪蓮は思考を回す。
 今の体力で張コウと戦うのは危うい。それに利九もいる。二対一ではさすがに分が悪すぎた。

「こんな面倒くさい事して、素直に毒矢でも使えば良かったんじゃないの?」

 少しでも時間を稼ごうと、剣を拾いなおした利九に告げる。すると、利九は薄く笑った。

「何を言ってるんですか? 毒矢なんかで殺してしまってはつまらないでしょう? それに……次女にも苦しんで貰わなければいけませんからね」
「あ、一騎打ちをお楽しみだった血狂い虎に教えてあげないと。孫権来てるから。紀霊が此処に来るのが遅れたのは孫権が追いついて来るのを待ってたかららしいし。
 それと白髪ババアとお化け乳眼鏡は公路の囮に引き摺られるでしょー? あと、どうせ情報断絶にふんどし女か猫狂いを使ってるだろうから将の増援は期待しない方がいいよー。曹操軍が来るまで持つかなー?」

 重ねてにやにやと笑う明に言われて、ギシリと歯を噛みしめた雪蓮は射殺さんばかりの瞳で二人を見据えた。
 悔しがる様子を見た明は、嬉しそうに舌をべーっと突き出す。

「にひ、夕と七乃からの伝言も伝えておこっかな。公路は孫尚香の友達なのに、敵を知ろうともしないまま苛めて楽しかった? 愛する妹の平穏をぶち壊した自分勝手なお姉さん、気分はどう? だってさ、ひひっ」

 瞬間、雪蓮は明に刃を向ける。もはや抑える事も出来ず、身の内から湧き上がる衝動を解き放った。
 鉄と鉄がぶつかり合い、高い音が響く。
 両手の鉤爪で受け止められ、鍔迫り合いをしながら声を荒げる。

「嘘をつくな外道め。孫呉の誇り高き姫が意地汚い袁家のモノと友になる訳がない。その減らず口、今すぐ私が聞けなくしてやる」
「いっ……たいなぁ。ホント、自分が正しいと思ってる輩ってのはうざったい。公路はただ純粋に、家とは関係なくあるがままに普通の太守として生きてただけなのにさー。素直に手伝ってやれば住みやすい国になって孫呉の地なんか返してやれたんだよ、バーカ。
 紀霊、早く行きな。あたしと夕だけはちゃんと約束守ってやるから。地獄ってのがあるなら先に行って待ってたらいいよ」

 へらへらと笑いながら言葉を発した明。利九は一つ頷いてその場から兵の蠢く戦場へと飛び出していった。
 直後、思いっ切り両腕を振り切られる。雪蓮はその力を受け流しながら距離を取った。
 馬に乗りながらでなければ、その武力が上がるのはどちらも同じ。先ほどの一騎打ちなど、これから行われる手段の問われない血みどろの殺し合いの前では見劣りするだろう。
 ただ、明は直ぐに始める気は無いようで、周りの乱戦を確認しながらのんびりと言葉を紡いでいく。

「郭図とか上層部、七乃はあんたが死ぬのを望むんだろうけどねー……あたしと夕、そして紀霊はそれを望んでないんだー」
「……どういう事よ?」

 茹った頭ながらも冷静さを少し残していた雪蓮は問いかける。此処で雪蓮と蓮華を殺してしまう事こそが、敵の判断としては正しいのだから。

「べっつにー。死んだら楽でしょ? 生きている限り幸せはあるのも確かだけどさー……一生身内に怨まれて憎まれて、誇りの折れた泥濘の中で屈辱に塗れて生きぬいて貰った方が、あたし達からしたら面白いし嬉しいもん」

 一瞬、何を言っているか分からなかった。
 雪蓮にとって、それは余りに異質な考え方であったから。
 明……否、夕は、裏切る事が確定の雪蓮を治世で生かすと言っている。獅子身中の虫を自ら飼うと。それは雪蓮の、古くから受け継がれてきた王族の思考とは相容れぬモノ。

「はぁ? そんな事の為に私達を殺さないって言うの?」
「価値観の違いだよねー。あたしも夕も、今のイカレちゃった紀霊も、人がどれだけ死のうがどうでもいいんだよ。ホントは袁家だって壊れたらいいしー」

 零された言葉に驚愕を禁じ得なかった。思わず、雪蓮はそのまま思考をぶつけてしまう。

「っ! あんたは袁家の為に戦ってるわけじゃないっていうの!? あんた程の力を持ってたら何処にだって行けるでしょう!? なんでわざわざあんな鬱陶しい場所にいるのよ!」
「別にあんなとこに思い入れなんか無い。夕が居るからあたしはいる、それだけ。富も名声も、他の誰かの命だってどうでもいい。夕が幸せに生きてくれたらそれでいい。夕が望むなら、望んだように世界を変えるだけ。あんたのくだらない孫呉への誇りは、夕が望む新しい世界の為の手段になりそうだから、此処では殺さないであげるんだよ♪」

 昏い光を映した瞳と三日月型の嗤いを見て、怖気が走った。
 他者だけの為の生ける屍、本物の異常者がどのようなモノであるのか、雪蓮は初めて思い知った。
 目の前の女は、自分の命であろうとどうでもいいのだと。生への執着も、他人が大切にしているモノも、誰かの命でさえ、まるでガラクタのように放り投げるのだと。
 自らの為の欲で無く、名を残そうともせず、誰も信じず、たった一人を信じて、その一人の為だけに他者を殺し続けるその存在を、雪蓮は根幹にあるモノまで理解する事が出来ない。

「……狂人め」
「なんとでもどうぞー♪ 自分有りきのあんたじゃ理解してくれないのは分かってたもん。あんたじゃなくて秋兄と話したかったなぁ。
 さ、ちょっとは体力戻ったんじゃない? あたしも結構身体が疼くタチだからさー……楽しませてね♪ 殺さないで苦しめるの、大好きなんだぁ♪」

 地を踏みしめ、ジリと音が鳴る。
 必死で雪蓮の方へと向かおうとする兵は、全てが紀霊隊によって抑えられている。
 その背中を切り拓いて逃げる事は出来るだろう。明がその間に、後ろから斬りかかってこなければ。
 明は突き刺す敵意で言外に伝えていた。
 命を取らずとも、腕の一本、脚の一本は貰っても構わないだろう、と。
 戦場を駆ける戦姫たる『孫策』を殺す。もう兵が想いを馳せる指標にはなれない、ただの雪蓮に戻すから、歯噛みしながら乱世の行く末を見ているがいい……愛する妹達に同情や怨嗟、居た堪れない感情など多くの不愉快なモノを向けられながら、と。
 積み上げてきた事柄から、戦えない戦姫など乱世に於いては誰も期待しない。民と兵は希望を向ける事も無く、臣下にも不和を齎す。されども能力的に見れば有用であり、嘗ての王であるから、何かを求められれば応えなければならず、不足があれば責められる。未来ある妹たちには目の上のたんこぶになるだけ。
 なんと悍ましい生なのか。そんな事態になれば、雪蓮は潔く自刃するか、誰とも交流を絶って隠居するだろう。
 しかし今、戦場に出てきてしまった蓮華も同じようにされればどうなるか。
 身体を欠損し、殺されずに見逃されたならば、二人は王としての信頼を保っていられない。
 そうなれば幼い小蓮を立てるしか無くなり、明の言の通りならばやっかみ事が増え……孫呉は容易く崩壊する。袁家との同盟という最も嫌悪するカタチも有り得る。
 または、袁家のように、嫌っていた七乃のように、傀儡という手段を用いて、孫呉の地を治めなければならなくなる。
 そして、もし殺されたとしても同じ事。信じたくは無いが、小蓮が長く袁家の思想に染められた……という事態も考えなければならない。
 これらが待ち望んだ平穏であろうか。
 生かされても、殺されても絶望の未来しかない。この場での敗北とはそういう事なのだ。
 思い至った事態に、負ける事は許されないのだと心を固めた雪蓮は、自身の攻撃的衝動の全てを守りに向け始める。
 それは友への信頼から。美周嬢ならば、必ずこの窮地を変えてくれるのだと信じて。

 そうして……短く息を吐いた雪蓮は、残虐な笑みを浮かべて肉薄してきた狂人とのじゃれ合いに引き摺り込まれていった。



 †



 蓮華の参入は大きく戦況を動かした。ジリ貧で徐々に圧されていた孫策軍の陣容が盛り返した。
 兵達を先導する姿はまさしく王。冥琳の心は、王の後継の成長に心を高鳴らせていた。

「長きに渡る雌伏の時も、今ここで漸く終わりを告げる! 後少しだ! 命を惜しむな! 名を惜しめっ!」

 続々と敵兵へと向かっていく兵達は目を爛々と輝かせ、己が王の命を忠実に遂行する為の一部となっていく。
 ふいに、目の前の幾つかの部隊に対する圧力が強くなった。
 斬り飛ばされる腕、頸、身体。血霧が舞い、砂塵が一層巻き上げられる。
 その光景は既に経験している。たった一人の強大な武人が戦場を蹂躙していく合図である。

「私は此処にいるっ! 我が精兵達を越えられるなら越えて見よっ! 紀霊っ!」

 蓮華は大きく声を張り上げた。囮として、自分を使う為に。
 何を……と考える前に、冥琳は遠くから視線を感じた。
 蓮華がこちらを向いている。真っ直ぐに、射抜くように。遠くとも何故かよく見えたその瞳は信頼の色。

――ああ、蓮華様は私を信じて……紀霊を無力化しろと言っているのだ。

 ぶるり、と無意識の内に震えたのは歓喜から。王に信を向けられるというのは、臣下にとって何にも勝る力となる。

「二番から四番までは右翼に突撃を行えっ! 紀霊を……捕えて来い!」

 討ち取れ、では無く捕えろ。その命の意味は、末姫に対する事実確認と、袁家側へ交渉を齎す為に。既に逃げた袁術を捕える事は困難だと冥琳は判断していた。
 紀霊ほどの武人ならば身柄の行く末は政治の道具と為せる。もちろん、ただで返すつもりなど毛頭ない。政治的な駆け引きは冥琳の仕事。如何に上手く袁家側から今後有利となるモノを引き出せるかが肝となる。
 都合が悪ければ殺せばいい。小蓮の事を確認するだけでも、冥琳達にとっては最優先の事柄であるのだから。
 汚い仕事も軍師の仕事。須らく、それはどの軍にも言える事であった。

 幾分か後、ふいに銅鑼の音が鳴った。
 聞こえた先は後方から、振り返り確認した旗は鳳と……徐、前の戦とは違い、新緑色に染め上げられた鎧を纏ったそれは……袁術軍にとっての絶望の代名詞。
 それらから鬨の声は上がらない。雄叫びも上がらない。黙々と、圧倒的な圧力を伴って進軍して来ていた。静かな怒りがあった。収束された剣……否、角のような怨嗟があった。
 恐ろしい、と孫呉の兵は生唾を呑み込む。その部隊が自分達と同じような「人の群」とは思えなかったから。
 ほっと安堵の息を漏らした冥琳は、急ぎ、兵に一つの指示を出す。

「我らが王の元へ馳せ参じよ! 孫呉の勇者達よ!」

 彼女は、張コウ隊を徐晃隊に任せ、残りの部隊を小覇王救出の為に当てると決めたのだった。
 冥琳にとっては嬉しい事に、袁術軍の兵達はその新緑の部隊を見て浮足立っていた。狼狽える兵が見える。逃げ出す兵も見える。もはや戦況は完全に引っくり返った。
 いきなり引いた孫策軍の行動に張コウ隊は大きな隙を作られる。
 率いる将が居ないというのはそれだけで対応が遅れるモノ。死兵の集まりである張コウ隊でも言うまでも無く。
 急速に変化していく戦場に着いて行けず、いきなり孫策軍の後ろに現れたような新緑の部隊から……張コウ隊はもろに突撃を喰らってしまった。
 一瞬だった。初めの衝突だけで敵は怯んだ。精強なはずの張コウ隊が、真正面から単純に、一列ずつ、乱れの無い連携連撃で減らされていく。

――黒麒麟は居ないのだろう? 敵の心理を攪乱する為にわざわざ徐晃の旗を出してきたのか。鳳雛、やはり侮れんな。ただ、今回は助かった。

 目の前を突っ切っていく徐晃隊に、味方であればこれほど頼りになるのかと思いを馳せる冥琳。
 兵士と共に馬に乗って、最後方で追随していく三角帽子の少女はボソリと口を動かし速度を緩めさせた。そして冥琳は、ソレと目を合わせてしまった。
 なんら光の感じ取れない凍りつくような瞳。見た目幼い少女であるのに、冥琳は飲み込まれてしまう。

「周瑜さん、ですね。袁家の本陣離脱と袁紹と顔良の部隊到着の報告が我が軍に入りました。曹操軍で私達以外の兵は全てその対処へと向かいましたが、主から言伝を預かっております」
「……曹操殿から?」

 気圧されるなと無言で呟き、冥琳はどうにか言葉を紡ぐ。

「はい。『利息は払う。お釣りには利息を付けなくていい。どうせ全てを丸ごと買い取らせて貰うのだから』とのことです」
「……相変わらず遊びが好きなのだな」
「悪戯も好きなようですよ。新参者の私に、あなた方との交渉の全てを任せて下さる程ですから」

 軽く言葉を交わしながらも、冥琳は鋭く思考を研ぎ澄ませていく。目の前の少女をどうにか推し量ってやろうと。
 しかし……冥琳には、その少女の堅く閉ざされた殻の内側を見抜くことなど出来るはずも無かった。
 故に信頼などせず、言われた一つの単語が冥琳の脳髄に引っかかる。

「……交渉、だと?」
「ここで交渉をしませんか? 使者を送ると他の軍の耳が気になりますし、手間も掛かってしまいます。何より、あなた方の軍にも、私と伏したる竜が手を打ってなかったとお思いですか?」

 戦の真っただ中で、互いの部隊を放っておいて……この少女は何を言いだすのかと思ったが、最後の一言に冥琳の頬が引き攣った。
 少女の瞳は、冗談でも嘘偽りでも無いと、真実の色だけを浮かべている。他の軍はまだしも、その少女は劉備軍に今回の事は内密にしておきたいと言っていた。
 予測すれば容易い。『劉』関連の事なのだ。
 劉備軍、劉表軍のどちらにも少女の友が所属していると聞いている。それならば、まず間違いなく二人の龍は関わり合いを持てるだろう。そうなれば理想家の劉備がどんな選択を選ぶかなど予測に容易い。

「内容は?」
「旧きモノ達の滅亡。こちらは袁を、そちらは劉を。軍事行動に於いて互いに協力は無しですが、こちらから邪魔をする事の無い一時的な不干渉というのは如何ですか?」

 孫呉側としては願っても無い事である。
 劉表を滅ぼすまで曹操軍は孫呉の地を脅かさないと言っているのだから。袁家を滅ぼして後に貸しを返して貰いに来たと言われては、せっかく取り戻した地だというのにまた奪われる可能性が高い。劉と曹から侵略を仄めかされては内部の掌握にも大きな支障が出てしまう。
 劉備軍は蜀の地を手に入れるのに時間が掛かるは明白。内部の腐敗を洗い流し、南蛮の対応をしている間に孫呉が劉表と戦う時間はたっぷりとある。
 最善としては劉表に敵討ちを行った後に、機を見て劉備軍に伺いを入れ、落とし処として一時的な同盟まで持って行ければいい。理想家だとしても目の前に迫る問題を優先するだろうと考えて。
 真っ直ぐに見やってくる翡翠の瞳は冷たい。既にそれすら予測している事が分かる。
 目を逸らせば、その少女は冥琳に対して興味を失うだろう。その程度の胆力も、適応力も無い軍師なのだと落胆して。
 冥琳は目を逸らさず、代わりとばかりに目を細めてその少女を視線で射抜く。

「……それほど曹操は袁家との戦を邪魔されたくないのか」

 一寸返答に悩んだ冥琳を少女は見逃しはしなかった。

「ふふ、美周嬢と称されるあなたなら、本当の狙いに気付いているはずです」

 心が凍りつく。背筋に冷や汗が伝う。掌がジワリと湿った。
 愛らしく首を傾げているはずなのに、少女の声音で笑っているはずなのに……冥琳にはその少女が化け物に見えた。少女の後ろにいる覇王よりも、冥琳はその少女の方が恐ろしく感じた。
 もやもやと、振り払いようのない靄が心に掛かるも、冥琳は普段通りの声を紡いだ。

「天下……三分か」
「その通りです。我が主の目指す第一段階は大陸の三分化。善良にして強大な新時代の為政者三人によって、より大きな乱世を。あと、あなたはその先も見据えていると分かっています。確かに伝えましたので、返答はよしなに」

 言い切って、もう仕事は終わったとばかりに少女は部隊長にコクリと頷いた。
 余りに投槍な交渉の終わらせ方に、冥琳は堪らず声を上げた。

「待て、お前達を信じる事は――」
「出来なくていいです。お好きなように動いてください。こちらは結果で示すだけですから。疑心暗鬼にならずとも、我が主は覇王。一方的であれ約定を破るような事は致しません」

 冥琳は眉を顰めた。
 だが、もう声を掛ける事はしない。返答をするかどうかすら、その少女は分かっているのだと理解していたから。
 戦場を見やる事無く離れて行くのを見つめていると、少女は思い出したように振り返り……漸く、冥琳にも感情の読み取れる瞳が見て取れた。
 切なく、苦しく、泣きそうながらも、愛しさを浮かべた甘い色の翡翠が揺れていた。
 冥琳はその悲壮溢れる表情をどんな人がするか知っていた。
 愛するモノを失った少女が、その人物に想いを馳せている時にするモノ。
 だから気付く。それに何かしら問題が起こったのだと。死んでいないのは知っているが、その少女の心を砕きかけるような出来事があったのだと。

「洛陽の復興時に、いえ、多分黄巾の始まりから、天下を割ろうと考えていた人がいました」

 慎ましくも消え入るようなその言葉は冥琳の耳を抜け、瞬時に、心が恐怖に彩られた。
 信じられるわけが無い。頭が良ければ良いほどに、その異常さ、異質さを理解して、有り得ないと分かる。
 少女の言が本当ならばそのモノは、群雄割拠が始まる以前から、誰が伸し上がってくるか分からぬ状態だというのに、割る人間を見極め、大局を読み切り、乱世の中で糸を操り蠢く影であったという事だ。
 その中から一番生き残れる可能性の低い王を読み切って、自分の在り方を曲げながらも成長を助けていたという事。そういう風にしか、冥琳や周りのモノ達からは見えない。その少女も同様に。

――それはもう、『人』では無く、我らとは違うナニカだ。

 しかしその少女が言うと、それが実際に居るのだとも分かってしまう。間違いなく、一番近くに居たのはその少女だったから。
 恐ろしい、否、得体が知れない。
 裏から操られているような感覚は嫌悪感を齎し、反発を助長し、敵意を育てる。
 冥琳は一つの解に行き着く。
 その人ならざる異端者は……必ず殺さなければならない最悪の敵だ、と。
 殺さなければならない証明の一つが目の前の少女。最初期の少女や、その少女を知っている者達からの情報を集めたと言うのに、余りに異質に変わりすぎている。
 その異端者の影響力は、大陸全てを動かし、滅ぼしかねない程の猛毒になり得ると判断した。

「理想は甘く、治世を壊す大きなヒビとなり、内か外か、もしくはどちらもから壊されてしまうことでしょう。妥協して仮初めの治世を手に入れる事の愚かしさを、あなただけは忘れないでください」
「……頭の隅に留めておいてやろう。偽りの大徳に伝えておけ。貴様らが乱世の果てに辿り着けるか見ものだな、と」

 それは覇王と、黒麒麟に向けての言葉。
 今後の大陸の動きを見るに、天下三分が成ったとしても覇王を一つの勢力で打ち滅ぼすには足りず。だから先にそちらを叩き潰す、と言外に伝えた。
 冥琳の構図にあるのは天下二分、後の大陸平定であった。
 間違わずに受け取った少女は悲哀に一層深く瞳を曇らせ、しかし何も言わずに去って行った。
 兵列の隙間に少女と部隊長が消えて行ったのを見送った冥琳は、漸く自身の部隊に目を向ける。
 烏合の衆と化した袁術軍、離脱を始めた張コウ隊、そして……大きな勝鬨の雄叫びが上がった孫権隊の前列。

「周瑜様! 敵将紀霊、孫権様に辿り着く前に甘寧様が捕えました!」

 思春が戦場に潜り込んでいた事に一寸だけ驚くも、さすがだ、と小さく言葉を零して、

「ご苦労、制圧に切り替えろ。投降を促し、歯向かってくる兵だけ殺せ。武器を完全に捨てるまで間違うなよ。独断行動を行った部隊は厳罰に処す」

 御意、と言葉を残して立ち去った伝令の背中を見送り、冥琳は大きく安堵の息を零した。
 馬を進ませながら、内心で先程まで言葉を交わしていた鳳凰へと呟く。

――今を生きる命、それを想うを愚かと言い切るか。歪んでるよ、お前も、黒麒麟も、覇王も……そして私も、な。

 自身の愛する王にそれを促している自分に自嘲の笑みを零し、孫呉の頭脳は心の負担を積もらせていった。
 三角帽子の少女から言われた黒麒麟の幻影により、天下統一への確かな思考誘導という楔を打ち込まれて。




 †




「ありゃりゃ? あっちは案外呆気なく終わっちゃったみたいだねー。これからが楽しくなる所だったのにさー」

 目の前で息荒く、幾多もの切り傷から血を流し、それでも剣を構えている雪蓮から視線を外し、明はつまらなそうに呟いた。
 紀霊隊の隙間から飛び出てきた兵が幾人かいたから、明は雪蓮に大きな傷を与える事が出来なかったのだ。
 聡く、研ぎ澄まされた感覚によって明は戦場の状態を把握する。負け戦にこれ以上の価値は無く、自身の部隊も逃げ出している事だろう、と。

「あたしの部下だったらもうちょっとマシな守り出来たんだけどなー」
「……孫呉の兵を舐めるなよ、張コウ」
「ふふ、その精兵も随分と減っちゃったみたいだけど? ま、少なくなった兵で劉表との逢瀬を楽しんできてね♪」
「精々短い命を謳歌すればいいわ。万が一長くなっても、私達が止めを刺して上げる」
「はーい♪ じゃあね、血狂い虎。次会ったらちゃんと殺してあげるから♪
 ……紀霊様の身が危険だ! 孫の牙門旗を目指せ! あの方への忠を示す時は今を置いて他に無し!」

 振り返り、明は周りを死守していた紀霊隊の隙間に飛び込み声を上げた。
 即座に紀霊隊の者達は意識が切り替わる。殺されようと、傷つけられようと構わず、遠く見える孫の旗へと無理やり突っ込んで行った。
 そんな中、右往左往している袁術軍の兵の隙間を、いつの間にか明はひょこひょこと歩きながら戦場を抜けて行く。

「孫策様! っ! 御無事で、何よりです」

 周りを味方に囲まれ、ドッと疲れが押し寄せた雪蓮は剣を地面に突き刺してどうにか膝を着かずに済んだ。
 警戒を解かずにその場にて戦場を見やりながら、落ちた体力を回復していると、馬の掛けてくる音が聴こえた。味方が道を開けているという事は、雪蓮の側に寄っても不思議では無い人物。

「ボロボロだな」
「まあね。ちょっと無茶しちゃった」

 雪蓮の耳に響く声は断金の友のモノ。馬から降りた彼女は直ぐに、雪蓮を抱きしめた。

「取り戻したぞ。やっと……やっとだ。あまり心配させてくれるな。
 せっかく取り戻したというのに、あなたが居なければ私はこれからどうすればいいのよ」
「うん……ホント、ごめんね。でもこうして生きてるから。ちゃんと……これからもあなたと一緒に生きる事が出来るから」

 美しい二人の美女が抱き合う姿に、その二人がどれだけ堅い絆で結ばれているかを知っているモノ達は涙をはらりと零した。
 無言で抱き合う事幾分か後、雪蓮はボソリと冥琳の耳元で囁いた。

「紀霊はどうなったの?」
「思春が捕え、縛り上げて陣に移している。紀霊には聞く事が山ほどあるからな。蓮華様も来ているのだが、思春と共に紀霊の監視に向かったようだ」
「あー、シャオの事ね。多分だけど、敵が言った通りだと思う」
「お前の勘だけでなく事実確認はしておいた方がいい。敵の言っていた事が本当なら小蓮様に会わせるわけにはいかんから、監禁か、この場で殺すしかないが」

 すっと身体を離した二人が見つめ合うと、瞬時に、互いが王と軍師に切り替り、

「勝鬨を上げよ! 我らが孫呉の地は取り戻した! 長きに渡る袁の呪縛は解き放たれた! 今より、この孫策が王となりて長きに渡る平穏を作り出すと誓う!」

 膨大な、はち切れんばかりの声が上がった。
 涙を流すモノが多く、されども笑顔に溢れていた。
 王を讃えて、生の喜びを実感して、己が家族達の幸せを願って。
 冥琳は静かに、一人の兵に伝令を命じた。

「伝令。黄蓋、陸遜両名に深追いは無しと伝えよ。本隊が合流するまで曹操軍に協力だけはして貰うが、陸遜の判断にすべて任せる、とな」

 一仕事終えた二人は、まだ残してある仕事を終わらせる為に、笑い合いながら陣へと引き返して行った。
 そこで死を待つ異常者が、何を考えてるかなどに思考を向ける事も無いまま。




 †




 黙して語らず。
 紀霊は私や思春の問いかけに何も答える事は無い。小蓮の事を聞いても、袁術の情報を聞き出そうにも、瞼を閉じたままで何も言わない。
 拷問に掛けましょうか、との思春の提案は即座に切り捨てた。
 紀霊はそんなモノで口を割るような女では無い。きっとこの女は姉さまが来るのを待っているだけだから。
 それに、もし小蓮の言葉通りに守ってくれたというのなら、辱めを与える事などしたくは無かった。袁家と言えども、紀霊は幾分かまともだったのもある。
 しかし最後は殺すしかないだろう。
 逃がすと必ず私達の邪魔をしてくる。最悪な不穏分子の芽は早い内に摘みとっておかなければならない。小蓮を傷つける事になろうとも、不義の人と言われようと、である。
 待っていると、天幕の外に足音が二つ聞こえ、直ぐにさっと天幕の入り口が開いた。

「……いらっしゃい蓮華。よく、やってくれたわね。偉いわ。さすがは蓮華、と今は言わせて頂戴」

 声を聞いたら泣きそうになった。
 褒めてくれたその意味は、孫権としてと、蓮華としての両方に対して。私の全てを、姉さまは認めてくれていた。
 零れそうになる涙を抑え付けて、どうにか喉から声を引き出した。

「いえ、姉さまもお疲れ様です。向こうでの報告を――――」
「ふふっ。相変わらずかったいわねー。今はいいのよ。あなたと、あなたが絆を繋いだ臣下達を信頼してるわ。思春も、ありがとう」
「当然の事をしたまでです。ですが……」

 言いよどむ思春は言葉を区切って顔を歪めた。冥琳は鋭く目を光らせ、眼鏡をクイと持ち上げ、

「小蓮様の事だろう? 大方の予測は付いているが……紀霊よ、お前から話したりは……するつもりがあるか?」

 威圧し、突き刺すように声を放った。
 瞼をゆっくりと開いた紀霊は……濁り切った瞳を携えながら口の端を吊り上げた。 

「愚か者たちに説明してやる。小蓮は袁家の策略によって肥えた豚に慰み者として捧げられるはずだった。が、私と七乃様で止めた。そうなる事も考えられずに人質として差し出す事を呑んだお前達の失態だな」

 冷たい瞳は、この場にいる全員を蔑んでいた。
 私と思春は思わず歯を噛みしめた。人質として求めたお前達がそれを言うな、と言いたくても言えなかった。
 姉さまは目を細めて「それで?」と続きを促す。

「そこからは予測も着いているだろうし、知っている奴もいるはずだ。私達は小蓮と友達になり、楽しい平穏な時間を過ごしていた。それをぶち壊したのが貴様らだ」

 直ぐに目を閉じ、紀霊はそれ以上何も言う事は無いと押し黙った。
 本当かどうか、などは分かっている。小蓮があれだけ染められていた時点で、本当にあった出来事なのだ。
 そして、紀霊はきっと袁家にいいように使われていただけ。

「他には……って、あんたは頑固だから、袁術達の事を聞いても話さないんでしょうね。これ以上は無駄だし、さっさと頸を飛ばさせ――――」
「待って姉さま! 一つだけ言っておくわ紀霊。小蓮を守ってくれてありがとう」
「なっ……蓮華様!?」

 姉さまの言葉を区切って紀霊に頭を下げた。思春は急いで咎めようとしたが、やれやれと額を抑えた冥琳に手で制されたようだ。

「……吐き気がする。お前からの礼など受け取らない。妹の代わりに、お前が人質になればよかったのに」
「そう言われるのは分かってたわ。でも助けてくれた事に変わりはない。お前が袁家の人間だとしても、私はその行いに感謝を伝える」
「生真面目バカの次女らしいか。だが……私はお前だけは絶対に許さない。ありがたいと思っているなら、お前は今ここで自害しろ」
「出来ないわ。自害するならとっくにしてる。私は罪を背負って尚、家族達と平穏で幸せな世界を作りたいもの」

 瞬間、紀霊の瞳が見開かれた。怨嗟の色が濃いその眼を向けられ、私はほんの少し鼓動が跳ねた。これはきっと……自責から来る恐怖。

「ククっ、ははっ! 貴様は! 小蓮の幸せをぶち壊しておいて、その口で家族の幸せと宣うのか!
 愚かしい! 汚らわしい! 厭らしい! 貴様は袁家と同じだ! あははっ! 綺麗事も大概にしておけよ孫権!」
「貴様ぁ! また蓮華様を貶めるかっ!」
「黙れよ甘寧、ククっ! これが笑わずにいられるか! 孫権、この偽善者め! 小蓮を本当の意味で幸せに出来ると、貴様はそんな妄想を思い描いているのか!」

 偽善者、その言葉は重く私の心に圧し掛かった。
 守りたいと願ったモノを傷つけて、私は矛盾を貫こうとしているのだから当然。何か言い返そうとしたが、小蓮の泣き声が思い出され、声が詰まって言葉が出ない。

「おい孫策、貴様もコレと同じ事を言うのか?」
「……否定はしないわ。どっちが悪いなんて下らない論を交わすつもりも無いし。さっ、冥琳、そろそろこいつ殺してもいい?」

 余りに軽く、姉さまは紀霊の処遇を話し出した。
 気付かぬはずが無い。これは私に気を使っているんだ。これ以上紀霊と言葉を交わさずにすむように。妹の友を殺す責を背負う為に。
 それでいいのか、と疑問が起こる。ほっと安堵している自分が居る。嫌だ、と思った。

――もう、姉さまだけに背負わせはしない。

 小蓮の友を殺した罪を背負うのは私じゃないとダメだ。私があの子から憎しみを向けられ、それでも長い時間を掛けて解きほぐして見せなければ、私の願いは叶えられない。私は……私自身の想いすら確立出来ない。

「紀霊、話すつもりは無いんだな? それに……袁家との交渉にはお前の身柄は使えない、そうだな?」

 冥琳が聞いても紀霊の答えは肯定を促すかのように沈黙だった。何故か嬉しそうに、厭らしく笑いながら。

「……なら拷問等の辱めを与える事無く、潔く死なせてやるべきだろう」
「そ。じゃあ、此処じゃ汚れちゃうから、外へ行きましょうか。自分で歩く、わよね?」
「貴様らの手など借りない」

 縛られたまますっくと立ち上がった紀霊は何処か満足そうだった。何故、この女は今から死ぬというのに、こんなにも嬉しそうなんだろう。
 フルフルと頭を振るって疑問を切り捨て、私は姉さまに言葉を紡ぐ。

「姉さま、紀霊の処断は私にさせてください」
「ダメよ。こいつを殺すのは私の役目だもの」
「いえ、どうか私に。もう……私も責を背負う覚悟は出来てます」

 言うと、姉さまはじっと私を見やった。優しい姉では無く、心の内側を見透かすような王の瞳。
 ふっと息を吐いて、しょうがないわね、というように苦笑を一つ。

「だそうだけど? 紀霊はどっちに頸を飛ばされたいかしら?」
「……なら孫権、貴様が私の命を絶つがいい。クク、ははは。そんなに私を殺したいのか」

 何が可笑しいのか。苛立ちが胸に湧く。姉さまは哀しげに紀霊を見ていた。 
 天幕の外に出ると抜けるような蒼が広がっていた。何事かと、兵達が遠くから私達を見ている。敵の処断を見せる事も、私達の仕事なんだろう。

「ねえ、紀霊。下らない話だけど、もしあなたが先に私達の元に士官してたら、どうしたかしら?」
「……本当に下らない話だな。そんなもしもがあったなら、小蓮を人質にやった時点で見限った。もしくは、見限ったと見せかけて、戦えないように片腕か片足を落としてでも袁家内部に潜り込み、小蓮の側にずっと居ただろう。その場合結局は、美羽様と小蓮の為に貴様らを裏切っただろうがな」

 ああ、この女の事が漸く分かった。
 ただ、幼い子供を守りたいだけなのだ。後の世の平穏なんかよりも、先の世を支える次の世代が大切なだけなのだ。自分よりも子供の笑顔を守りたい、そんな優しい女なのだ。

「そっか。本当に優しい奴だったのね、あんたは」
「七乃様も美羽様だけには優しい。美羽様も親しいモノには優しい。誰もが同じだ。貴様らは余りにも我らを知らなさ過ぎた。上層部に従うしかなかったとしても、貴様らは美羽様を殺すのだろう?」
「そうね。例えそうだろうと、袁家が私達の家を掠め取ったのは変わらない。例え袁術が傀儡だとしても、この状況じゃ生かしておく事は出来ない」
「民の為に、後の世の大きな平穏の為に純粋無垢な小さき命を消すか。やはり貴様は……貴様らは……ふふ、あなたの話を聞かないようですよ! 小蓮!」

 紀霊の声が大きくなり、その瞬間に天幕の後ろから小さな影が飛び出した。
 桃色の髪を二つ輪にして括り、蒼い瞳には涙を湛え、ばっと、紀霊の前に飛び出したのは妹だった。

「シャオ!?」
「何故……小蓮様が此処に。それに私の部隊のモノは――――」
「思春の部隊はね、せっかく久しぶりに会えたんだからとびっきりの悪戯をしてやりたいんだって言ったら、内緒にしてくれたよ。私はずっと前にこの陣に着いてた。お姉さまとお姉ちゃんが、利九達を捕まえたら出ようと思って、天幕の後ろに思春の部隊のマネをして隠れてたの。だから思春でも気付かなかったでしょ?」

 驚愕。明命や亞莎は何をしている。小蓮だけは城から出すなと言っておいたのに。
 それを見透かしたかのように、小蓮は私に向けて怒りの眼差しを向けた。

「利九が内密で城から抜け出す道を教えてくれたんだよ。亞莎だって、明命だってその道は知らない。だって、万が一の時に美羽達が抜け出す為の秘密の抜け道だったんだから。それより、お姉ちゃんはそんなに利九を殺したいの? 責を背負うって何? 私から憎しみを向けられるのが責任なの? 私は……っ……殺さないでって言ったじゃない!」

 向けられる瞳はやはり怨嗟だった。紀霊が何を考えて嬉しそうにしていたのか理解出来て、悲しみと怒りが綯い交ぜになり、私の思考はぐちゃぐちゃと混ざってしまう。

 次いで、小蓮は姉さまに泣きそうな顔を向けた。

「ねえ、お姉さま。シャオはずっと、ずっと助けられてたんだよ? だから、シャオにその恩を返させて?」

 痛い沈黙だった。
 姉さまは表情を変えない。感情が表に出やすい人なのに、今この時の姉さまの感情は全く読めなかった。せっかくの再会だというのに、どうしてこんな事になってしまったのか。
 シャオは紀霊を生かしてやれと言っている。そして袁術にももう関わるな、と。出来るかどうかで言えば、袁術には逃げられたから、それも叶うだろう。後の諍いの芽を育てるのも覚悟するなら、だが。
 幾分か後、漸く、姉さまが口を開く……前に紀霊がポツリと言葉を零した。

「無理ですよ、小蓮」
「え……?」

 皆は訝しげに紀霊を見やる。冥琳だけは鋭く目を光らせたが、何も言うつもりは無いというように直ぐに目を伏せた。

「美羽様は負けました。これほど大きな大敗を喫した袁の後継者を、袁家の上層部がタダで残すわけが無いんです。それは袁紹にも、田豊さんにも、張コウさんにも、七乃様にも変えられません。殺されもせず、豚共に穢される事も無く、綺麗なままで生きていたとしても、あなたと同じ境遇に立たされるのは確実です」

 諦観の瞳を見た姉さまも私も、言っている意味を理解した。

「そ、それって……」
「七乃様に対する人質ですよ。あの方の有能さはよく知っているでしょう? 金と名声が大好きな袁家としては欲しい人材の一人です。今までは揚州を治めさせて吸い上げられたから良かったですが、南皮に帰ったなら本腰を入れて馬車馬の如く働かせるでしょう。
 そして私は敗軍の将にして失態の大本。袁家は疑り深くもあります。逃がされれば敗北の責任を取らせるとして殺されるのは確実です。頭の良い田豊さんや郭図は変えが効かないのでまだ機会を与えられるでしょうけど、武人である私は無理なんですよ」
「じゃあ……私達の軍に――――」
「言ったでしょう? あなたを信じられても、こいつらを信じる事は出来ないと。それに美羽様の為に裏切れと言われたら、私は必ず裏切ります。それを是と出来る、そう言えるのが王族なのですか? 孫策、孫権」

 話を向けられ、私は思考に潜る。
 確実に裏切るモノを内部に残す。そんな事が許されるのか。
 否、紀霊が言っている事はそれだけじゃない。
 自分達で追い詰めた袁術を助け出す為に、孫呉の力を使えるのか、とも問うているのだ。
 そんな事は出来るはずが無い。掌を返し、悪と断じたモノを助け出す為にまた犠牲を増やすなど、許されるわけが無い。
 今までの犠牲の全てを無駄にしても、叩き潰した哀れな傀儡を助けようと出来るか……否、不可能だ。私達はもう、事を起こしてしまったのだから。
 選べば平穏は作れない。私達は孫呉の地に立っていられない。ひび割れた信頼の地盤は容易に欠損し、瞬く間に崩れ去るだろう。
 つまり、どうあがいても小蓮の望みは叶えられない。
 小蓮の瞳が私達に突き刺さる後ろで、紀霊は薄く笑みを浮かべていた。昏い暗い闇が渦巻く瞳は恐ろしく、怨嗟よりももっと悍ましいモノだった。

「無理ね。それに袁術を助ける事も出来ないわ」

 姉さまも気付いていたのか、無感情な瞳で断じた。
 悲壮を漂わせていた小蓮の瞳に昏い色が揺れ始める。妹は、孫呉全てを怨み始めた。

――ああ、ダメだ。紀霊にこれ以上喋らせてはいけない。小蓮が引き返せなくなってしまう。

「大徳って呼ばれてるお姉さまなら……助けてくれると思ったのに……私の想いよりも……やっぱり皆、責任の方が大事なんだ……」

 震えながら俯いて、拳を握りしめた小蓮は一つ二つと涙を零していく。
 今の小蓮は何をするか分からない。思春に瞳を向けると、同じ事を考えていたのか、了解というように瞼を二回瞬かせた。

「クク、あは、あはは、あはははははは! さあ、私を殺せ、孫権。責を背負うのだろう? 小蓮の憎しみを受けるのだろう?」
「ダメっ! 絶対に殺させないんだから――――」
「ちょっと……黙ってなさい、小蓮」

 冷たすぎる声に、ブルリと、無意識の内に身体が震えた。姉さまから見た事も無いような圧力が放たれていた。
 疾く、小蓮は口を噤み、ゴクリと喉を鳴らしていた。
 誰もその場で動く事が出来ない。話す事も出来ず、呼吸を紡ぐ事ですら困難だった。

「あんたが人を外れたのはよく分かったわ。思春、小蓮を連れてこの場から離れなさい。蓮華も、ね。やっぱり後は私でやっておくから、休息をとっておきなさい。冥琳、二人の事は任せたわよ」
「ああ、任せろ」

 厳しい瞳は行けと無言で促している。冥琳も、一つ首を振って無駄だと合図した。
 紀霊の死に様を私達に見せるつもりが無い、そう姉さまは考えていた。

「い……や……いやだ……殺さないでっ!」

 重苦しい圧力を向けられてもどうにか言葉を紡ぎ、小蓮は叫びを上げるも、思春によって近付く事も出来ずに運ばれるだけだった。
 その声を聞いた紀霊は、先程までの昏い瞳が嘘のように、透き通った眼差しで小蓮に笑いかけた。

「さよならです、小蓮。最期に言っておきましょうか。あなたのこと、私は大好きでしたよ。どうかそのまま……あなたのあるがままで世界に抗って下さい、私の姫様」

 言葉を残し、想いを残し、紀霊は全てを諦めた。ただ笑顔で目を瞑り、自身に来る死を待っていた。




――――――と、見えただけだった。




 私が紀霊から目を切ろうとした瞬間、怪我をしている姉さまが近づくよりも速く、紀霊は駆けた。
 咄嗟の事に反応できずにいると、一人の影が私の前に立ちはだかった。
 リン、と鈴の音が鳴る。
 涼やかな音は黄泉への手向けだと、そんな事を考えていた。

「がはっ」
「利九っ! 利九――――っ!」

 急ぎ、小蓮を降ろした思春が、縄に縛られたまま迫ってきた紀霊の腹を短刀で突き刺していた。
 小蓮が近づこうとしたが、咄嗟に冥琳が割って入ってそれを抱き止め、視界を覆った。

「なんで!? なんで傍に行かせてくれないの!? お腹を刺されたんだよ!? 冥琳! 行かせて! 行かせてよぉっ!」

 必死で抗うも、身長差から抜け出せないようだった。

「クク、貴様ならこうすると、思っていたぞ、甘寧」
「やはり蓮華様が狙いか狂人め、蓮華様には指一本触れさせん」
「いや、いやいやいや、これでいいんだ。これで、なぁ?」

 にたりと笑みを向けられて肌が粟立つ。口元から零れる血が増え、それでも尚、紀霊は笑っていた。

「クク、はは、あーっはっはっは! 孫呉に呪いを! 悠久の呪いを! 乱世の果てに、孫呉に数多の絶望のあらん事を!
 小さき姫には平穏を! 我は紀霊! 輝く未来に希望溢るる命達の幸福を願うモノなり!」

 悍ましいモノに染まった瞳は昏く、声は裂りさけそうなほど苦しげだった。
 睨まれると、渦巻く瞳に吸い込まれてしまいそう。

「見るな蓮華! 傷が残る!」

 思春から離れない紀霊を引き離そうと近くに来ているはずなのに、姉さまの声が遠くから聞こえた気がした。それでも、私は思春の肩越しに見える彼女の瞳から目が離せない。
 ゴポと血の塊を吐き出し、それでも彼女は笑っていた。

「っ! さらば、だ、孫権。未来永劫、苦しめ。守りたいのに守らない、矛盾のハザマで、な。貴様の、守りたいモノは……壊してやったぞ!」

 言い切った瞬間、紀霊は自ら身体を捻り、思春の刃で己が腹を引き裂いた。

「ぐっ……はは、ははは!ふっ……くはっ、あは、あはははは! あはははははは!」
「いやっ! 利九っ! 死んだじゃやだっ! 利九っ! 利九――――!」

 ボタリと臓腑が零れ落ちても尚、紀霊は立って笑っていた。その女は誰が見ても異常なのに、小蓮は紀霊の真名を大切なモノのように愛しげに、ずっと呼んでいた。
 込み上げる吐き気と共に、先程のあの女の言葉が脳内で響き始めた。
 耐えきれず膝を着き、腹の中身を全て吐き出した。
 脳髄に刻まれるは怨嗟の声。一つ一つと増えて行くそれらは、自身が見殺しにしてきたモノ達と、孫呉の未来の為にと殺した、私達と同じような輩の弾劾の声。
 そして最後に一つ、最悪のモノが追加された。

『ねえ、シャオが裏切るなら、利九みたいに殺すの?』

 頭の中で響く声は、愛する妹からの声だった。

――紀霊をあれほど大切に思っていた小蓮が、私達を裏切らないと何故言い切れる

 これから私は妹に疑心暗鬼を向けなければならない。疑わしいなら……

 これが背負うという事、なのか? これが王というモノなのか?

 ぐるぐると回る思考は止まらない。

 どれだけ経っても紀霊の笑い声が無くなったのか分からなかった。耳の奥にこびり付いて離れなかったから。

 姉さまが何かを言っていた。私には、もうそれが聴こえなかった。

 自責が心を占め、脳髄に声が溢れかえっていた。

 これからもこうやって繰り返していくのか、姉に従うならそうなるのだと。

 そして私は、首筋にトンと衝撃を受けた。

 途切れかける意識の中に見えたのは、笑いながらその身を倒していく紀霊の怨嗟の瞳。

 聞こえたのは、愛する妹が哀しみを空に訴える泣き声だった。







 袁家は河北へと逃げ去る事となった。
 徐州は曹操が掌握し、孫策は逃げた袁術の代わりに揚州を手中に収めた。
 ただ、歓喜に溢れているはずの孫呉重鎮たちの表情は、仕事以外では暗く重い。
 助け出した一人の姫は、日輪のように明るい少女であったはずが部屋に籠ってしまった。此処では誰も友達を助けてくれないと周りを怨み、されども、家族であるから、迷惑を掛けたからと逃げ出す事もせず、人形のように毎日を過ごすようになった。いつか来る、大切な友の死亡報告に怯えながら。
 孫呉の若き王の後継者は、取りつかれたように仕事をし始める。まるで……そうしなければ壊れてしまうかに見えた。
 為政者の塗り替えによって虎は前以上に忙しく、二人とゆっくりした時間を過ごす事も出来ない。
 三人が揃ったというのに、前異常に離れてしまった様を見て、美周嬢は心悩ませる。
 徐々に蓄積されていく負担は、彼女の気付かぬ内に、ゆっくりとその身を蝕もうと脈動を始めた。

 大きな傷と不安を残し、孫呉は己が大地を取り戻した。
 されども乱世はまだまだ続く。
 数多の怨嗟を受けて尚、生き残る事が出来るのはどの王であるのか。
 それぞれの地に暮らす人々はただ願う。我らが主が平穏な世界を作り出さんことを。 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

孫呉の話決着。
こんな結末となりました。
蓮華さんは孫呉側の主人公なポジションです。彼女こそ、呉の主人公に相応しいかなと考えております。
王としての責任を簡単に捨てるようなら、今まで戦ってきた兵達はなんの為に戦ってきたのか、ってな感じのモノが蓮華さん達を苦しめてます。
美羽ちゃんと七乃さんは逃げました。利九は二人の事を明と夕ちゃんに託した感じです。
孫呉、曹操陣営もこれからハードモードでお送りします。

次は華琳様のお話です。

ではまた 
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