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銀河英雄伝説~美しい夢~

作者:azuraiiru
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第十三話 ベーネミュンデ侯爵夫人(その7)

帝国暦486年 8月14日  オーディン 新無憂宮  エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク



「……如何します?」
「……処分は変えられん。哀れとは思うが……」
バラ園を出た俺とリヒテンラーデ侯の声には生気が無かった。疲れた様な徒労感だけが滲み出ている。気が付けば溜息が出ていた、侯だけじゃない、俺も一緒だ。

「なんとも気の重い仕事になったの」
「そうですね。屋敷に帰りたくなりましたよ」
「私もだ。卿がいてくれて助かる、一人なら逃げ出しておったわ」
「私は侯を恨んでいます。碌でもない仕事に巻き込んでくれた」
生気の無い声、重い足取り、今の俺とリヒテンラーデ侯は生ける屍だろう。まるでゾンビだ。

バラ園で皇帝フリードリヒ四世に会った。ベーネミュンデ侯爵夫人の一件の報告、そしてどのように処分するかの許可を得るはずだった。難しい事ではなかったはずだ。事実、皇帝フリードリヒ四世はこちらの提示内容に異議は唱えなかった。にもかかわらず俺とリヒテンラーデ侯は疲れている。

「哀れなものよ、侯爵夫人も」
「……そうですね……」
「どうしたものかの」
「処分は変えられません、哀れとは思いますが」
堂々巡りだ。さっきから同じ事を何度も話している。そして同じように溜息を吐く。

フリードリヒ四世と話をして分かった事が有る。ベーネミュンデ侯爵夫人はフリードリヒ四世の寵を失ったのではなかった。皇帝は彼女を嫌ったのではない、むしろ彼女を思うがゆえに側から離した。哀れな話だ……。

ベーネミュンデ侯爵夫人の生んだ皇子はルードヴィヒ皇太子に殺された。皇帝もそれを知っていた。ルードヴィヒが死ぬ間際にフリードリヒ四世に懺悔したのだという。ルードヴィヒの死因は罪悪感からの衰弱死だったようだ。かなり心が弱かったのだろう。弱いから廃嫡の恐怖にかられ赤子を殺した。弱いからその罪に耐えきれなかった……。皇太子などには向いていなかったのだと思う。その地位に相応しくない人間が就くとどうなるか、その見本みたいな人間だ。

その後、侯爵夫人は三度流産する。偶然ではなかった、流産するように仕向けられたのだ。仕向けたのはアスカン子爵家……、侯爵夫人の実家だった。侯爵夫人が男子を産めば、その男子が皇帝に即位すればアスカン子爵家は外戚として強大な権力を振るえただろう。野心の有る人間ならそう考えたはずだ。だが当時のアスカン子爵家はそうは考えなかった。

元々アスカン子爵家はベーネミュンデ侯爵夫人がフリードリヒ四世の後宮に入るまでは、その寵を得るまでは貴族とは名ばかりの貧しい家だった。彼らにとって必要なのはまず裕福な暮らしであって、権勢を振るうことではなかった……。アスカン子爵家は政治的な野心など皆無の家だった。

侯爵夫人がフリードリヒ四世の寵を受けるようになってアスカン子爵家の家運は上昇した。彼女はアスカン子爵家にとって金の卵を産む貴重な鶏だった。彼女が金の卵を産むたびに子爵家は荘園や利権を手に入れる事が出来た。貧しさは過去のものとなり、にわか成金と蔑まれても安定した収入が有る事にアスカン子爵家は十分に満足していたはずだ。

侯爵夫人が初めて懐妊した時、アスカン子爵家は喜んだだろう。男子が生まれれば彼女が皇后になるかもしれないと噂が流れた時は狂喜したかもしれない。外戚となれば強大な権力を持つ事が出来る。そしてアスカン子爵家は皇后を輩出した名家として後世まで大切にされるだろうと、にわか成金と蔑まれる事も無いだろうと……。彼らにとっては眩いほどの未来だったはずだ。

だが生まれた子が殺された事で全てが一変した。アスカン子爵家はようやく権力の持つ恐ろしさを実感したのだ。そして自分達の敵となるであろう存在を初めて認識したに違いない。ルードヴィヒ皇太子、ブラウンシュバイク公爵家、リッテンハイム侯爵家……。いずれもアスカン子爵家にとっては強大すぎる存在だった。

アスカン子爵家は怯えた。元々政治的な野心など無かった家だ。外戚への夢など簡単に捨てたに違いない。今のままで十分、詰らぬ野心などで今の繁栄を失いたくないと……。だが彼らにとって不幸だったのはそんな彼らの決意とは無関係な所で事態が動いたことだった。すなわちフリードリヒ四世が侯爵夫人を愛した事だ。

愛していれば子供が出来るのは当たり前の事だ、それほど騒ぐ事ではない。むしろ一般家庭では子が出来ぬ方が問題になるはずだ。しかしアスカン子爵家にとっては侯爵夫人の再度の懐妊は悪夢だっただろう。自分達を滅ぼすのかと恐怖し運命を呪い、そして侯爵夫人を憎悪したに違いない。子爵家にとって金の卵を産む鶏は子爵家を滅ぼす猛毒を吐き出す蛇に変わっていた。

アスカン子爵家にとって侯爵夫人はただの寵姫で良かった。母になどなる必要は無かった。適当に寵を受け、時々アスカン子爵家に恩恵を与えてくれる存在で良かったのだ。そしてアスカン子爵家は侯爵夫人が母親になる事を阻んだ。侯爵夫人は三度にわたって流産する事になる。幻の皇后は幻のままで終わった。

アスカン子爵家にとっても苦しい決断だっただろう。事が表沙汰になれば当然だがアスカン子爵家は咎めを受ける。おそらくは全員賜死の上、家名断絶は免れなかったはずだ。アスカン子爵家は権力争いを生き残れる可能性と犯罪を隠し通せる可能性を天秤にかけた。そして彼らは決断した。シュザンナを流産させろ……。

ベーネミュンデ侯爵夫人がフリードリヒ四世から遠ざけられたのはそれが原因だった。おそらくフリードリヒ四世は流産が続いた事に不審を抱いたのだろう。そしてアスカン子爵家が侯爵夫人の懐妊を喜んでいないことを知った。最初の子がルードヴィヒ皇太子に殺された事を思えば何が起きたか辿り着くのは難しくなかったはずだ。皇帝は決して凡庸ではない。

全てを知った皇帝はベーネミュンデ侯爵夫人を遠ざけた。愛情が冷めたのではない、むしろ逆だった。自分が侯爵夫人を愛し続ける事は危険だと思ったのだ。これ以上流産が続けば彼女の心が持たないと思った。皇帝の話では彼女は誰が流産を仕組んだか知っていたらしい。“彼女にとって宮中は地獄だっただろう”、皇帝の言葉だ。

皇帝は言わなかったが彼女を遠ざけた理由はもう一つあるだろう。これまでは流産で済んだ、しかし次は流産ではなく夫人の命が奪われるかもしれない……。そう思ったのではないか。皇帝は彼女を愛する事よりも彼女の精神と生命の安全を図った。それ以来皇帝は彼女を近づけていない。

ベーネミュンデ侯爵夫人に代わって皇帝の寵を受けるようになったのはグリューネワルト伯爵夫人だった。彼女の肉親は酒浸りの父親と五歳年下の弟だけだ。彼女を利用して利益を得ようなどと言う貧乏貴族もいなければ権力を得ようとする野心家の一族もいない。それでも皇帝は彼女を愛しはしても子供を産ませようとはしていない……。

「嫌な仕事だがやらねばならんの」
「全くです。そろそろ行きますか」
「そうじゃの」
言葉とは裏腹に溜息が出た。侯も溜息を吐く。二人とも重い足取りでベーネミュンデ侯爵夫人邸に向かった。侯爵夫人邸は新無憂宮の一角にある。ここから遠くは無い、地上車を使えば直ぐに着くだろう。


八月十四日の午後、ベーネミュンデ侯爵夫人邸を俺とリヒテンラーデ侯が訪ねた。玄関は大理石造りだ、金かかってるよな。皇帝の寵姫ともなると屋敷も大したものだ。来訪を告げるとサロンに案内された。昔、彼女が皇帝の寵姫として寵愛を独占したころはこの屋敷には大勢の人間が通ったはずだ。いずれも皆帝国の重要人物だっただろう。今は皆無に近いはずだ。そして今日、俺とリヒテンラーデ侯がここに来た。

侯爵夫人が俺達をサロンで待っていた。美人と言っていいだろう、黒髪、碧い瞳、そして紅い唇、程よく調和されている。もっとも少し表情がきつい様な気がする。先入観の所為だろうか……。侯爵夫人が艶然と微笑んだ

「ようこそ国務尚書、お久しぶりですわね。お連れの方はどなたですの、ついぞ見かけた事が有りませんけど」
笑みは浮かべているが言葉には明らかに毒が有る。俺を知らないなどありえない。侮辱しようとでも言うのだろう。彼女にとってブラウンシュバイク公爵家は憎むべき存在だ。彼女の流産の原因はアスカン子爵家だが、彼らにそれを決断させたのはルードヴィヒ皇太子、ブラウンシュバイク公爵家、リッテンハイム侯爵家だ。

リヒテンラーデ侯も彼女の毒に気付いたのだろう。生真面目な表情で答えた。
「侯爵夫人には御存じありませんでしたか、ブラウンシュバイク公爵家が代替わりをしましてな。彼はエーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク、当代のブラウンシュバイク公です」

「そう言えば、そんな話を聞きましたわ。ブラウンシュバイク公が物好きにも平民を養子に迎えたとか……。そちらの方がそうですの」
嘲る様な笑みだ。面白い玩具でも見つけた様な表情だな。いたぶって鬱憤を晴らしたいのだろう。今回の一件で俺がラインハルトの側に立ったことは皆が知っている。いわば俺はグリューネワルト伯爵夫人の庇護者なのだ。侯爵夫人にとっては絶対に許せる相手ではないだろう。

「エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイクです」
「せいぜいお励みなさいましね。でも賤しい平民に貴族の務めが出来ますかしら」
艶やかに毒を込めて笑う。うんざりだな、十年以上男に顧みられないと女もこうなるのか……。寒気がしてきた。フリードリヒ四世の取った行動は止むを得ないものだとは思うがもう少し何とかならなかったか……。毒を吐きつけられるこっちの身にもなってくれと言いたい。先程まであった彼女への憐憫はあとかたもなく消えていた。

「そこまでになされよ、侯爵夫人。公爵は陛下がエリザベート様の婿にと認められた方ですぞ」
「……」
リヒテンラーデ侯が苦い顔をしている。おそらく俺と同じ気持ちなのだろう。
「今日ここに来たのは今回、侯爵夫人がコルプト子爵と伴に起こした騒動についての処分を申し渡す為です。陛下は次のように処分を決めました」
処分の言葉にベーネミュンデ侯爵夫人の顔が強張った。まさか不問に付されると思っていたのか?

「処分とはどういう事です、国務尚書。妾に何の罪が有ると」
「見苦しいですぞ、侯爵夫人。既にコルプト子爵は全てを自供しました。夫人がコルプト子爵と語らってグリューネワルト伯爵夫人を追い落とそうと策した事、ミューゼル大将を失脚させミッターマイヤー少将を殺害しようとした事は分かっているのですぞ」
「出鱈目じゃ! 命惜しさに妾に罪を押付けたのです!」

「グレーザー医師の証言も有ります。それらは全て調書に取られているのです。悪足掻きは止める事ですな」
「……」
侯爵夫人がギラギラした目でリヒテンラーデ侯を睨んでいる。碧という色がここまで禍々しく見える事は無いだろう、寒気がする様な目だ。リヒテンラーデ侯も辟易している。

「宜しいですかな? 一つ、以下の五か所の荘園を召し上げる。メードラー・パッサージュ、アルンスベルク、アルトナ、ハールブルク、ワンツベック」
「……」
五か所の荘園を奪われたがまだ侯爵夫人には同程度の荘園が残されている。皇帝が寵姫に与えた荘園なのだ、いずれも豊かさでは定評がある荘園だ。経済的に困窮するなどという事は無い。笑って許せるさ、その程度の計算は出来るだろう……。

「二つ、政府の許可なしには外出を禁じます。そして外部からの面会も同様です」
「……」
政府の許可が有れば問題ない。つまり政府の許可を面倒くさい、或いは侯爵夫人との接触を政府に知られたくない等と考える人間を排除しているだけだ。これも特に問題は無い筈だ。今日以降、侯爵夫人を利用しようという人間はいないだろうからな。むしろ嫌な客が来ても追っ払う口実に使えるだろう、“妾、政府から人と会ってはいけないと言われていますの、ホホホ”。

「三つ、現在、この屋敷に居る使用人は全て解雇。これ以後は政府が派遣した使用人が侯爵夫人のお世話をします」
所領が減ったのだ、政府が使用人を派遣してくれるとなればその分だけ経費が浮く。俺なら大喜びだ。何が高いと言って人件費ほど高いものは無い。ついでに使用人の食費は政府持ちにしろとか言ってやれ。リヒテンラーデ侯も嫌とは言わんさ。なんなら俺が説得してやる。

……顔色が変わっている。まさかとは思うが処分を受ける事は無いと思っていたのか? 一体何を考えている?
「陛下の御心がそのようなもので有るとすれば、なぜ妾がそれに逆らいましょう。一日の例外もなく陛下に忠実であった妾です。ですが、どうして陛下はご自分でその旨を妾にお話し下さらぬのか。妾はそれが無念でなりません。陛下もあまりに御無情でいらっしゃる」

ウンザリした。逆らわない? どうして自分で言わないのか? 会えば必ず自分は無罪だと言い立てて許しを得ようとするからに決まっているからだろう。それこそが自分が愛されているという証なのだ。目の前にいる女がその証を得るチャンスを逃すはずが無い……。

まさか、それが狙いなのか? だからこんな馬鹿げたことをした? フリードリヒ四世の関心を引くために、彼をここへ呼ぶために? だとしたら馬鹿げている。この女を哀れだとは思う、だが同情は出来ない、もう茶番はたくさんだ!

「陛下は御多忙なのです」
「御多忙?」
「そうです」
俺の言葉に侯爵夫人が嘲笑を浮かべた。

「ああ、さほどに御多忙でいらっしゃいますのか? 酒宴で? 狐狩りで? 賭博で? いえ何よりもあの女の元へお通いになるので御多忙なのでしょう」
「その通りです、良くお分かりですね。何と言っても心映え優しく美しい方です、陛下を羨んでいる者は多いと思いますよ」
リヒテンラーデ侯が俺を咎めるような目で見た。余計な事を、と思ったのだろう。その余計な事の所為で侯爵夫人の顔は明らかに変化していた。憎悪、狂気……。

「あの女……、あの女が猫を被って……、陛下のお心を盗んで、そして妾に優越感を誇示しようとしている! ああ、あの女、あの女のしたり顔を引き裂いて喰い破ってやりたい」
宙を睨みながら侯爵夫人が呻いた。人間の持つ負の感情が形になれば今の侯爵夫人になるだろう。こいつを人に戻すのは容易じゃないだろうな。

「無駄ですよ」
侯爵夫人が俺を見た。おぞましい狂気の目……。
「伯爵夫人を殺しても陛下が侯爵夫人の元に戻ることは無い」
「そのような事は……」
「何故なら、陛下が侯爵夫人を遠ざけたのは貴女を疎んじての事ではないからです。陛下は貴女を守りたいと思った……」
「……」
少し目が和んだか。

「貴女の産んだ子を殺したのは先代のブラウンシュバイク公でもリッテンハイム侯でもない、ルードヴィヒ皇太子です。そして貴女が三度流産したのは貴女の実家、アスカン子爵家の差し金だった。貴女はそれを御存じでしょう。陛下もそれをご存知です」
「……」

ベーネミュンデ侯爵夫人の顔に驚きが走った。彼女は皇帝が知らないと思っていたらしい。当然だ、もし皇帝がそれを知っていると彼女が知ったらどうなるだろう。とても顔向けなどできまい。皇帝は彼女を守るため知らぬ振りをするしかなかったのだ。

「陛下は貴女をこれ以上宮中に置くのは危険だと思った。それ以上に傷付く貴女を見たくないと思ったのだと思います。何と言っても元はと言えば陛下が侯爵夫人を愛した事が発端だった……」
「……妾は陛下のお傍に、ただそれだけを……」

リヒテンラーデ侯を見た。首を横に振っている。哀れな女だ、思わず溜息が出た。市井に生まれていればちょっと焼き餅焼の良い妻になれたかもしれない。だがフリードリヒ四世は皇帝だった。寵姫には常に政治が付きまとう。そして政治と言うのは残酷な現実でありハッピーエンドの御伽噺ではない。この女の不幸は政治を知らないという事だ。

「残念ですが陛下はそれをお許しにはなりません。もし、今侯爵夫人が宮中に戻れば、アスカン子爵家は必ず貴女を殺しますよ」
「……」
リヒテンラーデ侯は俺の言葉を否定しなかった。侯も同じ意見なのだろう。

「帝国の後継者は決まったのです、体制も決まった。次期皇帝はエルウィン・ヨーゼフ殿下、皇后にはサビーネ・フォン・リッテンハイム。ブラウンシュバイク公爵家は軍、貴族の重鎮として、そして皇帝に最も近しい一族として皇帝を助ける。リヒテンラーデ侯は政府首班として皇帝を輔弼する……。分かりますか? 政府、軍、ブラウンシュバイク公爵家、リッテンハイム侯爵家、この四者が協力体制を結んだんです。私がブラウンシュバイク公爵家に迎えられたのはそういう意味です」
「……」

「アスカン子爵も当然それは知っている。ここに貴女が入ってきて皇子を産んだらどうなると思います? 貴女が皇后になろうとしたらどうなるか? 折角まとまった体制にひびが入る事になる。そんな事を四者が許すはずが無い、アスカン子爵家は今度こそ潰される、そう考えるはずです。そしてそれを防ぐには侯爵夫人、貴女を殺すのが一番確実なんです」

先程までの狂気は無い、彼女は俯いている。彼女にとっては残酷な現実だろう。だが現実を見せない限り彼女は自分が危険だという事に気付かない。
「陛下がグリューネワルト伯爵夫人を愛するのは彼女にはアスカン子爵家のような親族がいないからです。それでも陛下は彼女との間に子供を作ろうとはしない。侯爵夫人、貴女のように傷付く姿を見たくないからです……」

侯爵夫人が呻きながら蹲った。リヒテンラーデ侯がそれを見て口を開いた。
「ここで静かに過ごされよ。ここなら安全に過ごすことが出来る。それこそが陛下の御意志です。……では我らはこれにて……」

屋敷を出ると自然と深呼吸していた。リヒテンラーデ侯も同じように深呼吸している。顔を見合わせて苦笑した。
「これで終わったかの」
「そう思いたいところです」
「良くやってくれた、卿に同行を頼んだのは正解だった」
「もうたくさんです。うんざりですよ、帰りましょう」
地上車に乗るとシートに奥深く腰掛けた。疲れた体に柔らかなシートが心地よかった……。



帝国暦486年 8月18日  オーディン  エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク



ベーネミュンデ侯爵夫人が死んだ。死んだのは二日前、八月十六日だった。昼を過ぎても侯爵夫人は起きてこなかった。そのことに不審を感じた使用人が寝室に入ると侯爵夫人がベッドで眠っていた。但し、ドレスアップをして呼吸をしていなかった。死因は遅行性の毒を使用した服毒自殺だった。

遺書が有った。フリードリヒ四世に宛てた遺書だった。遺書には愛しているという事、そして春の陽だまりのように忘れ去られるなら、厳しい冬のように覚えていてもらいたいと書いてあった。

リヒテンラーデ侯が皇帝にその事を報告するとフリードリヒ四世は“そうか”と言っただけだった。一体何を思ったのか……、俺には侯爵夫人の気持ちも分からないし、皇帝の想いも分からない。厄介な話だ。

葬儀はごく簡素に行われた。彼女が政府の監視下に置かれていたことは皆が知っている。参列者は少なかった。アスカン子爵、そしてブラウンシュバイク大公一家、リッテンハイム侯一家、リヒテンラーデ侯、ラインハルト……。

妙な話だ、アスカン子爵を除けば皇帝にもっとも近しい人間達が集まった。大公夫人もリッテンハイム侯爵夫人も彼女には悪い感情は持っていなかったらしい。むしろ彼女に罪悪感を感じていたようだ。ルードヴィヒ皇太子が彼女の子を殺さなければ彼女もこんな事にはならなかった、そう思っているのかもしれない。

葬儀が終わるとアスカン子爵はそそくさと立ち去った。関わり合いになりたくない、そんな気持ちがありありと出ていた。彼にとって侯爵夫人は重荷でしかなかったのだろう。噂では侯爵夫人の自殺を知った時、子爵は“これで呪縛から解放される”そう呟いて祝杯を上げたそうだ。気持ちは分かるが侯爵夫人が居なければアスカン子爵家は未だに貧乏貴族のままのはずだ。死者を悼むくらいの礼儀を示してもバチは当たらないだろう。碌な奴じゃない。

葬儀の間、誰も喋らなかった。葬儀が終わってもそれは変わらなかった。ラインハルトを除けば誰も積極的には彼女の死を願わなかったはずだ。それなのに彼女は死んだ。一体俺達は何をしたのか……。皆が沈黙したのもそれが理由だろう。一体俺達は何をしたのか……。

これからもこんな思いをするのだろうか、そう思うとやり切れなかった。しかし俺がブラウンシュバイク公である限り権力の芳香と腐臭を嗅ぎ続ける事になるのだろう。そしてこの思いからは一生逃れられないにちがいない……。



 
 

 
後書き
つぶやきと同じ内容を載せています。つぶやきを読んだ方はスルーしてください。

美しい夢(その13) をアップしました。
ベーネミュンデ侯爵夫人編はこれで終了です。当初、ベーネミュンデ侯爵夫人を殺すつもりはありませんでした。でも話を書いているうちに生かしておくことに違和感が出てきて……。彼女が従順に生きているという姿が想像できない、それで彼女を自殺させることにしました。

色々と批判はあると思います。美しい夢らしくないという方もおられるでしょう。でもそれでもこう書かざるを得なかった。ご理解いただければと思います。 
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