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素顔

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第二章


第二章

「抗議の電話が殺到して仕事にならないのですが」
「会社の人間があちこちで言われているそうです」
「糞っ」
 吼えるしかできなかった。自業自得である。唯一の解決方法は彼がいなくなることだが異常なまでに自意識が肥大しているのでそうした発想はないのである。なおこの男はこれから暫く後に収賄と買収の罪で実刑判決を受け社会的に破滅することになる。その末路は実に悲惨極まりなかったという。自業自得、因果応報と言うべきか。
 そんな調子で彼は日本中の義憤を買っていた。だが赤龍は多くの者の賞賛を受けていたのであった。
「凄いぞ、おい」
 親方が部屋で彼に声をかけていた。
「御前も凄いこと言ったな」
「そうでしょうか」
 新聞を手に畳の部屋で向かいに座る親方。それに対して赤龍は正対して座っていた。二人共胡坐をかき着物を着ていた。
「そうでしょうかって御前」
 親方はぶっきらぼうな言葉を口にした彼に対して言った。
「あの爺にあんなことは言えんだろう」
「やっぱり間違ってると思いましたから」
 彼はまたそういったふうにぶっきらぼうに返した。
「だから言ったんです」
「怖くはなかったか」
「怖い?」
 親方のその言葉には目をパチクリとさせた。
「そうだ。あの爺は金と権力だけはあるからな」
 はっきり言えばそれだけしかない。人望も魅力も人格も人徳も一切ない。醜悪で下品な独裁者そのものなのである。またその金と権力であからさまにやりたい放題をしているから天下の義憤を買うことすらわかってはいないのが実に滑稽である。
「それに向かうなんてな」
「金と権力なんて意味ないですから」
 赤龍にとってはその二つはどうでもいいことであった。だから言えるのである。
「俺には」
「そうなのか」
「はい」
 親方に対してこくりと頷いてきた。
「じゃあ何が怖いんだ?」
「自分です」
 彼は真面目な顔で言ってきた。その恐ろしい顔がさらに恐ろしく見える。
「自分か」
「やっぱり慢心したりとか油断したりとか。そういうのが一番怖いです」
「ふうむ」
 親方はその言葉を聞いて腕を組んだ。そのうえで感心したように唸るのであった。
「そうか、自分がか」
「やっぱりそうです」
「その言葉、そうは言えないぞ」
 そう述べて唸るしかなかった。
「赤龍」
 そのうえで彼の名前を呼んできた。
「御前はやっぱり凄い奴だ」
「別にそうは」
「そう考えていること自体が凄いんだ」
 相変わらずの様子の彼に対して言う。
「いいか」
「ええ」
「その心、忘れるな」
 彼はそう横綱に言って聞かせた。
「自分の悪い心を卑しむその心があればな、何でもできるんだ」
「何でもですか」
「そうだ」
 親方もまた強い声になっていた。
「人を救うことだってな。できるんだ」
「ちょっとそれは」
 赤龍はその言葉にはその怖い顔を顰めさせて親方に応えた。
「ないんじゃ。俺は力士ですよ」
「何言ってるんだ」
 だが親方はそう言った赤龍にかえってこう言い返した。
「力士だからなんだよ」
「闘うしか出来ないじゃないですか」
「あのな」
 親方はさらに言う。
「力士は何だ?」
 そして赤龍に問うてきた。
「何だって言われましても」
「神主さんの親戚みたいなものだろうが」
「ええ、まあ」
 流石に横綱でそれを知らないわけがなかった。だがそれに対する赤龍と親方の考えが違っているだけである。
「だからだよ」
「神様にお仕えしてるってわけですか」
「そういうことだ。じゃあできるな」
「そうですかね」
「特に御前みたいな力士はな」
 親方の声はさらに強いものになってきていた。
「できる。安心しろ」
「だといいですけれどね」
 今回ばかりはどうにも親方の声が信じられなかった。これは無理もないことであった。
「俺みたいなのが人を助けることができれば」
 ふと自分の顔のことを考える。この顔のせいで昔から怖がられてきている。天下無双の横綱も自分の顔のことはどうしようもなかったのである。
 親方の言葉が頭の中に残るが彼は稽古と勝負に明け暮れていた。稽古には実に熱心で土俵での勝負では常に勝ち続けた。まさに鬼神の如くであった。
 実際に彼は鬼とも呼ばれていた。その根拠はやはりその顔である。顔があまりにも怖いのでそう言われるのだ。子供の頃からなのでもう慣れてはいるがやはり気分のいいものではなかった。
「赤龍、また勝ったな!」
「鬼みたいな強さだったな、今日も!」
 土俵を降りて花道を進む彼にこう声がかかる。これもまた彼に対する声援であった。
「あの、横綱」
 その中で付き人の一人が彼に声をかけてきた。
「どうした?」
「あのですね」
 彼は花道から出た赤龍にそっと囁きかける。赤龍もそれを聞く。

 
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