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乱世の確率事象改変

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彼は一人、矛盾の狭間にて

 星の瞬く夜天の下を駆ける月光は風となっていた。単騎で駆ける最短経路は予定していた軍でのモノとは違い荒かったが、幾刻の時間短縮を可能にしていた。
 休息は幾度となく取っている。それが終わる度に、彼の相棒たる月光は全力で駆け続けていた。彼が少しでも遠くへ行けるように、自身に跨る価値のあるただ一人の者が助かるようにと。
 その背で、秋斗は雛里に少しだけ寄り掛かっている。少しの申し訳なさを感じつつも、己より非力な相手に頼る事に恥は無く。血を失い、落ちてしまった体力を少しでも温存する為に。野盗が出ても対処出来るようにと。
 雛里はその愛しい重みを背中に感じながらずっと思考を回していた。
 交渉に間に合わなければいい……それが一つ。
 彼が交渉に間に合わなければ、朱里の思惑通りに進んで全てが上手く行く。雛里にとっては、の話であるが。
 思考に潜り始めて直ぐ……秋斗があの時、口付けを交わして想いを伝え合う前に言っていた事を雛里は思い出していた。

『いいか? 曹操は……俺達に対して自身の領の通行許可を出す事もあるんだ。同盟では俺達の利が大きすぎるし先手を許す事になる。だから曹操は自らが主導権と先手を握る為にそれを提案する確率が高い。
 その時の対価として俺含めた幾人かを求められたなら俺一人だけで行けるように手を打った。祭りで袁紹軍の主要人物を縛り付け、徐晃隊を伏せさせたのはその意味もあるから。曹操軍の練度なら俺の率いる徐晃隊と上手く連携が取れるだろうよ。
 そして……河北を曹操が手に入れたなら、俺が白蓮の代わりに幽州を治めに行けるよう画策する。あいつに返せるのはそれくらいだ。桃香が天下を統一して白蓮が帰ってくるまで少しでも良くしておきたいんだ。クク、最後に……俺は曹操軍を絶対に裏切るよ。大局の一番重要な局面で必ず、な』

 頭に響く穏やかな声が反芻されて、雛里の胸に込み上げてくるのは悲哀だった。
 そんな事をすれば彼がどうなるか、この世界の誰よりも時間を共に過ごしてきた彼女に分からないはずが無かった。
 思想も、掲げるモノも、進む道筋も同じである曹操の元で長い期間耐え忍ぶなど……どれだけのモノを跳ね除けなければいけないのか。
 大きな信頼と力を得る為に絆を繋ぐ事は間違いない。友は自然と出来てしまうだろう。もしかしたら……彼の事を慕い、想いを告げる女性も出てくるかもしれない。
 否、曹操ならば、彼の臣従を嘘と看破し、彼自ら裏切りを行う事を妨害する。戦場を共に駆ける戦友や平穏な日常を感じさせる友と言ったモノを作るように思考誘導し、そういったあらゆる『善良な』手段を駆使して秋斗を留めようとする事は想像に難くなかった。
 暖かくて残酷な鎖を幾多もつけられた状態で、一番同じような存在である、既に求めてしまっている曹操自体を裏切るなど……どれだけの痛みと重圧を伴うことか。新しく繋いだ絆の全てを、乱世の勝利を確信したその時点で断ち切る痛みなど雛里には想像も出来なかった。そして自身が掲げるモノに矛盾してまで桃香を信じきる……自分の矜持を捨てる事は自分では無くなると同義であり、その莫大な重圧はどれほどのモノなのかも分からなかった。
 乱世の最後に、たった一人で裏切り者の汚名を被って全てを終わらせる。嘘をつき続けて自身の心を切り刻む。それが彼の選んだ答えだった。
 苦しまないはずが無く、壊れないわけが無い。一人ぼっちで獅子身中の虫となり、世界を変えるなど出来るわけが無い。雛里と月と詠が支えているからこそ、彼は壊れないでいるのだから。
 そう考えて、はらりと涙が零れた。
 きゅっと唇を引き結び、彼女は思考を巡らせる。
 雛里は交渉の結果、桃香が秋斗含めた幾人かを切り捨てると選択をしたなら、彼の望む通りにするつもりだった。

――離れるのは嫌。会えないのは寂しい。せっかく想いが繋がったのに……秋斗さんと一緒にいられないなんて絶対に嫌だ。でも……彼が望むのなら私は応えたい。秋斗さんと並び立つに相応しい私になりたいから、壊れそうになろうとも耐えてみせよう。彼が壊れてしまわない事を遠くで信じながら。それが秋斗さんの為、誰かが信じてこそ秋斗さんは壊れないでいられるから。

 幾分か壊れるであろう事が分かっているのに、どうか壊れないでと矛盾を願いながら、雛里は覚悟を固めて行く。たった一人でも彼の事を信じ抜く……そうすれば人としての最後のラインは保たれて平穏な治世の中で徐々に落ち着けて行けるのだと言い聞かせていく。
 彼がそのまま曹操軍に骨を埋めるという考えは無かった。何故ならば、彼がこれまで劉備軍内部で自分を殺してきたように、曹操軍でも自身を圧し殺すだけなのだから。
 同時に、桃香が選べない時の事も考えていた。自身が何をするか、彼に対して何が出来るかを。
 着々と積み上げて行く思考、その中にあるのは朱里の最後の狙い。
 大徳の風評を利用した脅し。対価を下げさせて全員が助かる方法。桃香は同盟を認めて貰う為の我慢比べ程度にしか考えていなくとも、自身の親友である朱里の思考ならば全員で逃げ出す為だけを狙っていると把握していた。
 雛里の心は冷えて行く。それが為されたなら、間違いなく秋斗は絶望に落とされる事を理解して。

 桃香を信じて縋っている秋斗は、誰かを切り捨てられなかった桃香に絶望する。
 他人に信じて欲しいと願う弱い男は、自分が誰かのモノになると、己が味方に信じられなかった事によって絶望する。
 己が片腕を切り捨てて辿り着いたそこで、大陸の未来を考えられなかった、自分と違うやり方を貫き通す仲間達に絶望する。
 大切な友の命を諦観した同じ事実を持つモノは、もう一度それが出来なかった相手をこの先信じる事が出来なくなって絶望する。

 哀しみが胸を支配する中、雛里は秋斗に一つだけ聞いてみたいと思う事があった。

「秋斗さんが桃香様の立場なら何を支払いますか?」

 彼が王であったならばどんな選択をするのだろうかと考えて。もし、秋斗が桃香の代わりに劉備軍を率いていたなら――“天の御使い”として一番上に立っていたならと考えて。
 雛里は一つの確信に至っている。彼は『人』では無いのだと。
 彼の持つ論理思考は生まれ持った才では無く積み上げられたモノだと分かるのに軍師を追い抜く事があり、倫理観や常識はこの世界の誰しもから少しズレており、膨大な知識は歪にして広大だというのに情報を探してもその根幹たる起源を探せない。
 よくよく確認していけばその存在は異質。特に未来を読めるかのような先読み思考は軍師からすると逃げ出したくなるような恐ろしさがあった。
 思考能力が平均より上ではあっても、積み上げるだけでは絶対に辿り着けない場所に立っている故に……軍師である彼女にとって彼は『人』では無い。その思考も行動も、人の範疇では測る事が出来ない。
 しかし雛里にとっては些末事であった。化け物だろうとなんだろうと、彼が彼であればそれでいい。他の人間であれば排除しようと躍起になるだろうが、心の本質を間近で見てきた雛里は気にならず。
 秋斗が誰にも自身の事を打ち明けないのはその事柄からだと理解していた。異常な存在は社会に於いて受け入れが難しい。たった一人だけの例外的存在は才の有無に関わらず拒絶される事が多く、理不尽に責められる事も、排斥される事もあるのだ。天から来た人ならざるモノであるならば、人の世に関与するなと言うモノは必ず出てくる。救国の英雄であろうと平穏な世になると胸の内から来る怯えに勝てず串刺しにするのが人であり、化け物を倒すのはいつだって人なのだ。
 平穏な世に於いても受け入れられなければ世界を変えられない。最悪の事態を念頭に入れて行動する秋斗だからこそ、誰にも話さないのだと雛里は考えていた。
 秋斗は質問を受け、緩慢な動作で雛里の頭に乗せていた首を上げた。

「……桃香こそが大陸の王に相応しいんだ。俺は乱世に振るわれるただの剣なんだ。だからその質問は無意味だよ、雛里」

 ぎゅっと目を瞑って、雛里は胸に来る痛みに耐えた。片腕たる副長さえも切り捨てた彼はもう信じ抜かないと持たないのだと理解して。
 その証拠に、秋斗の声は震えていた。万に一つの可能性であってもそのような事態にはならないと……思考から追い出すように、逃げ出すように。

「戯れです。少し……聞いてみたかっただけですから」

 小さく、涙と共に零した言葉。風に流れて、秋斗の肌にその雫が落ちる。緩い吐息を吐いた秋斗はしばしの沈黙の後にゆっくりと話始めた。

「そうさな、俺が桃香の立場なら……愛紗だけは間違いなく払う。主の為に動く忠臣たる彼女を支払う。無言の信頼を瞳に乗せてその背を送り出す。愛紗は……主の為にと辛い役を引き受けられる、汚名を被る事が出来る曲がらない芯の通った人だから」

 切り捨てられたなら、これから自分が行うであろう選択を愛紗もすると、秋斗はそう言っている。
 意見が衝突することの多い二人であるのに、そこまでお互いへの信頼が高かった事に雛里は驚愕していた。

「きっと曹操に絆されずに愛紗は遣り切るだろう。愛紗は自身の基準線を間違えない稀有な存在なんだ。だからこそ、俺は愛紗を送り出す。戦う事があったとしても最後には俺達の元に帰ってくるだろうと信じて、何も言わずに信頼を瞳に乗せて伝える」

 寄り掛かっていた身体を引き上げ、ふっと息を付いた秋斗は遠くを見据えた。既に交渉が行われているなら、もしかしたら愛紗が求められているかもしれないと考えながら。
 雛里は急に身体を離されて……寂しさが湧いた為に温もりを求めようと秋斗にくっついた。少しだけ、彼と瞳を合わせられるよう顔を上げて。
 合わさった黒と翡翠。交差するのは想い、交錯するのは思考であった。
 雛里は昔と同じように悔いた。秋斗の事を見抜けていなかったと。彼を王として立てるか……もしくは黄巾の終わり、城壁の上で相対していた曹操の元に行かせる事が出来ていればと。
 無言の信頼ほど臣下にとってありがたいモノは無い。言わなければ伝わらない事がほとんどであるが、絆が強ければ強い程にそれは生きてくる。現に徐晃隊はその代名詞と言っていいほどに育ったのだから。劉備軍内部に於いて、既に一つの軍として確立させる事が出来ていたと言ってよかった。
 不安と後悔が渦巻く雛里の瞳を受けて……すっと、秋斗は雛里の額に口付けを落とした。心配いらないというように、自分を信じてくれと言うように、仲間を信じてやれと言うように。

「あわわぁ……」

 頬を朱に染めた雛里は口付けを落とされた箇所を抑えて、秋斗から身体を離して蹲る。その愛らしさに苦笑して、秋斗は彼女の頭を撫でた。
 しばしの無言、恥ずかしさと嬉しさを誤魔化す為に大きく息を付いた雛里は、グッと拳を握ってある決意を固めた。

「徐晃隊の願いを……聞きました」

 ポツリと零された言葉に秋斗の腕はピクリと跳ねる。心に来る痛みから、皆との楽しい日々を思い出して。

「あなたの元で戦えたらそれだけで幸せとおっしゃってました。どんなカタチであろうと秋斗さんが平穏な世を作り出して、平穏に暮らしてくれるならそれでいい……と」

――例え所属する軍を変えても。あなたが好きなように生きてくれるなら、彼らはそれでいいんです。

 秋斗が桃香の元を離れない理由が分からないから、大きく広げてその想いを彼に伝えた。今は苦しめないように、後々に本当の意味を伝える事が出来るようにと。

「……そうか。ありがとう、伝えてくれて」

 言葉は少なく、声は穏やか。
 徐晃隊の想いを受け取った彼は少しだけ安らいだ。引き摺る想いの鎖が少しだけ緩まった。頭に響くはずの怨嗟の声が彼らのおかげで抑えられていた。

「あいつらの分まで多くの人に平穏を与えてやろう。あいつらの分まで俺達は幸せを見つけてやろう。それが俺達に出来る事だろうよ」

 コクコクと、雛里は何も言わずに頷き、そして幾分かの間を置いて、

「私があなたの羽になります。そうすれば多くの幸せを探せますから」

 笑顔を秋斗に向けた。多くの意味を隠して、されども本心を真っ直ぐに伝える彼女の笑顔は、何よりも彼の心に安息を齎した。

「ははっ、雛里にはほんっとに敵わないな。じゃあ俺はお前の脚になろう。羽を休めている時も、いつだって幸せを探せるように」

 楽しそうに、彼も笑顔を返してくしゃりと彼女の頭を撫でた。
 それからどれだけ走っただろうか。
 漸く、彼らの目にぽつぽつと篝火が見え始めた。近くなるにつれて多く、はっきりとしてくるその灯りは……彼の希望の火であり、彼女の願いの火。

「月光、お前にも世話になる。いつもありがとうな。もうすぐだからあとちょっとだけ頑張ってくれ」

 優しく、首を撫でながら紡がれた言葉に、月光は気にするなと小さく嘶いた。雛里も愛おしげにその首を撫でた。
 まだ余裕だ、これくらい訳は無い。そう示すかのように月光はスピードを上げる。幾多の影が蠢く陣はもうすぐそこに迫っていた。


 そうして、彼と彼女は……絶望の場に辿り着いた。



 †



 陣内の入り口付近で慌ただしく次の行動に移る手伝いをしていた月と詠の表情は暗い。同盟では無く通行許可が下りたと報告があったからである。
 秋斗や雛里と分かれてから、彼女達は同盟が成功すると判断していたが、曹操はそれを容易く打ち砕いた。
 報告を聞いて……何を対価にと、二人はそれぞれ考えていた。
 どちらもの頭に思い浮かぶのは一人の男。曹操の思考ならば同盟であっても通行許可であっても、誰を求めるかくらいは二人も読めていた。
 月は今までにない程に胸が締め付けられていた。秋斗がどんな人間であるのか、切り捨てられた先でも世界の為に動く事を理解していた。
 誰にも秘密の二人だけの夜を思い出すと、どれだけ彼が苦しむのかと考えてしまう。

――私は何も出来ないのかな。一人ぼっちになってしまったら、あの人はもう持たないのに。

 表情を昏く落とし、あくせくと動きながらも彼の事を考えていると、ふいにトンと背中を叩かれた。

「へうっ」

 小さく声を上げて振り向くと厳しく眉根を寄せた詠が居た。子供っぽい口癖を出してしまっても真剣な眼差しで月の事を見つめている。

「……どっちが行く?」

 短く問いかけられたが、月はすぐさま考えを共有出来てしまう。
 本来なら同盟が成立し、ある程度の期間がある為にその時決めようと話していたが、こうなってしまってはじっくり話し合う時間も無い。
 秋斗は一人では持たない。しかし二人共が行くわけにもいかない。彼女達にとって、雛里も支えるべき対象となっていた。

「ボクは月が無事に生きてくれることを望んでるし出来ればずっと傍に居たい。でももう間違いたくないの。だから月が自分のしたい事を選んで。親友として、家族として、月の望みを叶えたい」

 目を離さずに、少しの悲哀と後悔を乗せる詠。連合の時に自分の望みだけを優先したから、もう月の心を一番にしようと思っていた。
 静かに見つめ返す月は自身の心と向き合っていた。
 誰かの為になりたいと願うのは月にとっていつもの事。秋斗と雛里、どちらも大切になった存在で、離れたくないと感じていた。
 ただ……彼と離れるとなると寂しい想いと共に少しだけ心にもやが掛かる。それが何かは明確には分からず。
 しかし、いつもなら詠の方が頭もいいのだからと雛里を支えようとしたはずだった自分に気付き、もやが一寸だけ晴れて行く。

――そうか。私が秋斗さんを支えたいんだ。詠ちゃんの方が助けになるけど、私は自分で彼の手助けをしたいと思ってるんだ。

 王の立場は個人を薄くする。自分がどうしたいか、というのを曖昧にする事もあるのだ。一人の王であった彼女は随分前から個人が薄くなってしまっていた。
 他人から与えられたわけでなく、周りの状況でそうなったわけでなく、内から出る望みを理解した彼女はゆっくりと口を開く。

「詠ちゃんごめん。私が行きたい。何も出来ないかもしれないけど私があの人を支えたい」

 申し訳なさげながらも力強い瞳を向けられ、寂しさを瞳に宿した詠はじっと見つめ返した。
 詠にとって月は半身と言っても過言では無く、その答えが無意識に発露した感情からのモノであると理解していた。

「……そう。ならこっちは任せて。次に会う時まで、ね」
「ありがとう詠ちゃん」

 軽く返しながらも、もやもやと詠の心は曇り行く。自分の愛する者が誰かを求めたのだから当然。嬉しくもあり、哀しくもある。
 そして素直ではない彼女は気付けなかった。そのもやには月と同じモノも含まれている事に。
 二人はそのまま何も言わずに作業を続け……幾分か後に、大きな声が聴こえた。

「な、何があったんだよ秋斗!?」

 待ち人の帰還を告げるならばもっと暖かいモノが良かっただろう。白蓮の焦った声は陣内によく響いた。
 入口付近に居た為に、耳に入ると同時に彼女達はその場へと駆けだしていた。
 すぐそこで目に入ったのは黒い大きな男と魔女帽子を被った小さな女の子。その二人の前には白蓮が立っていた。

「袁紹軍の待ち伏せにあったんだ。率いていた徐晃隊は全滅、生き残ったのは俺と雛里だけだ」
「敵の数は!?」
「二万くらいでした。ただ……あちらには八割がたの被害を与え、さらに橋を落としたので此処に辿り着くのは遅れるでしょう」

 唖然と、白蓮は口を開けていた。徐晃隊が全滅する事への驚愕と、短時間の逃亡戦であるのに敵軍に大打撃を与えた彼らが信じられなくて。

「秋斗さん! 雛里ちゃん!」
「大丈夫!?」

 その場に駆け寄った月と詠は二人の有様を見て悲痛な表情に変わる。
 ボロボロの衣服、顔は泥にまみれ、髪も乱れている。秋斗の服にはそこかしこに血がこびり付いており、顔は蒼白であった。

「よう、久しぶりだな二人共。無事で何よりだ。俺達はこうして生きてるんだから大丈夫さ」

 相も変わらず飄々とした態度で月と詠の事を思いやる秋斗。彼が言った報告を聞いてしまった為に、その異質さが際立っていた。
 グッと、二人の胸の内に来るのは膨大な悲哀。
 自分達によくしてくれた徐晃隊が全滅。前までは兵とまで深く繋がっていなかった為に、彼らが死んでしまったというのは二人にとっても大きな痛みを齎した。
 同時に、秋斗の様子がさらに異常に見えた。
 全滅しても尚、普段と変わらない。あれだけ笑い合って、ふざけ合って、繋がっていたというのに。一体その心はどれほどに傷ついて来たのかと凍りつくような痛みが込み上げる。
 どちらともなく、月と詠が何か尋ねようとしたのだが、誰かの駆けて来る足音が聞こえて口を噤んだ。二人が振り返って見やると秋斗がずっと会っていなかった人物が駆けてきていた。

「星……久しぶりだな」

 速度を緩めて歩きに変わり、どうにかいつものように声を紡ごうとした星であったが言葉に詰まる。
 何を話すか彼女なりに考えていた。きっと彼の事だろうからからかった方がいいと思っていた。だというのに……そこにいるのはボロボロに成り果てた想い人。
 聡い彼女は周りに彼の部下が一人も居ない事を見て、何があったのか分かってしまった。彼も、白蓮のように部下を切り捨てたのだ、と。
 弱く心が落ちて行き始める。しかし彼女は昇龍。無理やりに自身を奮い立たせ、

「クク、相も変わらずに女子といちゃついているとは……おかえりなさい、秋斗殿」

 意地の悪い笑み、後に優しい笑顔で彼を迎えた。そんな友からの心遣いを間違う秋斗では無く、彼もにやりと笑い返した。

「ただいま、意地っ張りめ。俺との再会には目もくれずに槍といちゃついてたお前に言われたくはないな」

 秋斗と星のやり取りを見て、詠と月は茫然とした。何も言わずともお互いを分かり合う友とはこういうモノなのだと感じながら。
 その横で白蓮はほっと息を付いていた。自身とは違い、部下を切り捨てても張りつめていない事を確認出来た為に。
 雛里だけは顔を俯けて何も言わず、皆に見えないように秋斗の服の裾をクイと引いた。それを受けて秋斗は小さく苦笑する。

――分かってるよ雛里。陣の撤去が進んでるって事は曹操の提案を受けたって事だろう。俺が直接桃香に支払った対価を聞いて、他の誰かを払っていたなら曹操に独自交渉をしに行かないとダメだからな。

「こうして喋ってるのもいいんだが先に報告に行かせてくれ。桃香は何処だ?」
「桃香はまだ交渉用の天幕、右に真っ直ぐいった所に建てた其処にいる。何故かまだ曹操もそこにいるけど……兵に報告を任せた方がいいんじゃないか?」

 ピクリと、雛里の肩が跳ねる。

――曹操さんがそこにいるなら……彼に対してより大きな絶望が皆の前で降りかかる。なら私は彼を支えないと。

 秋斗は訝しげに白蓮を見つめるも、曹操が一緒に居るのなら好都合だと思い、同時に白蓮の気遣いの暖かさからふっと笑みを零した。

「いや、俺が直接報告したい。雛里は――」
「一緒に行きます!」

 バッと顔を上げ、眉根を寄せて秋斗を見上げた。驚いたのは周りの四人。大人しい雛里がそこまで必死になるとは誰も思わなかったのだ。

「そうか。なら一緒に行こう。ごめんな皆、また後で話そう」

 一瞬だけ、名残惜しそうな目で見まわしてから秋斗が歩き初め、雛里は月と詠に小さく首を振ってから目くばせを送る。後で必ず説明するから、というように。
 そして星の横を通り過ぎながら、

「……ごめんなさい、星さん」

 ポツリと一言零した。
 星と白蓮はどのような結果となっても秋斗とは長い期間会えなくなる。結果を待たず星だけに言ったのは恋敵であったが故のこと。
 星はその発言に勘違いの予測、彼と雛里が結ばれたかもしれないと考えて小さく喉を鳴らす。

――雛里に先を越されたか。まあ、その程度で諦める私では無いが。

 白蓮は月と詠に近付き、秋斗の真名を呼んだ二人に話しかけた。

「二人は秋斗と真名を交換してるんだな。秋斗は変な奴だけど女に見境が無いわけじゃないからそういう関係じゃないのは分かってる。また今度、落ち着いた時に私の知らないあいつの笑い話を聞かせてくれ」
「……ありがとう。じゃあ今は作業に集中しましょ」

 白蓮がにっと笑いかけて、ほっと息を付いた詠と月。
 彼女達は今まで話した事が無く、白蓮は本城で騎馬隊の管理に精を出していた為に秋斗御付きの侍女であるくらいしか知らなかった。それでさえ本隊に到着してから初めて聞かされたのだ。
 じーっと駆けて行く二人を星は見つめて、その姿が消えた頃に大きくため息を吐いた。

「秋斗殿の周りには見た目の幼い者が多すぎる」
「ふふ、まあ今度じっくり酒を飲みながら問い詰めてやろう」
「いいですな。雛里の事も含めて彼には全てを話して貰わなければ」
「あー、なんか前よりも距離が近かったもんな。とりあえず私達は鈴々の手伝いに行こうか。秋斗と昼飯のおかずを取り合いした話を聞かせてくれるって言ってたし」
「ほう……食事にうるさい秋斗殿とやりあうとは……鈴々は見所があるやも――」

 いつものように、白蓮と星は笑い合いながら行軍準備の為に歩み始めた。
 彼が無事に辿り着いた事が嬉しくて。これからは幽州の時のように……一人足りなくともあの時のような平穏が戻ってくるのだと実感しながら。
 ただ……彼女達二人は秋斗と雛里の事を知らなさ過ぎた。
 黒麒麟の願いが何であるのか、鳳凰の望みが何であるのかを知らなさ過ぎた。



 †


 秋斗と雛里の帰還報告が入り、天幕内は静寂に包まれていた。その兵は秋斗が余りにも傷だらけで、さらには徐晃隊が追随していなかった為に急ぎの報告を届けただけであり、指示されて来たわけでは無い。
 すっと目を細めた華琳は笑みを深める。自身の隊を置き去りにしてでも将と軍師の命を取ったのかと予測し、間違いなくこちら側の人間であると再確認して。
 桃香は直ぐに立ち上がって天幕を出て行こうとしたが……

「何処へ行こうというのかしら? 徐晃が詳しい報告の兵を寄越さなかったのだから自分で来るという事でしょう。あなたも王ならば、それ相応の態度で部下の帰還を迎えてあげなさい」

 椅子にゆったりと座る華琳に止められた。しかしそのまま、桃香は華琳を睨みつける。

「秋斗さんは仲間です。心配して何が悪いんですか。戦って抜けてきたなら、誰であろうと疲れているでしょう? 無理をさせない為に私が動くんです」
「仲間、ね。確かに徐晃と鳳統は傷ついて疲弊しているでしょう。それなら好きにしなさい……と言いたい所だけれどそういう訳にも行かないわ。ふふ、面白い提案をしましょう」
「……面白い提案?」

 今すぐにでも飛び出して無事を確認したい気持ちを抑えたまま、華琳を睨み続ける桃香。
 朱里は目を見開き、自身の思考に潜っていく。愛紗はぎゅっと拳を握って、秋斗がどんな状態か予測しているのに楽しげに話す華琳への苛立ちを堪えていた。

「ええ。先の交渉で示した対価はあなた達が治めた後の益州と荊州にしたけれど……もし、徐晃か鳳統が新しく交渉を望んだのなら無しでいいわ。そして私はその交渉の内容によっては対価を変える」

 桃香も朱里も愛紗も、華琳の発言に耳を疑った。三人の驚愕の表情を見て、満足したように頷いた華琳は続ける。

「先の交渉は余りにも中心人物が足りなかったわ。劉備軍としての表の顔は見せて貰った。なら……裏の顔はどうかと言っているのよ」

 劉備軍である三人はその言葉に信じられないというように首を振るだけであった。秋斗が、雛里が……自分達とは違う事を選ぶと華琳は言っているのだから当然のこと。
 ゆるりと、朱里の顔は血の気を失っていく。がらがらと足元の全てが崩れて行く間隔に陥っていた。彼女は思い出したのだ。洛陽で彼が何を話していたか、その時に自分が彼の事をどんな存在と評価したかを。

――秋斗さんは劉備軍の裏の王。徳では無く規律で秩序を齎して覇の道を進む人。そして雛里ちゃんは……一番近くで彼の影響を受け続けた軍師。だから『劉備軍』はもう一つ存在すると、曹操さんは言ってるんだ。

 劉備軍は秋斗の発言によって真っ二つに分かれる可能性を持っていた。桃香と秋斗が対立しなかったからこそ、同じ軍として纏まっていたのだ。
 それに気付いてしまった朱里の身体は震えはじめる。何故、自分はもっと彼の事を見ていなかった、彼の近くに居なかったと後悔に心を沈めて行く。
 動揺にブレる朱里の目を見つめて、理解したならもう興味は無いというように華琳は目を切った。次に思考が纏まっていない桃香を真っ直ぐに見つめ、口の端を吊り上げた。

「あなたの仲間とやらを信じてみなさい。信じているのなら、あなたは徐晃への心配を抑え付け、徐晃達が入って来てからも問いかけられない限りは口を噤む事ね。大切な仲間を信じているなら出来るでしょう?」
「それはっ――」
「あなたには聞いていないのよ諸葛亮。あなたが準備した交渉の席は既に終わった。これは私が用意する交渉の席なのだから……軍師如きが口を挟むな」

 華琳の提案とは言い難い思考誘導に気付いた朱里はどうにか阻止しようと口を挟むも、すっと細めた目を向けられただけで制される。
 彼女はそれの経験があった。洛陽で、彼がたった一人に答えを促した時と同じモノ。圧倒的な覇気が包む天幕に誰しも嫌な汗が流れ落ちる。
 本物の王と軍師では格が違うのだ。言葉を紡ぐ事が出来るのはただ一人。王として責任を全うせんと、心を高く持って進もうと決めた桃香だけであった。
 ゴクリと生唾を呑み込んだ桃香は華琳を厳しく睨みつけた。

「いいですよ。ただし対価の話を曹操さんから切り出すのは無しとしてください。秋斗さんと雛里ちゃんが交渉を望むなら、私達と同じ対価を支払おうとするはずですから。もし、秋斗さん達が交渉を始めるとしても二人に任せます」

 桃香は華琳の思考誘導に乗ってしまった。
 仲間を信じるならと言われては乗らざるを得なかった。彼女が目指すモノ、その根幹は近しいモノから始まったがゆえに。
 秋斗と雛里ならば先の交渉をなぞる、と桃香は信じていた。華琳の発言をある程度制限したのはその証明。
 朱里の瞳は絶望に染まる。終わった交渉の再発。こんな事態になるとは思いもよらなかったのだ。
 彼女は覇王を見誤っていた。引っくり返った形勢は戻らない。どんな交渉が行われようとも、秋斗は華琳の元に行くと理解していて、それを覆す事が出来るのは朱里では無く雛里だけなのも分かっていた。
 桃香の答えを聞き、心の内で華琳は笑みを深めた。

――掛かった。これで劉備と徐晃に逃げ場はない。絶望の底に堕ちて、二人それぞれが個として確立される事になる。

 桃香は朱里にとっての絶望の切符にサインした。桂花は己が主の本気を見た事によって歓喜を抑え切れず、両手で口元を覆って笑みを隠した。
 がっくりと項垂れる朱里を見て、愛紗は訝しげに問いかけた。

「朱里? どうしたというのだ」

 朱里は答えず。俯いたままでぶつぶつと言葉を零し続ける。幾つも、幾つもこれから行われる交渉の筋道を計算して、どれもが自身の願いに届かない為にその声は震えはじめた。
 蒼褪めた顔も、震える声も何かに怯えているかのよう。心配になって近づいた愛紗はその言葉を聞いてしまった。

「これじゃダメだ。秋斗さんが取られる。私のせいだ。兵を犠牲にしてでも逃げればよかった。最悪でも孫策軍に降ればよかった。失敗した。もうあの人は帰って来ない。嫌だ、いやだ。それだけは嫌。あの人と戦うのは嫌。あの人と殺し合うのは嫌。だってあの人は……仲間でさえ躊躇いなく……切り捨てるんだから。それに……あの人は……」

 愛紗は朱里の余りの異様さに悪寒が身体を駆け巡る。自身よりも頭のいい彼女が絶望している事が理解出来ない。朱里が秋斗を信じていない事が理解出来ない。朱里が彼に怯えている事が理解出来ない。
 朱里が怯えているのは二つ。彼が敵に対して容赦しないという事と、彼の知識がどれほどのモノであるのか正しく把握しているからであった。

「落ち着け朱里!」

 肩を掴み、大きく声を出して朱里を揺さぶると……ゆっくりと顔を上げて、泣き笑いの顔で愛紗を見つめた。その瞳は昏く濁り、現実を知って心が折れかけた洛陽に於けるあの時のようだった。
 何かを求めるように朱里は愛紗に抱きつく。桃香はその背を抱きしめた。大丈夫、大丈夫と優しく諭して頭を撫でながら。
 哀れな……と誰に聞こえずとも零したのは桂花。嘗てその才を間近で感じていた為に、朱里が自分のような主に仕えられたらと同情してしまうのも詮無きこと。
 異常な空間となった天幕で、突如春蘭が勢いよく振り向いた。
 徐々に、ゆっくりと近付いてくる足音は引き摺るようなモノと、小さなモノ。華琳の斜め前に立ち、春蘭は警戒をあらわにする。

「劉備様、徐公明と鳳士元……ただ今到着しました。報告の為に天幕に入ってもよろしいでしょうか」

 公式の場に於いて敬語で話す彼はいつも通り……では無く、その声音は丁寧で堅苦しいながらも重く冷たい響きを持っていた。
 華琳の背にはゾクゾクと快感が走る。

――その実は熟したか。お前の為に私の力を全て使った。だからもう、我慢しないわよ徐晃。大人しく私のモノになり、ひれ伏しなさい。

「うん。入って」

 愛紗と共に朱里を抱きながらの桃香による返答。緊張と心配から口を引き結んで眉根を寄せての声は少し震えていた。
 数瞬の間を置いて天幕の入り口が開き……漸く、黒麒麟と鳳凰が交渉の戦場へと姿を現した。



 †



 静寂が包む天幕の中、まず秋斗の目に入ったのは朱里の怯えた瞳だった。愛紗と桃香に挟まれて彼を見ている。小さく口を動かして、謝っているように思えた。
 愛紗はいつも通りに彼を厳しく見やるも、凛としたその表情は不安に染まっていた。
 桃香はただ、信頼の籠った瞳を向け続けている。

「おかえりなさい秋斗さん、雛里ちゃん。無事で良かった……」

 優しく、ほんわりとした声音は普段の桃香のまま。公式の場である為に秋斗と雛里はすっと礼を返して……されども優しく微笑んだ。心配を向けてくれる彼女の心を個人としても受け取ったと伝える為に。
 次いで、秋斗が視線を動かすと夏候惇と許緒の姿。敵意をむき出しで見られているが、許緒の口の端にどら焼きの食べかすが付いていて秋斗は少し苦笑する。
 荀彧は敵意の面では一番酷かった。今にも飛びかからんばかりの怒気と殺気を込めて睨み、ギリギリと憎らしげに歯を噛みしめていた。
 その後ろに……獲物を狙う鋭い視線を湛えて、楽しげに口を引き裂く秋斗の敵が居座っていた。目線を合わせるとその覇気に圧されそうになった。それを受けて、雛里は秋斗の後ろに隠れる。

「お久しぶりです、曹操殿。夏候惇殿も許緒も荀彧殿も久しぶりだな。それとな許緒、食べかすが付いてるから取っておけ。曹操殿の品位に関わる」

 言うとキョトンと目を丸めて直ぐにグシグシと手で拭いながら彼を睨みつけ……ようとして荀彧に頭を叩かれて涙目になりながら首を竦める。

――おいおい、曹操が少し不機嫌になったぞ。

 苦笑を一つ。後に秋斗が目を細めて曹操を見据えると……ため息をついて目を伏せた。せっかく盛り上がっていた気分に水を差された為に、華琳の気分は一寸だけ落ちて行く。

「興を削がれたわ。先に報告を済ませなさい」

 まるで自分の配下に接するような高圧的な態度は秋斗にとって懐かしく感じられた。
 気持ちを切り替えて後ろを振り向き、雛里と視線を合わせてコクリと頷き合う。これから何を行うかは二人共が理解していた。
 ゆっくりと二人で桃香の前に歩み寄り、同時に膝を折って礼の姿勢を取った。

「報告します。行軍中、袁紹軍の策に嵌り徐晃隊は全滅。敵の数は二万弱。ただ、大打撃を与えた上で橋を落としたのでこちらへの追撃は一日超の遅れを伴うと思われます」

 皆が絶句した。当たり前の事だ。秋斗の部隊の数は七千と聞いていたのだから、全滅するなど有り得ない事であった。置き去り、と考えるのが妥当なのだ。

「そんな……あの徐晃隊が全滅したのですか!?」
「秋斗さん、本当なの?」
「全滅です。私が連れていた部隊は一人残らず忠義を果たしました」

 愛紗も桃香も、秋斗が答えを返すと悲壮に顔を歪ませた。
 朱里だけは悔しさを映し出していた。自身が嫌う夕の手腕から徐晃隊の全滅という結果になったと判断して。

――生き抜いて俺を助けろ、なんざ叶わない望みなんだ。あいつらはバカだから、俺の為に死んだだろう。俺の与えた命令を遂行した後、命を繋ぎ止めたなら生きようとするだろうが、あの高さの崖と渓流じゃ一人の生存も期待できない。だからバカ共……俺と一緒に世界を変えよう。

 頭の内に彼らの楽しそうな笑い声が聞こえた気がして、秋斗は穏やかな表情に変わる。自分と共に、桃香による天下統一を成し遂げようと散って行った彼らに想いを向けていた。
 徐晃隊の全滅報告は場の空気を最悪にまで落としていく。しかしただ一人、華琳だけはその報告に違和感を覚えていた。

「徐晃、あなたの連れていた部隊の数を教えて貰えるかしら?」

 凛と鈴がなるように冷徹な声で問いかけられるも、秋斗はそちらを向かずに背中越しに喉を鳴らした。

「我らが軍の情報をあなたに教える事は出来ません。情報を得たいというのなら何を差し出して下さるのですか?」

 ビシリと、空気が凍りつく。春蘭、桂花、季衣の三人は華琳の方を見ずに対応をする彼の、あまりにも非礼な発言に殺気を膨らませて行く。
 しかし華琳は……うっとりと表情を綻ばせ、彼の大きな背を見つめてその思惑を読み解き始めた。

――交渉の結果をまだ聞かないと言う事は、やはり自分が何かを支払って対価を変える為か。いや……同盟が結ばれたかどうかを確かめているのか。本当にこの男は楽しませてくれる。

 同時に思考を戦にも展開していく。徐晃の隊が四倍モノ袁術軍を退ける精強さを持ち、鳳士元を連れていながら愚かしく真っ直ぐに突っ切ってくるだけのはずがない。だというなら、袁家の策が上回ったということか、もしくは徐晃がわざと部隊の数を減らしていたということ。そう華琳は判断した。

「ふふ、三人とも落ち着きなさい。そうね、私達と劉備軍は同盟をしているわけでは無いのだから、そちらの事情に口を出すのはお門違いだったわ」

 華琳が言葉を放つと桃香の表情が引き攣った。次いで、秋斗の伏せた顔をじっと見やる。
 誰かを救いたくて仕方ない秋斗ならば自分と同じように同盟を願っているだろうと信じ、きっと華琳に口を出すだろうと思っていたのだ。しかし……桃香の考えは呆気なく否定される。
 数瞬の間を置き、秋斗は華琳の方を向いて頭を下げた。

「……同盟は為されなかったんですね。曹操殿が未だ此処にいるという事は他の事柄が提案されて、それを劉備様が受けたという事なのでしょう。軍自体の通行許可、といった所かとお見受けします。我らが軍を助けて下さりありがとうございます」

 礼を言った後、直ぐに秋斗は桃香の前に身体を向けた。自分は桃香の部下であると示す為に一度も顔を上げずに。

「所で劉備様……何を対価に支払ったか聞かせて頂きたい。関羽ですか? 張飛ですか? 公孫賛や趙雲ですか? それとも……私でしょうか。さすがに軍師二人は無いとは思いますが……」

 大きく息を呑んだのは誰であったか。天幕内の空気は張りつめて行く。交渉に参加していないというのに、まるで交渉を見ていたかのような予測、己自身でさえ対価に入ると彼が見越していた事に覇王と鳳凰以外の全ての者が驚愕に染まる。
 平坦な声音で、なんのことは無いというように紡がれた言葉は桃香と愛紗の心を大きく抉った。朱里は……重ねて胸に圧しかかる絶望によって、するりと白羽扇を手から落とした。
 雛里は秋斗の隣で顔を伏せていた。誰の顔も見ようともせず思考に潜り込み、覇王と大徳が次に発する言葉を幾多も予測し、どの時機で己が割り込むかと考えていた。
 異様な空気を感じ取っていようとも秋斗は顔を上げず、大徳の臣たる姿を覇王に見せつけるように頭を垂れ続けていた。
 劉備軍の者は誰も話す事が出来なかった。それを見て、華琳は口の端を歪めて楽しそうに小さく笑う。

「単騎でしか抜けられない程の戦を終えてきた徐晃が聞いているというのに、どうして答えてあげないのかしら?」

 冷たい問いかけは桃香を追い詰めて行く。今、桃香の心はぐちゃぐちゃに乱れていた。秋斗が自分とは違い、華琳の提案を自ら肯定するとは思ってはいなかった為に。
 対して秋斗は思考を回していた。

――曹操が俺の発言を肯定したのだから予測は現実となったんだろう。桃香は返答に詰まる程の対価を呑んでいる……なら俺と愛紗が妥当か。

 着々と理論展開を頭に積み上げて、如何に自分一人を曹操への対価にしようかと考えていた。
 そこに……絶望の答えへの予測が放たれる。敵では無く、彼の愛する者から。

「朱里ちゃん……まさかとは思うけど特定の人物での対価を無しにしたわけじゃないよね?」

 瞬間、秋斗の思考は真っ白になる。信頼を置く雛里の言葉はそれだけの影響力を持っていた。思考放棄したのではなく、ただ何も考えられなくなった。
 顔を上げた雛里の瞳は冷たく光り輝いていた。その場にいるのは鳳凰。彼を守る為だけにその力を使わんとする軍師。
 凍てつく瞳に射抜かれて……朱里の身体は震えはじめる。初めて見る親友の冷たい姿は彼女に恐怖を与えていた。 
 この場で答えないというのは肯定に等しく、雛里は興味を失ったかのようにすっと目を伏せて華琳の方を向いた。

「曹操様、教えて頂けますか? 我が主は何を対価に支払いましたか?」

 愛らしいはずの声は劉備軍の三人に冷たく突き刺さった。
 雛里は桃香も愛紗も朱里も直ぐに答えてくれないかもしれないと考え、彼の体調を思って迅速にこの場を終わらせる為に華琳へと問いかけただけなのだが、桃香達にとって雛里が仲間では無いような感覚に突き落とす。
 静かに、目を閉じて微笑んでいた華琳はゆっくりと目を開いて秋斗を見据えて答える。

「問いかけられたのだから私が答えましょう。劉備の支払った対価は平定した後の益州と荊州よ。私が先に提示した対価である徐公明と公孫賛の身柄に納得しなかったから……黄巾のよしみで引き下げてあげたのよ」

 愕然。雛里はどちらも予測していたとはいえ、心のどこかでは桃香が秋斗と同じように切り捨てるだろうと思っていた為に絶望に堕ちる。
 そして秋斗は……バッと顔を上げて桃香を見やった。本当なのかと、そう問いかけるように。
 彼の目に映るのは、曹操に何か言い返そうとするも口を噤み、悲哀と困惑の綯い交ぜになった桃香の瞳。それが教える事柄は肯定であった。
 しかし……彼は受け入れられない。受け入れられるはずが無かった。この場にいる誰よりも桃香の事を信じていたのだから……例えそれが歪んだカタチであろうとも。

「クク、ははは。ご冗談を。本当に曹操殿は戯れがお好きですね。ホットケーキでも持って来たら真実を教えてくれるんでしょうか?」

 ふるふると首を振って俯き、乾いた笑い声を上げて、楽しそうに話しかけた。
 雛里はぎゅっと拳を握りしめ、どうにか涙を零さないように耐えていた。他人から真実を告げられて、現実を受け入れて、その後にこそ彼が救われるのだと信じて。

「劉備様が納得しないわけがないんですよ。だって……白蓮を切り捨てたんだ。大切な友を、俺と同じように諦観したんだ。今更将の一人や二人を切り捨てる事が出来ないわけないでしょう? 理想の世界を作るための犠牲に俺達を含まないはずないんです」
「……現実を受け止め、思考を巡らせなさい。もう一度だけ言ってあげる。私が求めたのはお前と公孫賛だけ。二人の身柄だけで全てを救おうと言ったのよ。劉備はそれを選ばなかった。理想と現実のどちらを選んだのか……お前ならば理解出来るでしょう?」

 ビシリと、秋斗の心にヒビが入る。
 彼の心は桃香を信じる事で保っていた。桃香が劉備であるからこそ、世界を変えるには彼女が必要だからこそ耐えていた。そして……彼女達が嘘つきな自分を信じてくれるからこそ壊れずにいた。
 限定された情報は彼の思考を追い遣っていく。
 例え一時的に敵になろうとも、彼がいつまでも桃香の仲間であると信じ抜いてくれなかった、桃香の為に全てを捧げているのだと信じてくれなかった、と。
 同時に、桃香が自分の描く世界を作り出せない事を理解してしまった。矛盾の狭間で踊り続ける哀れな道化になるしかないと気付いてしまった。

――俺が敵になるはずないじゃないか。

 ゆっくりと、彼は頭を上げた。自身は無表情のまま、絶望に暮れる桃香を見つめて……涙を一つ零した。

――これだけ追い詰められてもお前は切り捨てられないのか。

 慄く唇を噛みしめて、その隙間から震える吐息を吐きだした。

――お前は同盟という擬似的な平和を選び続けるのか。

 ギシギシと心が悲鳴を上げ、頭の内に優しい三人の少女のおかげで呑み込めたはずの怨嗟の声が溢れ返っていく。

――俺の描く世界は、殺した奴等に誓った世界は、死なせたあいつらに望まれた世界は……手に入らないのか。

 彼は何も言わず、抜け殻のように桃香を見つめ続ける。
 後ろで春蘭と桂花はその姿に同情の視線を投げていた。主からの信を得られない事がどれほど苦しく辛いモノであるのかを思って。

――俺はこんな大きな矛盾を背負わないとダメなのか。もう、俺が代わりに『劉備』になる事は出来ない。だから……桃香の描く未来を作るしかないんだ。矛盾のままに、嘘を付き続けて、俺と同じ未来を描く曹操を否定して。

 ふいに莫大な痛みが頭に走り、秋斗はその身体を曲げた。

「秋斗さんっ!」

 堪らず、雛里は彼の元に駆け寄った。それが今の彼にとって一番残酷な事だと知らずに。
 頭に溢れる怨嗟の声は多く、彼を昏い白昼夢へと追い込んで行った。

 今まで殺してきたモノの目が見つめる。数え切れない人々の絶望を湛えたそれが一斉に彼を責め立てた。

 華雄の怨嗟に染まり切った声が聴こえる。偽善者徐晃、お前が作る世界は誰も望んでいない、と。

 呂布の悲哀と憎悪に染まる瞳に射抜かれる。お前の想いは誰も繋がないから殺す価値も無い、と。

 月が膝を折って泣き始める。あなたの作る世界に私は生きていたくない、と。

 詠に泣き怒りの表情で睨みつけられる。あんたは結局誰も助けてくれなかった、と。

 白蓮が壊れそうな瞳で見据えてくる。秋斗が居てくれたら私達は幽州で幸せに暮らせていたのに、と。

 牡丹が涙を零しながら詰め寄ってくる。未来を知っているのなら……どうして私達を助けてくれなかったんですか、と。

 徐晃隊の面々があらんばかりの怒りを向けて秋斗に迫りくる。御大将、俺達はあんたの描く世界の為に戦っていたのに無駄死にだ、と。

 全て無駄になった。無駄死にだ。殺人者。人殺し。偽善者。お前のせいだ。オレはなんのために。許してなどやるモノか……絡みついてくる数多の声は頭から離れるはずが無かった。

 そして最後に……それらに耐えられなくて泣き笑いの顔を横に向けた事で……彼女の存在に気付いてしまった。
 愛しい彼女は泣いていた。幾多も涙を零していた。哀しくて、辛くて、苦しくて。
 だから……夢で見たあの声が重なっていく。
 現実の声は聞こえず、白昼夢の声が彼の耳に響き渡る。たった一つ、彼を壊すには十分な言葉が突きつけられる。



『うそつき』



 ドクンと心臓が跳ね、責めるように鼓動が速くなった。走る痛みは胸を握りしめても収まる事は無く、呼吸を紡ごうとしてもどうやってそれをしていたか思い出せない。

「あぁ……許してくれ……俺は……お前に……」

 震えながら雛里に顔を向けて、引き絞るように小さな声が零れる。

「あなたは間違ってない! 自分を見失わないでっ!」
「うそつきな俺は……異物な俺は……世界の、不純物な俺は……ずっとお前を……泣かせる事、しか……出来ないんだ……ごめん……許してくれ」

 雛里の叫びは……秋斗の耳には届いていなかった。どれだけ隣にいようとも、それが彼を追い詰めて行く。何がなんでも自分から救いたいと願ったモノを、矛盾の袋小路に巻き込んでしまった罪過が重く圧し掛かり続ける。彼女をこれからも巻き込み続けなければならないという自責が、彼の心を容易く切り刻んで行く。
 理の外から齎された矛盾は先の世を想えば誰にも話す事が出来ず、彼の思考を縛り付け、逃げ道を全て塞いでしまった。雛里でさえ、彼を本当の意味で助ける事は出来ない。どれだけ想おうとも、どれだけ支えようとも。

「違いますっ! 私はあなたがいればいい! それだけでいいです! だからもう自分を責めないで! もう自分を傷つけないで! 秋斗さんっ!」
「俺には、これしかないんだ……俺は……引き摺りこむ事しか出来ないんだ……すまない……ごめん……許してくれ……」

 誰も何も言えるはずが無かった。彼と彼女に踏み込む事など出来はしなかった。
 雛里の胸には絶望が来る。壊れるかもしれないと予測していながらも、どこか安穏と構えていたのだ。彼がいつも強い姿を見せていて、自分が支えていると慢心しており、彼がいつも頼ってくれたから……自分がいれば耐えてくれると油断していた。
 傍に居る自分の事を認識さえしないとは……夢にも思わなかった。

「ああ……うあぁ! ……ぐっ、かはっ」

 ゴトリと、彼の頭が地に落ちた。
 頭を抱えて震えていた秋斗は、苦しげな声を上げた後に糸が切れた人形のように動かなくなった。

 何度も、何度も、彼女は彼の名を呼んだ。
 何度も、何度も、彼女は彼の身体を揺すった。

 しかし彼は何も反応せず、その場にただ伏し続けた。


 彼は絶望の海に堕ちた。助けられる者は……誰一人としていなかった。





 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

まず謝罪を。
一話で一区切りとするはずが、長くなりすぎたのと話の流れから三つに分けます。
ごめんなさい。

交渉は華琳様無双でした。
原作の愛紗さんって多分曹操軍に行ったとしても裏切る覚悟を持ってただろうなと考えてます。自分から行くと提案しようとして、桃香さんに止められたのですから。妄想を膨らませました。

次は誰が動くかと、交渉の後に、です。

ではまた 
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