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蒼き夢の果てに

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第5章 契約
  第86話 紅い月

 
前書き
 第86話を更新します。

 次回更新は、
 4月23日。『蒼き夢の果てに』第87話。
 タイトルは、『ルルドの吸血鬼事件』です。
 

 
 贅を尽くした宮殿。おそらく、このハルケギニア世界でも最大の富を誇る国の王が住まうに相応しい宮殿、それがこのヴェルサルティル宮殿。
 その規模は地球世界のヴェルサイユ宮殿に匹敵し、聖賢王と称されるジョゼフの御代に成っても、未だ建設中の箇所も多い。

 その宮殿の離宮。現在は王太子宮として機能しているグラン・トリアノン宮殿の一室。
 十二月(ウィンの月)第四週(ティワズの週)、イングの曜日。

「これは王太子殿下。このような老人に何の用ですかな」

 流石にこの広いヴェルサルティル宮殿内をすべて冷暖房完備の宮殿にする事は未だ無理。故に、今のトコロは主要な部屋にのみに地球世界のエアコンを装備するに留めている状況。
 その少ない冷暖房完備の部屋の内のひとつ。その部屋の現在の主の白髪白い髭の老人が、入室した途端にそう問い掛けて来た。

 しかし、

「午後のお茶の誘いはして有ったはずなのですが、聞いて居ませんでしたか?」

 トリステイン魔法学院の元学院長で、現在は無職。ガリア王国の食客と言うべき立場のオスマン老に対して、そう問い掛ける俺。
 当然、現在、俺が押しているのはお茶の準備をしたカート。俺の右隣には普段通りタバサが静かに立つ。

 普段通りの日常の一場面。あのゴアルスハウゼン村での事件以来、切った張ったの生活からは遠ざかって居ますが、それ以外の仕事が妙に忙しいので、本来こう言う時間は貴重なのですが……。

「おぉ、そうじゃったな。そう言えば、そんな話も聞いて居ったよ」

 相変わらずのオスマン老の対応。ただ、俺はコルベール先生ではないのと、余りにも年齢が離れすぎている相手。更に、付き合いが短いので、そんな少し人を喰ったオスマン老の態度にも大して気にする事もなく、

「それでは、オスマン老は何を飲みますか」

 お茶。それとも、コーヒー?
 そう問い掛けながら、それぞれのポットを指し示す俺。
 時刻は午後の三時過ぎ。窓から見える蒼穹には黒い雲が低く垂れ込め、其処から白い結晶が今にも舞い降りて来ようかと言う冷たい冬の午後。

「うむ。それでは、コーヒーを頂こうかのう」

 好々爺然とした雰囲気でそう答えるオスマン老。その時には既に部屋の真ん中に設えられたテーブルの上に、カートで運んで来た白磁のカップが並べられ、同じく白磁の皿の上にはお茶請けとして用意されたスコーンが存在していた。

 但し……。
 但し、ここまでで、既にいくつかの、少し腹黒い類のやり取りが行われたのは確実でしょうね。

 例えば、オスマン老は午後のお茶に誘われて居た事を忘れて居ない事は、ほぼ確実。
 あの時のオスマン老の問い掛けの意味は、儂に何をさせようと言うのかな、の意味。
 それも、おそらく消極的な拒否。オスマン老はトリステイン魔法学院の学院長に呼び戻されるべき人物ですし、本人もそれを望んでいると思います。

 しかし、

「どうです、ここの生活は?」

 カップにコーヒーを注ぎながらそう問い掛ける俺。もっとも、俺自身はコーヒーの味がイマイチ判らないので、味に関しては微妙な線だと思うのですが。
 そもそも、ここに持って来る間にもコーヒーと言う飲み物は酸化をして行く代物。直ぐに風味が落ちて行くので、本来ならば、オスマン老の部屋で淹れた方が良いのですが。

 ただ、味に関してアレコレと言われる事はないとは思いますけどね。

「魔法を使用せずに室温や照明の管理が出来る。水をふんだんに使用する事が出来る。食事も上々。これでもう少し美人が居ったら、ここは正に桃源郷と言う所かな」

 穏やかな微笑みと共にそう答えた後、琥珀色……と称される液体に八割方満たされたカップを口に運ぶオスマン老。
 あまりコーヒーを飲まない俺でも、香りだけは楽しむ事の出来る独特のほろ苦い香りが、適度な温度に調整された室内に親密な空間を演出している状態。

 そう。ここヴェルサルティル宮殿は暮らしの電化を図って居る、このハルケギニアの常識の向こう側に存在する宮殿へと変貌しつつ有ります。

 元々、ここは深い森だった場所を切り開いたが故に、水。それも綺麗な水に関してはかなり不足していた地域だったのですが、それを少し離れた位置に流れるシテ河から水路を作り、宮殿に隣接する巨大な貯水槽にため込む。
 当然、現在ではその水路に、小規模の発電施設を幾つも併設。
 それに合わせて巨大な敷地を利用した太陽光発電。
 更に、この規模……。真偽の程は不明ですが、ヴェルサルティル宮殿が発生させるゴミの処分を司って居た使用人が、余りの悪臭に耐えかねて何人も死亡したと言われている悪名高きゴミを可燃性のガスと化し、そのガスを利用して発電を行い、同時に温水を作り出すシステムも導入。

 この事に因り、暖房の為に消費して居た膨大な燃料を節約し、それぞれの部屋で火を照明や暖房に直接使用しない事に因り火災のリスクを下げる。
 このヴェルサルティル宮殿は、地球世界のヴェルサイユ宮殿で問題とされていた部分。室内が暗く、冷たく、そしてトイレが少ないなどの問題点がかなり改善されているはずですから。
 実際、毎日の入浴と、この世界的には初めて導入されているんじゃないかと言う近代的……俺が思う地球世界では一般的な水洗トイレ。このふたつだけでも住環境としては、ハルケギニア世界的には最高レベルだと思うのですが。

 ただ、住環境だけがその場所で暮らす為の指標では有りませんか。
 それならば……。

「――フェンリル。西の蒼穹に新しい彗星が確認されたそうです」

 行き成り、核心に近い部分を口にする俺。平時の午後に相応しくない危険な響きを内包する言葉を。
 もっとも、この程度の内容をこの人物が知らない……いや、気付いていないとは思い難いのですが。
 ただ、あのガリアに伝わる伝承は問題が有りますから。

 俺に取っては特に……。

「彗星とは古来より、王や高貴な者の死、戦乱、大災害の予兆として考えられて居ったの。
 もっとも、その正体は宇宙を飛ぶ天体なのじゃがな」

 少し恍けた雰囲気ながらも、流石は賢者と呼ばれるオスマン老。このハルケギニア世界は地球世界の時代区分で言うのなら清教徒革命の時代。おそらく今年は1649年。この時代の人間に彗星が宇宙を行く天体だと言う事を知って居る人間は多くないでしょう。
 この時代は天文学に関しても黎明期。コペルニクスの地動説は十六世紀。ケブラーの法則も十七世紀初め。『それでも地球は動く』の言葉で有名なガリレオ・ガリレイが軟禁状態の内に死亡したのが、確か1642年の事ですから……。

 この世界のブリミル教の教義如何に因っては、先ほどのオスマン老の台詞自体が非常に危険な発言と成る可能性も有りますか。

「それに、ジョゼフ陛下は未だお若い。まして、お主と言う世継ぎを既に指名して居るのじゃ。其処になんの問題もないと思うがの」

 俺が地球世界の近世の天文学者たちの足跡に記憶を飛ばして居る間に、オスマン老が更に話を進める。
 確かに、それは事実。まして、彼も、現在のジョゼフが普通の人間ではない事にも気付いて居るでしょう。

「先日、父は使い魔召喚の儀式を行い、使い魔として不死鳥を得る事に成功しました。生命力を司る霊鳥を召喚出来た事で、この彗星に因る迷信など、単なる迷信で有ったと笑い飛ばせる事となるでしょう」

 内心を表に出す事もなく、そう答える俺。
 しかし、この彗星が現われた事に因り、実は俺の生命と共に、ジョゼフにも生命の危険が迫っている可能性を考慮して居たのは事実です。

 それは巷間で語られる際のジョゼフの二つ名聖賢王と、俺……ガリア王太子ルイを指し示す英雄王の関係。
 聖賢王ジャムシードと英雄王フェリドゥーン。
 蛇王ザッハーグに殺される聖賢王と、その蛇王を倒し、新たな王に即位する英雄の物語。

 更に、ジョゼフの聖賢王、俺の英雄王共に、ガリアの諜報組織が民意を誘導する形で付けた二つ名などではなく、ましてや自称などでもなく、民の間から自然発生した物で有る事も確認済み。
 そして何より、クトゥグアを召喚しようとした青年が最後に口にした言葉。俺に対して、未来の英雄王だと告げた内容。

 ここまでの状況証拠が揃えば、一応、警戒ぐらいはして置いても損はないでしょう。
 ウッカリだ、とか、抜かっていたわ、とか言う状況は許されない立場に居るのは確実ですからね。
 今の俺は……。

「ほう。不死鳥を召喚出来ましたか、ジョゼフ陛下は」

 かなり感心したようなオスマン老の台詞。この答えには、素直に賞賛の色が濃い。
 但し、ジョゼフに行って貰ったのは、このハルケギニア世界で一般的に行われている使い魔召喚の儀式では有りません。
 彼が行ったのは、俺の行う式神召喚。

 春に行ったフェニックスの再生の儀式の際に手に入れたフェニックスを示す納章を使用して、ソロモン七十二の第二席。魔将フェニックスを召喚。
 そのフェニックスとジョゼフが、このハルケギニア世界の使い魔契約ではなく、俺の行使する式神契約を結んだと言う事。
 ランダム召喚で何がやって来るのかはお楽しみ、的なハルケギニアの一般的な召喚では、今回の場合はかなり問題が有りましたし、更に、そのブリミル教自体に、今のガリアは敵対する行動を行おうとしている以上、ブリミルに端を発する魔法の召喚術では正常に発動するとは思えませんでしたから。

 更に、ダンダリオンに教わった納章に因り、第六席マルファスも召喚してジョゼフの式神に。
 同じく、第四十六席オリアスと第六十六席デカラビアはイザベラの式神と為して有ります。
 これで、かなりの広範囲な事件が同時多発的に展開されたとしても、ある程度は対処可能と成ったと思いますね。

 尚、本来、ブリミル教と地球世界のキリスト教系の宗教との類似点が多い以上、ソロモンの魔将を戦力として召喚するのは害が有る、と言うか、負け戦確定の召喚と成る可能性の方が高いのですが……。
 但し、そのガリアに聖槍ロンギヌスを操り、更に聖痕を宿した俺が現れている以上、ヘブライの神の加護はガリアの元に有ると考える方が妥当。ならば、地球世界でもっとも多く読まれた書物に記された内容通りの負け戦に成る可能性は低いはず、と考えて、比較的召喚が容易なソロモンの魔将を召喚したのですが……。
 それでも、未だ若干の不安材料は残って居ますか。

 ただ、この式神の召喚と契約は早い内に行って置く必要が出て来たのも事実ですから。

 何故ならば、現状では、俺の未来が非常に暗くなって来た事が確実で、その所為で、もしもの為の備えが必要と成って来たように感じましたから。
 あの時にイザベラが教えてくれた予言詩を一番簡単に解釈したのなら。

 そんな、少し……いや、かなり生き急いでいるかのような雰囲気を表に出す事もなく、平時の……。後、三日で今年も終わりと言う年末の慌ただしい雰囲気すら醸し出す事もなく、泰然自若とした雰囲気で、

「トコロで、オスマン老は何時までガリアに滞在して頂けるのでしょうか。出来る事なら、オスマン老には私とシャルロットの婚姻の儀まで見届けて頂きたいのですが」

 ……と言葉を続ける俺。
 もっとも、この質問の本当の意味は、取り込める者は何でも取り込む。勧誘と借金の申し込みは早いほど良い、と言う意味なのですが。
 流石に、系統魔法以外の魔法。おそらく精霊を友とする事が出来る人物を遊ばせて置ける程、今の俺に余裕は有りません。
 次の戦争。聖戦には、ガリアの軍隊は系統魔法の使用を禁止する必要が有りますから。

 やや強い視線で俺の顔を見つめるオスマン老。この視線は多分、俺の真意を探る意味。
 しかし、それも一瞬の事。直ぐに軽く首肯いた後、普段の飄々とした雰囲気を取り戻す。
 そして、

「そうさのう……」

 少し考える仕草のオスマン老。ただ、これはどうにも取って付けたような雰囲気。おそらく、彼の中には、既に答えが有るはず。
 短い逡巡。その後、軽く手を叩き、

「そうじゃ。こう言う時は古い友人に聞くのが一番じゃて」

 ……と独り言を呟き、自らの懐に手を入れるオスマン老。
 しかし、古い友人?
 友人に話を聞くのと、自らの懐に手を入れると言う行為に、イマイチ繋がりが理解出来ずに、そのまま推移を見つめ続ける俺。確かに、地球世界ならば携帯電話を取り出して来るタイミングでしょうけど、ここハルケギニアにはそんな物は存在して居ませんし、更に、魔法を使用しての遠話は、俺の施した結界が邪魔をして難しいと思うのですが。

 内心、次にオスマン老が何を行うのか興味津々に見つめる俺。その目の前に彼が懐から取り出したのは……。

「ネズミ?」

 懐から取り出したのは一匹のネズミ。身体の大きさは十センチ程度。そしてそれと同じ程度の尻尾が有ると言うトコロから、家ネズミ。おそらくハツカネズミと言うヤツだと思います。色は文字通りネズミ色。古い友人と言う事は、このネズミはオスマン老の使い魔と言う事に成るのでしょうか。

モートソグニル(疲れてため息を吐く者)。お主ならどうするかの?」

 俺の驚きになど関心を示す事もなく、自らの右手の上で軽く小首を傾げているネズミに対して、そう問い掛けるオスマン老。
 しかし、モートソグニルか……。

 そのネズミの名前からも不吉な影を見付け出す俺。そんな俺の気分など意に介する事のないオスマン老は、何やらネズミを相手に相談中。
 おそらく、使い魔との契約により、ある程度の意志の疎通が可能と成って居るのでしょうが……。

 自らの手の平の上に乗るネズミを相手に会話を続けるローブ姿の老人と言う、非常にシュールな光景を瞳に宿しながら、そう考える俺。一般人の感覚から言うと、お爺ちゃん、終に来ちゃったよ、と言う感想を得られる光景。
 もっとも、オスマン老の使い魔ですから、彼の手の上に居るのが普通のネズミと言う訳ではないでしょうが。

 その時。

「何々。太陽は暗くなり、大地は海に沈むとな?」

 最初の興味が大きかっただけに、やや肩透かしを食わされたみたいな、少しがっかりとした気分でふたりのやり取りをぼんやりと見つめていた俺の耳に、聞き流す事の出来ない内容が飛び込んで来る。
 この言葉が思い付き……。オスマン老の口から出まかせの与太話の類でなければ、すべての大地がアルビオンの如く浮き上がると言う呪いが未だ解除されていない、と言う事なのか。
 それとも……。

「ふむふむ。フリッグに再び哀しみが訪れると言うのか」

 そして続けられるオスマン老とモートソグニルの会話。その内容は、新たな危機の可能性を指し示す内容。
 その瞬間、俺の右側の椅子に腰を下ろす少女がその身を僅かに硬くした。
 いや、雰囲気は極力普段と違う雰囲気を発しないように、彼女自身が気を張っているのは判ります。しかし、それでも尚、彼女の手にするコーヒーの入った白いカップに僅かな波紋が描かれた、……と言う事。

 フリッグ。北欧神話の主神オーディンの神妃とされる女神さま。ただ、この世界にはオーディンなどの北欧神話に繋がる神の伝承は残って居なかったはず。
 但し、意味が不明な状態。例えばフリッグの舞踏会などと言う形では残って居ます。しかし、そのフリッグの、と言う部分に関する伝承は、俺の知って居る限り残っては居ませんでした。

 これは、一神教のブリミル教が広がって行く過程で、多神教。特に精霊に対する信仰に繋がる伝承は破壊され、ブリミル教に都合の良い伝承に置き換えられて行ったと考えて居たのですが……。
 ただ、もしかすると、何処かの田舎。例えば、ブリミル教の信仰……侵攻の及ばない地方になら、未だ古い。ブリミル教よりも古い伝承が残って居るのかも知れません。

 そう。例えば、モートソグニルなどの名前や、

「巫女の予言ですか、オスマン老」

 先ほどオスマン老が口にした内容などは……。

 更に、この食わせ者の老人は、俺の右目の色が変わって仕舞った事情にも有る程度気付いて居ると言う事でも有りますか。
 タバサと俺の関係をフリッグとオーディンの関係に擬えなければ、先ほどの台詞は出て来ませんから。
 俺が問い掛けた瞬間、右手の上で会話を続けていたモートソグニルがオスマン老の腕を走り抜け、右肩の上にちょこんと座る。
 しかし……。

「春まではガリアに厄介になろうかの」

 俺の問いに答える事もなく、オスマン老はそう言ってから相好を崩した。
 そう、その表情はまるで悟りを開いた尊者の如し。但し、これでは先ほどの言葉の意味を問うても、真面な答えは返してくれないでしょう。
 おそらく、その程度の事は自分で判断しろ、と言う事なのでしょうが。

 巫女の予言で語られるフリッグのひとつ目の哀しみとは、息子のバルドルの死。
 そして、再びの哀しみと言うのは、良人のオーディンがフェンリルに呑み込まれて死ぬ事だと言われています。

 いや、何もかもが伝承通りに進む訳はないか。

 そう考え、軽く目礼のみを返し立ち上がる俺。
 俺の運命は益々、追い込まれた可能性が高く成って来ましたが、そんな事は最初から……。身体の各所に聖痕が付けられ、瞳の色が変わった時から判って居る事。

 今更悔やんでも仕方がない事。
 まして、それを運命として簡単に受け入れなければ……。神とやらが押し付けて来た運命と言うヤツに抗い続ければ、最終的には神の方が自らの過ちに気付く事と成るのです。
 外堀、内堀まで埋められたとしても、未だ俺自身と言う城が落ちた訳では有りませんから。

「トコロでオスマン老……」

 お茶の飲み終わった食器をタバサと二人で手早く片付けながら、本日、ここにやって来た最後の問い掛けを口にしたのでした。


☆★☆★☆


「取り敢えず、おめでとう、と言うべきなのかな」

 オスマン老の部屋を辞する直前に問うた内容で、タバサが二年次も魔法実技に於いては首席で有った事が確認出来たので、その事に対する祝いの言葉を口にする俺。
 その俺の口元を、リュティス。……地球世界のパリの十二月に相応しい大気が白くけぶらせた。

 俺の言葉に、それまで俺の右側をゆっくりとしたペースで歩いていた彼女が足を止める。
 そして、振り返った俺の瞳を覗き込み、僅かに首を横に振った。

「本当に首席に成るべきはジョルジュ・ド・モーリエンヌで有り、もう一人居るとすれば、それはモンモランシー」

 確かに、今現在のトリステイン魔法学院二年の首席は誰かと問われると、俺ならばタバサだと答えるでしょうが、この四月の段階では違った可能性が大ですか。
 俺が出会った時のタバサの魔法は精霊を友に出来ない魔法。
 しかし、その当時からジョルジュやモンモランシーは精霊を友とする、この世界的には異端や悪魔の技と言われる魔法を使用して居たのですから。

 ただ……。
 ただ、タバサの答えは増長して居る訳でもなければ、自らを卑下して居る訳でもない。出会った頃から変わらない、自らを客観視出来る能力。冷静に自分の状況を理解している証ですから、悪い答えではないと思います。
 それに……。

「あの質問の意味を知りたい。そう言う事なんやろう?」

 そう問い掛ける俺。そもそも、トリステイン魔法学院でのタバサの成績を聞きたかった訳では有りませんから。オスマン老に最後に問い掛けた内容は。
 しかし……。

 しかし、僅かな空白の後、静かに首を横に二度振るタバサ。
 但し、これは拒絶……と言う雰囲気では無さそうな感じ。だとすると、

「あのオスマン老への最後の質問。トリステイン魔法学院の生徒全体の魔法の能力に付いて問い掛けた意味が判って居ると言う事なのか?」

 確かに、ここに来る以前。イザベラにオリアスやデカラビアを召喚した時に、リュティス魔法学院の生徒たちの魔法の実力に関してそれとなく聞いて有るので、そのふたつの質問に関連が有ると言う事はタバサにならば直ぐに理解出来たとは思うのですが……。
 しかし、今度も僅かな空白の後、躊躇い勝ちな様子ながらも、首を上下に動かすタバサ。

 これは肯定。更に、今、彼女が発して居るのは昔の記憶を思い出そうとしている人間が発する気。
 う~む。気が付かない内に、俺がそれに近い内容を口にした可能性も有りますか。

「今までの魔法学院の生徒は大半がドット。ラインにクラスアップする生徒は稀」

 タバサがゆっくりと言葉を紡ぎ出す。

「しかし、ここ数年の生徒は、少しずつ学生の内にドットからラインにクラスアップする生徒の数が増していた」

 この辺りはトリステイン魔法学院も、そしてリュティス魔法学院も同じ傾向らしい。オスマン老も、そしてイザベラも同じ答えを口にしましたから。
 タバサが少し息を吐く。その彼女の口元も、俺の時と同じように白くけぶった。

「これは、貴方の言う世界の防衛機構が正常に作用した結果と思われる」

 そう。俺が知りたかったのはその部分。この世界が()()()破滅が訪れるような危機が迫っているのか、……それが知りたかった。
 確かに、現状は色々な事件の結末が、その方向……破滅へと向かって進んで居るように思いますが、それは俺の思い込みに過ぎない事象の可能性も有りますから。

 しかし、今日のオスマン老への問いで、その辺りも確認が取れました。
 ここ数年の学生の質が上がっているのは、近い将来に未曾有の危機が訪れる可能性を感じ取った人類がその危機に対処する為に……。より多くの人間が危機に対処出来るように、人類自体のポテンシャルを上げようとした結果。
 歴史のターニングポイントでは良くある現象。ひとつの時代に優秀な人間が多く現われる事が有るのは、世界が乱れて、それまで日の目を見る事のなかった人間にのし上がるチャンスが訪れるからだけではなく、元々、生命が持って居る危機に対処する能力が発揮されている結果でも有りますから。
 そして、それでも足りない部分を補う為に、ジョゼフやタバサなどの特殊な……殆んど先祖帰りに近いような能力者を生み出し、
 それまで一切、現世に関わる事のなかった精霊王たちが、現状では歴史の裏でのみ語られるような状況ですが、それでも人間の世界に干渉を開始する。

 更に、伝説に過ぎなかった虚無と言う魔法が六千年の時を経て、このハルケギニア世界に復活したのも、その大きな流れの一環の可能性も有りますか。
 もっとも、この部分はもしかすると、本来は存在して居なかったブリミルと言う民族的英雄伝説の主人公が本当に存在した、……と言うように考えた人々が新たに生み出した偶像、伝説の具現化の可能性もゼロでは有りませんが。

「戦乱、疫病、天変地異。其処に、オーロラや彗星の登場。どれも、世界に危機が訪れる際に起きると言われている出来事」

 タバサの言葉を継いで、俺がそう言った。
 かなり、自嘲の色を滲ませながら……。

 そう、これは自嘲。
 何故ならば、この危機的状況が訪れる可能性にもう少し早い段階で気付くべき情報が、俺の前には提示されていたのですから。
 それも、非常に分かり易い形で。

 紅い月。
 毎晩のように現れる満ち欠けする地球の衛星。このハルケギニア世界に存在するふたつの月の内の片割れ。蒼い月は、おそらく位相の違う地球の姿が見えて居る状態なのでしょう。
 しかし、紅い月の方は色が紅いと言うだけで、俺の知って居る地球世界の月と違いを感じなかったのですが……。

 しかし、地球世界の伝承では紅い月は不吉の報せ。大きな戦乱や国が滅びる兆し、と言う伝承も存在して居ました。
 要は、これは俺の思い込みが招いた失態ですから。
 異世界なんだから、紅と蒼。ふたつの月が有っても何も不思議ではない。
 そして、蒼の月が、おそらく異世界の地球の姿を映しているのだろう、と言う仮説を得てからは、蒼穹に存在するふたつの月に関しては、大して気にも留めずにここまで過ごして来て仕舞いましたから。
 確かに一般的な自然現象として月が紅く見える事は、俺の暮らしていた地球世界でも有りました。しかし、常に紅い月が頭上に輝き続けて居る。

 これを、何らかの異常現象の現れ、と考えたのなら、

「もう少し早い段階で……」

 世界の危機を感じ取った可能性もゼロではない。そう続けようとして、其処で言葉を止める。
 何故ならば、早く知ったトコロで、俺に対処する術がなかったのは事実ですから。
 現状の俺はガリアの王太子の影武者で有り、イザベラと平気で話が出来る立場に有ります。が、しかし、一カ月前にはそんな立場には有りませんでした。

 おそらく、俺に出来た対処方法で一番現実的なのは……。

 真っ直ぐに俺の事を見つめる少女を見つめ返す俺。そう、俺に出来た対処法は、この少女に危険が及ぶ事を阻止する為に、彼女を何処か遠くに隠す事ぐらい。
 但し、それは彼女に拒否されるでしょうし、仮に、タバサを安全な場所に隠す事が出来たとしても、残った俺が単独で出来る事は程度が知れていますから……。

 其処まで考えた後に軽く頭を振り、袋小路に入り掛けた思考を振り払う。
 同時に陽が落ちるに従って低下が進む気温に相応しい大気を吸い込み、新鮮な空気と、身体全体に気を循環させた。
 答えは単純明快。俺は俺が正しいと思った道を進むだけ。それに、少なくとも彼女との約束を果たさなければ成りませんし、その時まで彼女が俺の元を離れる事はないでしょう。

 彼女がおぼろげながらも前世の記憶を有して居る理由が、前世の俺に有るのならば。

 振り返り、彼女を見つめたまま黙って仕舞った俺に対して二歩近付き、普段通りの位置に並ぶタバサ。
 未だ科学の結晶。電気による照明の灯される事のない石造りの廊下は……、冷たく昏い。
 しかし、その昏い世界の中で、唯一、明るい光を発して居る存在。それが今の彼女。

「大丈夫。わたしと貴方なら問題はない」

 俺の左肩の少し下から彼女の声が聞こえる。
 俺が後方を見つめて居る今、彼女は進むべき先にその視線を向けながら。

「こんな寒いトコロで立ち話は無粋やな」

 やや苦笑交じりにそう答え、俺も彼女と同じ方向に向き直り、彼女と同じ方向。少し昏い廊下の先を見つめる。
 まるで見えない答えを求めるかのように。
 しかし、其処には……。

 少なくとも、ふたりの未来が見えて居なかった事だけは確かでした。


☆★☆★☆


 真円に近い蒼い月のみが支配する世界。
 星々は瞬き、蒼き偽りの女神は普段よりも冷たい光輝を地上へと投げ掛ける。

 十二月、第四週、オセルの曜日。

 風の精霊を友とする事により、俺とタバサを乗せる翼ある竜(ワイバーン)は通常の飛竜と比べるとより高く、そしてより速く飛ぶ事が可能。
 現在、高度四千メートル辺りを西南の方向に向け飛行中。

「寒くはないか?」

 北極生まれ、シベリア育ちの猛烈な寒気団が張り出して来たからなのか、現在の周囲の気温は氷点下三十度以下。少しでも肌を露出すれば、其処から凍傷を起こしても何ら不思議ではない外気温。更に、大気が薄いが故に常に呼吸が苦しく、僅かな吐き気と強い頭痛が起きても不思議では無い高度。
 そんな中で、現在の彼女……。紅いフレームの伊達メガネ。トリステイン魔法学院の制服。白のブラウスに黒いミニのプリーツスカート。白のレギンスに革製のローファ。魔術師の証の闇色のマントと自らの身長よりも大きな魔法使いの杖。一切の防寒対策が為されていない普段通り……リュティスの宮殿に居る時とは違う、ガリアの騎士として活動する際の彼女の出で立ち。

 地球世界のオーロラ観賞ツアーなら、間違いなく同行を拒否されるで有ろう服装の相手に寒くはないか、の問い掛けは常軌を逸して居るとしか言い様がない状態。

 しかし……。

 女の子が行う足を崩した座り方。所謂、横座りと言う座り方をして、その膝の上に星と月明かりの下で有るにも関わらず、和漢に因り綴られた書籍に瞳を上下させていた彼女が、僅かに視線を上げて俺を見つめ、左右に二度、その首を振った。
 そして、

「問題ない」

 無味乾燥。実用本位の答えを返して来るタバサ。公式の行事の時とは違い、こう言う時は出会った時のままの彼女の対応。
 但し、本来ならば、口を開けた瞬間に白く凍った吐息が漏れ出るはずの外気温で有るにも関わらず、彼女の口元は一切、変わる事はない。

 そう。この翼ある竜は風の精霊を支配する竜。このような高度を飛行する場合は当然、風の精霊を支配し、自らの周りに温かい空気の層を作り出して飛行して居る。
 故に、生命の危険さえ伴う高度四千メートル地点を飛行中で有ったとしても、快適に過ごせるのです。

 尚、こんな暗がりで彼女が本を読めるのも暗視の仙術を行使しているから。

「それで、今、向かっているルルドの村に付いての予備知識で必要な事は有るかな」

 再び視線を手元に戻し、読書の体勢に戻る彼女に、再度言葉を掛ける俺。
 手持ち無沙汰。……と言う訳ではないし、彼女や湖の乙女と行動して居ると、自然と静寂の中に身を置く事に対する不安と言う物も感じなくなって来るのです。が、しかし、流石に、まったくの予備知識ゼロで北花壇騎士としての御仕事を熟す訳にも行きませんから。
 まして、今度の仕事もまた前任者たちが死亡した為に俺とタバサのトコロに回って来た御仕事。どう考えても、一筋縄で行くとは思えませんから……。

「火竜山脈の麓。ガスコーニュ地方に存在する寒村。ブランデーやワインで有名」

 しかし、読書を中断させられても、不機嫌な雰囲気を発する事もなく、普段通りの淡々とした様子で答えを返して来るタバサ。
 その瞳は、彼女の年齢からは考えられない程の怜悧な色を浮かべ、俺を真っ直ぐに射抜いた。

 成るほど。ガスコーニュ地方。確か、クーデターを起こそうとして、逆にカウンター・クーデターですべてを失った元東薔薇騎士団所属の主な騎士たちの出身地がこの辺りでしたか。もっとも、このハルケギニア世界のガスコーニュは、地球世界のバスク地方も含むような感じなのですが。
 元々、独立国だった地域をガリアが併呑したらしい地域ですから、もしかすると、地球世界の歴史上に存在するガスコーニュ公国やナバラ王国のような国が過去に存在していたのかも知れません。
 それに、ワイン。いや、この地方なら地球世界でもブランデーは世界的にも有名な物が有りましたか。確か、アルマニャックはこの地方で造られるブランデーの事だったはずです。

 更に、タバサの母親の実家は、このガスコーニュ地方を領有していた侯爵家だったはずですね。

 そんな地方にタバサを向かわせなければならない事件。確かに、急に動かせる戦力で、一番能力が高いのは俺とタバサでしょうが……。
 本来ならば、今回の任務はタバサを置いて、俺と湖の乙女を連れて行くべき事案なのですが、ティターニアと湖の乙女は人類共通の意識と無意識の狭間に対してアクセスを行い、人類に対して今回のロマリアが行おうとしている聖戦に神の意志は存在しない、と言うメッセージを送る……と言う非常に重要な作業が有るので、流石に連れて行く事は出来ず。
 さりとて、俺単独で向かい、前回のゴアルスハウゼン村で起きた事件と同等の事件が発生していた場合は……。

 流石に、命が幾つ有っても足りない状態と成りますから。

「ブリミル教に関する伝承。万病に効く聖なる泉が湧いているなどと言う事はないのか?」

 結局、俺は独りでは何も出来ない、……と言うほど酷くはないけど、それでも式神使いと言う属性からは逃れられない人間だと改めて納得した俺が、次の疑問を口にする。
 そう。これから向かう先のガスコーニュ地方のルルドと言う街に対応する地球世界のルルドと言う街は、キリスト教の有名な巡礼地と成って居る場所。
 そして、この世界のブリミル教とキリスト教はかなり重なる部分が有るので……。

 もし、これから向かう先がブリミル教の聖域と成る地域ならば、それは俺やタバサの行使する仙術とはかなり相性が悪い地域と成りますから。
 もっとも、ガリアにはそれほどブリミル教の影響が強い……。俺やタバサの仙術に不都合が生じる程の強い影響を受けて居る地域は、今までにはなかったので今回も大丈夫だとは思いますが。

「わたしの知って居る範囲内で、そのような場所は存在しない」

 さして待つまでもなく答えを返してくれるタバサ。その時、既に彼女の容貌の一部と化して居る硝子製品に、何かの光が一瞬、反射する。
 その瞬間、俺の耳にバンと言う音が届いた。

「仕舞った、金、金、金、と唱えるのを忘れて仕舞ったみたいやな」

 非常に珍しい現象。火球と共に発生した電磁波音と言うヤツを経験出来た事に、少し機嫌の良く成った俺が軽い感じでそう口にした。
 そう。進行方向の南西……つまり、正面を向いて居たタバサのメガネに反射した光はおそらく流れ星の光。そして、流れ星から発せられた電磁波音を俺が感じたと言う事は、この流れ星は彗星の欠片などではなく、遙か彼方。アステロイドベルトからやって来た小惑星と言う事。
 おそらく、大地に落ちる事もなく空中で燃え尽きたと思いますし、衝撃波の類を感じませんでしたから、落下したとしても、ここからはかなり離れた場所に落ちたと思いますね。

 もっとも、こんな無粋な科学的考証など必要はないぐらいに、世界は美しい物だと理解させられたのですが。

 シベリア製の天然の冷凍庫に因って冷やされたビロードの蒼穹には、この季節の大気と同じ質の美貌を見せる蒼き女神の姿を中心に、様々な神話や伝説を生み出した星々の輝きが。
 そして、俺の正面には……。

 蒼穹に移していた視線を再び彼女。俺の相棒と成った少女に戻した瞬間。
 俺の頬に、彼女の少し冷たい手がそっと添えられていた。

 そう。さして広いとは言えない翼ある竜の背の上。それでも、少し……不自然に成らない程度の距離を置いて座って居たお互いの距離を詰め、右手を伸ばせば届く距離にまで近付いて居た彼女。
 横座りの形から身体を返して、両膝と左手を竜の背に着く姿勢。そこから顔をこちらに向け、やや上目使いに俺を見つめるその仕草。思わず、そのまま抱き寄せて仕舞いそうになるほど愛おしい。
 その、俺を見つめる彼女の表情自体は変わらず。人形のように精緻で、しかし、未だ少女特有の曖昧な部分。これから先に、もう少し大人の女性の顔へと変貌する余地を残した、整った容貌に張り付いているのは無。
 しかし、彼女の発する気は陰。これは……。

「ここから先に進まず、一度リュティスに帰る事を推奨する」

 普段よりもより強い語気でそう伝えて来るタバサ。
 自らに移譲された支配権を行使して、翼ある竜に一か所で旋回を繰り返させながら。

 意味不明。但し、彼女が真剣なのは理解出来る。
 蒼い光の元、彼女の真摯な瞳が、彼女が発して居る雰囲気が、それを強く伝えて来ていた。
 そして、瞳を一度静かに閉じ、呼吸を整えるかのようにひとつ小さく……まるでため息を吐くかのように息は吐き出した後、

「ガリアの古い伝承の中にこう言う物が有る。
 星が流れるのは、誰かの命が消えて行く事の象徴。
 まして、先ほどの流星は落ちて来るに従って幾つかの小さな破片へと別れて行った」

 これは、その中でも一番不吉だと言われる形。
 ゆっくりと、しかし、明らかに強い調子でそう伝えて来るタバサ。

 彼女の言葉を非科学的……と断じる事は容易い。
 しかし、それを言うのなら、俺や彼女と言う存在自体が科学を超越した向こう側の存在。
 ならば。

「ありがとう。俺の事を心配してくれたと言う事やな」

 先ずは、素直に礼を口にして置く俺。
 但し、俺の左の頬に当てられた彼女の小さな手をそっと……。本当に、壊れ物を扱うかのように優しく外しながら、

「せやけど、その程度の理由で帰る事は出来ないな」

 彼女の気持ちを……拒絶する言葉を伝えた。
 確かにもっと明確な理由。俺自身を指し示す星が彗星や火球に因って隠れたとか言う理由ならば、少しは凶事と考える事も可能かも知れません。
 しかし、先ほどの流星。いや、アステロイドベルト生まれで、先ほど感じたレベルの光を放つ流星ならば火球と呼ばれるクラスの流星も、実はそう珍しい物でも有りません。
 単なる流れ星クラスの物なら、一日に二兆個。重さにして約百トンもの大量の流星が地球には降りそそいでいる、と言う資料が地球世界の本の中に存在して居ます。

 幾らなんでも、そんな有り触れた物が流れたからと言って、簡単に仕事を放り出して家に帰る訳には行かないでしょう。
 日本の平安時代の貴族じゃないんですから。

 ただ……。

「それに俺は、太白西に寄りて、その光芒に変あり。これは凶事の前触れです。などと白羽扇片手に澄まして口にするタイプの人間でもなければ、三本目のマッチに火を灯す少女でもない」

 ただ、流石に先ほどの言葉で投げっぱなしにして彼女の心遣いを無碍にする事は出来ないので、少し軽い調子でそう言葉を続ける俺。
 それに、確か伝承やおとぎ話では、このふたりとも星が流れる夜に死亡したはずですか。

 しかし、その自ら発した言葉……。
 太白。つまり、金星から前回のゴアルスハウゼン村で起きた事件を連想して、一瞬、何か得体の知れないモノに背中を撫でて行かれたような気がしたのですが……。

 僅かな油断。いや、こんな場所で油断をした、などと言う事は有りません。ただ、呼吸をするぐらいの僅かな隙。
 甘い微かな香り……彼女の肌の香りが鼻腔を擽り、未だ少年の域を大きく出る事のない体型……厚くたくましいとは言えない胸板に、彼女の華奢な身体を感じる。

 驚きのあまり一瞬、息が詰まり、無理に平静を装うとする俺。が、しかし、薄い衣服越しに彼女の心音を感じる度に、俺の心臓もそれに合わせてスピードを増して行く。

「あなたが必要以上の接触を嫌って居る事は知って居る」

 俺に全身を預けた形……左肩の位置で彼女の声がする。
 確かに、必要以上の接触は好きではない。ただ、それ以上に彼女との距離感を掴みかねていたのも事実。

 無防備に。何の衒いもなく一歩踏み込まれると、逃げる事も、躱す事も出来ずにただ狼狽えるしか方法がなく成る不器用な人間ですから。
 俺と言う人間は……。

「わたしも傍に居られる。ただ……。ただ、それだけで幸せだった」

 あなたに見つめて居られるだけで。あなたの香を感じて居られるだけで幸せだった。
 耳元で囁かれる彼女の声は心地良く……。

「それでも……」

 僅かな沈黙。いや、言葉は必要ない。

 甘い肌の匂い。視覚や聴覚と違い、臭覚と言う物は、好きと嫌い。このふたつしか分類がない。
 そして、彼女を近くに感じる時、何故か、遠い幼い日の懐かしい思い出が込み上げて来る事が有る。

 ずっと、ずっと幼い頃の思い出。今よりもずっと、ずっと幸福だったあの頃の思い出を……。

 自らの身体を支える為、そして、彼女の突如の行動に対処する事が出来ず、翼ある竜の背に置かれたままで有った右腕をそっと彼女の背中に回し、
 その瞬間、彼女のくちびるから漏れ出た吐息を、俺の首筋が感じた。
 やがて……。
 やがて、俺に抱き寄せられた彼女の身体から力が抜け……。

 煌々たる蒼き光輝の元、ふたつの影がひとつへと溶け合って行った。

 
 

 
後書き
 今回のあとがきは、多少のネタバレを含む物と成って居ります。

 もしかすると、もう忘れて仕舞って居るかも知れませんが、主人公は少しずつ自らの周りから系統魔法を排除して行こうとして居ます(第8話参照)。
 もっとも、流石にハルケギニアのメイジたちを次々と封神して行く、……と言うほどの思い切った改革を進める訳では有りませんが。

 流石に、理を捻じ曲げる魔法を主人公に近しい人間に多用されると問題が有るので……。
 尚、この『理を捻じ曲げる』と言う部分は私のねつ造設定ではなく、原作小説内のデルフの台詞です。

 それでは次回タイトルは、『ルルドの吸血鬼事件』です。
 
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