| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

喫茶店

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
次ページ > 目次
 

第五章


第五章

「そんなことがあったんだ」
「そうらしいわ」
 可愛らしい女の子が黒を基調としたレトロな店のカウンターで若い男の相手をしていた。見れば女の子なのに洒落たタキシードのベストに蝶ネクタイ、ズボンといった格好であった。
「曾爺ちゃんの話だけどね」
「そんなに昔だったんだ」
「お婆ちゃんはついこの前みたいな感覚で言うけれどね。もう大昔よ」
「この店ができた頃からだからね」
「うん」
 女の子は客の言葉に頷いた。
「戦争が終わってから暫く。苦労したんだ」
「しかし軍人さんからマスターになるなんて珍しいわね」
「曾爺ちゃんの話だと何でも今でも軍人らしいよ」
「今でもって」
「そっ、今は隠居してるけれどね」
 女の子はここでにこりと笑った。
「曾婆ちゃんと一緒にね」
「そうか、まだ御健在なんだ」
「コーヒーの入れ方教えてくれたんだ」
「ふうん」
「これを飲んだ人が元気になるようにって」
「確かに美味いね、このコーヒー」
「ありがと」
 それを言われてにこりと微笑む。
「そう言ってもらえると助かるわ」
「いやいや、本当に」
 客は手を振ってそう言った。
「こんな美味いコーヒーそうそうないよ」
「曾爺ちゃん今でも言うんだ」
「何て?」
「コーヒーを飲んで元気になってくれる人がいればそれだけ日本が元気になるって」
「ふうん」
「もうソ連もなくなったけど日本はまだ完全に元気になってないって言ってね」
「何か深刻な話になってきたね」
「曾爺ちゃん軍人さんだったから」
 女の子はまたそれに言及した。
「戦争に負けたことが忘れられないんだ」
「やっぱり」
「終戦直後は色々あったらしいんだ。切腹しようとしたり」
「そういうことは結構あったらしいね」
「そうらしいね」
 実際に敗戦の国難に殉じ自決した多くの軍人達が存在した。中にはまだ若いこれからの青年達もいた。彼等は敗戦を悲しみ、そして国に殉じたのである。それを嘲笑うことは誰にも出来ないであろう。彼等にも彼等の考えがあり自ら命を絶ったのであるから。
「それでね。曾婆ちゃんに止められて」
「喫茶店のマスターになって」
「自分のコーヒーで少しでも多くの人を元気にするんだって頑張ったらしいよ」
「そしてこの店を建てて」
「うん。で、今あたしがここにいるのよ」
「美味いコーヒーも飲める」
「曾爺ちゃんに言わせればまだまだらしいけれどね」
 少し苦笑いを浮かべた。
「けれど。段々よくなってきてるってさ」
「よかったじゃないか」
「あたしのコーヒーも日本もね」
「日本もか」
「あたしが小さい頃は本当にお¥どなるかって心配してたそうだけれど」
「それが変わったんだな」
「うん。後は御前に任せたなんて言ってるよ」
「お店かい?」
「日本も。あたし達にって。曾爺ちゃんの思いを絶対に果たせてくれって」
「どうやってやるかな」
「あたしはコーヒーでやるよ」
 女の子の声は明るさを増した。
「このコーヒーでね」
「じゃあ俺も何かしてみるか」
「あんたも?」
「ああ、このコーヒー飲んでな」
「そうだね、まずは動かないと」
 女の子はにこりと微笑んだ。
「日本もどうにかならないからね」
「曾爺ちゃんが好きな日本にならないからな」
「うん」
 二人は頷き合い、そして女の子の入れたコーヒーが飲まれた。遠い、敗戦から残っているコーヒーが今飲まれていた。廃墟だった国も今では立派に繁栄している。そして。
 全てはこれからだった。呪縛から解き放たれるのは。今二人はそれに向かって動きはじめたのであった。そして日本も。敗戦も何時かは終わり、心は蘇るものなのだから。


喫茶店   完


                   2006・7・3
 
次ページ > 目次
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧