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ソードアート・オンライン リング・オブ・ハート

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48:リング・オブ・ハート


 ――コーン。
 ――コーン。


 どこか、ひどく懐かしい音がする。
 昔、その頃は毎日のように聞いていた音……。


 ――コーン。
 ――コーン。


 遠くから響いてくる、その音に目を開ける。

「ここは……?」

 その光景に、まずはそう呟かずにいられなかった。
 ――白。
 白一色の世界だった。
 どこまでも続く地平線も。その先の風景すらも真っ白。
 床までもが真っ白で、自分が立っているのか浮いているのかも分からなくなるほどに全てが無の世界。
 けれど空気はどこか穏やかで温かく、虚無感ではない不思議な気持ちがボクの体を包み込んでいく。
 まさに。
 死後の世界……のような場所。

 ――コーン。
 ――コーン。

 ……また、この懐かしい音。胸に郷愁が流れ込んでくる、思い出の音。
 その音は、ボクの背後から響いてくる。
 音の正体が何なのかを思い出す前に、ボクはその音の方へと振り向いた。

「……………」

 その視界に、白以外の色が映り込んできた。
 目の前の十メートル先、どこまでも真っ白だった光景の、その一部分だけ……土が広がり、草木が生い茂っていた。
 緑に囲まれた中央は小さな空地になっていて、大きな切り株と、小さな丸太と薪の二つの山が積み重なっていた。

 ――コーン。

 その場所の真ん中に、一人の男が立っていた。
 その男は肩に巨斧を掲げながら、その腕と同じくらいの太さの丸太を片手で拾い上げ、切り株の上に垂直に置き立てる。
 丸太を見つめる男は斧を振り上げ……

 ――コーン。

 一刀のもとに、その豪快な振り下ろしとは反対に軽快な音をたてて、一本の丸太を見事に二つの薪へと一刀両断した。
 それを見て、さっき以上の郷愁が胸を突き抜けた。

 ……そうだった。
 ボクが、もっと小さな子供のころから見てきた光景と音だった。
 その音を、その姿をもっと近くで見たいと一歩を踏み出そうと思ったその時。

 男の脇の草むらから、一匹の小動物が飛び出してきた。
 その小動物は男の足元をくるくる何週か回ってからピタリと足を止め、ボクに気づいたかのように目を向けた。

「――――!」

 それを見て、ボクは思わず目を見開く。
 この全てが白の世界でも見紛うことのない、穢れの無い蒼白の小さな体。
 霧が立ち込めるような薄いヴェールの立ち込める鬣と蹄。
 美しくねじれた、額に生える一本の白角。
 そしてボクを見つめる、涙滴形の真紅の瞳。

「ルビー……!!」

 そう。
 あの時に亡くしたボクのはじめての友達。ミストユニコーンのルビーがその男の足元で、懐かしい視線でボクを見つめていたのだ。
 それだけではない。

 ――ぱららっ、ぱららっ。

 と、ボクの足元にも仔馬の蹄がが走り回る気配がした。そこには、

「ベリーまで……!」

 ルビーの真似をするかのように、いつの間にか姿を現していたもう一匹のミストユニコーン、ベリーがボクの足元を走り回っていた。
 ベリーは軽やかに何週かボクの周りを走り回った後、その足を緩めて、最後にボクに足に甘えるように一度だけすり寄り……そしてルビーのもとへと走ってゆく。
 すると二匹はじゃれあうかのように男の周りを再びぐるぐる駆けはじめる。男は額の汗を拭いながら、温かいまなざしで足元の二匹を見下ろしている。
 その光景は……まさにボクにとっての天国だった。
 ああ、そうか……。
 これが、ボクの人生の果てに行き着く場所だったんだ……。
 そう幸せを噛みしめながら、ボクもそのもとへ、と足を踏み出したとき……気づいた。

 歩いても……体が前へと進まない。

「な、なんでっ……」

 狼狽していると……ここで男がはじめてボクを見た。
 男は温かな表情で何も言わぬまま……ふるふる、と顔を横に振る。
 まるで――ここに来てはいけないよ――と言わんばかりに。
 それと同時に。
 視界が……いや、この世界で唯一白以外だった目の前の風景もが、霧がかかるように白く染まり始めた。
 それでもボクは歩み……そしていつのまにか全力であの場所へと走っていた。しかしどんなに足を動かしても体は前へと進まない。

「ま、待って……!! ボクも連れてって!!」

 叫ぶと、足元の仔馬達が足を止めボクを見つめる。互いに寄り添いあいながら。男と同じ、ボクを慈しむような、見守るような眼差しで。

「ルビーッ!! ベリーッ!! ――――~~ッ!!」

 そして全てが白に染まりゆく中、ボクは手を伸ばして男の名を叫ぶ。





     ◆




「――――お父さんッッ!!」

 ハッと目を開ける。

 そこは……もうあの白の世界ではなかった。
 視界の先には、どこか見慣れたチーク材の木目の天井……。
 気づけばボクは、手を天井に伸ばしたまま仰向けに倒れていた。
 ……倒れている……?
 いや、違う。
 よくよく感じてみれば、横たえる体には柔らかに押し返ってくるシーツと枕の感触があった。……どうやらベッドの上にいるらしい。
 首を左右に軽く転がす。天井に続いて木の壁が広がっていて、静謐なログハウスの部屋の中にいることが分かった。この中では、半開きになった窓から漏れるそよ風に揺れるカーテンだけが唯一動くオブジェクトだった。

「……………」

 見慣れたログハウスの部屋の中……そう、ボクはマーブルの宿の一室のベッドで横になっていた。
 それだけではない。
 ボクの視界の左上の隅には…………HPバーがあった。
 79/79 と、見るも無残なあの数値のままではあるが、確かに……

 ――ボクは、生きていた。

 どうして……と思う前に、

「…………?」

 視界の左隅を見つめていたその焦点に、見慣れない色がチラついて見えた。
 ……ピンク。ベビーピンクの、髪だ。
 仰向けに寝るボクの視界の左隅……つまり今のボクの視界の死角である左手の枕元へとさらに首を転がすと、そこには……

「ゆっ……」

 と、謎の発音をしたピンク髪の持ち主――そんな色をした人は、ボクが知る限り後にも先にもリズベットしかいない――が、ボクの枕元の椅子に座ってボクを見ていた。
 リズベットは口を「ゆ」の形にしたまま、ぎょっとしたポーズと仰天の表情でこちらを見ており……
 突如、ガタッと席を立つと共にバタバタとドアへ駆け走り、開け放つやいなや外へと声を張り上げた。

「ユミルが目覚めたわよっ!!」

 と。
 すると一階からこの部屋へと複数人が階段を駆け上がり、廊下を走ってくる音がして……シリカ、アスナの順に部屋に雪崩れ込んできた。共にボクの顔を見るなり、ホッと息をついている。そして、

「起きたか……ユミル」

 最後に入ってきたキリトが、安堵を滲ませた声でドアをくぐってきた。
 それを見たボクは、ゆっくりと上体をベッドから起こした。

「キリト……なんで、ボク、生きて……」

 ボクは死んだはずだった……と、今更思いたくはないけれど。それでも確かにボクのHPはゼロに尽きたはずだった。そしてこの身がポリゴンの結晶に散った実感すらもあった。
 それに、さっき見ていたあの白の世界の光景――。
 それなのに。どうしてまだボクの身体は……いや、魂は、このソードアート・オンラインの中に留まったままなのか……?

「……それは今から説明するよ」

 キリトは、さっきまではリズベットが座っていた、ボクの枕元にある椅子に腰かけながら言った。
 そしてその口から事実が語られる。


 ――ボクは、自分がそう感じていた通りに、確かにその身を散らせてこの仮想世界から消え去った。
 そしてそれを見届けたキリトたちが悲しみに明け暮れようとしていた、その時……
 ボクの傍で共に最期の時を待っていたと思われたベリーがすっくと立ち上がり、空を見上げたと同時に……角の先端を中心に、眩いまでに青白く輝き始めた。
 しかしその輝きが強まるごとに仔馬の身体はどんどん薄まっていき……やがてベリーはボクが散った場所へとその輝く角を傾けた。するとその角先から雫が落ちるように輝きが零れ落ち、今度こそ目も眩むような輝きが辺りを覆い――
 次に目を開けるとそこには……散り去ったはずの、眠るボクの身体が横たわっていたのだそうだ。
 そして、代わりに半透明に映るベリーは、そのボクの姿をどこか満足そうな瞳で見つめた後……

「まさか……」
「ああ……どこか幸せそうな顔で、散っていったよ……」

 そう言って、キリトは長くため息をついた。

「ミストユニコーンの謎だった、もう一つの能力。それは、蘇生アイテム……《環魂の聖晶石》と同じ能力だったんだ。ユニコーンがその身を捧げることで……対象プレイヤーが死亡してから、ナーヴギアのマイクロウェーブが発生し脳を破壊するまでの猶予時間である十秒以内であれば対象プレイヤーを蘇生することができる、というな……」
「…………そんな……。……いや、待って」

 ボクは話の折にハッと気づく。

「……ちょっと待って! 《心》アイテムは!? 《ベリーの心》は!?」

 そうだ、それさえあれば、今であればテイムモンスター……使い魔の蘇生が可能なはずだ。
 しかしキリトはそんなボクの言葉を予期していたかのように……すぐに力無く首を横に振った。

「……アイテムは確かにドロップしたけれど……恐らく、蘇生能力の代償だったんだろうな……ベリーが散った時には、既に《形見》アイテムだったよ……」
「そ、そんな……」

 再びボクはそのセリフを力なく口にして落胆する。
 ……それでもボクは、ボクに再び命を吹き込んでくれた、ベリーの文字通り形見である《ベリーの形見》をこの手にしようと……ウィンドウを呼び出し、アイテム一覧を開いた。
 しかし……

「……あれっ? か、形見アイテムが……!?」

 無かった。
 しかもそれだけではない。
 《ベリーの形見》だけでなく、今までも大切に大切に保管していた……《ルビーの形見》すらも、所持品から消えていたのだ。

「あ、あー……それなんだがな……」

 ここでキリトががりがりと頭を掻きながら再度話を切り出した。

「その二つの形見アイテムなんだけど……それは今、俺たちが預かっているんだ」
「なぁ……!? かっ、返してよっ!!」

 今となっては彼らから奪われた、とは思わなかったが、それでも思わず声を張り上げてしまう。
 しかしキリトはバツが悪そうな態度のまま続ける。

「えっと、悪く思わないでほしいんだが……そ、その、怒るかもしれないとは思ったんだけど……もう、その形見は返せないんだ……」

「は――――」

 驚いたどころの話ではない。
 まさか。まさかあのキリトの口から聞くこととは夢にも思わなかった言葉と展開に、ボクが口を開けたまま絶句していると……

「キ、キリトさんっ! 誤解させるような言い方になっていますよ!?」
「えっ……!? そ、そうなのか!? だったらすまないユミルッ……!」
「も、もういいですっ。ここからはあたしが説明しますからっ」

 わたわたとボクをなだめながら慌てるシリカが間に割って入った。

「あの、ユミルさんが怒るかもしれない、というのは否定しませんが……ユミルさんの形見は、もう……そのままの形としては返せない、という意味なんです……」
「…………どういう意味?」

 否定しないんだ、と内心ツッコミながらも、ふつふつと疑念が湧きつつあるのを顔を出さずにはいられない。
 ただでさえ大切で大切だったボクの友達の形見を、二つとも勝手に取り上げられた挙句、よりにもよってそれを『そのままの形としては返せない』とまで言われたのだ。
 やっとキリト達を信じれるようになったばかりのボクの目が、ゆっくりと……以前の時のように疑念に鋭くなりつつあるのを誰が責められよう。
 それを見たキリト達はさらなる焦りを見せる…………かと思われたが。

『―――――。』

 違った。
 キリトも、シリカも、アスナも、リズベットも。
 ……彼らに浮かぶ表情は揃って一緒だった。

 ――大丈夫。

 ――信じて。

 そういう、いつかボクが……友達にしてみせた、まっすぐな想いを感じる表情だった。

「……………。…………続けて」

 いつしか互いにしばしの無言の見合いをしていたボク達だったけど……目つきこそ変えないが、ボクは『信じる』という選択を口にした。
 そして一拍、間をおいて頷いたシリカが言葉をつづける。

「――形こそ変わりましたが、きっとあなたが喜ぶと思って、そう信じてお預かりしていたんです。――そして今……お返しします。受け取ってください」

 シリカはキリトに目配せをし、頷いたキリトが呼び出したウィンドウから()()をシリカが大切そうに両手で覆い込むように受け取り……そしてシリカは()()を、ボクへと広げて差し出した。
 その両手に乗せられていたのは……

 それは――小さな……手の甲ほどしかない、本当に小さな小箱、だった。

「…………これが?」
「はい」

 少し震える声で問うと、すぐにしっかとした返事が返ってくる。
 この時のボクの気持ちを、自分でも一言で言い表せなかった。
 まず浮かんできたのは……本当に変わってしまったんだという、ある種の喪失感。それからは不安、期待、ほんの僅かな怒り……それらが混じった感情が喉までこみ上げてきていた。

「……っ、開けていい?」
「はい」

 それらを飲み込み、その箱をボクも両手で受け取る。
 色は真っ白で、水平の中折れ式で開くようになっているそれを、どこか震える手で…………開けた。
 そして開けることで……ボクはまず、そのわざわざ用意されていた小箱の意味を知った。

 その小箱は……リングケースだった。

 そう。その中身は、

 ――――二つの、指輪だったのだ。

「これが……形見?」
「……いいえ」

 ――ここでシリカが「いいえ」と答えた真意を、この時のボクは見出せなかった。

「ユミルさん、知っていましたか……?」

 その意味を考える前にシリカが話を続ける。

「使い魔蘇生アイテム……《プネウマの花》は、《心》アイテムに使うことで使い魔を蘇生させることができます」

 それは知っている。
 初めて知ったのは、もうマーブルの宿に身を置いていた頃……その時に読んだ朝刊だったか。
 それをずいぶんと遅れて知った当時のボクは、その朝刊を何も言わず力いっぱい握り潰し……その姿にマーブルには驚かれ、悲しそうな目で見られたっけ……。
 当時としては、無理もなかった。……花を使うことで、使い魔を蘇生することができる。その事実が判明したのは……ルビーが死んでから、わずか一、二ヶ月後の事だったのだから。
 あと少し、あと少し判明する時期さえ早ければ、もしかしたら……もしかしたらボクは人を信じないようにならなかったかも、死神事件すら起こさなかったかも知れない……今となっては、ほんの少し忌々しくもある知識として記憶していた。
 そのシリカの言葉に、苦い顔をしてしまったボクだが……

 ――続けて出された次の言葉に、ボクは驚きを隠せなかった。

「そして――《プネウマの花》を《形見》アイテムに使うことで、それは……()()()()()()()()()()ということを」

「―――――! ……まさか……!?」

 ボクの言葉にシリカは頷いた。

「はい。その指輪は……ルビーとベリーの形見が変化したものです」
「―――――。」
「……ユミルさん?」

 またもや、ボクの胸には言葉で形状しがたい気持ちが募りつつあった。されど、今度は様々な感情が織り交じったようなそれではない。
 ……どのように感じればいいのか、ボクの心自身が困惑している。そんな感触だった。

「……なんで」

 ただ、これだけは言える。

「なんでこんなことをしたんだよ……!?」

 それは……キリト達がボクに望んでいた……『喜び』という気持ちではない、ということだ。

「やっぱり、これは形の変わった『形見』のままじゃないか……! いや、もう《形見》アイテムじゃくなったんだ! もう、形見ですらない……! ……こんなの……ひどいよっ……」

 そして遅れて湧き上がってきた、ようやく自覚できるの出来た感情は……『怒り』と『悲しみ』だった。
 望んでいた……真逆の感情だった。

「こんなのっ……もう、ただの指輪じゃないか! シリカッ、これが形見じゃないって、こういう意味だったの!?」

 まるで子供の駄々っ子のようにまくし立て、その気持ちを彼女たちにぶつける。
 わがままと思われるかもしれない。けど、これはそうじゃない。
 友達の遺した形見を、別の物に変えられた……その気持ちを推し量ることなど、誰にも出来などしない。当事者であるボクだけしか。

「キミ達はなんてことをしてくれたの!? なんでっ……こんなことをしたの!!」

 言い終わった時にはいつの間にか開いた小箱を握り締め、肩が小さく震えていた。
 それと同時に、しまった、とも思った。
 なんてことをしたのはどっちだ。
 やっとこの人達を信じれるようになったのに、ボクはその人たちになんてことをっ……

『……………』

 そう、思ったのに。
 それでも彼らは……ボクを安堵させるかのような、そんな表情をさっきから微塵も変えてはいなかった。 

「……話は最後まで聞くものよ、ユミル」
「リズ……?」

 すると、ボクに励ましの念を数割増すかのようにウィンクしながらリズベットは言った。

「そうだよユミル君。大丈夫、大丈夫だよ。わたし達を……信じて」
「……アスナ……」

 その隣の彼女も続いた。表情だけでなく、わざわざその優しげな言葉を口にして。

「ユミルさん……その指輪、装備してみてくれませんか」
「シリカ……」

 ――きゅるぅ!

 シリカと、彼女の肩のピナもが続いてボクを促す。
 ここでボクは……震える息で、深呼吸をした。
 そして、落ち着いたとは言い難いが、少しだけ冷静さを取り戻した面持ちで答える。

「…………うん」

 最後に小竜のそのつぶらな瞳に励まされたボクはウィンドウを呼び出す。
 まずはケースから指輪を手に取る前に、装備ウィンドウのフィギュア画面を表示。それから画面の《指輪装備スロット》を指先でクリック。するとそのスロットが薄く光る。そのままアイテムウィンドウも呼び出し、ケースごと指輪をアイテムウィンドウに運び格納する。するともともと指輪を装備していない、ボクの装備フィギュア画面の《指輪装備スロット》である二ヶ所の空きスロットに、先ほどアイテムウィンドウに格納した指輪が自動的に装備される。
 そしてボクの両手中指に、先ほど仕舞ったばかりの指輪が出現、装備されて――

「ッ!?」

 その直後に起きた、ある()()にボクは無言のまま驚愕に目を見開いた。

 ――《圏内》であるにもかかわらず……ボクのHPが突如、最大HPの約9割以上……そのほとんどが突然一気に消失したのだ。

 異変はそれだけではない。
 そのいきなりほとんど削れた真っ赤のHPが、少しずつ回復し始めている。

「そのHPをよく見てみて下さい」

 反して、そうなることを知っていたらしいシリカは落ち着いて言う。
 そのHP表示。

 ――579/5079

 と、大きく最大HP値が上昇していたのだ。

「これは……!?」

「――……これは、オカルトの域を出ない話なんだけどな」

 ボクが驚いていると、今まで黙っていたキリトが口を開いた。

「《形見》が変化するアイテムには、その使い魔にとって、とても大きな意味があるんだそうだ」
「お、大きな意味……?」

 キリトは頷く。

「アル――情報屋や、俺が聞いた限り……変化したアイテムは、強力な剣や武器、堅固な盾や鎧と様々だ。中には、大量の回復結晶に変わったなんて話もある。これらは、使い魔からビーストテイマー……飼い主への最期のメッセージだと言われてるんだ。武器なら『姿は変わるけれど、これからも共に戦う』、鎧なら『私が守る』、回復アイテムなら『体を大事に』……みたいな具合にな。……中でもユミル。お前とルビー達の場合は、極めて稀で特殊だ。……その指輪の能力を見てみろ」

 ボクはまだ表示したままの装備ウィンドウの《指輪装備スロット》を再びクリックして、装備された二つの指輪の能力詳細画面を表示させた。
 それは、まず共に【最大HP+二五〇〇】という同じ能力を持ち、右手の指輪には【十秒毎にHP五〇〇回復】、左手には【レベルアップ時に最大HP値上昇ボーナス】という別々の特殊能力がついていたのだ。

「どちらも指輪としては超の付く一線級の能力だ。正直、俺も喉から手が出るほど欲しいくらいさ。……けれどな」

 軽く笑ったキリトが、笑顔のまま再び真剣な顔に戻る。

「その指輪は……ユミル、()()()()()でお前だけのものだ。……その欄の一番下を見てみろ」

「――――!」

 キリトの言った、そこには……

 ――【このアイテムは、プレイヤー《Ymil》に帰属します】

 とあったのだ。
 つまり……この二つの指輪は、ボク以外には決して装備できない……ボクにしか装備できない、ということだ。

「この話はさっき言った通り、ただでさえ数の少ないビーストテイマ―な上に、さらに《形見》を変化させた飼い主も少な過ぎる件もあるから……これはあくまでオカルトの域を出ないウワサ話に過ぎない。だから単にその指輪達は、生成時にシステムのランダムパラメータに恵まれただけなのかもしれない。――けれど」

「ちがう……かもしれない?」

 ボクの力なく震える言葉に、キリトは満足そうに頷いた。

「少なくとも俺には……その指輪には、ルビーとベリーの、とても強い意味が込められているに思えてならない」
「あ……あ……」

 自分でもよく分からない小さな声が口から漏れていた。
 この指輪には、小さな赤い宝石が埋め込められていた。よく見れば……右手のそれはルビーの瞳を、左手はベリーのそれを思わせる、涙滴型と真ん丸にカットされた宝石だった。
 まるで……二匹が、ボクを見つめているようだった。

「ル、ビー……。ベリー……」

 そしてそれは、この手の小さな中指にぴったりとはまっている。その感触が、とてもとても温かく感じられ始めていた。

「ユミルさん。最後に……その欄の、一番上を見てもらえますか。そこに、その指輪が……あなたの使い魔の意志だという、なによりの証があります」

 シリカの言う場所、指輪の詳細欄の一番上……
 そこは、指輪の【名前】が表示されている場所だ。

 それを見て――


「――……あ、あぁっ……!」


 涙が、あふれ出た。

 ボクの代わりに、シリカは静かに言葉を続ける。

「その二つの指輪の名前は――――【リング・オブ・ハート】。…………その意味は、分かりますよね」

 もはや、考えるまでもなかった。

「――――《心の指輪》っ……!」

 それは、シンプルで、どこまでもまっすぐなメッセージ……。

「ねぇ、ユミルさん……。その指輪は……ルビーとベリーは、まるでこう言っているように聞こえませんか? ――『生きて』、と……」
「うんっ……」

 この両手にある、二つの指輪の手を握り合わせる。
 シリカの目にも小さく涙が浮かぶ。

「『これからもあなたの傍にいる。だから、強く生きて』、と……」
「うんっ……うんっ……!」

 こくり、こくりと強くうなずく。

「……だから、それはもう形見ではありません。ルビーとベリーの《心》は、そこにあります。あなたの使い魔達は、そこで、ちゃんとあなたを見ています。……そう、思いませんか?」
「~~っ…………うんっ……!」

 ボクは涙の流れる頬に構わず、その手の指輪を口元に近づける。
 そして囁く。

「――おかえり……!」

 祈るように。

 そして、ボクの想いも届くように。


 ――ありがとう。ボクを生かしてくれて。

 ――だからボク、強く生きるよ。

 ――これからも、この世界で。

 ――だから、傍で見ててね。

 ――これからも、一緒に。





「――おかえり、ルビー……! ベリー……!」





     ◆





 ユミルは指にはめている美しい指輪を手に、涙を流してルビー達との《再会》を喜んでいた。

「よかったね……キリト君。ユミル君、喜んでくれて」

 アスナが俺の隣に寄って、ユミルに聞こえないようににっこりと囁いた。……その目にも、うっすらと涙が浮かんでいる事には何も言わないでおこう。

「ああ、本当にな。……けれど」
「けれど?」

 アスナは首を傾げる。
 ……そして俺は、この部屋に入る際、()()()開けっ放しにしたドアに向けて少しだけ声を張った。


「――けれど、こんな良い空気なってもまだ入ってこないなんて、あなたも悪い人ですね。――――マーブルさん?」


「えっ?」

 アスナ共々、ユミルまで俺の言葉に驚き、開きっぱなしのドアに目が集まる。
 すると。

「…………ごめんなさい」

 その言葉と共に、この宿の店主……マーブルが廊下から姿を現した。
 降ろした手をエプロンの前に合わせたその顔も俯き気味で……申し訳なさそうにしている。……いや、ユミルに目を合わせないようにしていた。

「マーブルさん、あなたにはユミルに言うことが……言いたいことがあったんでしょう?」
「……………」

 けれどマーブルは重ねて申し訳なさそうに唇をきゅっと引き結んで、ユミルへの言葉はおろか、俺への返事すら言えないでいた。
 ……あれから目を覚ました彼女はずっと、ユミルに謝られるのを……そして責められるのを恐れていたのだ。それは、今も全く変わっていなかった。

「……マーブルさ――」
「――マーブル」

 すると、俺の催促をさえぎって、ユミルが彼女を呼んだ。

「……待ってくれユミル、彼女は、まずお前に言いたいことが――」
「いいの」

 重ねて強い言葉で遮られる。

「……ボクから言わせて」

 ぐい、と涙を袖で拭われたその目には……今まで見たことのない、ユミルの強い意志が宿っていた。

「……わかった」

 それを見た俺は、椅子の背もたれに体を預けながら言った。すると「ありがと、キリト」と小声でユミルが言ってくれた。

「マーブル」
「っ……」

 再び発せられたユミルの呼び声に、どちらが年下か分からなくなる程に、マーブルの肩が怯える風に小さく震えた。
 それを見たユミルはくすり、と小さく笑うが……次の瞬間には、とても真剣な目で顔を引き締めた。

「……マーブル。……ボクは、『ごめんね』なんて言わないよ。マーブルには……謝らない」
「っ……!?」

 芯とした声が静寂の部屋に響く。
 恐れていた返事を耳にしたマーブルは今度こそ、ビクッと肩を上げて伏せた顔の下唇を噛んだ。その美貌には、今にも張り裂けそうな心情が読み取れる表情が浮かぶ。

「そ、そんなっ、ちょっとユミルく――」
「待て、アスナ」

 詰め寄ろうとしたアスナの肩を掴んで首を横に振った。
 俺はあのユミルの目を見て「もう大丈夫だ」と確信して、彼に任せた。
 そう、おれは信じているのだ。彼を。

「ボクが今、マーブルに言える言葉なんて、一つだけだよ」
「ユ、ミル……」

 マーブルは、もうここにいるのも耐えられないかのようだった。それでもユミルは徹に続ける。

「それは『ごめんね』じゃない。……だって、それはもうマーブルが気絶している間に、いっぱい言っちゃったから。……ねぇ、マーブル。ボクの目を見て」
「っ……」

 ユミルはまっすぐとその大きな翠の目で彼女だけを見つめている。
 マーブルは……おずおずと、本当に恐る恐る、彼の目を見ようとして……そしてなんとか視線を交わす。その細目は、責められる言葉を吐かれた次の瞬間、散り散りに壊れてしまいそうなほど怯えていた。
 それを見てどこか満足した風のユミルは表情を変えず、言葉をつづけた。

「――だから、ボクがマーブルに送る言葉は、そう……ひとつだけ」

 するとここで。

 すう、とユミルは長く息を吸う。

 そして放った言葉は。



「――――『ありがとう』」



 透き通る声色で、そう言った。





「マーブルは、ボクを育んでくれた。……慈しんでくれた。……愛してくれた……。だから、だからボクがあなたに送る言葉は……あなたに謝る言葉でも、あなたを責める言葉でもない」

 そして重ねて、ユミルは言った。

「――『ありがとう』」

 と。
 すると、その翠の目に涙が浮かび出て……

「……~~ッ」

 と、ユミルはぎゅっと自分の胸を握り締める。

「ああ……やっと、やっと言えた……!」

 そして閉じたその目から輝く粒がこぼれ出す。その顔も歓喜に滲む。まるで、雪の下で長い長い冬をようやく越した種が芽吹くように。
 ……まるで、ずっと溜め込んでいた気持ちを吐き出せたかのように。

「ボク、ずっと自分の心に嘘ついてた……。だから、ずっとずっと言ったかった……! マーブルに、ありがとうって……!」

「ぁ……あ……わ、私っ……」

 ずっと黙ってそれらを聞いていたマーブルが、その口に手を当てはじめる。

「私……私っ、あなたに憎まれてたわけじゃないの……? これからも、あなたを、愛していいの……? ……あなたの傍に、いていいのっ?」

 ユミルはその涙も拭わずに言う。

「ボクがマーブルを責めようなんてこと……できるわけないじゃない。だって――」

 『だってボクは――』。そう言って、芽吹いたかのような歓喜の顔に……大輪の花が咲いたかのような、笑顔が浮かんだ。


「ボクは――マーブルが……大好きなんだから……!」


「――――~~ッ……!」

 その言葉に。
 ぽろ、ぽろと、マーブルの長い睫毛にも涙が零れ始め――
 そう思った次の瞬間、

「マーブルさんっ!?」
「マーブル!?」

 アスナとユミルが驚いた声を上げたのも無理はない。
 マーブルは、ドアをバタンッ開けて部屋を走って出ていったのだ。
 リズベットは慌ててそれを追いかけるも……すぐに部屋に戻ってきた。そしてなぜか微笑んでいる、その目にも……涙が小さく浮かんでいた。

「……マーブルさん、一階で泣いてたよ。……すごく、喜んでたわ」

 耳を澄ませば、開いているドアの向こうから、

『~~っ……ぁぁ……っ、救われた……あの子も、私もっ……!』

 ……という、涙に濡れる喜びの声が漏れ聞こえていた。

「だから今は、そっとしておきましょう……」

 そう言いながら、リズベットは後ろ手にドアを静かに閉めた。同時に、かすかに聞こえていた彼女の声も完全にシャットアウトされ聞こえなくなる。

「マーブル……」

 耳の良いユミルの事だ、彼にもさっきの声は聞こえていたのだろう。そうつぶやいた彼は、愛しそうに胸に手を当てていた。
 その心に……あたたかな温度が灯るように。


「……そうだ。キリト達にも、言わなきゃね」

 そのまま胸に手を当てたまま少しして、ユミルは俺達を眺めて、言った。


「――――『ありがとう』」


 ――なにも躊躇われなく言われたその言葉。

 ――輝くような、もう曇りの欠片もない、笑顔とともに言われたその言葉。



 その笑顔は例えるならば、それは二人が共に歩き始めるためのスタート地点。

 その輝きは例えるならば、それは道しるべ。

 離れては反発し、近寄られてはすれ違い……ずっと交わることのなかった二人が、寄り添いながら歩く為の……輝く、まっすぐな一本道の笑顔だった。


 
 

 
後書き
エピローグが、見えてきました。 
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