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乱世の確率事象改変

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二人の姫の叶わぬ願い

 生来、孫仲謀――――蓮華は生真面目にして凡庸なタイプの人間である。
 有体に言えば普通。武の才も、智謀知略も、その心の在り方でさえそのあたりにいる程々の者達とさして変わらない。
 しかし一つ、彼女は特別なモノを持っていた。
 『孫呉の血』という受け継がれた血統。誰しもが期待を寄せ、誰しもが想いを馳せ、付き従わんと頭を垂れる……呪いにも似た宿命。生まれながらにして王というのは黄金で作られた檻に等しい。
 期待とは、責を全うせんとする者達にとっては自由を縛る鎖である。
 それを受けて尚、自由奔放に動くことの出来る彼女の姉は異質。応える才を持っているからこそ、平然と自身のままで過ごしていられる特別な人と言えよう。
 母と最も似ているのは姉で間違いない。わがままに、思うが儘、振り回して巻き込みながら人を導いていく……まさしく戦乱を駆ける王その一人。最前の先頭にて、皆を先導する英雄足るに相応しい。

 では蓮華は如何か。
 姉の存在の大きさから劣等感が刺激され、されども追い縋ろうと積み上げ、足掻き、もがき、苦しみ、血族の鎖がその身に食い込んでも、そうあれかしと願い続けて磨かれてきた王。
 彼女は既に理解している。自分は姉のようにはなれない、と。
 先に行われた劉備軍との戦で、彼女はまた一つ積み上げていた。
 黒麒麟に負けて叩きつけられた事実は、奮い立たせる事は出来ようとも、一人先頭に立って導くのは自分では無いという格たるモノ……それを再認識して、自身を支えてくれる者達がどういった存在かを本当の意味で理解した。
 気を失い、目を覚ました時にそれを実感出来たのは臣下の者達の涙から……では無く、敗走という屈辱を受けて尚、自分の無事を喜んでくれた兵士達のおかげであった。
 涙を零し、部下達と悔しさを分かち合った後、兵の前に姿を現せば、莫大な歓声によって迎えられたからこそ、その大切さに気付けた。
 王というのは、古来より受け継がれてきた在り方から、下々の者達に目が行く事は少ない。悪く言えば、ほぼ全ての高貴な血筋を持つもの達は上辺だけの心配や罪悪感を持つだけなのだ。
 だからこそ、桃香のように民の間に溶け込める王は異常。側に立つモノというのは希望の標になれる。
 白馬の王は、秋斗の小さな行いによってそれを民との間にも大きく足した。幾たびに渡る外敵からの防衛によって元よりあった民との絆を、草の根活動とも言える村長たちとの街改善の問答や、街や村々の視察によって強固に練り上げた。なればこそ、彼女は民が希望を向ける王になれた。
 負けた事によって、蓮華は民でもある兵の声を受けて、白蓮に近しく成長したと言える。絆を繋ぐとは如何な事であるのか、彼女はその身を掛けて黒麒麟に挑む事によって確立出来た。
 もう一つ、彼女は治世を継続させる王として必要なモノを持っている。
 それは生真面目な性格から来る、努力を怠らないという一点。
 その意味で彼女は白蓮に似ている。違いは生まれついての王か否か、血というカリスマがあるか無いかだけである。
 自身の為であれ、誰かの為であれ、才が無いからと折れるで無く、人の期待に応えようと己を磨き上げて行く彼女達は……臣下にとって一番信頼を置きやすい王である。
 王から臣下へ、臣下から末端へ、そうやって絆は縦に繋がれて行く。桃香のように横に広げる訳ではないが、蓮華はまさしく絆を繋ぐ王と言えよう。

 今回、蓮華はあの黒麒麟との一戦を終えてから信頼関係の深まった三人に指示を与えた。
 思春と明命には、建業に向かい籠に囚われた姫君を助け出す事を命じた。隠密部隊の指揮も全てを二人に一任している。
 亞莎には、自分の代わりに多数の兵を率いて、ギリギリまで民の欺瞞暴動を引き伸ばさせる事と、袁術軍に対して情報伝達の遅延工作を命じた。
 そして彼女自身は黒麒麟と一騎打ちした事を利用して、自らが袁術軍の目を引き付ける囮役となっていた。
 袁術軍の紀霊隊は建業にいる。そこから離れた物資管理拠点にて、袁術軍後詰部隊二万のただ中に二千の兵で合流していた。
 蓮華が仕掛けたのは仮病という単純な策。通常ならば無理やりにでも連れ出されて扱き使われるモノなのだが……袁術軍には黒麒麟の部隊によって恐怖させられた兵が多く、あんな部隊と戦いたくないと逃げ出した兵や、残った兵達も最前が決死の地獄を思い出して次の戦に怯え、噂は尾ひれがついて広まっていた為に、一騎打ちをした孫呉の姫が心病んでも仕方なし……と、すんなり仮病は成功した。

 兵曰く、徐晃隊は狂気の権化にして屍の軍。死に時の笑顔を見たか。あれは我らを一人でも多く死の国へ連れて行ける事を喜んでいるのだ。

 狂信は味方に、恐怖は敵に伝播する。練度も志も低い袁術軍の兵には理解出来るはずも無かった。
 ただ、蓮華は恐怖に支配される事無く、拠点に設置された仮設天幕の中、妹が無事に救い出される事を願いながら、先の戦の敵を思い出して感嘆のため息を零した。

――姉さまの言っていた事が分かった気がする。自分に必要な存在だと言われて前までは疑問に思っていた謎が解けた。彼の男は兵達の希望の標。充足感からの笑みは忠義の証。乱世を抜ける王とは……命や責だけを秤に乗せてみせなければなり得ないモノに非ず、か。

 向けられる信頼も、忠義も……全ては主の作る世界の為。
 徐晃隊は個人に対する想いが強く、まるで王に付き従う臣下のようであった。
 命を賭けて何かを為さんとする想いは兵の隅々まで持てるものでは無い。それほど兵の心理掌握というのは難しい。
 短い間しか見ていない蓮華の目には、徐晃という将はそれだけの影響力を持っているように見えた。
 部下の命を消費して作り出す紅き道は、互いに信を置いていなければ作れず。孫呉の精兵を容易く貫く連携連撃も、共に戦う仲間を信じられなければ為し得ない。
 ただ命を賭けるから着いて来る……というわけでは無く、一人一人に想いを行き渡らせて共有しなければ乱世を抜けるには足りない。それが蓮華には足りないモノ。

――私はただ、言われるがままに王になろうとしていなかったか。

 受動的に、ただ単に平和な世界を目指していた彼女は、自分がどういった世界を作り上げたいのか、ということに漸く思考を向け始めた。
 そうあれかし、と願われたままに進む事は悪いことでは無い。過去に実績と経験、知識や慣習といったモノは、研鑽されてきた最善の選択である。
 割かし自由な雪蓮とて、積み上げられてきたモノに従っているのだ。
 その上で、蓮華は思考を繰り返す。
 自分がしたい事は何か。自分が作りたい世界はどんなモノか。自分が命を賭けてでも成し遂げたい事はなんであるのか。
 武人ではない王であるが故に、黒麒麟のように兵を率いる事は不可能。
 しかし将を率いるのが王なのだから、末端まで行き届かせる必要が無いのも事実。将が兵にまで彼女の想いを届ければいいのだ。
 彼女には、『孫呉』の大望では無く、『蓮華』自身の想いを共有してくれる部下が必要であった。
 明命も、思春も、亞莎も……皆が自分には心から従ってくれているが、乱世を抜ける為の想いは『孫呉』という受け継がれてきた意思に拠る所が大きく、蓮華だけの願いを叶えようとしているわけでは無かった。

――私の……私だけの想いはなんなの? 姉さまは母さまの遺志を継ぎたいと思っているのは知ってる。私はどうなんだろう。

 もやもやと、やぼったい靄が掛かったような心は何かを拒絶しているかのよう。
 幾つか疑問を浮かべて、自身の答えを返し続ける。
 そこでふいと、一つだけ曖昧な解が浮かび上がる。

――ああ、私は戦をしたくないんだ。母さまや姉さまのように、天下を取ろうとは思えない。

 自分達の未来の姿。徐州を守ると言って戦っていた敵を思い出して答えを得た。
 侵略せずとも、武力に頼らずとも、平和なモノが手に入るのではないか、と。

――平和を願って戦わないで済むモノがいるのなら、今の命を必要以上に減らしたくない。

 想いの種が芽吹いた。
 自分自身だけの想いのカタチ。されども、今の姉の方針には逆らうモノ。
 ただ、姉の想いは知っている。これ以上奪われない為に天下を統一するとは言っているが、孫呉の地さえあればいいのだと。

――まだはっきりとは分からない。でもこの戦の結果で自分達の居場所を取り戻せたのなら、ゆっくり姉さま達と話してみるのもいいかもしれない。

 蓮華はその優しい善性から、守る方を選ぼうと心を傾け始める。
 何処か心に芯が通ったような感覚がして、拳をぎゅっと握った。自分を確かめるように、何度も。

「守りたい」

 口に出してみた。すっと胸に溶け込んだ。力が湧いてくる。これが自分のしたい事だ、と彼女は確信した。
 次いで湧いてくるのは感謝と懺悔の念。気付かせてくれた徐州を守るモノ達に、聞こえずとも心に留めておいた。
 ふいに思い出されたのは、舌戦の時の黒麒麟の瞳。殺せる事も出来たはずなのに逃がされた事は知っている。しかし屈辱はもう呑み込んでいた。
 痛ましい瞳を思い出して、逆に膨らむのは期待であった。
 劉備や徐晃のような大徳と言われるモノ達が、自分と同じ想いを以って戦っているかもしれないというモノ。
 そこには一寸の違和感があった。劉備はまだいい。しかし黒麒麟は……と考えると、徐晃隊を思い出して思考が翳る。

――あれではまるで部隊というよりも……一つの……

 思考を巡らせる内、思い立った内容をくだらない事だと頭を振って否定した。
 主に忠を誓わず、あれほどの部隊を作れるものか、と。常識人な彼女は彼の異質さを知らない。
 そして何よりも、姉が絶対に必要だと言っていた理由が、大徳の元でも覇の思想を持ち、いつか来る治世の為だけに力を是とする事なのだとは知らなかった。
 自身の心を確固たるモノにした彼女の耳に、突如、リンと高く小さな鈴の音が聞こえた気がした。
 蝋燭が五分の一ほど溶けた頃、悟られぬように、気取られぬように自然な動作で天幕を出る。不審げに見やる、警備とは名ばかりの監視兵に厠だと告げて歩く事幾分。
 立ち止まって夜空を見上げ、星々の数を数えているように見える彼女の後ろで……すっと、一人の兵が通り過ぎ様に言葉を零した。

「首輪が外れました」

 短い一言。たったそれだけで蓮華の心に歓喜が溢れた。
 崩れ落ちそうになる膝をどうにか奮い立たせ、零れそうになる涙をどうにか抑え付け、大きく息を一つついた。
 妹の無事、それが分かった今の彼女は何でも出来そうな気がした。もはや縛り付ける首輪は無い。本当の意味で、自分達の為の戦いが出来るのだ。
 ゆっくりと歩みを進める。向かう先は自身の天幕……では無かった。
 二千の兵と言えども、孫呉の兵は一つに纏められてはいない。陣内各所にばらけさせられ、簡単に集まる事は出来ない。
 亞莎が考え抜いたのは、如何にして囮の蓮華を無事に抜けさせるか、と同時に、袁術軍に混乱を齎せるか。
 急激な速さで成長した蓮華だけの軍師は、一つの策を捻り出した。
 この陣内にいる兵を一番の混乱に陥れるモノは何か、と考えたなら、行き着く先は一つ。
 突然、蓮華は駆けた。後ろも振り向かず、ただ一直線に陣の外へと駆け抜ける。
 遅れて甲高い、それでいて良く響く笛の音が、陣の外側で鳴り響く。
 一つ……二つ、三つ、幾つも鳴り響くその音は、袁術軍の陣内でも、蓮華の兵が待機している場所をぐるりと囲った。
 劉備軍への警戒の為に間者を増やしていた孫呉の頭脳冥琳は、シ水関で見た参列突撃戦術の対策及び流用を狙って笛の開発を極秘で進めていた。
 街での警備にも使えるというのに出していなかった理由は、次に袁術が攻めるは劉備軍と見越して被害を増やさせようと考えて、笛での簡略指示は徐晃隊の要であるのだから必ず使うと読んでいたのだ。
 それを弟子である亞莎が利用しないなどと、そんな軟な教え方を冥琳がするわけがない。
 夜に笛が鳴れば、孫呉側が持っているなどと知らない袁術軍の兵は思い出す。恐ろしい敵を、悪鬼の部隊を、無感情な絶望の存在を。
 天幕からは次々に兵が飛び出し、敵襲が来たと勘違いして慌てふためく。部隊長達は纏めるのも遅れてしまう。袁術軍にとって夜襲はトラウマとなっていた。
 さらに袁術軍には酷な事に、亞莎は学び成長していた。
 陣内のそこかしこで火が上がる。
 火計の恐ろしさ、有能さを冥琳からしっかりと学んでいる亞莎は、蓮華が逃げきれると信じて笛と同時に火を放たせるように指示していたのだ。
 外からの火は恐ろしい。しかし中からの火は……比べものにならない程恐ろしい。
 ごった返す人ごみの中、天から矢が落ちてきた。影に隠れた孫呉の兵によって無作為に放たれたその一本の矢は、混乱を助長するには十分である。
 敵襲! と大きく叫ぶのも纏まり始めた孫呉の兵達。さも、自分達は関係ないかのように振る舞いながら、出陣の為だというように出口へと脚を進めて行く。
 蓮華は赤く燃える陣内で、袁術軍の兵が行きかう中をただ駆け漸く……出口へとたどり着いた。
 警備の兵はもう居ない。いるはずも無い。
 笛によって気を引かれ、内部の火に気を取られ、混乱のるつぼにいる味方達を見て、練度の低いモノ達が逃げないわけが無い。ましてや、先の二万の先遣部隊壊滅と同じ手口であるのだから恐怖に駆られるのも当然であった。
 ほっと息を付いた蓮華は、それでも警戒を怠ることなくしばらく進む。火の手が少し遠くなった所で鈴の音を鳴らした。
 陣から四十丈ほど進んだそこに居たのは、五人の兵。小蓮を救い出してからすぐに駆けてきた思春の部下達であった。

「ご苦労。建業の城はどうなっている?」

 一言労い、一番厄介な敵がどのように動いて来るのかと尋ねた。

「呂蒙様率いる三万の軍と、甘寧様、周泰様の部隊五千を以って城を包囲しています」
「……ということは、二人は無事なのだな」

 部下が死ななかった事を知り、蓮華の心に安堵が浮かぶ。どちらかが死んでしまうかもしれないと、自分で命を下して送り出しながらも不安に思っていた。
 そのまま、蓮華は馬に跨り、自分の部隊が抜け出てくるのを待った。
 そこかしこで未だに笛の音が鳴り響いている。いつ、どこから敵が攻めて来るのか分からない不安に駆られた袁術軍はもはや攪乱され、烏合の衆と化していた。
 蓮華の瞳に昏い色が浮かぶ。
 復讐の念は根強い。燃え盛る炎は心を焦がし、沸々と湧き上がってくる激情が身を染めそうになる。
 ギシリと、拳を握りしめてそれを耐えて待つ事幾分、彼女の部下達が……逃げ惑う袁術軍の兵の間からこちらに向かってきた。

「よし、この地より引き上げ、建業の者達と合流する。孫呉の地を……取り戻す為に!」

 合流同時に、兵達から雄叫びが上がる。その言葉を待っていたと言わんばかりに。
 漸く……漸く望みが果たせるのだ。万感成就の夢を見て、随分長い間耐えてきた。それがやっと報われる。
 兵達も、蓮華も、皆の心が一つだった。
 今すぐ袁術軍の陣に攻め込んで叩き潰したいのもあったが、烏合の衆と言っても二万……さらには悪辣な袁家。それに構うよりも彼女は手堅く城を取る事を選んだ。
 袁術軍の糧食や武器の被害を甚大に出来たのも大きかった。

――袁術と張勲は姉さま達に任せる。私達はいち早くこの地を手に入れよう。

 歓喜と希望と信頼と覚悟を胸に、彼女は部隊を引き連れて闇夜の大地を進んで行った。早く妹に会いたい想いに逸りながら、部下を大いに褒めてやりたいと願いながら。

 ただ、彼女はこの時知らなかった。
 妹がどれほど心痛めているのかも、妹が敵を全く憎んでいない事も……そしてこの戦の終端に、自分の人生を左右するほどの出来事が待っている事も。



 †



 呆気ない……そう形容するには些か被害が出過ぎていた。まだ戦闘が始まったばかりだというのに。
 紀霊率いる袁術軍二万を包囲していた亞莎達は、蓮華の到着を待ってから総攻撃を仕掛けるつもりだったのだが、それよりも前に袁術軍が城門を開いて突貫してきたのだ。
 城を捨てる……袁術軍が取った判断は本隊の帰還待ちの籠城戦を選ばず、合流を選んだということ。
 門が開いた時、やられた……とは思わなかった。
 七乃と同様に、紀霊も袁術至上主義であると、孫呉の誰しもが認識していたからだ。その行動理由を忠義と取るか、それとも偏愛と取るのかは様々ではあるが。
 亞莎は冷静に軍師として紀霊の狙いを看破しようと思考を巡らせる。
 そのまま合流されては、小蓮救出の報せを聞いて反旗を翻す孫呉の本隊に被害が増えてしまうため、易々と抜けさせるというわけには行かない。
 ここで紀霊を討ち取る事が最善ではあるが、そう出来ない理由もあった。
 救出した小蓮から、内部の情報を聞くのは当然の事。小蓮にしても、家族の為なのだから秘匿すること無く喋っていた。
 説明の中でただ一点、浮上した問題が亞莎の頭を悩ませる。

「お姉さまと話をさせて欲しいの! シャオは美羽と張勲と利九に助けられた。こうして無事なのはそのおかげだから……シャオを徐州の最前線まで送って! このままじゃ殺しちゃうでしょ!?」

 助け出され合流して直ぐにそう言い放った小蓮の言は、明命にも、思春にも、亞莎にも……信じられない事実だった。
 三人とも、小蓮が昔のままの笑顔で、お転婆なままで自分達と一緒に戦う、というような予想を立てていたのだ。
 人質に求めた側が、実は守っていたなどと、信じられるはずが無い。
 張勲のやり口に何度も煮え湯を飲まされてきたのは、他ならぬ自身の師である美周嬢。大陸でも指折りの軍師が警戒に警戒を重ね、幾千もの仲間の屍を築き上げ、夜も眠れぬほど悩み、不測の事態でさえ利用して辿り着いたのが今、この時。
 それほどの相手が、どうして孫呉側に得を齎すモノを寄越そうか。

『何か狙いがあるに違いない。幼い小蓮でさえ騙して、なんと悪辣な事か。長い時間を人質という籠鳥として過ごした小蓮を、敵は捻じ曲げたのだ』

 誰もが、そう思った。自分達と同じように、孫呉の繁栄を願っているのだと信じていたから。
 小蓮の言葉は届かない。小蓮の想いは決して伝わる事は無い。それほど、七乃の事を孫呉側は警戒していた。小蓮が救われたという事実も、袁家側の出来レースであると思考が縛られる。
 全てを知っている七乃からすれば間違いなく出来レース。しかし小蓮からしてみればどうかと考えれば、主観的に見ると、狙いがどうであれ守られた事に変わりは無い。
 たった一つ、小石程度の不可測は、孫呉を率いる主の懐に潜り込み、内部に亀裂を走らせる程の鋭い一手となっていた。
 青い髪の、常にニコニコしたその女を思い出して、亞莎はゾクリと肌が泡立った。

――救い出して、漸く皆で笑って暮らせるかと思った所に罠を張っていた。恐ろしい……否、得体がしれない。
 
 初めて怖いと思った。その女が軍師のように先を見て策を仕掛けているわけでは無いと知っている亞莎は、純粋に七乃に恐怖を抱いた。

――これは私達の作り上げるような策じゃ無い。

 亞莎にはそう見えた。
 軍師の作る策とは、欲しい結果の為に綿密に練り上げられ、幾多も対応を予測して成り得るモノ。

――今回のモノは全く違う。ただ単に、嫌がらせにしか思えない。

 ハッと息を呑んだ亞莎は、自身の考えに妙に納得した表情になった。
 亞莎の判断は正しかった。
 離間計になればいいな……そんな曖昧で適当な思考から生まれた嫌がらせ。目的とする所も、目標になる地点も決められていない……敵を困らせるだけの厭らしい一手であった。
 助け出された今、小蓮がいくら喚こうと孫呉の対応は変わらない。もし助け出せていなくても、袁家側で和睦しようと提案すれば却下されるだけ。どちらにしろ手詰まりである事を、七乃や利九が分からぬはずも無い。
 これはせいぜいが、苦しくなった時に助命嘆願をする為の保険程度にしか使えない。
 考えて、亞莎はさらに戦慄する。

――袁術を殺すにしても殺さないにしても、どちらも不振の芽を育ててしまう。血族が貰った恩義を返さない不義理な輩に堕ちるわけだから、それこそ、これからの時代に諍いの芽を生み出してしまう。これはただ袁術を助ける為だけに用意された奇手……だというのに、全てを掻き回されてる……

 七乃が仕掛けたたった一手によって、孫呉側が起こす行動の全てに制限を掛けられていた。
 既に救出完了を知らせる早馬は送った後。到着次第、雪蓮は反旗を翻し、曹操軍と共に袁家討伐に向けて動き出すだろう。
 ただ、救出の遅れによって曹操軍とは二度ほどぶつかっている。
 次の早馬を飛ばしても間に合うのは確実ではあったが、救出の遅れによってただでさえ曹操軍との密盟に不穏な影を齎し、孫策軍の数が減っている事も加えて、主要人物を生かすという選択が許されるだろうか。
 雪蓮は裏切りの汚名を被る事を既に呑んでいる。
 しかし裏切りとは、それ相応の対処をしなければ周りに認められる事は無い。
 揚州内部に噂を流し、思考の誘導を行っている現在、今回ほど大きな裏切りを起こすとなれば、袁術の頸は必須。従わなければどうなるのかを、服従を渋るであろう地方豪族たちに示す事は、これからの乱世に於いて得難き利であった。
 見逃して貰える、生かして貰える……その事実が内部の腐敗を広げる要因となるのは誰の想像にも難くはない。
 ぐっと、唇を噛みしめた亞莎は、いつの間にか深く入りすぎていた思考に気付いて、急いで戦場を見やった。

――やはり私達では紀霊は止めきれないのか。

 三つに分けられた部隊による三面突撃が敵の戦略。一番激しい中央は利九自らが先頭にたって押し進んでいる。
 袁術軍の中でも虎の子とされる紀霊隊の練度は頭一つ飛び抜けており、まだまだ練度が薄い自分達の兵では抜けられる事はもはや時間の問題である。
 選択としては二つ。
 この時に利九を討ち取る為に大量の兵を犠牲にしてでも抑え込むか、わざと抜かせて追撃を仕掛けながらじりじりと数を減らさせるか。小蓮の願いを無視して紀霊を殺すか、雪蓮達の判断に任せるか、とも言える。
 利九を生け捕りにする事は、現状の将二人では不可能に近かった。救出後は討ち取るにせよ、逃がしたにせよ、そのまま建業に留まって蓮華と共に内部の掌握に動こうと決めていたから、街道や林道に生け捕りの罠を張る時間も足りていなかった。元から袁術、張勲、紀霊の三人は殺す気でいたのだから当然でもある。
 小蓮の言い分の事実確認をするならば、利九もまだ殺せない。
 故に、亞莎は……

「中央、防衛主体鶴翼陣に切り替えろ! 紀霊隊は抜かせても構わないが、無理やり突破しようと来たならば多くの矢を去り際の贈り物にしてやれ! 右左翼部隊は抜かせるな! それと……本隊への極秘伝令、末姫への懐柔により内部離間計あり」

 敵の主要人物をどうするかを雪蓮達の判断に任せ、敵兵力を減らす道を選んだ。
 軍が徐々に動きを変えていく。鶴翼に切り替えた為に、中央の突破は直ぐにでも成るだろう。大量の弓兵によって、数を減らしながら、ではあるが。
 幾分か後、三つに分かれていた軍は紀霊隊に合流しようと中央に集まり出すも、明命と思春の部隊の対応によって即座に封じ込められた。
 紀霊隊は立ち止まる事もせず、突破後に全速力で戦場を離脱していった。一度だけ、亞莎に向けてにやりと気味の悪い笑みを向けて。
 疑問が浮かぶもほっと一息、亞莎は追撃の指示を出し、そのままこの戦場の制圧を試みる。

――取り残された袁術軍の兵達はもはや烏合の衆。数でも勝ってるから、敗残兵として投降を促して……

 思考を積み上げながら馬を進めて行く中で、戦場に嫌な空気が溢れかえった。
 兵達の悲鳴と怒声が大きくなった。怒りの気が満ち満ちて行く。

「呂蒙様! 甘寧様と周泰様が敵兵に投降を促し、ある程度の兵は武器を降ろしたのですが……こ、後方から大量の毒矢が放たれました! 幸い、お二人は無事ですが、兵達が激情に駆られ抑えが効きません!」
「なっ!」

 愕然。
 降伏すると思った矢先に攻撃を仕掛けてくるとは思いもよらなかった。
 だまし討ちをされて、ただでさえ長きに渡って耐え忍び、怒りを溜めこんでいた兵達が暴走しないわけが無かった。
 最前列は阿鼻叫喚の地獄絵図。思春や明命でさえ、兵達の怒りを鎮めるには足りなかった。否、命を狙われた側だからこそ、兵達から信頼が厚いからこそ、その怒りを抑え込ませられない。
 混乱は時間を追う毎に助長され、袁術軍の兵達はただ蹂躙されていくのみである。
 紀霊隊への追撃など夢のまた夢。ここでどれかの部隊を離脱させれば、掌握はさらに時間が掛かってしまう。
 亞莎はイレギュラーな事態に頭が真っ白になっていた。
 まだまだ経験が足りず、勝ち戦の後始末に対応しきれていなかった。
 掻き混ぜられた思考は最適の解を出すにも時間が掛かる。焦りながらも出来る限り不安を見せぬように目を細め、彼女はこの事態を収拾するために馬を走らせて行った。

 結局、混乱のままに武器を振るう袁術軍の兵と、怒りのままに動く孫呉の兵の激突が収まったのは、袁術軍の敗残兵が二割以下になってからだった。
 亞莎は今回の戦の終末を深く頭に刻み込み、先の乱世に向けてまた一つ階段を上った。
 ただ……これが紀霊の狙いであったと気付いた彼女の心には、味方でさえ嫌がらせの駒として使い、何も伝えぬまま殺し合わせる異常者達への恐怖が一筋、深く……深く刻まれた。
 彼女は戦というモノの、本物の醜悪さを知った。



 †



 部屋の中は重苦しい空気に支配されていた。
 本来なら、無事を確かめあって、やっと会えた小蓮と一緒に楽しい話を沢山するはずだった。なのに何故、このような事になっているのか。
 思春も、明命も、亞莎も……沈黙したまま何かを話そうともしない。
 小蓮は昔のように元気いっぱいの様子で私の胸にでも飛び込んでくると思っていたけど、バツが悪そうに私の顔色を窺っているだけ。
 亞莎とは、互いに戦の報告をこの部屋に来るまでに終わらせてはいる。小蓮はと聞いても直接話すべきだと言われるだけだった。
 黙っていても仕方ない。此処は私から切り出すしかないんだろう。

「皆には先に言っちゃったけど……お姉ちゃん、助けてくれてありがとう」

 寂しげな笑顔だった。
 私が言うより先に、真っ直ぐに目を見て告げられた。歓喜と悲哀半々が揺らぐ瞳は、何かを訴えかけるかのよう。
 記憶にある明るい笑顔では無くて、どうにかそうしようと振る舞っているような、私の知らない小蓮の表情だった。
 胸が締め付けられる。沸き立つのは哀しみ、悔しさ、自責に後悔。
 妹を差し出したのは私達。小蓮にこんな表情をさせているのは私達……否、私。
 戦乱を抜けて行くにあたって、もしもの事を考えて、王として後継になる為に私は残れず、小蓮が首輪になるしかなかった。
 手紙の送り合いは一切遮断され、気軽に街に出る事も出来ず、城の中で過ごすだけの籠の鳥。会いに行こうにも門前払いで、里帰りも許されぬ異質な軟禁。
 私が行っておけば……と、どれだけ考えた事か。
 責めて欲しいと思っていたのに礼を言われ、妹の優しさが罪悪感を膨れ上がらせていく。

「ううん、いいの。長い事待たせて……ごめん、ね」

 ポロリと、胸の内から出たような言葉だった。謝らずにはいられなかった。
 堪らずそのまま、対面の椅子に座っている小蓮を抱きしめた。
 幾年かの月日で少しばかり成長した身体は、私が見ていない空白の期間を教えてはくれない。私には一生知る事が出来ない数年。
 たった一人、敵の真っただ中で耐え続け、どれだけの苦悩と苦痛があった事だろうか。
 ハッと気づく。もしかしたら、袁家の連中によからぬ事を受けていたのではないか。それのせいで、小蓮は変わってしまったのではないのか。聞くことも憚られるような事があったのではないか。
 心配が伝わったのか、小蓮は苦笑を一つ。

「私は何もされてないよ。何も無さすぎて……本当に平和過ぎて……人質だったのかどうかも、城から出られなかった事だけで自覚するくらいだった」

 安堵がどっと湧き出る。見上げる瞳は真実の色。影を落とす事無く、本当に何も無かったんだと伝えていた。
 ではどうして、そんな悲しげな声を紡ぐのか、私には分からなかった。

「ねぇ……お姉ちゃんは今回の戦で美羽を殺すの?」

 一瞬の空白。
 彼女の口から零れた名前に、私の頭は真っ白になった。
 小蓮が袁術の真名を呼んでいる。
 妹が敵を助けたいと言っている。
 憎い敵であるはずのあいつを……小蓮は殺さないでと言いたいんだ。
 ぐるぐると思考が回る。
 目線を動かして周りを確認すると、三人ともが苦い顔をしていた。小蓮は既に他の三人にも話しているのだ。
 亞莎は……哀しげな色を瞳に宿して首を振った。
 彼女の中では殺さないという選択肢は無い、そういうこと。軍師としての判断では、小蓮を傷つける事を選んだのだろう。

「小蓮は袁術と仲良くなった……そうなのね?」

 少し身体を離して聞くと、小蓮はコクリと頷いた。

「美羽だけじゃないよ。利九――――紀霊は私に勉強や武術を教えてくれた。張勲だって、美羽を守ろうと必死なだけで、一緒に遊んでくれたりもしたよ? ご飯だって美羽と大体一緒だったし、建業の街を良くする為に仕事を手伝ったりもしてた」

 鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。
 袁家にしては人質としての待遇があまりに良すぎる。それでは普通の客分と同じでは無いか。

「だからねお姉ちゃん。美羽達を……助けて欲しい。せめて命だけは助けてあげて欲しい」

 今にも泣き出しそうな顔で言われた。それほどまでに小蓮は仲良くなってしまったということ。
 頭の中で、張勲が嗤った気がした。袁術が悪事を企む笑顔を浮かべた気がした。紀霊に鼻で笑われた気がした。

――そうか……これが袁家のやり方かっ!

 心の中に沸き立つのは殺意と憎悪。
 奴等は私達をかき乱す為に、小蓮を懐柔し、自分達の色に染め上げていたのだ。
 橋渡しなど不可能。仲良くするなど出来るわけが無い。どれだけ……どれだけ私達の部下達を使い捨てにされてきたと思っている。
 小蓮は私達の苦労を知らない。どれだけの兵士達が命を賭けて、想いを託して来たか知らない。
 もう……私達は止まれない所まで来ているんだ。
 死んだ部下達の無念を晴らすのも王の務め。姉さまは絶対にそれを曲げない。私も……曲げる事は出来ない。
 助け出して直ぐだというのに、私は小蓮を傷つけないといけないのか。
 やっと姉妹三人で仲良く暮らせると思っていたのに、亀裂を作らなければいけないのか。

――どれだけ私達を苦しめるのだ、あの女狐めっ!

 無意識の内にギリと歯を噛みしめると。一寸だけ小蓮が怯えた。しかし直ぐに、キッと強い瞳で私を睨みつける。

「やっぱり王としての責を優先するんだ……」

 向けられる感情は怨嗟だった。私を責めていた。友を助けてくれない、『孫権』に憎しみを突き刺していた。
 グッと腹に力を込めた。
 例え妹の嘆願であろうとも、もう私の家族は血族だけではないが故に、愛しい小蓮を傷つけなければならない。

「私達に想いを託して死んでいった者達がたくさんいるのよ」
「……じゃあ美羽達に幸せになって欲しいって願ってた人たちの想いはどうなるのよ」

 思いもよらぬ反論だった。
 ふいに思い出されたのは、黒麒麟との戦だった。
 同じような輩相手を踏み潰す覚悟も無いのか、戦争をしているというのに敵がどのようなモノかも分からずに戦っていたのか……あの時は、きっとそう言っていたのだ。
 もう私はあの時から、乱世を生き抜いて、私達孫呉が平和を築いてみせようと決めている。小蓮の言葉に迷う事は無い。

「戦争とはそういうモノよ。袁術の頸を取らなければ不信を招いて、早い内の内部掌握は出来なくなる」
「たった三人を逃がすだけじゃないっ! 戦で見逃すくらい、お姉さま達なら出来るでしょ!?」
「なら聞くけど、この先、袁術達が再起して私達を攻めてきたらどうするの? 私達に心から服従する輩ばかりとは行かないのは自明の理。そういった輩を引き連れて、大きな敵と戦っている時に来られたら……また私達はこの地を失うことになるのよ?」

 言いながら自分で笑いそうになった。
 まさしく今、私達がしている事なのだ。孫呉の地をしっかりと治めるのに全力を尽くすのは間違いなくても、万が一という事も考えなければならない。それを怠ったから袁術達は追い詰められている。
 奴等の二の舞にならない為にも、反乱分子の芽を叩き潰して、先の世のしっかりとした安定を選ぶ事こそが王の務め。
 裏切りを是とするなど、王としては間違いだ。
 小蓮は言葉に詰まった。
 私の言いたい事が分かったのだろう。

「小蓮、私達は戦争をしているの。欲しい物の為に多くの命を対価に使って優しい世の中を作り出そうとしているの。それは袁術だって、張勲だって、紀霊だってある意味で同じでしょう。舞台に上がったモノは須らく死と隣合わせになる」
「だ、だからって……そうだ! お姉さまは大徳って呼ばれてるでしょ? だったら美羽達を見逃せばもっともっと名声が上がって――――」
「聞き分けなさい、小蓮」

 揺れる瞳をそのままに、どうにか助けようと言葉を繋いでいた小蓮にぴしゃりと言い放った。
 眉を寄せ、慄く唇から浅い息を吐きだし、小蓮はボロボロと涙を零し始める。

「出来ないよっ! 美羽は悪くない! だって……だってシャオは楽しかったもん! 初めて対等に遊べる友達だったんだもん! お姉さまも、お姉ちゃんも、皆だって孫呉の地ばっかりに捉われて、人をたくさん殺して、疑ってばっかりで……もっとやり方はあったでしょ!?」

 流れる涙は止まらない。
 責め立てる言葉は正論。私達は小蓮を見て無さすぎた。彼女はまだ、幼い子供だったのに。
 私だって分かっている。
 誇りなど投げ捨てれば手を取り合う事も出来たかもしれない。犬のように媚び諂えば、求めるモノを与えられるカタチで手に入れられたかもしれない。
 それでも、私達はもう選んでしまった。

「お願いだから、美羽達を助けて! シャオはこれから絶対にわがままは言わないから! 一回だけ……わがままを……許してよぉ……」

 何度も胸を叩かれ、そのまま小蓮は腕の中で泣き出してしまった。
 私は何も言わない。もう決定は覆らない。否、覆さない。
 小蓮に憎まれる事になるだろう。一生許してくれないかもしれない。でも、私は……私である為に、妹の想いを切り捨てる。
 頭を撫でて、安心させてやれる言葉を話したくとも、すっと身体を離して、

「……っ。何処、行くの?」

 部屋の入口に歩みを進めた。

「姉さまの所へ。姉さまと一緒に袁術を……討ち取りに行く」
「やめてっ! 行かないでっ!」

 明命が駆け寄ろうとした小蓮を抱き止めた。暴れる身体を上手く極めているのだろう、小蓮は私の元には辿り着けなかった。

「嫌だっ! 殺さないで! 私の大切な友達を殺さないでよぉ!」
「甘寧、部隊を出せ。袁術と張勲は逃げ出すだろうから、必ず捕える為に徐州を広く監視せよ。呂蒙と周泰は建業の守りを任せる」
「……っ、御意」
「思春!? 信じてるからね……絶対に逃がして――――」
「いい加減にしろ小蓮!」

 怒声と共に振り返る。
 涙でぐちゃぐちゃになった顔で、小蓮はしゃくりあげながらも押し黙った。

「代わりに私が人質に行けば……よかったね。辛い思いをさせたのに傷つけてばかりで……ごめんね、シャオ」

 我慢出来ずに、本心を零した。
 謝る事もしたくなかったのに。許されたい為の自己満足のようで、自分の浅はかさに吐き気がした。
 振り返ると、泣き声が張り上がった。

「怨んで、憎んで……私はもう、ただのお姉ちゃんには戻れないから」

 誰に聞こえずともぽつりと零し、私は部屋を出た。
 頬を滴る涙は冷たい。誰を想っての涙か。小蓮と、きっと自分にだろう。
 心に宿る憎しみと怒りははち切れそうだった。

――私がこの手で引導を渡してやる。地獄に堕ちろ、袁家。

 決意を胸に、思春を従えて、私は虎の戦う戦場へと向かっていく。
 ただ……いつか妹とも笑い合える楽しい暮らしを送れるようにと……叶うはずも無い願いを祈ってしまった。

 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

遅れて申し訳ありません。
雪蓮さんの判断に任されましたが、蓮華さんはヤッテやる感じです。
次は雪蓮さんの話です。

ではまた 
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