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消えていくもの

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第二章


第二章

「楽しいわ。賑やかでね」
「そうか。ならいいんだがな」
 一郎はそれを聞いてまずは頷いた。
「それだったらな」
「そう。有り難う」
「礼は言わなくていいさ。それで次郎」
「ああ」
 一郎は今度は次郎に声をかけた。彼もそれに応える。
「御前は神戸だったな」
「いい街だよ」
 煙草を取り出してから兄に答える次郎だった。
「海が奇麗でな。それを見ているだけで満足できる」
「海軍らしいな。御前が海軍に入るって言った時は驚いたが」
 こんなことも言う一郎だった。
「こんな山奥から海に出るっていうんだからな」
「山にいるからだよ」
 だからだという次郎だった。煙草に火を点ける。
 そうして吸いはじめてから。それからまた言うのだった。
「だから海が見たくてな。そこにいたかったんだよ」
「海にか」
「だから今神戸にいるのさ」
 だからだというのである。
「まあ楽しくやってるよ。付き合ってる相手もいるしな」
「そうか。御前は神戸か」
「里子姉ちゃんも家を出るのかい?」
「ええ」
 十八かその辺りの髪の長い少女が三郎の言葉にこくりと頷いた。
「そのつもりよ」
「そうなのか。姉ちゃんも」
「奈良に行くわ」
 彼女が向かうのは奈良だというのだ。
「修学旅行で行ってとても奇麗だったから。あそこで暮らしたい」
「旅館にはもう話はしてあるからな」
 一郎がその里子に話してきた。
「だから仕事のことは安心しろ」
「有り難う」
「ねえ」
 里子との話をつけた一郎の横にいた和服の女が彼に声をかけてきた。俯き気味でどうも浮かない表情をし続けている。
「いいかしら」
「何だ雪江」
「三郎さんはこっちに戻らないのね」
「いや、わしは聞いていないが」
 一郎は彼女に言われてその目を少ししばたかせた。雪江は彼の女房である。この村でずっと一緒にいて小さな頃からの許婚であり戦争から帰ってすぐに結婚したのである。二人の間にはまだ子供がなくそのことをいささか寂しく思っているのである。
「何もな」
「俺は京都の大学に行くよ」
「京都のか」
「ああ、京都のな」
 こう一郎と雪江だけでなく皆に話すのだった。
「高校も寮だしそれから一人暮らしをするつもりなんだよ」
「一人暮らしか」
「それでもいいよな」
「好きにするといい」
 静かな声でこう返した一郎だった。
「御前の好きなようにしろ。御前の人生だ」
「そう言ってくれるんだな」
「ああ。しかしな」
 一郎はここで大きく溜息をついた。胡坐をかいて和服の袖の下で腕を組んでいる。そのうえでついた溜息であった。
「皆ばらばらになるんだな」
「そうね」 
 花子が長兄の言葉に頷いた。
「兄さんはやっぱり」
「ここに残らなくてどうするんだ?」
 これが一郎の返答だった。
 
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