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素顔

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第五章


第五章

「何言ってるんだ、御前も」
「いえ、さっきの話ですけれど」
 彼は困った顔で述べる。
「顔見せて欲しいって」
「それがどうしたんだ?」
「この顔ですよ」
 そう言って自分の顔を指し示して言う。
「やっぱり。あれですよ」
「見せたら困るのか」
「こんな怖い顔ですから」
 肩を小さくさせていた。本気で気にしているのがわかる。
「やっぱり。あれですよ」
「そんなこと気にするな」
 だが親方は彼にそう言う。
「顔は生まれつきだからな」
「それはそうですけれど」
「大体御前今まで自分の顔についてとかく言ったことはないじゃないか」
 親方はそれを指摘してきた。
「そうじゃないのか?」
「ええ、まあ」
 それは認める。しかしだ。
「それでも今度は」
「心配か」
「はい」
 その言葉にこくりと頷く。
「小さな女の子ですからね。やっぱり」
「御前がそんなに心配性だったとはな」
 親方はそんな言葉を聞いていてかえって意外にすら思った。
「思いもしなかったぞ」
「ですか」
「そうだよ」
 そう言葉を返す。
「とりあえずは最初の約束を果たすんだな」
「勝負に勝つことですか」
「まずはな」
 親方はそれを勧めてきた。それは正しい言葉であった。赤龍もそれに従うことにした。
「じゃあ」
「ああ、まずはそれだよ」
 またそれを勧める。
「わかったな、それで」
「わかりました」
 まずはその言葉に頷いた。頷くしかないのはわかっていた。
「まずは勝ちます」
「そうだ」
 親方はその言葉を聞いてにこりと笑った。決めるかのようにこう言ってきた。
「勝ってあの娘の病気も治してやれ」
「邪気を払ってですね」
「そうだ、御前は横綱だからな」
 力士は神儀と縁が深い。それも横綱ともなればかなりのものとされている。親方は彼にそれを言ってきているのである。
「思う存分払って来い」
「やります」
 赤龍はその言葉に元気付けられた。まずは勝負に向かうように進められたのであった。
「それを」
「よし、じゃあ今から帰って稽古だ」
「ええ」
 彼は無類の稽古好きでもある。だから横綱にまでなれたのだ。努力家でもありその面でも高く評価されている。
「勝つ為にな」
「あの娘の為に」
 二人は言い合う。美香子の為に勝つことにしたのだ。まずはそれからであった。
 試合が近付くにつれ気持ちがそちらに向かっていく。彼は他の試合も勝ち続け遂に美香子の手術の日の勝負となったのであった。
「いよいよ今日だな」
 親方がその日の朝声をかけてきた。
「用意はいいか」
「勿論です」
 赤龍は朝の稽古を終えた後であった。その場で彼に応える。
「何時でも」
「そうか。その言葉忘れるなよ」
「はい」
 赤龍はこくりと頷いた。そして夕方の試合の為に土俵に向かう。その中の車で隣に座る親方がまた言ってきた。
「あの娘の手術の時間な」
「何時ですか?」
「五時半からだ」
「それじゃあ」
 彼はそれを聞いてすぐにわかった。
「丁度勝負の時ですね」
「そうだ。だからな」
 親方はさらに言う。
「御前が勝ったその力がすぐに手術を受けているあの娘に行くんだ」
「そうですね」
 それは彼にもわかる。何かそれを聞いてかなり勇気付けられる。
「じゃあ何があっても勝ちます」
「その意気だ」
 親方もその言葉に頷いてくれた。
「何があってもだ。いいな」
「ええ。何があっても」
「相手のことは考えるな。勝つことだけを考えろ」
 親方はこうも言う。何もかも美香子のことを考えた言葉であった。
「いいな」
「ええ。勝ちます」
 赤龍はまたその言葉に頷いてみせた。強い言葉になっていた。
「絶対に」
 そう決心しながら土俵に向かう。身体を慣らしているうちに勝負の時間が近付いてきていた。
「もうか」
 五時半だ。美香子の手術が行われる時間である。
「いよいよだな」
 彼女の手術がはじまる。そして彼にも。
「おい」
 親方が声をかける。彼もそれに応える。
「ええ、じゃあ」
「勝って来い」
 それだけであった。だがそれだけで充分であった。
「わかったな」
 今度は無言で頷いた。部屋を後にし土俵に向かう。彼は土俵に向かいながら心の中で美香子に対して語り掛けていた。
(美香子ちゃん、頑張るんだ)
 手術を受ける美香子に言葉を送る。
(俺も勝つから)
 土俵に向かう。今は相手のことは見えてはいなかった。
 見えているのは美香子のことだけだった。それを見据えて今土俵にいた。
 勝負のことは頭に残ってはいない。気付けば軍配が彼にあがっていた。そして土俵を後にしていた。それで終わりであった。
「よくやったな」
 親方が会心の笑みで彼に声をかけてきた。
「見事だったぞ」
「これが美香子ちゃんに届いているんですよね」
「そうだ」
 その言葉に頷いてみせる。
「その通りだ。手術はきっと成功する」
「そうですよね。ただ」
 だがここでもう一つの約束のことが頭の中に蘇ってきた。彼はそれを思い出し急に暗鬱な気持ちになっていくのであった。
 しかしそれでも時間は動くのだ。無慈悲なまでに。そして手術は無事終了し赤龍は彼女と会うことになった。その日が近付くにつれ彼は塞ぎ込むようになってしまった。

 
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