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褥の墓場

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2部分:第二章


第二章

「これが最後だから」
「そうか。最後か」
「叔父さん、御免」
 彼は今度は申し訳なさそうに彼に謝ってきた。
「ずっと僕の為に色々してくれたけれど何も返すことはできなくて」
「そんなことはない」
 老人は暖かい、その長い睫毛を持つ目で彼に言葉を返した。
「そんなことはない。御前はちゃんと返してくれている」
「そうかな」
「そうだ。ずっと私と共にいてくれた」
 こう言うのだった。
「それで。返してくれた」
「そんなので返したことになるのかな」
「甥だからな」
 またここで甥という言葉を出すのだった。
「その甥が側にいてくれて。何と有難かったことか」
「そんなのでお返しになったのかな」
「お返しはな。自分では気付かないこともある」
 老人は今度はこんなふうにも言うのだった。
「そして返していることもあるんだ」
「そういうものなんだ」
「そうだ。御前はそれには気付いてくれなかったな」
「そうだね。今まで気付かなかったよ」
 彼は弱々しいがそれでも優しい微笑みにその笑みを変えていた。
「今気付いたかな。じゃあこれから」
「何を書くのだ?」
「叔父さんのこと。書くよ」
 言いながらその鉛筆を動かしていく。禄に動かないその手で。
「ちょっと待ってね。書き終わったら叔父さんにあげるから」
「済まないな」
「今まで。叔父さんのことは歌にしたかな」
 ふとこのことも思う彼だった。
「それはどうだったかな」
「さてな。だが最後は私のものだな」
「うん。じゃあ今書いているから」
 右目だけで紙を見ながら必死に書いていた。白い何枚にも重ねられたシーツの上で。鉛筆を進ませてそのうえで書き続けていた。
 それが止まった時。彼はまた言った。
「終わったよ。書いたよ」
「そうか。私のことをか」
「今まで本当に有り難う」
 ここでも礼を述べる彼だった。礼を述べながら老人に紙を手渡していた。その書かれた紙を。
「本当にね。叔父さん」
 言葉はさらに弱々しいものになっていた。今にも消えそうな。
「先に行ってるから。また会おうね」
「うむ、またな」
 老人は遂に彼の言葉に対して俯いてしまった。
 しかし彼だけはずっと見続けていた。その目の中で彼は静かにシーツの上に崩れ落ちていった。鉛筆をその手に持ったままゆっくりと。
「お亡くなりになられましたね」
「はい」
 使用人に対する老人の言葉遣いがここで急に変わった。
「この方は。もうこれで」
「エリーゼ様」
 使用人がここでこの名前を出してきた。
「有り難うございます」
「いえ」
 エリーゼと女の名で呼ばれた老人はここで自分の髭に手を当てた。そうしてそれを剥がす仕草をする。すると何とその白い髭が取れてしまった。
 そこから姿を現わしたのは麗人だった。麗しい瞳を憂いの色で満たし細い整った顔は悲しみのあまりか白くなっていた。その麗人が姿を現わしたのだった。
「これで。この方が幸せに旅立つことができるなら」
「構わないのですね」
「はい」
 また使用人の言葉に対して頷くのだった。
「そうです。私はそれで満足です」
「左様ですか」
「この方が大事に思われていた人」
 それが彼の叔父だったのである。
「その方に見届けてもらって。幸せだったと思います」
「ですがエリーゼ様」
 使用人はまた麗人に声をかけてきた。
「貴女は。それで」
「いいのです」
 しかし彼女はそれをいいとするのだった。
「私はこれで。この方が幸せに旅立てるなら」
「そうなのですか。それで」
「それだけで。ではさようなら」
 麗人はその左目から涙を流しながら告げた。
「ハイネ様、これで永遠に」
 次に右目から涙を流しそのうえで彼を見るのだった。静かに微笑みそのまま事切れてしまった彼を。涙を流しながら見続けるのであった。
 ハインリヒ=ハイネはその叔父に終生庇護されていた。叔父が何かにつけ彼を助けていたからこそ詩人になれたとさえ言える。彼が病で動けなくなってからも彼を引き取り護り続けた。彼はハイネより先に死んでしまったがハイネは彼のことを終生愛し続けていたという。そして彼の最後の枕元にはエリーゼという女性が通っていた。彼女のこともまた話に残っている。その愛もまた。全ては愛により残された話である。


褥の墓場   完


                 2009・4・29
 
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