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乱世の確率事象改変

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日没に絡むイト

 劉備軍の奇襲を受けて袁術軍は混乱していた。
 初めの部隊の数は二つ。張飛と関羽率いる部隊であり、突然の事に慌てはしたものの立て直す事は容易で、敵の用兵の癖も七乃の計算の内であった。しかし、遅れて現れた趙雲の部隊にいいように掻き回されてしまったのだった。
 趙雲は劉備軍本陣に詰めている。その情報から、先の戦から逃げて来てすぐという事も相まって、彼女の思考から抜けていたのだ。

「な、七乃ぉ! こちらは倍以上いるのじゃぞ!? それに妾に良くしてくれたじいや達は強いというのに……どうしてここまで押されておるのじゃぁ!」

 涙目でぎゅっと袖を握って縋る美羽の様子に、歓喜半分、自責半分の心を隠して微笑み、いつも通りの声音を繕った七乃は片手で帽子を整えた。

「姫様、だーいじょうぶですよぉ♪ ほら、これはあっちが必死な証拠なんですから。きっと直ぐに撤退して行きますって。伝令さーん、続けてあっちの方にちゃちゃっと後詰の指示を……数は五千くらいでお願いしますね。こっちの兵四千はそっちにばーっと突撃をかけちゃってくださーい」

 近くに控えていた兵は与えられた内容に苦笑を一つ。背を向けてから相変わらずなお人だと小さく呟いて駆けて行った。
 分かり易くて単純な命令は袁術軍では日常茶飯事。細かい数も、綿密な計算もされない大まかなモノ……であっても、簡略化された動きは圧倒的な数を有する側にとってはある程度有効な手段と言ってよかった。
 その証拠に、時間が経つ毎に劉備軍の三将軍の内二人が率いる部隊は徐々に焦りが見え始める。膨大な兵が押し寄せてくる様は敵が有能であればある程に効果を発揮する。
 才のある人物というのは深読みしてしまうものだ。次はどう動いてくるのか、他にも何か策があるのではないか、奇襲が成功したというのに何故ここまで早く……等々。唯でさえ数で負けている側としては被害を軽微に抑えたいのは常であるが故に。
 さらには、味方は背後に来た仲間達を見て士気が上がる。人間の持つ群集心理は、人が死に人を殺す戦場という極限状態に於いて一番の安心感へと繋がるのだから。
 一重に少数でこれだけの大軍に対して拮抗させられるのは関羽と趙雲が優秀であるからに他ならないが、撤退が決まっているのだからこれ以上の戦果を求めて無茶をする事も、容易に背中を見せる事も出来ないのだった。
 乱戦という混ぜ返した状況を以って、どれだけ被害を与えたかを曖昧にして、撤退の判断を鈍らせるのが七乃の狙い。
 ここで問題になるのは張飛。個人の武力が高く、部隊の突破力も高く、先頭を突っ切って突撃を行う思考を持っている為に自軍も突撃でぶつけたのだが、拮抗することなくそのまま押し込まれる可能性が高かった……否、手を講じなければ貫かれるは必至。

「厄介なのは張飛ちゃんですねぇ……。あ、姫様、真っ直ぐ来る子供にはどんな悪戯を仕掛けたらいいと思います?」
「むむむ……そうじゃのぉ。そのまま真っ直ぐ来させて落とし穴にでも嵌めてやればいいのじゃ! むふふ、ヘビやカエルをたんまり詰めておけば驚いて逃げること間違い無しじゃろうのぅ」

 片手を上げ、指を一つ顎に当てて少し悩んだ後、意地の悪い笑みを浮かべた美羽。その表情を見て恍惚としながら、なるほどと納得した七乃は直ぐに指示に移った。

「やーん♪ 踏み固められた戦場に穴を掘る、出来るわけない事を言うなんてさっすが美羽様♪ 落とし穴を掘ってる時間はないですけど……いいですね、それ。伝令さーん、張飛部隊に対応してるモノに引き込んでから分かれるように言ってくださーい。後陣の皆さんは少し下がって……抜けてきた張飛部隊を直射と曲射の矢で出迎えてくださいねー」

 美羽様の為に本当に穴を掘れたらなぁ、と考えながら、張飛隊を引き込むのは叶わない願いだ、とも内心では考えていた。張飛が突っ込んで来ようとも、関羽が出過ぎだと止めるだろう。一人でも兵を射掛けられたらこちらの勝ちである。
 全てが今、七乃の掌の上。美羽の悪戯は波紋を齎す不可測であり、状況を動かす天然の軍師の才。それを七乃の判断で振り分けて撤退させる為だけに行う事が出来る。落とし穴は今回使えなかったが、いつか使える時に使おうと頭の片隅に留めておいた。

――そろそろ撤退してくれませんかねぇ。まあ、このくらいの被害なら問題は無いですけど♪

 どれだけ多くが犠牲になろうと気にならないが、この次の戦を思えば残しておいた方がいいのは事実。
 彼女の元には既に入っている指示があった。袁紹軍が幽州から徐州に向かったので防衛主体に切り替えろという彼女にとって一番欲しかったモノと……じゃじゃ馬姫の檻を強化しつつ孫策を戦場に連れ出せという時機の早すぎるが計画通りなモノ。
 劉備軍と孫策軍の壊滅が当初の計画だったが、二つ目に示されていたのは――時機を早める事もありその場合は曹操軍にも打撃を与えられるとのこと。
 洛陽で、そんな前から夕はこの状況を作り出す事を考えていた。一つ二つでは無く、どの場合にも対処できるように膨大な数の状況を七乃に伝えていた。
 無表情で、無感情に淡々と説明する夕の冷たい瞳を思い出して、彼女の背筋にゾクリと寒気が走り、己が同志に畏怖の念が込み上げてくる。

――ホント……敵じゃなくてよかったですねぇ。徐晃さんの思惑だけが不穏分子でしたけどそれも問題なく対処出来たようですし。

 同時に、徐晃の思惑が成功していれば全てが崩れていたのを思い出して、彼女の掌にジワリと汗がにじむ。
 たった一つの綻びであれだけの天才によって考えられた策が崩れる事もある、乱世とは本当に生きているようだ、と恐怖して。

――しかし黒麒麟も、もはや為す術が無くなりますね。向けられた刃を回避した天才によって追い詰められる事になるんですから。

 無意識の内に、にやりと口元が引き裂かれた。
 敵であれば恐ろしい相手も、味方に付ければ大きな力となる。そう……孫策のように。
 ただ、虎に首輪は付けられても、霊獣に首輪は付けられない。それならば、周りの全てを奪ってやればいい。目的を達成させる為の手段をたった一つにしてやればいい。
 劉備軍本隊への伝令も潰し、夕による行動も迅速……もはや不可測を作り出すあの男に打つ手は無く、直ぐに自分達が有利になるだろうと七乃の胸の内に安堵が湧いた。

「おおっ、七乃! 敵が撤退してく! むふふ、やはり妾達が本気を出せばこれくらいの奇襲は簡単に弾き返せるのじゃ!」

――まあ、かなりの被害が出てるんですけどねぇ。さすがは劉備軍と言った所でしょうか。

 穏やかな心そのままに、目を輝かせながら劉備軍が撤退し始めた戦場を見つめている美羽の肩に両手を置いた。

「うむ? どうかしたのかえ?」
「なーんでもないですよぉ。一応兵士さん達も疲れてるでしょうから無茶な追撃は無しにしましょうねー」

 自分の守りたいモノだけをその両腕の中に。不思議そうな美羽の愛らしい顔を見て、先の経験からもっと念入りに考えを巡らせようと気を持ち直す。
 ニコニコ笑顔を美羽に向けながら思考を巡らせ始め……もし、なんらかの働きがあって夕が失敗したら、形勢が逆転したら……自分達がどうするかを、幾つも、幾つも積み上げて行った。
 たった一人しか世界に必要のない彼女にとっては、同志でさえもただの駒であった。



 †



 揺れる黒髪に擽られ、露出した肌がこそばゆくなる。
 同じ馬に乗る夕は軽く抱きしめれば良く分かる程に小さく、少しでも力を込めれば壊れてしまいそうだった。

「それにしてもさー。計画より早すぎるよね」

 先日合流してから郭図に詰め寄り、河北動乱の詳細を直接聞いて、今回の戦に於ける全ての決定権をもぎ取った夕は、あたしにさえ行おうとする展開を話していなかった。
 同じ馬に乗せれば話してくれると思ったものの、何故か終始無言。
 話してくれるまで待とうと思っていたが、直前に話されると危ういのでこちらから聞いてみた。

「明。私達の軍には沢山の間諜が紛れ込んでいる。それと郭図は……私とあなたを疑っている」

 言われて分かった。
 あたしが関靖の部下を逃がした事がバレた。それがあいつの中で問題として浮上したんだろう。もしかしたら、あたしが公孫賛と……いや、秋兄とも繋がっているのではないか、と。
 毒である張純からの情報にあったのは公孫賛と秋兄の密接な友好関係。連日にわたり夜遅くまで飲んで帰るくらいなのだから、相当なモノだと判断して。さらには……洛陽で見られていた事も含まれるか。

――あのクズめ。あたしを見誤ってるにも程がある。元はといえばあいつが夕に取って変わって無ければこんな無茶な事にはならなかったんだ。せめてあの状況で最善の選択をしてやったっていうのに……どこまで自分本位に考えてんのさ。

 心の内で毒づいて、抱きしめた腕に少しだけ力を込めた。

「ふーん。なら如何したらいいと思う? 疑念猜疑心ばっかりのあいつは簡単な事じゃ納得しないでしょ」
「……最悪の場合はあいつの目の前で秋兄を殺せばいい。そうすれば郭図が向ける疑いも大きく晴れる。明はとりあえず私と一緒に劉備軍本城に向かって貰う」

 冷たく、氷を背筋に落とすかのような声。夕は戻ったのか。
 秋兄くらいだったら殺していいと思ってる。ただ、心の底から……ではないようだ。
 それならきっと南皮で何かあったんだ。何があった。決まってる。あの人の容体がまた重くなったのか。話さなかったのは迷っていたからか、それともあたしに頼るのが辛かったからか。

「夕……もしかしてあの人に――」
「違うよ? お母さんは大丈夫。違うの、ただ……見つかったの。一割くらいだけど……お母さんが……助かる方法が……漢中で」

 震える声で告げられた。同時に、その意味を理解して安堵した。
 不治の病を治す程のモノを、砂漠の中から砂金を見つけるように、夕は死に物狂いで探してきた。それが……漸く見つかった。

「ふ、ふふふ……やったね夕! これでもう大丈夫じゃん!」

 周りに悟られないように明るい声を出すと夕の雰囲気が緩んだ。はらりはらりと零れる涙が彼女の服に落ちて行くのが見えて、胸に沸き立つのは歓喜と切なさ。
 やっとあたしの大切なモノは救われる。そうすれば……本腰を入れて全てを壊す事が出来るんだ。
 最悪の場合、夕と沮授様を連れて逃げ出せばいい。前までは体調の問題で連れ出せなかったけどそれが出来るようになると言う事。
 沮授様も夕と同じくらい頭がいいから、どこでも士官先はあるだろう。
 希望が見えて、一番大切なモノを思い出した。だから夕はもう惑わされない。でも……きっと内心では欲しいはず。
 冷たい夕に戻らなくていい。あたしみたいにならなくていい。なんだって欲しがってもいいから。夕の為になるのなら、あたしが全てを手に入れる手助けをしよう。
 ぎゅっと小さな身体を抱きしめて言葉を紡ぐ。

「ねぇ、夕。もう我慢しなくてもいいよ。全部手にいれよう? きっと秋兄は分かってくれるからさ。……捕まえて、追い詰めて、逃げ場を無くして、そしたら手伝ってくれるよ。秋兄はあたしみたいな大嘘つきだからあのクズを騙すくらい簡単だろうし、あたしと本気の殺し合いをさせて従えさせてもいいしね」

 言うと回した腕をか弱く掴んで、胸の前でコクコクと小さく頷く。
 大丈夫大丈夫と言い聞かせながら、震えつづける夕が落ち着くまで頭を撫で続けた。


 しばらく後、グイと顔を拭った夕は大きく深呼吸をして顔を上げた。

「でもまだ分からない。お母さんを助けられる人物は旅をしているらしい。華佗という人を捕まえるまでは安心出来ないし、時間も限られている。その為に……覇王を縛り付ける」
「そっか。ならさ、ちゃちゃっと終わらせて次の段階に進んじゃおっか。動きは?」
「ん、郭図には一つの機会をあげた。あのクズが秋兄を捕まえられたら幽州での戦の失態は無し。上層部は南皮にいる間に言いくるめといたからこれで挽回出来なければ郭図の評価は下がる一方。私の策を授けたから、負けたとしてもそれのせいにして逃げられるようにもしてあげた」

 普段通りの無感情な声で、既に次の手を打ってあると話す彼女に安堵の息が漏れ出る。
 ここから進むべき展開は予定通り。
 劉備軍から大徳の片割れを奪う事。あたしのように圧倒的な武力を誇り、民や兵の希望の標になり得る黒麒麟を袁家に置く。
 最低線でも曹操を倒すまでは手を組むことが出来るだろう。秋兄にそのくらいの判断が出来る事はあたしも夕も見抜いている。
 侵攻の時機を早めたから孫策は曹操にぶつけるつもりであり、秋兄にはその時、交換条件の手柄を立てさせる事を考えてもいい。七乃と紀霊が油断してなければ容易い事だ。元々紀霊にはじゃじゃ馬姫を最悪の場合殺せと言ってあるし、相応の兵数も城に置かせている。
 曹操軍との戦いで疲弊した孫策軍を潰すのはあたしと猪々子の役目。秋兄が事前に孫呉の精兵を減らしておいてくれたのは非常に助かる。
 もし、あたし達に気を取られるようなら夕の裏策によって曹操は大打撃を受ける事にもなるから全てに於いて問題は無い。

「じゃあこれから本城に向かうのは……?」
「軍備品等の物資の奪取と秋兄の移動経路制限。公孫賛は本隊に向かったと報告があった。ならいるのは秋兄だけ。でも伝令は殺したと報告があったし合流が遅れるのは確実。一番最高の状況は城にいてくれる事だけど……多分あの人なら返しの伝令が着いて直ぐに城を捨てる。
 軍を分けて合流の為の最短経路を抑え込む事はばらけて先行させた五つの部隊に行わせている。これで秋兄が逃げる道は一つ、後に二つ。分岐点には二万の兵を持った郭図を大きく回り込ませて向かわせた。そこで行われる策は……今までに無いモノだから大丈夫。文醜は突撃しすぎるから私達との中間地点で待機。部隊は幽州で手に入れた騎馬に乗せてるから追撃も容易」

 次々に並べ立てられる展開の数々、夕の予測能力に思わず舌を巻いた。これだけ頑強に抑えられていたら普通のモノなら、いや、秋兄であっても逃走は不可能だろう。やはり、この子がいれば敵はいない、なんて気にさせてくれる。
 しっかりと追撃まで固めたのは秋兄の率いる部隊が異常な事を見抜いて……か。
 突然、小さく身体を震わせて、夕は楽しそうに笑った。

「ふふ、ふふふ、これで秋兄は私のモノ。諸葛亮……やはり無様」

 突然の発言に疑問が起こった。何故、諸葛亮の名前が出てくるのだろうか。確かに夕の欺瞞分裂策を読めなかったのは軍師としての敗北を意味するだろうけど、それを意味しての発言ではないようだ。

「なんで諸葛亮?」
「洛陽で勧誘を掛ける為に秋兄を誘い出す時に、諸葛亮は私を遠くから睨んでいた。きっとあれも秋兄が欲しい部類。私の掌で踊って、慕う人を遠くから為す術も無く奪われて、本当に無様」

 平坦に紡がれたその言に思わず吹き出す。詰まる所、夕はヤキモチを妬いていたんだ。でも――

「あは、調子出て来たね♪ やっぱり夕はそのくらい腹黒でなきゃ。だけどね夕、秋兄に惹かれてるのは鳳統も一緒みたいだよ? 連合の初めの頃からだから諸葛亮よりも強敵かもねー。多分今も一緒にいるだろうし――」
「問題ない。郭図はこれ以上優秀な軍師が増えるのは嫌だから絶対に殺しにかかる。優秀な軍師を失う事は劉備軍にとっても痛手だから秋兄は見捨てられないし一人では逃げられない。捕まえた後、郭図が殺すだろうから少しだけでも精神的な絶望を感じてしまった秋兄の心は揺さぶり易い。そこは明を信頼してる」
「あー……あたしに揺さぶれって? まあ、その時はとっておきの手札もあるから大丈夫かな」

 首を回して、斜めにあたしを見上げた夕の瞳は真っ直ぐな信頼の色。それだけ期待を向けられたら、応えるのが親友というモノだ。
 あたしには秋兄の心を揺さぶれる手札がある。関靖の死を看取ったあたしだけがそれを出来るだろう。
 見つめる夕に微笑んで、頭をゆっくりと撫でつけた。気持ちよさそうに目を細める彼女はいつも通り。

――万が一、秋兄が復讐に走ったとしても対象が郭図になるだけ。それすらも見越して、か。ホントこの子は必要なモノ以外には容赦ないなぁ。鳳統も可哀そうに。

 自身の大切なモノの才能に恐怖と敬愛が沸き立つ心を携えて、これから起こる状況に思考を向かわせながら、あたし達は部隊と共に行軍を続けて行った。




 †



 袁術軍への奇襲から撤退後、本隊からの伝令がやってきて三人の心は焦燥と怒りに支配されていた。
 報告された内容は多く、どれもが最悪のモノ。袁紹軍の徐州侵攻、本城からの伝令遅延、孫策軍が行軍を開始、そして……次の行動に移る為に本陣へ撤退せよとの事。
 拳を握りしめ、昏い瞳を北の空に向ける星。
 彼女は知っているのだ。張コウという武将の即時対応がどれほど早いかを、袁紹軍による街道封鎖がどれほど的確にして迅速であるかを。
 秋斗の持っている徐晃隊の数は七千に届かない。敵の動きが間に合っていれば、追撃を抜けてここまで来るには不安が残る。同じく事の重大さを知っている白蓮が早馬を送っていたとしても、ギリギリとなるだろう。
 今回の奇襲による疲労、絶望的な状況による士気低下……さらには彼女達の部隊は歩兵が主であり援軍に向かったとしても足手まといになるは必至。命令は本陣結集、一つの部隊による単独行動は混乱も齎す。
 彼女は、憎しみに心を染めながらも頭の中は冷静であった。白蓮が本陣へ来たという事は憎しみを呑みこんだという事。一番それに身を染めても不思議では無い自身の主が呑みこんだのだからと、星も無理やり抑え込んでいた。
 ギリと強く歯を噛みしめて、後にふっと小さく息を吐きだした。憎悪の感情を空に消し去れるようにと、受け止めて貰えるようにと。

――信じる事。それが私達に出来る事、か。

 彼は生きて自分達の元に来るのだと信じて待つ、それだけしか出来ないと……星は悔しさに身を震わせた。
 一人の友を助けられなかった。主の事も彼に任せた。戦で、槍を振るう事しか自身には出来ないというのに、それさえ封じられた。
 圧倒的な無力感が彼女の心の大半を占め、眉を顰めて耐える。
 ふいに、彼女の両の手に暖かいモノが触れた。
 驚いて左右を見ると、愛紗が力強く励ますように、鈴々が明るく道を照らすように微笑んで、手を握っていた。

「星、彼を舐めて貰っては困る。何も心配はいらんのだ。秋斗殿は強い。よく知っているだろう?」
「そうなのだ。それにお兄ちゃんが雛里と組めば無敵なのだ」

 二人の戦友からの言葉と温もりは星の胸に染み渡る。
 僅かに震える二人の手。どちらも心配なのは同じ、それでも尚、自分達が信じて、出来る事をしなければならない。

「クク、彼の事だ。今頃は雛里と二人で月光に跨りいちゃついているやもしれんな」

 おどけてにやりと笑いかけた。何も心配はいらないのだと、自分にも言い聞かせるように。
 その反応に安堵の色を浮かべた愛紗と鈴々は、それぞれがその姿を想像して納得したように頷き、いつもの軽口が出るなら大丈夫だろうと星から手を放した。

「さあ、そろそろ行こう。桃香様が待っているのだから。星、鈴々、後の事は任せたぞ」
「任せろなのだ! 愛紗もあのクルクルのお姉ちゃんに気圧されないように気を付けるのだ!」
「ああ、任された。桃香殿は何があっても守る故、そちらは頼んだぞ」

 返答を聞いてクルリと背を向けた愛紗は一人、馬に飛び乗って駆けて行く。一つの、与えられた任務の為に。
 彼女には朱里から申しつけられた大役があった。
 曹操との同盟の為にたった一人でその地へと最速で駆ける事。
 この窮地を乗り切る為には曹操からの協力は確実に必要であった。
 星は先の密盟交渉があった為にこの同盟を受けてくれないだろうと予想していたが……朱里が確実に受けてくれると判断しての事なので口を挟まない。
 成功する理由を思い浮かべても、星には答えは出ない。ただ、自身には見えない何かが、あの少女には見えているのだと任せることにした。
 次いで、兵と共に行軍を行いながら、同盟が無理な場合も頭に浮かべて行く。この地からの逃走は自分達の望みの為には必須である事を理解して、思い浮かぶのは先の戦。
 全員の生存率を上げる為に、友が行った事を自らする覚悟を高めて行く。きっと、遅れてきた秋斗と肩を並べてそれをする事になるだろうと予測して。

――白蓮殿を守る為、桃香殿を守る為、彼と並んで戦おう。彼と二人で泥を啜ってでも生き延びてみせよう。出来るさ、私と秋斗殿なら、昇龍と黒麒麟なら、虎の軍勢如きに遅れは取らん。

 彼女はもう何も失いたくは無かった。主の為に、新たな仲間の為に、そして……自分の為に。
 胸の内で呟いた星はゆっくりと前を向き、遥か先を見据えた。

――白蓮殿の涙を最後に見たあの日もこんな夕暮れだったか。……しかし今回は全てを上手く行かせてみせる。

 橙の夕日に照らされた空は美しい。しかし直ぐに来る夜を思って、少しだけ不安に心を彩らせてしまう星であった。


 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

蜀陣営ベリーハードモードでお送りしています。
主人公は夕ちゃんによって逃げ道を限定されました。舗装された道は無理やりでしか抜けられないかと。目的合流地点に辿り着くには絶望的ですね。
交渉と決断の席に主人公や雛里ちゃんが間に合うかどうか難しい所となりました。
夕ちゃんや明の詳しい話はその内出しますね。

次は主人公と雛里ちゃんの話ですが、作者の都合で一週間くらい空くと思います。

ではまた 
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