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ソードアート・オンライン リング・オブ・ハート

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49:ボクの王子様


「……もう、行っちゃうんだね」
「ああ。事件が解決した以上、ここに長居する理由はなくなったからな。……早く最前線の攻略に戻らないと」
「そう、だよね……うん」

 名残惜しそうにユミルは少しだけ俯いた。

 ユミルが目覚めた翌日の朝。
 死神事件を解決した俺達はこの五十二層を後にすべく、これまで世話になったマーブルの営む宿《ウィンキング・チェシャ》の前に立っている。
 その看板の元には、俺達の見送りにと彼女とユミルの二人が立ち、俺達の前に並んでいた。
 俺はユミルの隣の店主にも軽く会釈をする。

「マーブルさんも、今までお世話になりました」
「とんでもないわ。……むしろ、あなた達には感謝してもしたりないくらい。それに……」

 遠慮しがちに会釈を受け取ったマーブルは、小さく息を吐いた。

「ごめんなさいね。事件後の後始末まであなた達にも任せちゃう形になってしまって……」
「いえ……()()は、マーブルさんの協力無しではできませんでした」

 それを聞いたユミルは、俯かせた顔の視線を申し訳なさそうに少し泳がせていた。



 ……これは事件後。ベリーがユミルを蘇生させた後の話である。
 ベリーがユミルを遺し、その後少しして……俺の索敵スキルに複数のプレイヤー反応が現れた。その全員がこの場へと向かってきていた。それがユニコーン発見の噂を聞き付けた他層のプレイヤー達が駆け付けてきたのだと予想するのに時間はかからなかった。
 今この場にユニコーンはいないが、だからこそ今のタイミングが衆目の目に晒されるのはかなりマズい。
 彼らの目的である膨大な経験値とドロップするはずの大量のレアアイテムの山は、蘇生能力の代償だったのか、それらは皆無である。それらの怒りの矛先は……あまつさえ死神事件の犯人であるうえにユニコーンの持ち主であったことも判明したユミル以外に他ならない。この場にいた俺達もその顛末の説明を強いられ、後にユミルが目を覚ませば、ユニコーンと事件の責任を糾弾されることだろう。
 ユミルには、ようやく人を信じれるようになったのに、目が覚めてみれば次の瞬間には欲に溺れた人々の罵声を一身に浴びる……という惨状が待っていることは想像に難くない。目に余るこの展開はユミルにとって非常によろしくない。
 どうしたものか、とこの困窮とした状況に歯噛みしていると、ここでマーブル首を押さえて小さく呻きながら目覚めて……
 そして、それを見た俺の中である天啓が閃いたのだ。


「……協力といっても、私のあんな()()()で大丈夫だったのかしら」

 それに俺はグッ、と親指を立ててサムズアップする。

「完璧でしたよ。それにあとの帳尻合わせを付ける話も簡単なものでした」


 …
 ……
 ………


 俺は、目覚めるやいなやユミルの容体を第一に問うてきたマーブルを彼は大丈夫だと(なだ)めたあと、事情を説明するのももどかしく彼女の足に刺さった投擲ナイフを抜き、解毒結晶で麻痺を回復させた後に……アスナを含めた三人で、この場へと向かってくるプレイヤー達に向けて、あるひと芝居を打ったのだ。
 この場へと集まってくる集団に向けて走る俺とアスナ、それを追いかけるフードを深く被ったマーブル。そして俺とアスナは集団へと叫んだ。
 ――『死神だ』『適わない』『殺されるぞ』『逃げろ』などなど……と。
 そう。彼女には――他でもない、死神事件の犯人《死神》を演じてもらったのだ。
 そして、その効果は絶大であった。なにせ……ビーターで有名な《黒の剣士》をはじめ、血盟騎士団副団長こと《閃光》のアスナまでもが二人して大きくHPを削られ、それがたった一人の――マーブルにはアスナに投擲ピックでダメージをごくわずかに与えてカーソルを短時間イエローに染めてもらい、加えてほんの少しだけ《デモンヘイト》を使ってもらうことで――不気味なエフェクトを帯び、血のように赤黒い大鎌を持ったイエローカーソルの《死神》に追いやられているのだから。それを見た彼らの、瞬時に怯えた遁走のUターンっぷりは、思わず笑いをこらえるのが大変だった程であった。
 そしてウィークラック村の圏内へと逃げ込んだ俺達は――死神役のマーブルにはここで再び森の奥へと一旦引き返して身を隠してもらった――逃げ疲れて肩で息をしているプレイヤー達に教えたのだ。
 ――死神の正体は……黒装束の大鎌を持った()()だった、と。
 ――加えて最後のユニコーンは、皆には悪いが俺が討ち取った、と。
 因みに、当時の俺のカラーがイエローなのは……ユニコーンは実は死神の使い魔で、犯罪者の使い魔とはいえ『犯罪を犯していない使い魔を倒したことによる一時的なイエロー化』である為だ、と説明したことも付け加えておく。
 ビーターこと俺と、閃光のアスナ二人の口から発せられた、それらの証言の信憑性は彼らにとってもはや確固たるものであった。一つ返事でそれを信じてくれたプレイヤー達は徒労感を隠さずため息と共に三々五々散っていった。
 そうしてその場をひとまず収束し、ユミルを宿へ寝かせた後……間をおかず俺達は第一層《はじまりの街》へと向かった。
 俺達以外の中で、唯一事件の真相を知る人物……デイドを追う為である。
 彼を追うのは簡単だった。最後に俺が彼を吹き飛ばしたのは回廊結晶の先――その行き先はユミルの言った第一層。その後は追跡スキルで足跡を追うだけだったからだ。とはいえ、デイドと離別してから一時間と立っていないものの、ユミルの噂を彼の口から広められるのはマズい。そう焦りながらデイドを追跡したのだが……彼と再会したのは、意外な場所であった。

『……よォ、《黒の剣士》さんよ』

 デイドのしわがれた声が、()()越しに俺の耳に届く。
 彼と再会したのは……黒鉄宮の監獄エリアだったのだ。
 当初、デイドは第一層に転送された後にユミルを時間差で毒殺したことにより、変化したカーソルを《軍》に見られ連行されたと思われた。
 しかしよくよく思い出せば、殺されたユミルは当時、カーソルはイエローだったのだ。グリーンプレイヤーであるデイドがユミルを倒したところでカーソルは変色はしないはず……。現に、デイドのカーソルは牢獄にいる今もグリーンのままなのだ。なのに、なぜデイドはこのような場所に居るのかと問うと……返ってきた返事に俺達は驚愕した。
 彼は……《自首》をしていたのだ。
 今の俺みたいな軽犯罪な場合は、犯罪の度合いによって数時間から数日すれば元のグリーンに戻ることができるが、善良プレイヤーを殺害した場合は半永久的なイエロー化はまず免れ得ない。
 しかし、そんな場合に自分がイエロー化する前に、もしくはイエロープレイヤー自ら罪を告白することで入獄する《自首投獄》する場合は話が別になってくる。SAOでは、自首投獄したプレイヤーは情状面を与され、罪をある程度軽減することができるのだ。
 だがデイドが犯した罪は事実上、数ある中でも最上級の《プレイヤー殺人》とはいえ、システム的にはオールセーフのグリーンプレイヤー。入獄する必要はないはずだ。

『あるんだよ、これが。テメーも知ってんだろ、キリト? ……攻略組は内部規律も厳しい。そんな中、腕は立つとも殺人履歴のあるプレイヤーをハイそうですかと受け入れるギルドなんざ、今時ありゃしねぇよ』

 とは、デイドの弁だ。
 確かにその通りではある。《聖竜連合》のように血の気の強い場所ならともかく……攻略組を内包するギルドのほとんどは規律や風紀を重んずる所が大方を占める。そこに、例え相手がイエローだったとはいえ殺害経験のあるプレイヤーを招き入れるギルドがあるかと言われれば……デイドにとって芳しい返答は送れそうにないのが現状だった。……かつての対ラフコフとの血みどろの大抗争は例外として、プレイヤー死傷履歴のあるプレイヤーはまず門前払いされるのが今の攻略組の通例でもあった。

『グリーンだからと言って、俺が一人のプレイヤーを殺しちまったのは変わりねぇ。……だが、俺は諦めねぇ』

 その目には、それでも執念深く獲物を……目標を捉え続ける、蛇の眼。

『ここで自他共に納得するまで罪を(そそ)いだ後、俺はまた攻略組を目指す。――それだけだ』

 グリーンプレイヤーの入獄の場合、その刑期はプレイヤー任意のものとなる。しかし贖罪履歴が付けば、デイドのような場合ではギルド入団の際に殺人履歴も帳消しになる可能性があるのもまた事実だ。

『にしても……そうか。あのガキ、生きてやがったのか』

 その後、俺の口から事件の顛末を聞いたデイドは、牢獄の冷たい石畳の床にどかっとあぐらをかいた。

『それもこれも、テメーがあン時に俺を打ち負かさなけりゃァ良かったんだがな』

 するとデイドは懐から一本の薬瓶を取り出した。

『あン時、俺があのまま無事にユニコーンを狩れてたら……後でガキのディープ毒だけを解毒、それでトンズラこいてハッピーエンドだったんだがな。そうなってりゃ俺がここに居ることも、ガキが死ぬこともなかったんだ……』

 そう自嘲気味に小さく笑いながら、指先に摘まんだ瓶……レベル9の解毒薬をチラつかせながら言う。
 それを見た俺は問うた。『ならばなぜ、お前がベリーを攻撃した時……ユミルがベリーを殺されたと思って呆然としていたあの時、彼を殺そうとしたのか』と。

『……俺があの時言ったセリフ、覚えてるか? キリト』

 覚えている。確か『――ガキ、悪い事ァ言わねぇ。相棒を亡くした今、犯罪者プレイヤーとして生き続けるくらいなら……せめてもの情けだ。オレが、テメーもアレと同じ場所へ送ってやる』……だったか。

『あのセリフは、ガキに対する建前でも吐き捨てのセリフなんかでもねぇ。……これでも、俺からの本心の言葉だった。……介錯のつもりだったんだ』

 俺はその言葉を驚愕の面持ちで聞いていた。
 デイドは……俺の予想以上にユミルを言う人間を理解していた。
 唯一の友達である使い魔を亡くし、犯罪プレイヤーとして、半狂乱のまま生き続ける苦しみ……そこまでユミルの心境を理解しての介錯の刃だったのだ。

『チッ……俺としたことが余計な事を口走っちまった。オラ、用が済んだらとっとと出てけ。……だが、俺はいつか必ずテメーらと同じ舞台に立ってみせる。……必ず、必ずだ』

 ……結局のところ、彼はどこまでも不器用に愚直、だったのだろう。
 攻略組にあこがれて、攻略組を目指す。ただ、それだけのこと。
 ――デイドという男は、ただ【ソードアート・オンラインというゲームをロールプレイングする】ということに徹頭徹尾、それしか頭になかった、どこまでも攻略熱心な一プレイヤーだった。
 監獄エリアを立ち去る間際、ふと彼の牢獄を振り返ると……牢屋の中で両手槍のソードスキルの素振り練習を始めていた彼の姿を見て……俺は、そう思った。


 ………
 ……
 …


「――デイドは事件の事を誰にも話していませんでした。これで大多数のプレーヤーが目当てにしていたユニコーンは絶滅し……犯人の死神は例え探す人が出て来ても、居やしない偶像の《大男》を探し回るだけに終わるでしょう。……これで事件は永久に迷宮入りです。……ある意味、『事件解決』とはとても言えない結果になったけど……」
「いえ……いいのよ、これで……。これが、きっと一番誰も傷つかない結末だったと思うの……」
「…………デイドのヤツ……」

 事件を起こした張本人であるユミルは、隣のマーブルのエプロンの裾をキュッと指先で握る。
 そして話の折にと、この場にそよそよと風が村一帯を吹き抜け……
 その時だった。

「――――!」

 どこか思案顔で佇んでいたユミルの目がここでパチクリと見開き……
 今度は俺達の背後、この寂れた村の空き家と空き家の隙間をギロリと凝視し始めたのだ。
 その目は今では懐かしい……容疑者の頃だった彼を思わせる鋭さが宿っていた。

「誰ッ!?」

 その場所へと向かって短く叫ぶ。
 それと同時に、俺は内心「おっ、来たか」とも思っていた。……そろそろ頃合いかと思っていた頃だ。
 その家々の間の影からゆっくりと姿を現したのは――

「早いな」
「――まあナ。情報屋(ウチ)は、情報(ネタ)の鮮度と足が命なんでネ」

 俺の言葉に気軽な返事をする、いつもの茶のケーピングマントにトレードマークのおヒゲ。
 ――情報屋《(ねずみ)のアルゴ》、その人だった。

「~っ……」

 それを見て警戒した風のユミルはさっとマーブルの後ろに隠れる。

「さテ、それはさておキ。……キー坊にもバレないように隠密に、しかも物音も立てないように近付いてみたのに、どうしてオレっちの存在がバレちゃったのかナ?」

 にゅフフ、と興味深そうにユミルを値踏み見ながらアルゴが問うと、ユミルはますますマーブルの奥に引っ込む。

「…………風に、マントのはためく音。……バレバレ」
「ほーっ、そこまで聴こえるとは恐れ入ったヨ。キー坊の噂に違わぬ地獄耳っぷりだナ」

 ここでユミルが隠れながらも不愉快そうにさらにギロリとアルゴを睨む。それを彼女は「あいや恐イ恐イ」とおどけて流した。

「おっと、これは失礼したナ。……その耳効きっぷりと外見的特徴を見るニ、お前さんがユミルで間違いないナ?」
「……キリト、この失礼な人は誰?」
「失礼な人とはご挨拶ダナー! これでもオレっちは、お前さんの件の……言わば、影のMVPなんだヨ?」
「は……? 影の……?」
「ああユミル、俺が紹介するよ」

 さっきからユミルが俺に話の解説をして欲しそうだったので、俺が間に割って入る。

「もう大体察しは付いてると思うけど、こいつは鼠のアルゴ。俺のお得意先の情報屋だ。大丈夫、こんなんでも信頼できるヤツだよ」
「……キー坊も大概失礼な奴ダナ」
「……アルゴ……? その名前、どっかで……」

 ユミルは小首を傾げてなんとか思い出そうとしていたようだが、それに構わず続ける。

「実はな、死神の正体は《大男》だったというデマを広めてくれたのも、ミストユニコーンは絶滅したからもう狩るのは諦めろとプレイヤー達に拡散してくれたのもコイツだ」
「は……」

 それを聞いたユミルの動きがピタリと静止する。

「さらに言うと、お前の指輪の……形見アイテムがプネウマの花で変化する件の情報を、アインクラッド中調べ回ってくれたのもコイツだ」
「ひ……」

 さらにそれを聞いて目を丸くする。

「そして……昔から中層や下層プレイヤーに向けた、SAOのあらゆる情報を提供している《ガイドブック》を書いてるのもコイツだ」
「ふ……――へぁっ!? い、今なんて!?」

 そしてまんまるの目をそのままに、ここ一番に大きなリアクションを見せた。

「にゃハハ、気付いたようだナ」

 アルゴもここみよがしに笑う。

「ま、まさか……」
「そう……あの時、落とし穴で傷ついたルビーを救った本……《モンスター別攻略本》の著者も、コイツだよ」
「キミが……あの本を……」

 今にもぽかんと開いた口に手を当てそうなユミルに、アルゴは少しばかり自慢げに胸を張っていた。

「他にも細かい後始末の仕事をコイツは引き受けてくれている。……どうだユミル? アルゴが今回の影のMVPだっていうのも、まんざら嘘じゃないだろう?」
「う、う……」
「コイツは仮にも、かつてルビーを救ってくれた恩人なんだ。だから、もう少し見る目を変えてやってもいいんじゃないか?」
「…………う~っ……!」

 ユミルは駄々っ子のような声を出す。その口の端は、どんな表情を彼女に向けるか迷っている風にぴくぴくと震えていた。
 どうやらユミルは、アルゴをかつて使い魔を救ってくれた恩人として見るか、初対面の怪しい赤の他人として見るかを葛藤していたようだが……

「……~~っ」

 悩みながらも再びマーブルの後ろに半身を隠した。どうやら後者の結論に至ったようだった。
 それを見たアルゴはよよよ、と実にわざとらしい泣き真似をした。

「なーんダ冷たいナ~。オネーサン、悲しいナ~。……お前さん、もうオイラに寝顔も晒してくれた仲じゃナイカ」
「は、はぁ……? だっ、誰がキミみたいな怪しいヤツに寝顔なんかっ……!」
「じゃあ、ホラ……コレな~んダ?」

 アルゴはごそごそと懐から一枚の写真を取り出した。
 そこには……あらかわいい。マーブルの宿の部屋のベッドで、すやすやと眠っているユミルの寝顔がバッチリ映っているではありませんか。
 それを見たユミルの顔が、まるでライターを点火したかのようにボッと一瞬で真っ赤に染まる。
 おまけにその写真をよく見れば、その枕元付近には椅子に掛ける俺の下半身も端っこに少し写っている。……恐らく、ユミルがあれから気絶したまま眠っている間に俺がアルゴをあの部屋へと呼び寄せ……死神事件の真相を教えた後に、デマの拡散や形見変化の情報収集の依頼をしている時に、こっそりと記録結晶で撮影したのだろう。

「お前、いつの間に……」
「にゃハハハッ、ユミちゃんの言うこの『怪しいヤツ』サマが、このカワイーイ寝顔をアインクラッド中の餓えた野郎共に配布して回っちゃおうカナーっ?」
「ユミちゃっ……!? こ、こいつっ……!!」

 ユミルは羞恥の涙目でアルゴを睨むも、彼女は俺の嘆息もよそに俄然、その写真を高く掲げてにゃハハハと笑いおどけている。

「まァ? ユミちゃんが前言撤回して改心してくれるというなら、オネーサン、この写真を返してあげなくも――――」

 ――スカァァン!

「――――ハ?」

 その瞬間であった。
 突如響いた小気味良い渇いた音と共に、掲げたアルゴの手から写真が消えた。

「――おいたはダメよ、子ネズミちゃん?」

 今まで静かに事を眺めていたマーブルが、胸の下で組んでいた右手をダーツを投げたようなフォームにさせて口を開いていた。
 ふと振り返れば……背後の空き家の壁に、写真の端を捉えた投擲ピックが突き刺さっていた。
 マーブルの投げた投擲ピックが、アルゴの指先から写真を音速でかっさらっていったのだ。そう認識したと同時に、写真は耐久力を失いパンッと小さく破裂するようにポリゴンに散った。

「……出たナ~、女狐のオネーサン」

 アルゴは珍しく情報屋としての緊張を裏に滲ませた笑みをニタリと浮かべてマーブルと対峙していた。

「なんだアルゴ、お前、マーブルさんと知り合いだったのか?」
「知り合いもなにも、キー坊と同じ、オレっちお抱えのお客の一人ダヨ。……ただ、宿を営む女店主であること以外どうしても情報(ネタ)が探れナイ、謎のポーカーフェイスなんだヨ、コレが」

 それを聞いたマーブルは笑みはそのままに、さも心外そうにピックの投げた手を頬にあてた。

「あらあら、ポーカーフェイスとはご挨拶ね。これでも接客はお客様には評判なんだけれど」
「客なんて滅多に来ないクセに、どの口が評判なんて言うカ!」
「まぁ失礼しちゃう。けれど、私はあなたの売ってくれる情報にはちゃんと相応のコルを支払っていてよ。でも、こちらがあなたに情報を無料で提供する義理があって?」
「まア、それハ…………無イけどヨー! ホラ、キー坊! コレだからオレっちはこの人ニガテなんだヨ~! どれだけ話してもちっとも素性が見えて来ないんだヨ? 口固過ぎにも程があるヨ!」
「……まぁ、お前らの関係は大体わかったよ……」

 やれやれと思いながらも俺はよしよしとアルゴを宥める。
 小柄なりとも常に優位な姿勢を崩さないあのアルゴが、今は駄々をこねる子供のようだ。これは相当レアな……いや、こんなアルゴは初めて見たかもしれない。

「アルゴちゃんはそんなに私の事を知りたかったの? ……じゃあ、そんなアルゴちゃんに一つ、私の情報を教えてあげる」
「……エ?」

 ここでマーブルはチラリと隣のユミルを見下ろした後、再びアルゴに戻したその細目をスッと鋭くさせた。

「――私は、この子の《保護者》よ。……ゆえに、この子に害なすものは――なに一つとして私が許さない」

 その美貌の笑顔の裏には、底知れぬ強い意志を感じられる。
 ……確かに、これをポーカーフェイスなどと評するのは間違いであろう。
 今のマーブルは、今まで謎めいて感じられた微笑みですら隠しきれないほどの意志が感じられる《保護者》であった。
 ……ユミルを守る、という強い意志が。
 しかし、その彼女の本当の笑顔もすぐにナリを潜ませた。次に浮かんだのは、うふふと微笑むいつもの女店主の朗らかな笑顔。

「写真の記録結晶を渡しなさい。さもなければ……そうね、あなたの恥ずかしい情報も撒き散ることになるわよ?」

 ……ほう、アルゴの恥ずかしい情報とな?
 それに対しアルゴは胸を張って対抗する。

「なにをバカな……オレっちにハッタリなんてやめときなヨ! オイラ自身の情報なんか誰にも売ってナイヨ! オイラの事を知ってるのはオイラだけダ!」
「あらそう? じゃあ――」

 ここでマーブルの笑みが三割増しになる。


「――あなたの言う《情報屋のオキテ》……その第一条を、()()()()言い当ててあげてもよくてよ?」


 アルゴの《情報屋のオキテ》。俺がこれを最初に聞いたのは……もうずいぶんと昔の事か。
 たしか……アルゴが二人の忍者男にとある情報の公開を強要されていた所を救った際に、彼女がぽつりと言った言葉だったか。その時のアルゴはいつになく《鼠》らしくなく、しかも俺を後ろから抱き締めるという情報屋らしからぬ謎の行動を取っていたので今もよく覚えている。本人はそのオキテが何なのかを言わなかったが、その時俺に言ったのも、まさにその第一条とやらだった。
 それをマーブルは知っているとでも言うのか……。しかしアルゴは先ほど自分が言った通り、自分の情報を売るような馬鹿ではない。『売れる情報ならば自分のステータスですら売る』とは俺も認知している彼女の売り文句ではあるが、SAOにおいて実際に彼女の素性を知っているプレイヤーは未だ一人としていない。
 やはりただのハッタリじゃ……とアルゴの方を見てみると、

「―――――」

 と、時が止まったかのように胸を張ったポーズのまま完全に静止していた。

「……オマエ、ナンデ、知ッテ……」

 カタコトとそう言う顔色は、心なしか青い気がする。
 対してマーブルは確信得たりと、その笑顔がさらににっこりとしたものになる。

「だって、私とて同じ女ですもの。だいたい察しはつくわ。……うんうん、そうよねー。アルゴちゃんだって花も恥じらうお年頃の女の子。こんなの知られちゃ恥ずかしいわよねー?」
「ヤ、ヤメ……」

「……マーブルさん、その情報、俺に売ってくれませんか?」

「あら♪」
「キー坊ッ!?」

 この時、なぜ自分がこう口を挟んでしまったのか、自分でもよく分からない。
 ここまでアルゴが慌てふためく姿を、俺は見たことがない。ここまで彼女の核心を突く情報を得られるチャンスは恐らくもう二度と来ないであろう。それに……これを知れれば、ひょっとしたらあの時知ることが出来なかった《おヒゲの理由》の裏に隠された()()()()()を知ることが出来るかもしれない……
 ……という、知的好奇心の津波に押し負けた、とでも言っておこうか。
 突然の俺の発言に、マーブルは笑いを堪える風にニコニコしながら、あらあらと頬に手を当てている。

「これは困ったわねー……まさかよりにもよって『この世界で一番知られちゃいけない人』に知られちゃうかもしれないわねー?」
「ウ、グッ、それ以上言うナッ……」

 その心なしか青い顔からチラチラ覗くおヒゲの頬が、また心なしか紅潮しているように見えたのは気のせいだろうか。

「まぁでも? アルゴちゃんが大人しく結晶を渡してくれるというのなら、この情報は金輪際、誰にも話さないというのもやぶさかではないのだけれどね?」
「~~ッ…………ちェッ、ちェーッ!」

 ここでアルゴは渋柿を丸かじりしたような顔でやっと折れた。舌打ちをしながら再びゴソゴソと懐に手を伸ばす。

「ナンダヨッ、ほんの戯れじゃないカ! 何サ、そんなに本気にしちゃってサ!」

 ぶつくさと取り出した結晶をブンッとーブルへと投げつけた。そしてそれを涼しい顔でパシッと受け取るマーブル。

「いい子ね~、たいへんよくできました。もの分かりのいい子は好きよ、アルゴちゃん」

 おまけに、それを見届けたユミルはマーブルの後ろに隠れたまま、アルゴに向かって「べーっ」と小さな舌をチロリと出してあかんべーをしている始末だった。
 それを見たアルゴは一瞬、ハトが豆鉄砲を喰らったような……いや、ネズミがネズミ捕りの罠を喰らったような顔をしたあと、溜息と共に大きく肩を落とした。

「あーあ……なんだか気勢が削がれちゃったヨ。もうちょっと遊んでこうと思ったケド……もう頼まれた仕事をさっさと済ませてお暇させてもらうとするヨ」

 アルゴが三度目の懐を探りだし、そして出した物を俺へと差し出した。

「ホラ、頼まれてたものダヨ。それは今現状で分かる限りの分ダカラ、残りは分かり次第、追って渡すヨ」
「悪いな」

 それを受け取ると、俺は手に取ったばかりのそれをユミルへと放って渡した。

「わ、わっ!? ……なにするんだよキリトッ!?」

 一、二度取りこぼしそうになってなんとか受け取ったユミルはキツく俺を睨みながら頬を小さく膨らます。
 が、手元のソレを見ると、今度はきょとんと首を傾げた。

「なにこれ……()()()()? 中に何が書いてあるの?」
「それは俺がアルゴに頼んだ、お前の為のものだ。……けど、今は必要無い。中身は後で見てくれ」
「…………? まぁ、キリトがそう言うなら……」
「うーン、分かってたとはいえ、オレっちとのこの温度差。オネーサン的にはちょーっと傷付くナァ……」

 アルゴは、素直にその簿記をアイテムウィンドウに仕舞うユミルを見て、次になぜか俺に嫉妬の目で見上げてきた。なぜそうなる。
 しかし、以上で仕事は済んだとばかりにアルゴはこちらに背を向けて歩き出した……が、数歩進んだところでくるりと首だけユミルへと振り向いた。

「まァ、今回はこれまでだケド……また来るヨ。ユミちゃん」
「……歓迎はしないよ」

 未だにマーブルに隠れながらのジト目で答えるユミルに、アルゴはにゃハハと小さく笑った。

「それは残念。ケド、近いうちにユミちゃんの方からオレっちを求めるようになる、と予言しておくヨ。それニ……お前さんの情報(ネタ)には……大いに興味と価値があるカラネ。じゃアナ!」

 それを最後にアルゴはこの場を後にしていく。その後姿をユミルは尚も怪しそうに睨みつけていたが……

「そういえばユミル、俺達に見せたいものってなんだ?」
「え? ああ……」

 そう言って話題を出して、ユミルの意識と視線をこちらへと逸らせた。
 しかし、元よりユミルが俺達に話があるという話題は本当の事だ。
 ……あらかじめユミルは昨日の晩、真剣な顔で俺達に言っていたのだ。――別れる前になったら、見てもらいたいものがあるから待ってて、と。

「……うん。帰っちゃう前に……キリト達には、どうしても見届けて欲しいものがあったんだ」
「見届けて欲しいもの?」
「うん。――マーブル」
「ええ」

 ユミルが目配せすると彼女はこくりと頷いた。
 するとユミルはウィンドウを操作し始め……その手に、二本の武器がオブジェクト化された。
 そしてそれを見た俺はつい、少し身を固くしてしまった。
 ユミルが手に持ったのは……それは共に、死神事件で使われた凶器ともいえる――《大鎌》の二振りだったのだ。
 そびえたつ二本を左手にまとめて支えながら、ユミルは右手で操作を続ける。
 するとチリリンというシステム警告音と共に、彼の前に短い文が表記された小窓が出現する。

【 大鎌《デッド・エンド》・大鎌《スカーレット・ペイン》 を廃棄します。よろしいですか? YES/NO 】

 その警告を前に、ユミルはチラリと微笑みながら俺達を見た後――何のためらいもなく、YESボタンを押した。
 そして、炭のように漆黒の大鎌《デッド・エンド》と、渇いた血のように赤黒い大鎌《スカーレット・ペイン》は……あっけなくポリゴンに散った。
 キラキラと空に消えゆくそれを二人は、むしろ清々しくすら感じさせるほどに笑顔で見上げていた。

「…………よかったのか?」

 俺は思わず問うてしまった。
 世に忌み嫌われている大鎌ではあるが、共に相当なレア武器であったことは充分に察せた。奇特な物好きコレクターにでも売れば、巨万のコルになったはずだが……
 その証に、隣のリズベットの方から「あぁっ、なんて勿体な……げふんげふん」と、小声が聞こえた気がした。
 俺の問いに、ユミルは先ほど以上の笑顔で答えた。

「うん。だって――」

 ユミルは、隣のマーブルにそっと寄り添い……彼女もまた、温かな笑顔で見下ろして彼を受け入れる。

「――だって、ボク達はもう――――死神じゃないから」

 そう言い放った二人は俺を見る。
 ……そう。二人はもう死神などではない。もう二人は共に歩き出したのだ。そこにもう死神の大鎌など、必要でも何でもない。

「ユミル。お前は、これからどうするんだ?」

 実のところ、彼の答えはおおよそ見当がついていたが、それでもなお俺は微笑みながら重ねて問うてしまう。

「ボクは……ボクの罪はまだ、(すす)がれた訳じゃない」

 そういってマーブルの傍から出てきたユミルは自分の頭上を見上げる。そこには、未だイエローのカーソルが浮かんでいる。
 ユミル……いや《死神》は、その日に何十人ものプレイヤーを瀕死へと追いやった罪が重なりに重なっている。彼がグリーンに戻れるのはいつになるのか、それは俺ですら予想がつかない。

「このアインクラッドのどこかには、死神に傷付けられた人が大勢いる……。だからボク……贖罪の旅に出るよ」

 その顔に決心の意が込もる。

「それにボク――――強くなる。贖罪の旅に出ながら、毎日レベリングして、強くなるよ。それがルビーとベリーの意志だと思うから……!」
「その道は……容易じゃないぞ?」
「分かってる」

 愚問とは知っていたが、出してみた問いにユミルは強く答える。

「むしろキリト達も頑張ってよね? ボクが最前線に出られるまで強くなっても、まだキリト達がこのアインクラッドを攻略できないようであれば……ボクも攻略組に入ってキリト達を笑ってやるから!」
「お、言ったな? ユミルが旅を終えるのが先か、それまでに俺達が第百層までクリアするか、勝負だな」
「もうキリト君? そんな勝負みたいな言い方はやめてよー……。私たちはいつでも戦力を必要としてるから、待ってるからね、ユミル君」
「うん……待ってて」

 ひとしきり互いに少しだけクスクスと笑いあって……ユミルは隣のマーブルを見上げた。

「だからさ、マーブル……」
「分かってるわ。旅に出るのなら……私は引き止めないわ」

 即答する笑顔のマーブルであったが、その横顔は強がっている風に、寂しそうにも見えるのは……気のせいではあるまい。
 それをユミルも察したらしく、クスリと再び小さく笑う。

「ううん。ボク、旅に出るけど……それには、宿が必要不可欠なんだよね。だからマーブル……ここの宿を、ボクのホームにしていい?」
「え?」

 本当に意外な事だったらしく、マーブルの顔に珍しく、本当に「え?」という表情が強く浮かんだ。

「だから、ここをボクのホームにするの。ボクが色んな階層での、その日の贖罪と鍛錬の旅を終えて、日が沈んだら……ここに帰ってくるの。毎日。……どうかな?」
「…………これは、一本取られた、わね……」

 微笑みながら見上げてくるユミルにマーブルは困り笑いを浮かべて、人差し指で撫でた鼻先をぐすりと鳴らした。
 ……その目尻が、涙を堪えるように細かく震えている事には何も言わないでおこう。

「……ええ。歓迎するわ。――だってあなたは……この宿で唯一の、かわいい常連さんですもの……」
「へへっ……」

 マーブルは目の前のユミルを抱き寄せ、ユミルも今ではなにも躊躇うことなく小さく笑いながらそれに身を任せて腕の中に収まった。

「マーブルさん、幸せそうです……」

 シリカが誰にともなくそう呟いた。
 全くその通りだった。
 もしかしたら、俺達はこの光景を見るために事件解決を頑張っていた。……そうとさえ思えてくる。それほどまでに絵になる風景であった。

 少しの間、ユミルはマーブルにされるがままに抱かれていたが、リンゴーン、リンゴーンと中心街《ジュイン》の方角から鐘のなる音が響いて来た。朝の九時を知らせる合図だった。

「……いけない、そろそろキリト達にお別れを言わなきゃね」
「そうね、行ってきなさい」

 その鐘の音を聞いたユミルはマーブルの腕から一旦離れ、俺達の方へと……まずはリズベットの方へと歩み寄った。

「ねぇ、リズ……覚えてる? キミはボクに教えてくれたよね。……『人は一人なんかじゃ、絶対に生きていけない』って」
「……ええ」

 目の前に立ったユミルを見下ろしながら、リズベットはもちろんと言わんばかりに頷く。
 対して見上げるユミルは……どういうことか、真剣な眼差しに口元をピクピクと震わせて……まるで泣き出すのを我慢してるようで――
 その時だった。

「――ごめんっ……!」
「わぅっ!?」

 ユミルは――リズベットの背に手を回してガバッと抱き付いていた。
 突如ハグという奇襲を受けたリズベットは変な声を上げてぎょっとした顔で硬直していた。

「今ならあの言葉の意味、よく分かるっ……。ボク、あのまま一人のままだったら……絶対不幸になってた……! いつかベリーも亡くして、きっと酷い未来が待ってた……!」
「う、うんっ……」

 ユミルは一層強く抱きしめながら、涙を堪える声をリズベットの胸元から漏らす。
 しかし、その抱擁を一身に受けているリズベットの顔が、困惑と羞恥と……他のなんらかの感情に歪む。

「ありがとう、リズッ……。ボク、一人っ子だけど……きっとお姉ちゃんがいたら、こんなにあったかくて頼れる感じだったのかな…………――お姉ちゃんっ……」
「…………ぅぐっ」

 今のリズベットの表情をなんと例えたものか。
 まるで……そう、冷静に理性を働かせるか、それとも今にもこの抱き付いてくる可愛い生物を力いっぱい抱き締め返そうか……どちらに転ぶか激しく拮抗している、といったところか。
 恐らく激しい脳内決戦の末……どうやら前者が勝ったようだ。リズベットはユミルの肩に手を置いて、そっと引き離す。
 それに気づいたユミルは我に返った風にハッと彼女を見上げ、

「ごっ、ごめん! なにボク勝手にお姉ちゃんとか……何言ってんだろ……ホントごめん……」
「い、いいわよ別に……」

 少し俯きながら、紅潮した頬で申し訳なさそうに謝る。……本当になんだ、この可愛い生物は。

「それはいいとして……ユミル、あんたには見えてないかも知れないけれど……今、あたしの目の前には、()()()()
「え、出てるって……なにが?」
「あれよ、その……《ハラスメントコード》」
「…………? ……………」

 それを聞いてしばし、間をおいてユミルの顔がボッと赤くなった。

「あ、わ、ホントごめんっ! そ、そんなつもりじゃっ……」

 たぶん、その言葉に偽りはないだろう。これはオカルトではあるが、『そんなつもり』がある場合の異性接触とない場合ではハラスメントコードの差がでる……らしいのだ。そんなつもりがある場合は触れると即、システムによる強い反発力で体ごとはじき返され、無い場合は被害者側に警告メッセージが表示されるだけ……らしい。ハラスメント行為については以上の二パターンがあり、その条件は今もハッキリとしていない。……付け加えておくが、俺自身がハラスメント行為などを敢行したことはないゆえに情報として知っているだけであって、なにもその2パターンがあることを知るまでハラスメント行為という蛮行を重ねた訳ではないという事をここに断言しておく。

「で、あたしの前にあるこのウィンドウのYESを選ぶと、ユミルは監獄エリアに直行な訳だけど……」
「し、しないよねっ!? し、信じてるからねっ!?」

 涙目で懇願するように見上げはじめたユミルを、リズベットはぷっ、と小さく吹き出しながら笑った。

「分かってる、するわけないじゃない」

 そういってNOボタンを押してウィンドウを消したらしいリズベットはユミルの頭にぽむ、と手を置く。

「そうね……人は一人なんかじゃ生きていけない。本当、その通りよね……」
「…………うん。そうだね……」

 やがて撫ではじめたその手を払わず、ユミルはそっと目を伏せてされるがままになって言う。

「……旅に出るのよね? もし四十八層のリンダースに来るようなら、いつでもあたしの店に来なさい。歓迎するわ」
「うん。いつか行くよ……必ず」

 最後に二人はコツ、と互いに拳をぶつけあい……次にユミルはアスナの方を向いた。
 アスナは、私ならハグならいつでもOKだよー、とでも言わんばかりに手を広げてニコニコとユミルを待ち構えていた。
 しかしユミルはそんなアスナを苦笑して見たあと……

「……ボクは正直、出会った時からキミの事が一番苦手だったけど……今でもキミが一番苦手」

 スパッといったその言葉に、アスナはガクッと膝を崩してズッコケた。

「ど、どうしてかなっ? 参考までに、聞かせてもらえる……?」
「ボクにとってキミは……眩しすぎる」
「眩しすぎる?」

 ユミルは本当に眩しそうに少し目を細める。

「キミはいつだってボクにまっすぐ向かってきた。あんなに人を拒絶してたボクをね……。今でも完全に人を信じきれないボクにとって、キミのその姿勢はとても眩しい……」
「そんなことないよ」
「アスナ……?」

 アスナはふるふると首を振りながらも、俺ですらも明るく思える微笑みを浮かべる。

「ユミル君だって、昔は人を信じていられたんでしょう? わたし、あなたの素性が知れた最初の時から思ってたよ。ユミル君は本当は悪い人じゃないんだって」
「……まったく、ホント、キミには適わないなぁ……。たった一言で片づけられちゃうボクもボクだけど……」
「わたしは今のユミル君の方が好きだよー?」
「やめてよ」

 そう言って少しお互いに笑いあう。

「……アスナ、攻略、頑張ってよね」
「うん、ユミル君も。……最前線で、待ってるから」
「……攻略組の話、本気にしていいの?」
「もちろん! ユミル君のタクトみたいな斧捌き、すごかったもの。わたし達はいつでも戦力募集中だよー。中でも、腕の立つ火力職(アタッカー)は特にね」

 アスナはウィンクして言う。
 実際、攻略組といえどフロアボス相手にはいつも火力不足に悩んでいるのが現状だ。ユミルのような瞬間火力・総合火力共に優れるアタッカーはいつでも席が空けられている。低い防御力はフォローしてくれるタンクに任せるとして、あとはレベルと最大HP値の問題さえ解決できれば、ユミルの腕なら最前線でも余すことなく活躍できることだろう。

「お互い、するべきことがある。だから、次に会うときは笑顔で会えるように、一緒にがんばろ?」
「……うん!」

 最後に二人はぎゅっと握手を交わして、ユミルは次にシリカの方へと……

「シリ――わっ!?」

 その時、シリカの方から飛び出した何かが、ユミルの胸へとドッと衝突した。その衝撃にひるんだユミルはよたよたと後ろ足を踏む。

「ピ、ピナッ!?」

 使い魔ののフェザーリドラ、ピナがユミルへと飛びついていたのだ。
 ユミルは胸元のピナを視線を交わす。

「ピナ……ボクを、許してくれるの……? ボクは一度、キミとキミの主人を裏切ったのに……」

 ――きゅる。……きゅる!

「……そっか……そうだね……!」

 この光景を不思議に思う。ピナの言うことが分かるユミルが、ではなく、使い魔ではない一匹の小竜にここまで心慕われる一人の少年に俺は内心驚きを隠せない。

「……おいで、ピナ!」
 きゅるるぅ!

 ユミルは両手を広げてその場でくるくる回りながら、ピナはその周りを飛んだり広げた腕から肩伝いに反対の腕に駆け回ったりして戯れる。
 そしてこの場はユミルの笑い声とピナの遊ぶ声に満たされる。
 それはなんと絵になる風景だろうか。これではもうどちらがピナの主人か分からないほどだ。
 ひとしきり二人して戯れたあと、ユミルはピナを胸に深く抱きしめた。

「ピナ……」
 きゅ……

 ピナもまた、赤い目を伏せてされるままにその胸に抱かれる。
 それは、互いに強い信頼と仲直りを感じさせる触れ合いだった。
 ユミルはピナを抱いたまま、シリカの前へと歩を進めた。

「シリカもありがと。……いつぞやの決意表明どおり、ボク、こんなに変えられちゃった」
「……いいえ。ユミルさんは、まだ変わっていませんよ?」
「え?」

 ユミルはきょとんと首を傾げる。

「ユミルさんは、以前のユミルさんに戻っただけです。動物が大好きで、友達想いな以前のユミルさんに……。だから、ユミルさんが変わるのは、これからですよ」

 それをにっこりとシリカは見つめた。

「これから変わっていくんです。新しいユミルさんに。……だから、あたし、見てますから」
「あは、そういうことか……。うん、そうかもしれないね。じゃあピナも……見ててくれる?」
 きゅるぃ!

 高く鳴いて答えるピナに、二人して小さく笑う。
 そしてユミルがピナをシリカへと返そうとしたとき……

「ピナ?」

 ピナはユミルの胸元の裾を小さな前足で掴み、うー、と小さく唸った。まるで別れを惜しむかのように。
 それを見た二人は互いに目を合わせて、ぷっ、と二度目の笑いあいを交わしていた。
 その意図は俺達には分からなかったが……やれやれといった風にユミルは胸元のピナを見下ろした。

「ホント、しょうがないなぁピナは……それじゃ――」

 するとユミルは目を閉じて……

「――これで、どうかな……?」

 ――ピナの猫のように小さな額にちゅ、と音もなくキスをしたではないか。

「おぅふ」
「あら」
「あら」
「まぁ♪」

 先ほどの声は俺達が発声したものである。ちなみに順番は俺、アスナ、リズ、マーブルの順である。
 しかし、先ほどに続きなんと絵になる姿を見せてくれるものか。
 金髪碧眼の少年が幻想的な小竜にキスをするシーンなど、ファンタジー小説がゲームの中だけかと思っていた。……あぁ、今のこの世界もゲームの中であるが。
 キスを享受したピナはぴぃいいぃ~♪、と空高く舞い上がり――驚くべきことに謎のハートエフェクトをまき散らしながら――そしてシリカの肩に着地した。そのニコニコとした顔の喉からは、ごろごろと猫みたいな声が漏れていた。

「それじゃ、シリカ……ピナを大切にね」
「はい。ルビーやベリーに負けないくらい、大事にします。これからも……」

 笑い終えた二人は最後に真摯な顔でそう言いあって、握手を交わした。
 そしてユミルは最後にと、俺の方へと歩を進めた。両手を後ろに組みながら。
 ユミルは俺の前へと歩み寄り……と、

「おわっ……? ゆ、ユミル?」

 ユミルはそのまま歩を止めず、トン、と俺の胸へ額を当ててもたれかかって来た。俺は思わず肩に手を置いて受け止めてしまう。

「ね、キリト……」
「な、なんだ……?」

 その囁く声色はシリカの時から引き続き、真摯なものだった。

「――もし、ボクがまた人を信じられなくなった時……あなたは、またボクを救ってくれますか?」
「―――――」



 思わず息を止めて間をおいてしまう。
 だが、その答えは決まっている。

「――ああ、必ず助けに行く。もうお前は一人じゃない。お前が俺達を信じてくれる限り、俺達が……俺が、誰よりも真っ先に駆け付けて、お前を救ってやる」
「……うん…………信じてる」

 その「信じてる」という言葉には、この胸に乗せられた額の重みに乗せて、まっすぐ俺の心へと届く信頼の重さがあった。それを俺は改めてしっかと受け止める。
 別れの最後の景気付けに、こいつの頭でも撫でてやろうと手を伸ばすと……
 その気配を察したユミルはさっとその手から逃げるように俺の胸から離れ、照れ隠しするようにすぐにくるりと背を向けて数歩離れた。

「……さっきの言葉が嬉しかったから、キリトにはボクの秘密を教えてあげる。マーブルも知らない……とっておきの秘密」

 後ろに組んだ手はそのままに、こちらに背を向けたユミルは突然そんなことを言う。

「ねぇ、キリトは《性別逆転事故》って知ってる?」
「え? ……えっと、確か……」

 発端はSAOのデスゲームが始まってかなり初期の話になる。第一層《はじまりの街》……約五千人という全体で半分ものプレイヤーを内包する街でとある小さな騒ぎが起こった。
 内容は事故の名前から察せる通り、本来とは逆の性別がアバターに設定されているというプレイヤーの存在が世間に知れたのだ。
 性別逆転を名乗り出た該当者は、全体でも両手で数え足りるほどのごくごく少数、また性別が違ってもアバター自体は現実世界の姿とほぼ何の変わりもない点、加えて該当者全員が性別の表示される装備一覧ウィンドウを開くまでもなく充分に生活していける安全な《はじまりの街》の住民だった事が発見が遅れた理由だった。
 命に係わる程ではないものの、SAOでも稀にみる顕著なバグフィクスに当初は話題騒然となった。
 そんな時、当時から頭角を現し始めていた攻略組ギルド《血盟騎士団》の団長、ヒースクリフが珍しく……何事にも攻略以外の事には首を突っ込むことをしなかった彼が、本当に珍しくこの件に関しては以下の言及を示したのだ。
 ――恐らくナーヴギアの性別判定は脳波で決定していると思われる。ゆえに、ごくごく稀に何らかの弾みで異性と判定されるケースがどうしても出てしまうと考えられる。故に、これはバグの類ではなく偶発的な誤検出の結果と推測する。対策として、誤判定されたプレイヤーはこの世界を監視している茅場晶彦へ向けて、団結して蜂起してみる事を提案する。
 ……と。
 後に、この影響を受けた僅か数人のプレイヤーははじまりの街中心で蜂起活動を起こし……すると、いつの間にかその場にいた全員の性別が正常に戻っていて、事態は収束――後に、ナーヴギアの後継機であるアミュスフィアでもごく稀に同様の誤検出がどうしても起きてしまう事はまた別のお話――した。
 そんな、特殊であれどSAOの激動の毎日においては、ごくありふれた小さな出来事だった。

「――そんな出来事だったか。でも、なぜ突然そんなことを?」
「……もし、誤検出の修正が行われたのが、その場にいた数人だけ、だったとしたら?」
「え……?」

 ユミルは尚も俺達に背を向けて語り続ける。

「もし、その場に居なかった、修正を未だ受けていないプレイヤーがいるとしたら……?」
「お前、なに言って――」

 そこまで言って俺の言葉が凍る。
 目の前の人物。
 男であるが、綺麗な金髪碧眼。整った愛らしい顔立ち。小柄で華奢な体。誰が見ても紛うこと無き美少女。
 ……しかし、男である。

 ――――()()()()()()()

 俺はマーブルを見る。すると彼女もあんぐりと開けた口を手で隠していて、俺の視線に気づくとふるふると首を横に振った。アスナ達は言うまでもなく揃って驚愕の面持ちでユミルの背を凝視していた。

「お、お前っ……!? まさか本当に、お、女だったのかっ!?」

 つい大声になってしまった俺の問いが村をこだまする。
 そしてユミルはくるりとこちらを振り向き……

 そして、その真実を口にした。




「――――どっちだと思う?」


 ユミルは手を合わせて、ふわりとはにかむように笑った。
 とびっきりの、花が咲くかのような笑顔だった。


 眩暈(めまい)がした。
 可愛すぎて、もうなにも言えなかった。
 しかしユミルは言った。
 どっちだと思う? と。
 そんなの……
 俺は改めてユミルの姿を見る。
 つやつやの金髪は長めのボブカット。翠の目に縁どられた長い睫毛。あどけない小鼻。実に実に柔らかそうな桃の唇。まだまだ幼い顎のライン。
 しかし。
 斧を振りまわす人見知りの勝気な性格。一人称はボク。なによりアバターの性別は(male)
 しかししかし。
 相手はどう見ても美少女。可愛らしいソプラノの美声で歌う趣味まで持っている。
 いやしかししかし。
 あいつは男として扱って欲しがっていた。それに俺は見た。ユミルの絶壁の胸部を。
 いやいやしかし。
 ユミルはまだ子供である。胸が全くないのも仕方が無い気もするし……成長しても胸の無いままの女性も居るにはいるだろうし……。
 いやいやしかししかし。
 顔は美少女でも実は男という人種がいるのは、現実でも稀にあることだし……
 いやいやしかしかしかかし。
 ナーヴギアから男性と判定されたら、顔はともかく首から下は男性アバター準拠になって胸は無くなってしまうのかも……

 ……そうだ。

 このままでは、どう考えてもユミルはどちらとも取れてしまうではないか。

 …………………………。

 そう。
 そんなの……こんなの……

 ――どっちかなんて分かるわけないだろーっ!?

 と、俺達が揃って心の中で絶叫したのが分かった。
 試しにマーブルの方を見てみると、あの彼女が、両手で口に手を当てて無言の驚きを隠しきれない様を晒していた。

「ユ、ユミルッ!? あんた、実は女!? えっ!? 男だったんでしょ!?」
「さぁ?」

「し、失礼ですよリズさん! ユミルさんは女の子……ですよね!?」
「そう思う?」

「ユミル君だよね……? ユミル君、男として扱って欲しがってたんだもん。ほ、本当は男の子なんだよね……?」
「そうしたほうが都合が良かったんだけど、キリトを困らせたくて試しに言ってみたら、思いのほか愉快だね、これ。このまま秘密のままにしておくのも悪くないかも」

「そっ……」

 ――そ……そんなのアリーーーっ!?

 再び一同の心の絶叫。

「さて、以上の事を踏まえて……キリトにひとつ、ボクからのプレゼントがあります」
「えっ……!?」

 これ以上ないほど驚いている俺達の事も露知らず、ユミルは立て続けにそんなことを言う。
 よもやこれ以上の爆弾を投下する気かと身構える俺に、ユミルは再び俺の前へと歩み寄って見上げてくる。


「キリト。手、出して」
「え……こ、こうか?」

 されど、そう言われたからにはもう従うしかあるまい。
 俺は素直にユミルの前に手を出した。するとユミルも何かを握っているらしい手を俺の広げた手の上に動かし、そしてその手を開いて――

「…………?」

 その手から――――何も落ちてこなかった。

「おい、何も――――ッ!!?」

 その時だった。
 その広げた手でユミルは俺の袖をつかみ、思い切り自分の方へと引っ張ってきたのだ。
 突然のそれに思わず上半身が前のめりになる俺。
 続いて、なにを思ったのか同時につま先を伸ばして背伸びをするユミル。
 それを最後に――ユミルが俺の視界から消えた。

「――――――。」





 ――代わりに、視界が綺麗な金色一色に染まった。
 その強烈な視覚信号の次に、触覚からも強烈な信号を俺の脳は傍受していた。

 ――右頬が熱い。
 それは今にも触れている所からとろけてしまいそうな。されど、例えようもなく柔らかい……果てしなく甘美な熱さだった。
 今度は嗅覚からも訴えが来ている。

 ――とてつもなくいい匂い。
 柚子や蜜柑に似た柑橘系の匂いに混じる、バニラのように仄かな甘い香り。俺の理性をマグニチュード9の勢いでガタガタに腰砕けにする、禁断の芳香。
 そして……トドメに聴覚から。


「――本当にありがとう、キリト。―――――大好きだよ。―――――ボクを救ってくれた……ボクの、ボクだけの……王子様」


 という、耳元でそっと囁く天使のウィスパーボイス。

 ……………。

「……………」

 ふと気付いた次の瞬間には、もうユミルが先ほどのように俺の目の前に立って顔を伏せている。

「…………――――~~ッ!!?? なっ!? おまっ……!?」

 ユミルは、俺の頬へとキスしたのだと、ようやく理解した。
 俺は、ユミルに頬をキスされたのだと、ようやく理解した。
 いや、もうどっちでもいい。
 とにかく。

「おま、お前っ、なんっ、俺にっ……!?」

 言葉を言おうにも、その強烈な行為だったがゆえに呂律がまるで回らない。
 ユミルは顔を伏せたまま……次第に、肩をふるふると震わせ始めた。
 そして……

「……ぷっ…………あっはははははっ!」

 と、声高らかに笑いながら、宿の方へと走り出した。

「キリトったら、男性アバターからのキスで顔真っ赤にしてやんのーっ! あははははっ!」
「んなっ……お前っ……!?」

 俺が追いかけるよりも早く、ユミルは宿のドアを開けてこちらを振り返り、

「キリトッ」

 ユミルは何かをこちらへと放って来た。
 今にも駆け出そうとしていた俺は慌ててそれを受け取る。
 受け取ったそれは、小さな麻袋だった。
 これは何かとと問おうかと再び顔を上げると、再びそれを言う前にユミルはパチリ、と目から星が出るエフェクトが出てもおかしくないほどの完璧なウィンクを俺に送り、パタンとあっけなくドアの向こうに消えてしまった。

「……な、なんだったんだ。一体……」

 これは後で確認しようと、やれやれと振り返ると……

 ――びっきーーん。

 と凍り付いた空気が俺を迎えた。
 果てしなく冷えた視線で、女性陣が俺を睨みつけていたのだ。
 今にも泣きだしそうな、弁解を求める涙の冷たさのシリカ。
 冷ややかな視線の裏には、何故か怒りも感じる謎の冷たさを放つリズベット。
 そして、ニッコリとした顔のまま時を止めたように動かない、とびっきりの冷気を放つアスナ。
 このなかでも唯一マーブルさんは冷気を感じないニコニコとした笑顔のままだったが……あれは間違いない。これから辿るであろう俺の凄惨な末路をだた傍観する笑顔だ。


 ……この後、俺は被害者であるのも関わらず、誠心の謝罪や無理難題な弁明などを三人からひたすら求められては言葉責めを喰らい続ける全く持って理不尽な羽目を喰らうのだった。

 
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