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幸せな夫婦

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第十一章


第十一章

「野球は南海やった。戦争に行っても南海の話集めてたわ」
「ほら、そやろ?」
 芳香は康友のその言葉に突っ込みを入れる。
「それと同じやねんよ」
「御前にとってはわしか」
「そや」
 にこりと笑って言う。
「一生な。死ぬまで」
「嬉しいのう」
 女房のその言葉に顔を緩ませる。
「そこまでわしのことを想うてくれるんか」
「うちが勝手に想うてるだけやで」
「いや、それでもや」
 それでも彼は嬉しかった。そこまで想われて嬉しくない男もいない。
「わしはな。南海だけを見て楽しんでたけど今こうして御前がおって」
「どうなん?」
「最高の気分や。そういや御前と会うたのは」
 馴れ初めのことも思い出した。それは難波でのことだった。
「あそこやったか。難波の喫茶店で」
「蝶柳やね」
 難波にある喫茶店だ。少し和風も入っていて何か訳ありのような夫婦がやっている店である。恰幅のいい奥さんが評判の店である。
「御前があそこでウェイトレスしててな」
「それで知り合うて」
 それが二人の出会いだったのだ。客と店員から二人ははじまった。何度か通っているうちに話をするようになりそして、というわけであったのだ。
「そやったな。覚えてるやろ」
 ふとまた話を出してきた。
「一緒に食べた洋食」
「うん」
「あれもよかったな。エビフライが」
 二人で最初に食べたのはそれであった。戦争が終わって暫くでまだ苦労していた頃だがそれでも何とか食べたものである。
「あれは美味かったな」
「ソースも濃くて」
「何度も難波を二人で歩いてな」
「楽しかったで」
 そう言葉を交あわせる。
「あの時」
「大阪球場も行ってな」
「見出しの男が打ってな」
 岡本伊三美である。南海の名セカンドでありここぞという時に打って新聞の見出しを飾ったことからついた仇名である。後に近鉄の監督になって多くの選手を育てている。育成者としても手腕があったのは彼もまた鶴岡の弟子だったからであろうか。
「覚えてるわ」
「懐かしいね。ホンマに」
「そして今こうして一緒に歩いて」
「なあ」
 康友はまた芳香に声をかけてきた。
「忙しいけれどな。来年南海が日本一になったら」
「また一緒にやね」
「そや。デートは」
 康友は前を向いていた。そのまま女房に言う。
「また二人で。どや?」
「ええね」
 芳香はその言葉ににこりと笑ってきた。
「ほなうちも願掛けせなあかん」
「住吉さんにやな」
「そや。杉浦さんが頑張るように」
「さて、やってくれるかな」
 康友はその細くなった目で述べる。
「杉浦は」
「その為にも願掛けるんやん」
 康友の横で言う。
「そやろ?」
「けれどもう一つ願掛けたくなったで」
「何掛けるん?」
「御前とずっといたいってな」
 そのにこりとした笑みで語る。しかし前を向いたままなのはどうにも照れ臭いからであろうか。
「わしには過ぎた女房やからな」
「ちょっと、そんなん言うたら」
 今度は芳香が照れ臭くなる番だった。道で顔を赤くさせていた。
「恥ずかしいやん、ちょっと」
「わしかて恥ずかしいわ」
「それでもな」
「そうなん」
「御前のことも願うで」
 その気持ちは固まっていた。
「それでええな」
「じゃあうちも」
 芳香もそうするつもりになっていた。夫婦一緒であった。
「一緒にお願いするわ。恥ずかしいけど」
「ああ」
 康友はその言葉に頷く。二人は笑顔で住吉までの道を歩いていたのであった。二人のささやかな、久し振りのデートであった。
 願掛けから一年後、驚くべきことになった。
「勝ったわ」
 ラジオから胴上げの声が聞こえてくる。後楽園で勝利を収め今南海ナインが勝利に沸き返っていたのだ。
 杉浦の四連投四連勝の結果だった。昨年の稲尾のそれを思わせる偉業だった。今その彼が高らかに空を舞っていた。全ては杉浦の力によるものだった。
「これでうちの人も」
 康友の喜ぶ顔が見える。そして。
「御堂筋やな」
 デートの約束を思い出す。それが彼女にとって大きな力になった。
 いい女房になるのは何故か。それは夫への気持ちだった。それを持っている彼女は確かに過ぎた女房であったしそれを向けられている康友は幸せであった。幸せな夫婦の話であった。


幸せな夫婦   完



                   2007・4・1
 
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