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不思議な味

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第八章


第八章

「それで楽しく」
「皆で食べましょうぞ」
 こうしてナンカも老人の孫達も呼ばれた。夕方に老人の家に来たナンカは皆と一緒にそのうどんとそばを食べた。彼女は食べてまずこう言ったのであった。
「美味しい」
「気に入ったんだね」
「うん、こんな味だったんだ」
「いや、よくできてるよ」
 そこにはナンカの父親もいた。うどん、そばと聞いて彼も来たのである。
「この味なんだよな」
「この味でいいんですね」
「はい」
 にっこりとした笑顔でアッサムにも答えてきた。
「この味なんですよ」
「薄いよ」
「何か変な麺だね」
 老人の子供達は不満げであった。やはり日本の味が合わないのだ。
「日本人ってこんなのが美味しいっていうんだ」
「変なの」
「これが時々食べるといいんじゃよ」
 老人はこのことを孫達に対しても言うのだった。
「あっさりしていてな」
「私は気に入ったわ」
 この中ではかなり変わっているがナンカはそうなのであった。
「大きくなったらこれを作るわ。お坊さん」
「うん」
 そのうえでアッサムに対して顔を向けるのであった。彼もそれに応える。
「教えてね。おうどんとおそばの作り方」
「わかったよ。それじゃあ」
 彼もまた優しく笑って頷く。そうして後でナンカに対してその作り方を教えるのだった。彼女はそれをよく憶えた。次第に自分でも作っていってそれを食べて楽しむのだった。
「けれどね」
 しかしここでアッサムはそのうどんやそばを食べるナンカに対していつも言うのだった。
「一人で食べるより皆で食べた方がもっと美味しいよ」
「皆で」
「そうだよ。だから御馳走してあげて」
 こう彼女に教える。
「それは御願いするよ」
「ええ、わかったわ」
 彼女もその言葉に静かに頷く。そして。
 バンコクの屋台。周りは人々の賑やかで活気のいい声が聞こえる。その中での古い屋台に眼鏡をかけて色の薄いアジア系の若者が座っていた。彼の前に大きな御椀が置かれた。その御椀を置いた老婆が彼に対して言うのだった。
「はい、うどんだよ」
「まさか本当に出るなんて」
「思わなかったのかい?」
「だってさ、ここはタイだよ」
 若者は驚きを隠せない顔で老婆に言う。
「まさかうどんが出るなんてさ」
「そんなに珍しいかね」
「珍しいね」
 そう言いながらもそのうどんが入った椀を手に取る。それは確かに日本のうどんであった。
「もっと最近じゃこのバンコクにも和食の店が多いけれどね」
「だってそりゃあんた」
 老婆は笑いながらその若者に言うのだった。屈託のない笑顔であった。
「あんたみたいな日本人が多いしね」
「僕達目当てなんだ」
「日本人はお得意様だよ」
 率直な言葉だった。彼等にしてみればまさにそうなのだ。
「お得意様の好きなものを用意しておくのは商売の基本じゃないかい」
「そうだけれどね。それにしてもこのうどんって」
 食べて味わってみる。その感想は。
「本当に日本の味なんだ」
「その味にするのに苦労したんだよ」
 また笑う。さっきと同じ笑みだった。
「私の知ってるお坊さんがね。苦労して見つけたんだよ」
「お坊さん?」
 その日本人の若者はお坊さんと聞いて顔をあげた。それで老婆に問う。
「お坊さんに教えてもらったんだ」
「タイのお坊さんだよ」
 それは断る。
「戦争が終わった後にねえ。私が食べてみたいって言って見つけてくれたんだよ」
「戦争が終わった後?」
「私が子供の頃だよ」
 今度はこう言ってきた。若者もそれを聞いてその話が随分昔だとわかった。少なくとも彼が生まれる随分前のことであるのは間違いない。
「あんたのお爺ちゃんもいたかもね」
「タイに!?ああそうだよね」
 若者はそれを聞いて老婆が何を言いたいのかわかった。それで頷くのだった。
「日本軍ってここにも来ていたんだったね」
「言ったら悪いけれどあんたよりずっと凄い感じだったね」
 老婆は笑ったまま彼に話す。
「厳しくて真面目で口やかましくてね」
「日本軍ってそうだったんだ」
「そうさ。何かあるとすぐに殴ってきたしね。その分生真面目でしっかりしていたよ」
「ふうん」
「その人達が食べていたんだよ」
 そのことを正直に話すのであった。
「それをね。お坊さんが作ってくれたんだ」
「このうどんをねえ」
「最初は味がないと思ってびっくりしたよ」
 今度ははじめて食べた時のことを話すのだった。
「けれど何度か食べているうちに気に入ってね。今じゃこうして」
「商売にしているんだ」
「そういうことだよ。勿論普通のタイの麺も作れるよ」 
 それは断っておくのだった。
「けれどね。あんた達にはこれを作ることにしているんだ」
「日本人用に」
「また来るとは思わなかったよ」
 今度の言葉はまた実に意味が深いものであった。
「戦争が終わってからまたあんた達が来るなんてね。しかも感じが全然違ってね」
「そりゃ俺達戦争してないし」
 若者は軽い感じでこう言葉を返した。
「一緒になんてなれる筈がないよ」
「それもそうだね。まああそれはいいとして」
「何だい?」
「美味しいかい?」
 それを彼に尋ねてきた。
「私のうどんは。どうだい?」
「いい感じだよ」
 返事は老婆が望むものだった。
「もう一杯欲しい位だね」
「いいけれどちゃんとお金はもらうよ」
「ちぇっ、しっかりしてるな」
「タイ人を甘く見たら駄目だよ」
 老婆もかなり強かだ。このタイ人気質は彼女もしっかりと備えている。というよりはしっかりと熟成されて持っていると言っても過言ではない。
「それでももう一杯はあるからね」
「あいよ。じゃあもう一杯」
 食べ終わったところで頼む。またうどんのつゆと葱の濃厚な香りが彼を包むのであった。その香りを楽しみながら彼はまた老婆に問うのだった。
「それでね」
「何だい?」
「さっきのお坊さんの名前だけれど」
 それを彼女に問うのだった。
「何ていうんだい?」
「アッサムっていうんだよ」
 老婆はそう告げた。
「三年程前に亡くなられたけれどね」
「そうなんだ」
 ここでは少ししんみりとした。しかしそれは一瞬のことだった。
「憶えておいてね、この名前をね」
「憶えたらうどん代まけてもらえるかな」
「いや、それはないよ」
 老婆の方が一枚上手であった。やはり年の功には勝てない。
「ちぇっ、やっぱり手強いな」
「まあそれはいいとして。憶えておいてくれたら嬉しいよ」
「わかったよ。じゃあ憶えておくよ」
 若者もそれには素直に頷く。頷きながらうどんをすするのであった。
「それで喜んでくれるんならね」
 うどんは確かに日本のそれだった。遠いバンコクで六十年前にアッサムが苦労して見つけた味が残っていた。だが若者はそれを知らなかった。知らなかったがその味を美味しいと言って楽しく食べるのであった。


不思議な味   完


                 2008・2・26
 
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