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蒼き夢の果てに

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第5章 契約
  第92話 血の盟約

 
前書き
 第92話を更新します。

 次回更新は、
 7月16日 『蒼き夢の果てに』第93話。
 タイトルは、『高貴なる魔術師』です。
 

 
 その姿は、ある種の美しさが存在して居るのかも知れない。

 五芒星の炎を反射して、てらてらと濡れたように光っているその表面。それすらも嫌悪と同時に、神々しさを感じる。
 淡い燐光に包まれたその凄み……。威圧感は神と言う無限の高みに繋がるヤツラにこそ相応しい。

 そう考えてから、しかし、少し首を横に振る俺。それは、ヤツが実際に何らかの粘液で濡れていたのかも知れない、と考え直したから。
 何故ならば、ヤツは水の神でも有りましたから……。

 刹那。猛り、狂った異形の声が周囲に轟いた。

 そう、その場に顕われて居たのは地上に降臨した異教の神。常識やこの世界の理から外れた異形。ただ、その場に居るだけで、周囲を不条理と恐怖に満ちた異界へと誘う魔物。
 人間で有る事を放棄して、彼岸の存在へと変化したバケモノ。

 その生命体を示す色は黒。闇の中に有っても尚、黒曜石の如き輝きを示す。身長はおそらく三メートル以上。人類として最も背の高かった人間よりもおそらく三十センチ以上は大きいでしょう。但し、身体付きは人間そのもの。行き成り、身長が一メートル以上伸びたにしては、頭部が有り、腕が二本、足らしき物が二本。尻尾が有る訳でもなければ、首が三本、腕が六本などと言う見た目からして人外と言う様子ではない。
 そう。脚が一対。腕が一対。首はひとつ。数が多い訳ではなく、更に位置が異常な訳でもない。完全な人型。
 貴族に相応しい容貌を覆う仮面。闇の中に光るその仮面は、おそらく翡翠の仮面。テスカトリポカを召喚する際に触媒として使用される呪具。

 その場に存在していたのは、有りとあらゆる生命……。いや、もしかすると無機物すらも恐怖するかも知れない()()が存在して居たのだ。

 再び、振り下ろされる斧に似た音が響き渡る。その瞬間、また一歩、異界……。おそらく、テスカトリポカの支配する異世界が近付き、通常の世界が侵食されて行く。
 人が営々と築き上げて来た価値観を一瞬に破壊。世界に開いたたった一か所の次元孔から這い出して来た存在に因って、世界は容易く向こう側の世界へとその相を移して仕舞うのだ。

 但し、当然のように、これは一年の終わりの夜に木こりが森で斧を振るっている訳ではない。眼の前に立つ異世界の魔物が発して居る異音。その胸に存在する扉が開き、赤い液体――体液を撒き散らせる。その度に垣間見える黒き闇が発する異世界の足音。
 先ほどまで地上を照らして居た五山の送り火の明かりが、今では、元アルマンの胸から発生する闇に因り、徐々に光が駆逐されている。

 軽く右腕を振るう元アルマン。その瞬間、限りなくゼロに近い厚さの何か――。普通に、達人クラスの剣の使い手が剣を振るった瞬間に発生させる衝撃波とは違う、光とも、闇とも付かない何かが発生。
 刹那、俺の右腕に痛みが走り、生命の源が白いシャツを赤く染めて行く。

 そう。空間を走った次元の裂け目の如き何かが過ぎ去った後、その進行方向に存在した一体の剪紙鬼兵(せんしきへい)の上半身が音を立てて後方に。そして、下半身の方は其処から余計に二歩だけ前進した後、急に何かを思い出したかのように立ち止まって……。
 その場で倒れ込み、そして、元の紙切れへと還って行ったのだ。

 実際、剪紙鬼兵では囮程度の役にしか立たないでしょうね。剪紙鬼兵とは俺のデッドコピー。彼ら自身は仙術を行使する事が出来ない、一般人に毛が生えた程度の存在。
 確かに、元は俺ですから、先ほどまで大地に寝転がって居た時のアルマンとならば互角以上に戦えたでしょうが、テスカトリポカの憑坐と成って終ったヤツと互角に戦う事は流石に……。
 今のヤツは、間違いなくテスカトリポカと言う邪神に選ばれた存在。この期に及んでようやく、アルマンは自称から、本当に神に選ばれた存在へとランクアップした、と言う事。
 但し――
 但し、現在のヤツ……身長三メートル以上の異形に、人間だった頃のアルマンの意識や記憶が存在しているとは思えませんが。

 大きく反り返り……天自体を睨むかのようにして元アルマンの魔物が咆哮を上げた。
 まるで蒼穹を……。いや、その彼方に居る何者かに挑むような巨大な、そして、一般人ならばその声を直に聞いただけで気死しかねない呪いの籠った声で。
 元アルマンの遠吠えとも、呪文の詠唱とも付かない叫びに呼応するかのように、ヤツの周囲に浮かび上がる数多の魔法円と、それに対応するかのような蒼白き光の珠。これはおそらくプラズマ球。
 しかし!

 ヤツの胸から発生する闇を切り裂き飛来する二筋の光輝。ひとつはマルコシアスが放つ炎の氷柱(つらら)。もうひとつは、ウヴァルが放つ破魔の矢。
 元アルマンの魔物の周囲の何もない空間に、その二筋の光輝が達した瞬間、空間自体に揺らぎのような物が発生。

 一瞬の攻防。しかし、次の瞬間には元アルマンの魔物が纏う分厚い精霊の護りを貫き、二筋の光輝が本体を――――
 ――貫いた。
 刹那、元アルマンの魔物が絶叫した。それは正に此の世ならざる叫び。
 左右、身体の両サイドから侵入した蒼白き光は共に肩を貫き、其処から先の部分。両腕を大地へと跳ね飛ばし、血液とも、闇とも付かない赤黒い何かを枯草に覆われた地面へと撒き散らせた。

 流石はソロモンの魔将。相手がメソアメリカ最大の邪神の憑坐とされた存在で有ったとしても、あっさりと無力化に成功するだけの実力を持って居ると言う事か。
 そう感心した後、未だ身じろぎひとつせず、俺の胸の中に存在する少女に視線を移そうとした正にその刹那。

 完全に無力化されたはずの元アルマンの魔物から、更なる魔力の増大が感じられた。それは巨大な信仰を受けし神に相応しい呪力。
 空間すら歪むような濃密な呪に覆われる元アルマン。その瞬間、黒き液体を流し続けていた傷口から、じゅくじゅくとした肉芽に等しい無数の何かが現われる。

 再び、元アルマンが吼えた。その声が響き渡ると同時に、肉芽に等しいそれが見た目にはゆっくりと。しかし、現実の時間に換算すると数秒も経ずして徐々に大きく成って行く。
 それらは生命自体を冒涜的するような動きを繰り返し、お互いに絡み合い、あるいは分岐して瞬く間に成長して行く。

 そう。骨を。血管を。筋肉を。そして、表皮を見ている目の前で次々と再生して行くのだ。

「何ちゅう回復力……」

 まるで植物の発芽の瞬間をビデオの超高速で見せられるような雰囲気で、俺の見ている目の前で完全に失ったはずの両腕を再生して仕舞う元アルマンの魔物。
 正に悪夢の中の出来事。これだけの回復力を有する存在を、果たして倒す事が出来ると言うのか――

 暗澹たる気持ちでそう考える俺。しかし、悪夢の中の出来事は、それだけで終わる事はなかった。
 そう、吸血鬼の属性を持つ神性の驚異的な回復力を見せつけてくれたそのビデオの早回しの傍らで、大地から湧き出して来るかのように立ち上がるふたつの影。そこは、確か先ほど、千切れ、跳ばされたふたつの腕が転がったはずの場所。

「分身――なのか?」

 分断され、単なる肉片と化し、そのまま朽ち果てるしかないと思われた両方の腕が自己修復を……。いや、それを自己修復と呼ぶ訳には行かない。先ほど、本体の方が為したのが自己修復ならば、今、この両方の腕が為したのは分身の作成。
 のっぺらぼう。表情もなければ、身体の凹凸のない、まるで影の如きそれが立ち上がり、一歩前に進む毎に、本体のソレに似た形を作り上げて行く。

 一歩目。踏み出した足が形成された。
 二歩目。それぞれに欠けていた片方の腕と、そして、残された足が完成。
 三歩目。首と頭の境界線が出来上がり――
 四歩目。本体と同じ、翡翠の如き光沢を持つ仮面が形成され――

 最早、笑うしか無いような状態。本体の左右に並ぶその姿は、ある種の神像と、その左右を護る陪神の如き威容。まして、一体の時に周囲に放って居た神威でさえ、一般人ならば間違いなく呆然とその場に立ち尽くし、その次の瞬間にはひれ伏して、ただただ、祈るしか方法がなく成るような、そんな威圧感を発して居たのだ。それが三体。どう考えても尋常な神経の持ち主ならば、この瞬間に絶望して、素直に尻尾を巻いて逃げ出していたでしょう。
 もっとも、確かに元々存在したヤツと比べて、新たに登場した二体はやや小振りで、その分、神威も抑えられているようには感じる。
 ……のですが、それでも一体だけの頃と比べても、既に倍ぐらいの圧力は感じて居るのですから。

 どう考えても、状況が好転しているとは言い難い状態。

 熟練の木こりが斧を振り下ろすような音が木霊する。その度にまた一歩、テスカトリポカが支配する異世界が近付き、通常の世界が遠のいて行く。元アルマンの魔物から発する闇の気配が、五山の送り火の効果を、そして、除夜の鐘の霊気を徐々に凌駕して行くのだ。

 どうやって倒す。……ウカツな攻撃は相手の数を増やすだけ。そうかと言って、強制送還を行えるとは思えない相手。アルマン自身が持つこのハルケギニア世界との絆や執着……世界の王と成る、と言う野望が有る上に、今のヤツの術への抵抗では、異界に簡単に送り返すには……。
 ただ、時間を掛ければ、掛けた分だけ、こちらが不利に成って行くのも事実。
 何故ならば、今は未だ五山の送り火や除夜の鐘が多少なりとも効果を発揮しているはずなのですが、この効果は時間に限りが有る物。
 どちらも今日と明日の境界線までしか効果を発揮しない術ですから。

 現状では、ほぼ無敵に等しい相手を倒す、……と言う、限りなく不可能に近い作戦を考え始める俺。
 しかし……。

 そっと頬に添えられる冷たい……まるで、生なき存在の如く冷たい手。
 そして、ほんの少し力を加える事で、自らの方向に俺の視線を向けさせる彼女。

 普段ならば……。特に他者の視線が有る時には、彼女は絶対にそんな直接的な事は行わない。

 かなりの違和感。しかし、現在の周囲の状況から考えると――――
 自らの腕の中の少女に視線を移す俺。ある想定を頭に浮かべながら。

 元アルマンの魔物が発生させる闇が支配する世界の中心。しかし、俺の腕の中の彼女は白く輝いて見えた。
 いや、完全な白と言う訳ではない。普段の彼女の霊力が活性化した時に感じる精霊の輝きよりも少し陰気に沈み、そして、因り妖艶に感じた。

 矢張り、夜の闇が濃い冬至の夜に、吸血姫としての因子が活性化しているのか。

 それに、今、ここに顕現しようとしている邪神は、吸血鬼としての側面も持つテスカトリポカ。ヤツの呪力が異世界よりアルマンを通じてこのハルケギニア世界にもたらされて居るのならば、その影響は俺よりも女性と言う陰の要素を持ち、更に、血の中に夜の貴族の因子を持つタバサの方に因り大きな影響が出ても不思議ではない。

「もっと強く抱きしめて……欲しい」

 とても愛おしい物に触れるようにそっと頬を撫でながら、そう囁く彼女。
 普段の彼女からは絶対に聞けない言葉。そして、彼女の繊細な指が、何か答えを発しようとした俺の口を封じて仕舞う。
 薄い闇の中、彼女の瞳が妖しく紅く輝き、俺を――俺のすべてを欲するように、熱く見つめて来る。

 もう二度と失わないように。
 もう二度と誰にも奪われないように。

 そうして……。
 細い腕を俺の首に回し、抱き着いて来るタバサ。何故か、それだけは変わらない、彼女の肌の香りが懐かしい思い出を喚起させ、身体は冷え切って居るのか、何時もの彼女に比べると幾分、冷たい。
 このまま……彼女に包まれたまま、何もかも終わったとしても悔いが残らないかも知れない。彼女に永遠に独占されたとしても、それも一興かも知れない。

 甘美な誘惑に、一瞬、心が揺れる。

「あなたの匂いが好き。……もう誰にも渡しはしない」

 耳元で囁く吐息は甘く……そして、熱い。
 重なり合った胸が彼女の鼓動を伝えて来る度に、俺自身の鼓動も早く成って行く。

 しかし……。
 記憶のフラッシュバック。何時の事なのか、何処で経験したのか思い出す事も出来ないほど、遙か遠い昔の思い出。
 そして、それは同時に、本来ならば有り得ない思い出……。

「――それは錯覚」

 深く呼吸を行い、冬至の夜の冷たい気を体内に巡らせる俺。大丈夫、現状俺自身が熱に浮かされている訳ではない。

「龍種の血は、吸血姫に取ってとても甘い物に感じる。……と、母ちゃんに言われたのを忘れたのか、義姉(ねえ)ちゃんは」

 彼女の耳元に囁くにしては、愛の囁きでもなければ、甘い睦言でもない。無味乾燥な言葉。但し、現状では必要な言葉。
 このまま状況に流されて彼女と血の伴侶と成る訳には行かない。
 まして、テスカトリポカの呪を受けて居る今の彼女は、冷静な……普段の彼女ではない。

 俺の答えを聞いた瞬間、彼女の身体を、いや、心の中を何かが走り抜けた。そして、無理矢理、俺から離れようとする彼女。
 しかし、彼女が覚醒しつつある吸血姫ならば、俺はほぼ完全覚醒した龍種。更に、仙術の修業中の駆け出しの仙人。俺が、彼女が離れる事を拒否すれば、単純な腕力勝負で彼女が俺に抗う事は難しい。

「――離して欲しい」

 先ほどは強く抱いてくれ、……と願った口から、今度は離して欲しいか。こりゃ、とんでもないレベルの我が儘なお姫様の台詞だな。
 口元に浮かべるタイプの笑みを浮かべながら、そう考える俺。それに、先ほどのタバサの台詞は普段の彼女の口調。妙に熱に浮かされたような雰囲気は失われ、普段の彼女に近い雰囲気を感じました。これならば、未だ血の渇きから来る破滅に向かってひた走るなどと言う事はないでしょう。
 ただ……。
 ただ、何時までもこのまま……。この中途半端な状態で良い訳はありません。

 それに、これから先の俺の言葉を聞いた時の彼女の顔は……。おそらく、俺には見せたくないと思いますから。
 何故、彼女がそんな妙なマネをしているのか判りませんが、もしかするとある種の願掛けのような物なのかも知れません。

 但し、その行為が願掛け。それも俺の未来に関する願掛けならば、例え俺がその理由……普段から無と言う表情のみを顔に貼り付け続けて居る理由を問うたとしても、答えてくれる事は絶対にないのですが。
 もっとも、それは今のトコロ関係のない事。少し他所に行き掛けた思考を元に戻す俺。

 そして、小さく囁くようにこう続けたのでした。

「離してやっても良いんやけど、その為にひとつ、オマエさんにはして貰いたい事が有るんやけどな」

 強く彼女を抱きしめたままで囁く言葉に相応しいのは愛の詩。そして、そのまま……。彼女の答えも聞かず、更に言葉を続ける。
 何故か懐かしい彼女の肌の香りを心の支えと為しながら……。

「俺と血の盟約を結び、血の伴侶として共に歩んで欲しい」

 まるでプロポーズに等しい内容を……。

 真面に彼女の顔を見つめて言えるような内容ではない。確かに、今までもこのハルケギニア世界の使い魔契約。死がふたりを分かつまで離れる事の出来ない契約を交わしていたけど……。夜の貴族。吸血姫に取っての血の伴侶と言う存在は、それよりも更に一歩進めた関係であるのは間違いない。
 ただ今朝の彼女の言葉。俺を屍食鬼にしたくない、と言う言葉から推測すると、彼女の方からそれを求めて来る事は有り得ないでしょう。

 但し、血の渇きと言う物が何時までも理性で押さえていられる種類の物でない事は、当然、彼女も知って居るはずなのですが。

「わたしが……」

 俺の言葉に、身体を弛緩させた彼女が、小さな声……普段以上に小さな声で囁く。俺だけに聞こえるように。

「わたしが知らない未来を見せて欲しい」

 俺にだけ聞こえたら十分な内容を……。

 その言葉の中に微かな違和感。いや、意味不明の言葉と言うべきですか。それは、わたしが知らない未来、と言う部分。それはまるで、彼女が『知って居る未来』が有るような意味にも取れるのですが……。
 しかし……。
 どんな預言者であろうとも、未来を完全に予言する事は難しい。完全な予知を行ったと思っても、その予知を行ったのが人間で有る以上、ある程度の願望が混じる可能性も有る。まして、俺の知って居る世界の時間跳躍能力者でも、ひとつの世界に同じ魂を持つ存在が同時に存在していた例はない。
 つまり、時間跳躍能力者が何らかの未来を見て元の時代に戻って来たとしても、それは飽くまでも可能性のひとつでしかないと言う事。無限に存在する平行世界のひとつを垣間見て来たのに過ぎない状況。歴史が同じ軌跡を描いて行く可能性は、神のみぞ知る、と言うレベル。
 それに、もし彼女が同じ時間をループするタイプの転生者だったとしても、彼女が自分自身の歴史に介入した瞬間、それ以後の歴史はまったく別の歴史を刻み始めるはず。
 そう、確かに最初は些細な違いだったとしても、少しずつ歴史の流れが狂い始め……。
 この場合の最初の介入は彼女が前世の記憶を持って生まれて来たと言う事。つまり、十六年前。それはほんの小さな。正に蝶の羽ばたきに等しい違いだったとしても……。

 何時かはすべてを吹き飛ばす嵐と成り、彼女の知って居る歴史をまったく違う歴史へと書き換えて仕舞うはず。

 そう考えると……。彼女が生まれてからの時間の経過から考えると、どう考えても彼女の知って居る歴史とやらが今、彼女自身の行動の役に立って居るとは思えません。
 それが証拠に、彼女が持って居る知識では、母親も、そして、父親が死する歴史も書き換える事が出来なかったのです。それに、俺に刻まれた聖痕や使い魔のルーンに関しても彼女は知らない、もしくは覚えていないような雰囲気でしたから……。
 おそらく、彼女が知って居る歴史の流れと言うのは、今、俺と彼女が経験している歴史の流れとは違う物と成って居る可能性の方が高いでしょう。

 ただ、可能性としては……。

 其処まで考えて、しかし、少し首を振って新しく浮かんだ仮説を否定する俺。何故なら、その仮説は有り得ない事に気付きましたから。
 もし、俺の腕の中の少女が未来から転生して来た存在だったとして、彼女が変えようとしている歴史が、そもそもその歴史を変える事が出来ない世界の物、……と言う事は有り得ませんから。
 まして、歴史への介入が不可能なら、前世の記憶を持つ事自体が不可能だと思います。

 その前世の自分と言うのが、更に前世の記憶を持っていない限りは。
 それも、まったく同じ流れで、同じ行動を繰り返して、同じ失敗を続ける歴史を永遠と繰り返し続ける……。
 流石にそれは、脆弱な人間の精神では耐えられないでしょう。

 ならば答えはひとつ。

「必ず、と言う答えは用意出来ない」

 流石に万能の存在でない以上、この部分は確約出来ない。それでも、

「約束は守る。この答えでは不満かな?」

 彼女の言う自らが知らない歴史とやらが、俺に関わる物……俺があっさりと人生から退場したと言う歴史の改竄ならば、以前、彼女と約束した『簡単に彼女の前から消えるような事はしない』……と言う約束を果たせば、彼女の知らない未来を見せる事は可能でしょう。
 但し、そのタバサの前世で同じ時間を過ごした()が、同じような約束を交わしていない可能性は……。
 いや、そいつが()ならば、求められれば約束を交わしたでしょうが、求められなければ、自ら申し出て約束を交わす事など有りませんか。

 楽な生き方を模索して、易きに流れ易い俺ならば、いばら道。困難な道のりを選ばなければならなくなる『約束』を自ら望んで交わす訳は有りませんから……。

 微かに……。本当に微かな首の動きを左の首筋に感じる。
 その瞬間――

 右の脇腹と、左の首筋に走る裂傷。これは間違いなく返りの風。右肩越しに戦場を顧みると、其処には――
 元アルマンの魔物の本体に、頭部を掴んだまま持ち上げられた俺の分身の変わり果てた姿が。
 手にしていた刀は失い、もがくように伸ばされた手は空しく宙を掴む。そして、その身体からはすべての水分が失われ、骨と皮だけの姿に……。このルルド村の吸血鬼事件の被害者たちと同じ姿へと変えられた自らの分身が存在していた。
 何回見ても、自分自身が死ぬ瞬間の場面は気持ちの良い物ではない。せめてもの救いは、その一瞬後には、剪紙鬼兵は元の紙切れに戻ってくれる事ぐらいか。

 しかし――
 後方に意識を向けた瞬間、僅かに緩めた縛めから解放される彼女。
 そして、再び正面に視線を戻した瞬間――

 普段とは違う、紅い色に彩られた真剣な瞳と視線が交わった。

 少女が小さく……、何時もと同じように動いたか、動かなかったのか判らないぐらいの微かな動きで首肯く。
 そしてそのまま、僅かに瞳を閉じ……。

 首筋に彼女の吐息を感じた。いや、それだけではない。首筋に走る返りの風に因り受けた裂傷の辺りに何か柔らかな温かい――
 その瞬間、思わず吐息が漏れ出て仕舞う。
 其処は自身が触れても何も感じない辺り。しかし、彼女の舌が微妙に上下する度に、そして、彼女のくちびるを感じる度に何か……甘美さを伴う何かを感じる。

 何と言うか、もうこのままダメに成って仕舞いそうな時間。長いようで有り、短いような重ね有った時間の後、ゆっくりと身体を離して行く彼女。
 離れ難いような香りを残して……。
 しかし、これで終わりではない。

 俺の瞳を覗き込み、少し迷うかのような気を発する彼女。彼女の容貌を構成する重要なパーツを取り外したその顔は、普段以上に少女を幼く感じさせた。
 ただ、それも一瞬。普段と比べると不自然に伸び、並びの悪く成った白い歯で色素の薄いくちびるを噛み切る彼女。その噛み切られた傷口から鮮やかな紅い玉が浮かび、俺の血と混ざり合う。
 俺の血が鮮やかな鮮血なら、彼女の血も同じ色彩。その鮮やかな色彩に飾られた彼女の薄いくちびるが、普段以上に妖艶に感じられた。

「受け入れて欲しい。わたしの力、わたしの想いを……」

 俺の頬に手を当て、一瞬、酷く優しげな……記憶の中にだけ存在する彼女と重なる少女の如き瞳……普段の怜悧な、と表現すべき瞳ではない今まで見せた事のない瞳で俺を見つめる彼女。普段よりも少し冷たい指先が、妙に心地良い。
 しかし、それも一瞬。次の瞬間には瞳を閉じ――
 自然な形で彼女のくちびるが俺のソレへと重ねられる。今までも何度か経験した事が有る柔らかい感触。
 そして感じる血液の味。

 しかし!
 しかし、その次の瞬間、今までの契約のくちづけとは違う異質な何かを感じる俺。

 今までの契約のくちづけは、軽くくちびるとくちびるが触れ合う程度の物。しかし、今回の血の盟約に関するくちづけは……。

 躊躇いがちに侵入して来たソレは俺の舌に触れると、まるで俺を誘うかのように軽く左右に動かし……。
 それは甘美な、そして、普段の彼女から考えられないような大胆な行動。
 自らのそれを絡め、導き、軽く吸い、そして……。

 いや、それはおそらく俺が同時に侵入して来た液体を吐き出さないようにする為の行為。
 血液を呑み込むと言うのは、色々な理由から問題が有る行為ですから。
 特に同じ人間の血液の場合は精神的な禁忌にも繋がり、更に、人に因っては強い嘔吐感をもよおす物と成る場合も有る。

 お互いのくちびるを通し、口腔を通過。そして、其処から身体の中に染みわたって行く何か。いや、そんな生易しい物じゃない。荒々しい、身体中に何か別の力が溢れて来るような感覚。本来なら消化器から吸収されなければならないはずの物が、何故か体内に侵入すると同時に影響を及ぼし始める。

 心臓が跳ね上がる。俺と彼女の霊力に呼応するかのように、周囲に存在する小さき精霊たちが活性化し、闇に包まれつつあった世界を強烈な光で満たして行く。
 この時に成って初めて、返りの風により傷付き、ずっと鮮血を流し続けて居たはずの傷口がすべて回復している事に気付いた。

 そして――――



 今度こそ本当に、離れ難い香りを残して俺の腕の中から解放され、立ち上がる彼女。
 そして、脚を伸ばし、未だ巨木を背に未だ座り続ける俺に対して、その華奢な右手を差し出して来る。
 表情も、そして彼女が発して居る雰囲気も普段の彼女のまま。更に、先ほどまでは確かに紅く輝いていた瞳も、普段の彼女を表現する蒼へと戻って居た。

 但し、普段よりは多少上気した頬が、彼女の心の在り様と体調を示して居るように感じられた。

 成るほど。これは、俺との間に血の盟約が結ばれ、不足気味だった陽の気の補充が出来るようになったと言う事なのでしょう。まして、これは俺に取っても悪影響を及ぼす物では有りませんから。
 陽と陰は相反する物では有りません。女性である彼女が作り出した陰の気を俺が受け取る。それも理に適った行いと成りますから。

 ただ……。

「それで、俺はオマエの事を何と呼べば良いのかな」

 今まで通りタバサ、と呼ぶべきなのか。それとも、微かな記憶の中に残る名前……。おそらく、前世で彼女の事を呼んで居た呼び名の方なのか。
 差し出された右手を掴み、しかし、そんな物を必要としないかのような軽やかな動きで立ち上がりながら、そう問い掛ける俺。
 それに、呼び掛ける名前と言う物は重要です。特に彼女の場合、もしかすると真名に関係して来るかも知れない名前ですから。

 一瞬の空白。その空白の間、静謐な……。ただ静謐なだけの瞳が俺を見据える。
 これは、……おそらく迷い。

 そして、

「あなたに呼んで貰った名前は、わたしに取って一番大切な名前」

 彼女にしては曖昧な答え。この答えでは、俺が彼女を呼ぶ名前ならば、どのような名前であろうとも受け入れる、……と言う風に聞こえるのですが。
 そう考え、次の問いを発しようとする俺。しかし、その考えが言葉に成るよりも早く、

「シャルロット以外の名前なら」

 ……と伝えて来た。
 これは……。

 タバサの本名はシャルロット。シャルロット・エレーヌ・オルレアン。現オルレアン家当主にして、次代のガリアの王ルイのお妃。つまり、シャルロットと言う名前には、貴族としての未来が待って居ると言う事。確かに、タバサが貴族としての義務を果たすのが面倒で貴族の名前を欲して居ない訳ではないのでしょうが、それよりも自由な生活を望んでいるのは事実です。
 それに……。
 それにタバサに取っては、自らの妹……。あの夢の世界で二度出会った少女が、何故かシャルロットと言う名前に拘りを見せて居た事に引っ掛かりを感じて居るのかも知れません。

 何故ならば、あの時の少女は、何故か俺がシャルロットと呼び掛けた時にのみ反応して居ましたから。
 もしかすると、あの少女もシャルロットと言う名前で育てられたのかも知れませんが。
 タバサの控え……いや、オルレアン家の姫にして、最後に残ったオルレアン家の当主の替え玉として使用する為に、何モノかの手に因って。

 もっとも、それは今、アレコレと考えても意味のない事ですか。

「それなら、しばらくの間はタバサと呼ばせて貰うな」

 そう伝えながら、少し前かがみになり、

「それで良いな――――」

 本当に小さな声で彼女の耳に囁く。彼女だけが聞こえたら十分な音量で。
 誰の物とも知れない記憶。前世の俺だとも言えるし、それ以外の何者かの経験を何処かで追体験した可能性も否定出来ない。そんな曖昧な、ただ記憶の片隅にだけ存在する、長い蒼髪を持つ少女の名前を彼女の耳元で告げたのでした。

 
 

 
後書き
 この『蒼き夢の果て』内のタバサが笑顔を主人公に見せないのは、今回書いた内容通り、一種の願掛けです。
 それと、もうひとつ。大きな理由が有りますが……。

 まぁ、兵は詭道。切り札は最後まで取って置く、……と言うタイプの策士だったと言う事ですよ、この物語内のタバサさんは。
 ちなみに同じタイプのキャラの湖の乙女は、まったく違う理由です。

 ……この後書き、とんでもないレベルのネタバレを含んでいるような気もしますが。
 更に、この辺りが、タバサの心理描写を入れられない理由だったりしますが……。

 尚、タバサが綾波系無機質不思議ちゃんのフリをしている理由は、飽くまでもこの『蒼き夢の果てに』内の事であり、原作のタバサとの関連性はゼロです。

 それでは次回タイトルは、『高貴なる魔術師』です。

 追記。……と言うかネタバレ。
 物語内の七月に主人公が、キュルケが着替える際にタバサの部屋から追い出された時に、他の女生徒たちが彼の前にあられもない姿で現われた、と言う記述を行って、自分は人間ではなくタバサの使い魔扱いだと思われているからだろう、と言う推測を述べていますが。
 あれは間違いです。
 地球の歴史を知って居る主人公は、西洋人が東洋人の使用人を人間扱いせずに、裸を見られたとしても平気だった、と言う歴史を知って居るのでそう言う推測が出て来たのですが、実際は……。

 この作品の主人公は龍と人間のハイブリッド。むしろ龍寄り。血に関しても超レア物。
 そして、この偽ハルケギニア世界の貴族と言うのは、多かれ少なかれ吸血鬼の血を引いて居ます。
 タバサも言って居るように、彼が傍に居るだけで非常に良い匂いがしているんです。
 貴族に取ってはね。

 体臭が殆んど存在しない東洋人。更に、毎日風呂に入って居る主人公でも季節は夏。普段よりも強い匂いを発して居たんですよ。
 餓えた狼の群れの真ん中に子羊を放り込んだ様な状態だったと言う事です。
 その匂いに誘われて近寄って来ようとした何人かの女生徒。しかし、簡単には近付けなかった。
 貴族で有ると同時に、魔法使いでも有りますからね。この世界の貴族は。
 確かに表面上は危険を感じなくても、心の奥では感じて居るはずですから。

 彼に近寄って来ようとした女生徒たちは、すべて優秀な魔法使いだった設定です。

 尚、この後書きを読んで、
「あれれ、おかしいぞ」……と思った貴方。そんな貴方は頭が良い。
 八月の時には、主人公は自分の発して居る匂いについて知らなかった。
 しかし、今回は知って居た。御都合主義の極みじゃないか。金返せ、へぼ作者。
 そう考える事でしょう。

 あの時にはそんな事は思い出して居なかった。しかし、今回は思い出した。
 思い出すキーとなるイベントをクリアして居なかったのです。
 今回のイベントで急に思い出した訳ではなく、順番にイベントをクリアして来た結果……と言う事。

 しかし、何と言う細かな伏線。これは流石に判らなかったでしょうね。
 
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