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剣の丘に花は咲く 

作者:5朗
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第十一章 追憶の二重奏
  第四話 初めての―――

 
前書き
 遅くなって申し訳ありませんでした。
 
 

 タイトルの『初めての―――』の後には二つの言葉が続きます。
 
 さて、それはなんでしょうか?

 答えは後書きにて。

 

 
 新学期が始まってから三日。
 士郎たちは先日までの嵐のような日々から一転して平和で穏やかな日常の中にいた。太陽が中天に上る昼時。本日もまた、既に日課となった訓練を終えた士郎たちは、芝生の上に腰を下ろし、吹きよせる風に目を細めながらまったりとお喋りに興じていた。

「ふぅ~……ああ、平和だ」
「平和だねぇ」
「うんうん。平和が一番」

 士郎が事前に用意していた手作りのスポーツ飲料。果実の汁や塩等を混ぜて作った飲み物が入ったカップを両手で持ち、まるで縁側でお茶をすするお爺ちゃんのように飲みながら、士郎とギーシュ、そしてマリコルヌがしみじみとした声で呟いていた。その横に座るギムリとレイナールが、空になったカップを地面に置きながらそんな士郎たちに向け苦笑いを浮かべる。

「ずいぶんと心が篭った言葉だけど、やっぱり大変だったんだね」
「まあ、あの大国ガリアからタバサを救出したんだ、大変じゃない筈がないんだけど……」

 ギムリの視線がのんびりした顔で、頭上を過ぎていく白い雲を追う士郎に向けられる。

「その際エルフを倒しただなんて……さすが隊長だと言えばいいのか。驚きすぎて一周回って冷静になってしまったよ」
「確かに、でもやっぱり一番驚いたのは、まさかあのタバサがガリアの王族だったってことかな」

 レイナールが眼鏡の縁に触れながら呟いた瞬間、自分に向けられる鋭い視線に気付いた。覚えはある。視線を動かし、自分を見つめる相手と視線を合わせる。それは予想通りの相手であった。

「大丈夫。分かってますよ。誰にも言うつもりはありません」
「まだガリアは何の反応は見せてはいないが、どうなるかは未だ分からん。万が一と言うこともあるからな」

 レイナールに頷いた士郎は、その隣に座っているギムリにも視線を向ける。士郎の促しに、ギムリもまた頷きを持って答えた。

「もちろん分かってます」
「頼むぞ」

 学院に戻った士郎は、この一件(タバサ監禁)についての一部始終を居残りをしていたギムリとレイナールには伝えていた。数点ほど話していないものはあったが、殆んど全てと言ってもいいだろう。そのため、学院に残っていたギムリたちも、救出の際『エルフ』が現れたことや、タバサがガリアの王族であるとを知っていた。まだ水精霊(オンディーヌ)騎士隊が結成されてからそんなに時間は経ってはいなかったが、士郎は団員についてはそれなりの信頼を寄せてはいたため、絶対に他言しないことを条件に伝えていたのだ。

「しかしギーシュやマリコルヌまでもそんな状態になるなんて、想像以上にキツかったんだろうね。やっぱりエルフかい? それともアーハンブラ城に侵入する時? どちらも普通に考えれば不可能なことだしね」
「「……はっ」」

 レイナールの同情混じりの声に、ギーシュとマリコルヌは嘲笑うかのように笑った。まるで無知なものを憐れむかのような目でレイナールを見下ろす二人は、手に持ったカップを組んだ足元に置くと、同時に首を左右に振る。

「分かってない。分かってないよ」
「エルフ? アーハンブラ城? 確かにエルフもアーハンブラ城への侵入も大変だったけどね。そうじゃない。そうじゃないんだよ」
「? なら何なんだよ?」

 肩を落とした二人は、力ない視線で白い綿飴の様な雲が浮かぶ青空を仰ぐと、引きつった笑みを口元へ浮かべた。

「その後、ルイズの実家が一番酷かったんだよ」
「具体的に言えばルイズの母親が」
「は? 何だそれ? どう言う意味だ?」

 レイナールの横から顔を出したギムリが戸惑った声を上げる。

「まず出迎えが酷かった」
「馬車ごと竜巻で持ち上げられてね。もう中は地獄だったよ。あちこちに身体はぶつけるわ……ギーシュと望まぬ接触はするわで……っく、思い出すだけでもうっ。せめて誰か一人でも女の子がいればっ……!」
「思い出させないでくれたまえ……だけどやっぱり一番は帰る前のことだね。ルイズの母親から拷も―――稽古を受けてしまって……あの時自分が騎士隊の一員だと言わなければ……っ!」

 顔を真っ青にして身体を震わせる二人を見て、ギムリとレイナールは顔を見合わせる。

「稽古を受けたって? だけど何時も結構きつい訓練してるじゃないか? 昔ならともかく今の君たちならちょっとやそっとの稽古ならそこまで言うことは……」
「「ハッ!」」

 レイナールの苦笑混じりの声に、ギーシュたちは嘲りの一笑をする。何も分かっていないとばかりに首を左右にゆっくりと振ると、震える自分の手を見下ろした。

「稽古と言うが、あれは稽古ではないとハッキリとぼくは言うね。あれはただの拷問、いや処刑だね」
「ちょっと歳はいってたけど……流石にあれでは耐え切れないよ」
「「っ」」

 マリコルヌが発した言葉を聞いた瞬間、レイナールたちの身体に今までにない戦慄が走った。

「馬鹿なっ!? マリコルヌが女からの責めを耐え切れないだとっ!?」
「ありえんっ! ありえんぞぉっ!?」

 驚愕の声を上げるレイナールとギムリ。二人は当時を回想しているのか、ますます顔色を悪くし、身体を小動物のように震わせるギーシュたちに向かって身を乗り出す。

「一体どんな稽古だったんだい? マリコルヌが耐え切れないなんて……そんな馬鹿な話信じられないよ」
「もしかして、そのルイズの母親が色々とアレだったのか?」」

 恐ろしいことをレイナールが口にする。
 身を乗り出す二人に死んだ目を向けたギーシュとマリコルヌは、引きつった口元を動かし掠れた声でその問いに応じる。
 
「いや、確かに年齢による衰えは見えたけど、それでもルイズの母親は美人だったよ。だけどね、聞いてくれ。ルイズの母親は『ちょっと稽古でもつけてあげましょう』と言いながら、いきなりスクウェアスペルの『カッター・トルネード』なんてぶっぱなしだんだぞっ!? ほんと有り得ないよっ!? 鍛えられる前に軽く死んでしまうってっ!?」
「しかも『腕の一本や二本なら何とか、まあ、それなりに、多分大丈夫だと思いますので、遠慮なくぶつかっていきなさい』なんて言うし。ぶつかったら腕どころか身体全部がスライスされてしまうって。ほんと有り得ないよね。あれは『女王様』ではなくてもっと別の……そう、『処刑人』だよ」

 掠れた声で淡々と呟かれる内容に、レイナールたちは自分たちの顔色も段々と悪くなっていく。

「隊長の訓練がなければ死んでいたね」
「うんうん。あの稽古とは名ばかりの処刑を体験して初めて、今まで隊長から受けた訓練に対して感謝を感じたよ」

 腕を組み深く頷き合うギーシュとマリコルヌ。そんな二人の様子にレイナールとギムリの顔が思わず引き攣ってしまう。

「……そこまでか」
「そういえば隊長も随分と疲れているように見えるけど、もしかして隊長もその稽古を受けたんですか?」

 レイナールがふと頭に過ぎった事を口にした。
 今朝……と言うか三日前。より正確に言えばヴァリエール家から学院に戻ってきてから今日まで、士郎の様子は明らかに変であった。別に突然奇声を上げたり裸踊りを始める等といった変ではなく、何時も何処か飄々とした様子を見せる士郎が一目見て分かるほど疲れているのだ。

 だからギーシュたちの話を聞き、それが理由か? と軽い気持ちで聞いてみたのだが……。
 それがまさかあんな事になるとは……この時には誰も想像もすることは出来なかった……。

「まあ、それなりに、な」
「やっぱり隊長もキツかったんですか?」

 苦笑いと言うよりも引きつった笑みを浮かべた士郎に、レイナールは笑み混じりの問いを返す。

「……そんなこと考えている暇などなかったな」
「隊長でもそうなる程の稽古か……行かなくて正解だったな」

 顔を俯かせる士郎の様子に、腕を組んだギムリが安堵の息を漏らす。その目には同情の色が宿っていた。今だに手も足も出すことが出来ない隊長が、これ程までに疲れ果てるとは、一体どれほどのモノだったのだと戦々恐々のギムリの背筋に寒気が走る。そして同じくそれを受けて生き残った自分たちの仲間に対し、同情と尊敬の視線を向けると、予想外の反応を返された。

「「……はっ!」」

 そこには肩を竦ませ哀れみに沈んだ視線を向けるギーシュとマリコルヌの姿が。

「ん? ど、どうしたんだよ」
「そんな哀れんだ目で見られる覚えはないんだが?」

 何も知らない者に対する哀れみの視線を向けられたレイナールとギムリは、戸惑い驚き首を傾げる。

「知らないとはやはり罪なことだね」
「はっ、はっ、はっ……残念ながら隊長が疲れてるのは別の理由だよ」
「「へ? 別の理由?」」

 溜め息混じりに首を左右に振りながら答えたギーシュに、ボカンと口を開けた顔で眉を顰めるレイナールとギムリの二人。そのまま二人の顔は同時に士郎が座り込む方向に向け移動する。そこには不自然に顔を逸らした士郎の姿が。

「い、いや、そんなことはないぞ」

 稽古では一滴たりとも汗を流していなかったのに、今は不自然なほどに汗を吹き出していた。文字通りダラダラと滝のように汗を流す士郎の様子に、二人の胸に言いようのない不安が湧き上がり始める。

「はっはっはっ。嘘つきは泥棒の始まりですよ?」

 全く感情の感じられない乾いた声で笑い声を上げるマリコルヌ。

「隊長が疲れているのはルイズの母親のせいじゃなくて……その娘の方が原因だよ」
「その娘? ってもしかしてルイズのことかい?」

 何気ない様子で口にしたギーシュの言葉に、レイナールが自分でも違うと思いながらも答えると。

「―――ミス・カトレア」

 予想通りで予想外の答えが返って来た。

「「えっ?! マジでっ!?」」
 
 驚きの余り知らず立ち上がったギムリとレイナールの二人は、まるで襲いかかるような勢いで士郎に向かって詰め寄っていく。

「ちょ、それって本当なんですか隊長っ?!」
「あの第三百四十六回お嫁さんにしたいランキングを生徒を抑えて一位になったあのミス・カトレアに何したんですかッ!?」

 鬼気迫る様子で問い詰めてくる二人を無視し、士郎は遠巻きに自分を見つめるギーシュに声を向ける。

「随分回が多いな……っというかそんなランキングがあったのか?」
「学院成立時からあるって聞くね。知らなかったのかい隊長? ちなみに代表はオールド・オスマンだね」
「あのじじぃか……」

 苦虫を百匹ほど同時に噛み潰したかのような押し殺した苦い声を漏らす士郎。
 顔を顰める士郎に、レイナールとギムリの顔が迫る。

「と言うか話を逸らさないで欲しいんですが」
「結局どうなんですか? え? マジなんですか? 本当にあのミス・カトレアと何かあったんですか?」

 焦りのあまり若干早口になる問いに対し、別の方向から反応が返ってくる。

「いやいや、そんな事を聞くのはもう遅いんだって」
「ああ、本当に遅い……遅過ぎる」

 何処か達観したように見える顔で小さく揺れるように顔を左右に振るギーシュとマリコルヌ。悲しみと憤りに沈んだ声に、二人の胸に渦巻く不安が急速に形を創りだす。

「は? え? ちょ、それってまさか……」

 今にも悲鳴を上げそうな震える声で「まさか―――ッ!?」と何度も口の中で呟くレイナール。
 まだ大丈夫だ。
 決定的な答えはまだ聞いていない。
 そう、そうだ。
 ある訳がない。
 あの数多ある漢の夢の中の一つ。
 ふわゆる系おっとりナイスバディおねえさんまでもがあの男の毒牙にヤられているなど、信じら―――。

「隊長の毒牙にヤられた」

 ―――儚い夢であった。 

「嘘だああああああああ―――ッ!!?」

 膝を砕かれたかのような勢いで地に膝を落としたレイナールは、拳よ壊れろとばかりに地面に握り締めた右手を振り下ろす。頬を伝う熱い水が地面に落ち黒い染みを作り出していく。

「おいっ! 待てっ! 勝手に決め付けるなっ! 俺とカトレアはそんな関係じゃ―――」

 士郎は泡を食った様子で立ち上がると、ギーシュに向け両手を左右に大きく広げ無罪を訴えるが。
 ギーシュは目が全く笑っていない顔で口元だけ笑みの形に曲げた後、ゆっくりとそれを開き。

「『凄かった』と、この間本人(ミス・カトレア)に直接聞いたら教えてくれましたよ」
「あの子何言ってんのっ?!」

 今度は士郎が膝を撃ち抜かれたような勢いで地面に膝を着くと、頭を抱えていた両手を勢いよく下に叩きつけた。
 身内からの裏切りに衝撃を受ける男に、ギーシュは淡々とした様子で追い討ちを掛ける。

「将来的には男の子二人と女の子一人が欲しいとも言ってたね」
 
 ―――否、平静ではなかった。
 蹲る士郎の背中に向けて放たれるギーシュの声は僅かに震えており、それは内心に渦巻く負の感情を思わせるには十分なものであった。

「―――ふ、ふふ、ぼ、ぼくはその時初めて本当の『殺意』というものを知ったよ」

 同じく平静さを保っているように見せながらも、マリコルヌは組んだ腕を掴む手に血管を浮き上がらせながら深く頷く。

「奇遇だねマリコルヌ。ぼくも丁度今そんな気分だよ」
「どうする? 他の奴にも教えて囲んでボコる?」
「そうだね。いくら隊長でも学院の男全員と殺れば何とかなるだろうし」
「少なくとも学院長は絶対参戦するだろうね」

 顔を付き合わせ、淀みなくこれからの事を話し会う四人。ある程度の行動を決め終わると、四人は円陣を組み握り締めた拳を天へと突き上げた。

「よしっ! では早速招集をかけろっ!」
「標的は全学院いやッ! 全世界の男の敵っ! エミヤシロウッ!」
「戦じゃッ! 戦じゃぁあああっ!!」

 マリコルヌが顔を真っ赤に野獣のように吠え立てる。
 そんな様子を満足げに頷きながら見ていたレイナールは、嗜虐心に溢れた笑みを口元に浮かばせ、ゆっくりと士郎に顔を向ける、が。

「隊長。年貢の納め時です―――あれ? いない?」

 そこには士郎の姿は何処にもなかった。
 慌てて周りを見渡すが、影も形も見ることは叶わない。流石というか、あの目を離した数秒で、遮蔽物のないこの草原から見えなくなる距離まで逃げ出すとは―――。そのとんでもなさを変なところで見せる士郎に、しかし残された四人は不敵な笑みを向ける。

「っッ!! 逃げたなっ!?」
「くっ、馬鹿めっ! 既に逃げ場がないことに気付かないとはっ!」

 そう、士郎には逃げ場がなかった。
 何処かに隠れるとしても、ほぼ確実に逃げ込む先は学院に決まっている。
 そして学院であれば―――。

「直ぐに招集をかけろっ! 全男子生徒―――いや、学院の全漢に声をかけろっ! 今こそ決起の時だとっ! 溜まりに溜まったこの怒りをぶつける時がやってきたとっ!」

 そう、様々な理由で士郎に恨みを持つ者は多い。
 これまで溜まりに溜まっていた不満や恨み等を晴らしたいと感じているものは、学院には山ほどいる。それは生徒だけではなく教師の中にも多くいた。その全員に声を掛ければ隠れる場所など何処にもないだろう。

「草の根分けても探し出せっ! 今ここで逃せば奴は必ずもっととんでもないことをしでかすぞっ!」
「これ以上奴の棒に暴れられては、ぼくの棒の使い道がなくなってしまうっ!」

 切実な想いに満ちた声で叫ぶマリコルヌ。
 士郎がいなくてもどっちにしろお前の棒の使い道なんてねーよと思いながらも、誰も口にしないのは仲間であるからなのかそれともただの同情なのか?

「それならば、いっそヤられる前に殺ってやるぜぇっ!!」
「奴さえ、奴さえ殺れば、ぼくも棒を使う機会が必ず―――!!」
「追えっ! 追えぇぇぇええッ!!」

 先程までの疲れ果てた様子は何処へといったのだと言う様子で、ギーシュたち水精霊騎士隊の四人は奇声を上げながら士郎を追って学院に向かって走り出した。










「―――さて、皆に集まってもらったのは他でもないわ」

 カーテンが締め切られた薄暗い部屋の中に一人の女の声が響く。女の声は低く微かに震えており、その心の内が現れていた。決して広いとは言えない部屋の中には、声を上げた女以外に四つの影があり。そのどれもが女であった。壁際、椅子、ベッドの上等、女たちは部屋の中、それぞれバラバラの位置に陣取っている。
 蹲り顔を伏せたままの者。
 眠たそうにアクビをする口元を手で覆う者。
 落ち着き無くオロオロと辺りを見渡している者。
 面白そうににやにやと口元を緩めている者。
 それらを見渡した女―――キュルケが、握り締めた拳を眼下のテーブルに叩きつけた。
 ドンッ! と太く大きな音が部屋に響き、部屋の中にいる女たちの視線が集まる。

「―――シロウがミス・カトレアに手を出したわ」

 息を飲む音が一つ、響く。
 
「勘違いしてもらっては困るけど、別にシロウが新しい女に手を出したことが問題じゃないの」
「ん? なら何が問題なんだい?」

 ベッド脇に置かれた椅子に腰を下ろしたロングビルが、目尻に浮かんだ涙を指先で拭いながら問う。

ミス・カトレア(・・・・・・・)に手を出したことが問題なのよ」
「だから、それの何処が問題なんだい?」

 ため息混じりに再度問いかけてくるロングビルを鼻で笑うと、キュルケは首を左右に振った。

「分かってない。分かってないわ」
「……分かってないって?」
「―――あたしの経験からして、あの人みたいなタイプはね―――物凄く厄介なのよ」

 伏せた顔から苦い声が漏れる。

「厄介って……ミス・カトレアはとても穏やかで優しい人ですよ。学院生だけでなくて、わたしたちメイドや料理人にも人気がありますし」

 所在無さ気に部屋の中をウロウロと動き回っていた足を止め、シエスタが戸惑った声を上げた。

「そういう事じゃないのよ。あたしが厄介って言ったのはね。そう言う意味じゃないの。あたしが言いたいのは、彼女が余りにも魅力的ってとこよ」
「え? それの何処がいけないんですか?」

 分からずシエスタの眉が困ったように眉を八の字に曲がる。

「いけないって訳じゃないんだけど……シロウと関係がなかったらね」
「シエスタ。ちょっと考えてみなさい」

 先程から腕を組み壁に背を預けた姿でニヤニヤとした笑みを浮かべ部屋の中を見ていたジェシカが、困り果てた様子のシエスタに声を掛けた。

「めちゃくちゃ美人で可愛い妙齢の女性でスタイル抜群。性格は穏やかおっとり、話題豊富でコミュニケーション力抜群。しかも貴族さまで一家の女主人」

 あは~、と笑いながら組んでいた両手を開き、ジェシカは段々と顔色が悪くなっていくシエスタに告げる。

「そんな男の理想の一つとも言える人がシロウと急接近。さて? それを考えて、どう?」
「とんでもなく厄介じゃないですかッ!!?」

 ぎゃーっ! と突然頭を抱えて叫び出したシエスタを指差し「あはは」と笑うジェシカは、目尻に浮かんだ涙を指先で拭いながら硬い表情を浮かべるキュルケに視線を向けた。

「つまり、そういうことでしょ?」
「……そういうこと。ミス・カトレアは魅力的な人よ。あなたが言った通り、男の理想の一つと言っていいわね。特に自分から積極的に話しかけているわけじゃないのに、ああいうタイプの人には自然と人が集まるのよ。女も男も、ね。で、ああいうタイプで最も厄介なのが、男を変えるって点よ」
「男を変える?」

 疑問、と言うよりも、意味が分からず呆けたような声がシエスタの口から溢れた。

「あたしの経験上。ああいう人は良い意味で男を変えるのよ。自信がない男を自信に満ちあふれた男に、乱暴者の男を穏やかな男に……そして女癖の悪い男を一途な男に、ね」
「それって、まさか―――っ?!」

 思考の至った先の衝撃に、シエスタの目が大きく開かれる。

「そう。このままだと下手したら彼女に全部かっさらわれるわよ」
「どっ! どどどどどう、どうしましょうっ!?」
「ああいう人わたしも知ってるわ。昔店にいたのよね。女癖が悪い奴を一途な男に変えてしまうような人。ミス・カトレアって、その子の雰囲気に良く似てるのよ」

 うんうんと何度も頷くジェシカにシエスタは駆け寄ると、その肩を掴みガクガクと揺さぶる。

「そ、そんな落ち着いてる場合じゃないでしょっ!? ど、どうしよう。もしシロウさんがそんなことになったら……あっ、る、ルイズっ! あなたのお姉さんでしょっ! 何かいい方法と言うか、対策と言うか……えっと、つまり何かない?」

 ジェシカの首元を掴んだまま、顔をルイズに向け自分でも何を言っているのか分からないまま、ただ何とかしなければと言う思いを訴える。

「…………」
「…………ルイズ?」

 ベッドの上で膝を抱えて座るルイズは、シセスタに声に何の反応も見せない。その様子を訝しんだシエスタが、ジェシカから手を外し身体をルイズに向ける。

「―――あ」

 立てた膝に額を当て顔を伏せるルイズの姿は、傍目から見て明らかに落ち込んで見えた。下げた頭の上に暗く重い空気が満ちているのが感じられる。その姿に、シエスタは自分が口にした言葉を後悔した。
 
 ああ、そうだ。
 ミス・カトレアはルイズのお姉さんじゃないの。
 実の姉が自分の好きな人と関係したなんて……ショックじゃない筈ないじゃない。
 なのにわたし、何て無神経なこと―――。

「あの、ルイズ、その―――」
「―――ッああああああああああああああああああああああぁぁぁっぁぁ!!!? もう無理ッ!? やっぱり我慢できないッ!!? 一言文句言わないとスッキリしないッ!!? シロオオオオオオォォッ!! 何処にいるのっ!? 出てきなさいッ!!」

 恐る恐るとシエスタが声を掛けた瞬間、ルイズは突然ベッドの上に立ち上がると、天井を見上げ咆吼した。
 ルイズに向かって手を伸ばした格好のまま固まるシエスタ。他の三人も突然のルイズの奇矯な行動に驚いた顔で固まっている。ベッドの上から勢いよく飛び降りたルイズは、石像のように固まる皆の間をすり抜け駆け出し、そのまま勢いを殺すことなくドアを破壊する勢いで開け放つと外に飛び出していった。

 ――――――………………………。

 段々と遠ざかり小さくなっていくルイズの声が完全に消える頃になってから、やっと氷着いたかのようだったキュルケたちの時間が動き出す。最初に動いたのはドアに一番近い位置に立っていたジェシカだった。

「あらあら。これはシロウ今日は完徹みたいね。一体どんなお仕置きをされるのやら。出て行く時一瞬見えたアレって、確か乗馬用の鞭だったと思うけど……あまり無茶やってシロウに変な趣味目覚めさせないで欲しいんだけどね」
「え? じぇ、ジェシカ。あのルイズの姿見て感想ってそれだけなの? かなりって言うかとんでもなくルイズ怒っていたように見えたんだけど?!」

 落ち着いた様子で顎に手をあて「ふむ」と一息着くジェシカに反し、ルイズの士郎を殺しかねないような激昂を目の当たりにしたシエスタは泡を食って両手を激しく上下に振ってみせる。そんな驚き慌てるシエスタに、ジェシカは片手をひらひらと振りながら苦笑を返す。

「大丈夫でしょ。元々あの子もこうなることを薄々予感してたみたいだし、ひと暴れしたら直ぐに大人しくなるんじゃない? 火種はシロウなんだから、鎮火の方も任せましょ」
「う、ん。でも、本当なの? ルイズがこうなることを予感してたって言うのは」
「わたしが、って言うかミス・カトレアがこの学院に来た時から何となく予想してたみたいよ。だから覚悟? はそれなりにしてたんじゃない? ―――それよりもシロウの心配をしなさい。乗馬用の鞭って言うけど、聞いた話じゃかなり痛いらしいわよ。で、時折その痛みが癖になる人が生まれるみたいで…………だから今はルイズよりもシロウがそんな変態に変態しないよう願っておいた方が先決じゃない?」
「っ、もうジェシカ。もう少し真面―――ッ?!」

 冗談めかしたジェシカの物言いに、シエスタが若干頬を膨らませながら抗議の声を上げようとしたが、自分に向けられる視線の中に真剣なものが宿っていることに気付くと、慌てた様子でルイズが開け放ったままの扉へ向かって駆け出していく。シエスタのメイド服のスカートの端が扉の向こう、廊下へと完全に消えると、壁から背を離したジェシカが扉へと向かって歩き出した。

「っくふふ。こんな話を信じるなんて、シエスタってほんと可愛いわね。ああ、そうそう、あっちの二人はわたしが何とかするから、こっちの方はよろしくお願いするわね」

 笑みが浮かんだ口元を隠しながら、ジェシカはロングビルに目配せした後部屋を出て行く。
 ジェシカが扉の向こうに消えると、部屋の中にはキュルケとロングビルの二人だけとなった。ジェシカが後ろ手に閉めた扉が音を立て閉まると、キュルケは腰が抜けたような勢いで腰を落とし、大きく音を立てながら椅子に座り込んだ。倒れるように身体をテーブルの上に乗せると、キュルケの豊かな胸が身体とテーブルに挟まれ柔らかく歪む。もし、ここに男がいれば顔面を地面に擦り付けてでも見ようとしてしまうほどの絶景がそこにあった。
 だが、幸いな事といっていいのか、それとも悪いことに、なのか、部屋にはキュルケ以外には女性が一人しかいない。
 最後の一人であるロングビルは片頬だけを歪めると、何処か不貞腐れたような顔を浮かべる部屋の主であるキュルケに顔を向ける。

「そんな顔して……残念って言っちゃなんだけど、あんたの考えているような心配はいらないよ。シロウは女一人の影響で簡単に変われるような…………変わってくれる男じゃないんだよ」

 目を細め、何処か悲しげに呟くロングビル。

「―――そう言う男じゃ…………ないんだよ」
「何で…………そんなこと」
「分かるかってかい?」

 顔を逸らし、不満気な声を上げるキュルケの姿に、ロングビルは微かな笑みを浮かばせた。

「まあ、一番の違いは、シロウに抱かれているか抱かれてないかがだろうね。だから、多分、あの子もそのことが分かってるんだよ。それに…………他の子も何となく理解してるだろうね」
「…………ジェシカ以外も?」

 ジェシカは何となくそうだろうなと言う気持ちだったキュルケだが、他の子。ルイズやシエスタもそう言う気持ちを持っているとは考えていなかった。ロングビルの言葉に、『まさか』と言う思いが浮かぶが、それと同時に何故か納得するものが感じられる。
 それは、多分―――。

「―――不安」
「ん?」
あの子(ルイズ)。感じてなかった」

 テーブルに肘を着き、立てた右手の上に頬を乗せたキュルケが、ロングビルに視線を向けず天井を仰ぎ見ている。

「ただ、不満と怒りだけだった」
「そうだろうね」
「こういう時、あの子ならすぐ不安を感じると思ってたんだけど」
「ま、確かにそういう所あるねあの子は。自分に自信がないんだろうね。だから、直ぐに不安になる」
「だけど、違った」

 小さく口の中で呟くキュルケ。

「あれは、ルイズが変わった訳じゃなく、ただ、知ってただけ?」
「だろうね」
「『シロウが変わらない』ってことを…………」

 天井を見上げていた視線をテーブルの上に落としたキュルケは、深い溜め息を着く。

「~~っぁ…………ずるいな」

 再度テーブルの上に突っ伏しながらキュルケは不満を口にする。

「そうかい?」

 駄々をこねる子供のようにテーブルに突っ伏すキュルケの姿を見つめながら、ロングビルは笑って首を傾げる。
 そんなロングビルをキュルケはテーブルに頬をつけながら睨み上げた。

「そうよ。あたしがこんなに不安を感じてるのに、あんたたちだけがそんなに余裕を見せて…………あ~あ、こうなったら無理矢理シロウを押し倒そうかな?」
「ならしたらいいじゃないかい? あんたはそういうタイプだと思ってたんだけどねぇ。何でそうしないんだい? 最初はそんな感じだったじゃないか?」

 不思議そうな声に、キュルケは睨みつけていた視線をまたもテーブルに落とし、ロングビルから視線を逸らした。

「…………変なのよ」
「何がだい?」
「―――その、あたしも自分でもらしくないと思ってるのよ。だけど、その、何て言えばいいのか」

 もじもじとテーブルに身体を突っ伏した状態で動かしながら、キュルケは恥ずかし気に小さな声を上げる。

「何時も、その、ここぞって時に、う、上手く身体が動かないのよ」
「は?」
「何時もなら…………前なら普通に、自然に出来たことが出来ないの」

 ぴたりと動きを止めたキュルケが、ゆっくりと顔を上げる。
 その顔はやはりロングビルに向けられず明後日の方向を向いてはいたが、

「何度かチャンスはあったんだけど、最近、あと少しでって所で、毎回考えてしまうのよ。あまり上手くやると、その、変に思われないかな? とか、嫌われないかな? とか―――いやっ! いやいやッ!! あっ、あたしも馬鹿な事考えてるとは思ってるんだけどっ! でも、不思議とそう―――って、何笑ってるのよッ!!?」
「―――っく、く、く、く、いや、その、ごめん」

 褐色の肌を、薄暗い部屋の中でも直ぐに分かる程真っ赤に染めていた。
 口元を抑え、腹を抑え身体をくの字に折って身体を震わせるロングビルの姿に、椅子を蹴倒して立ち上がったキュルケが指を突きつける。文字通り腹を抱えて笑っていたロングビルは、目尻に浮かんだ涙を手の甲で拭いながら笑いで震える顔を上下に振る。

「っいやごめん、ほんとごめん。ちゃんと笑う場面じゃないってことは分かってはいるんだけどね。しかし、その、やはり何というか」
「―――自分でも何を今更とか、キャラじゃないとか……どこぞの乙女かとは思ってるんだけど…………」

 頭を抱え、キュルケはくの字に身体を倒してテーブルに突っぶすと、諦めたような疲れた声でぶつぶつと呟く。 

「ま、いいんじゃないかい? つまり、あんたがそれだけシロウに本気で惚れてるってことだろうしね」
「そう思う?」
「年頃の女の子らしくていいと思うけどね。わたしは。ま、確かに百戦錬磨のキュルケさまにしては情けない限りだけど」
「っくぅ。やっぱり馬鹿にしてるでしょ」

 テーブルから頭を上げることなく、キュルケは顔をずらし、上目遣いでロングビルを見上げる。 
 それをに笑って見下ろしていたロングビルだったが、不意に真顔になると、キュルケから顔を逸らした。

「……だけど、本当にあんたはシロウでいいのかい? あんたならもっといい男を選び放題だろうに、よりにもよって何であんな難しいのを」 
「それをあんたが言うの? だけど、まあ、確かにそうよね。シロウはいい男よ。顔も、力も、頭も中々いないぐらいの。でも、探せばそれ以上の男はいるでしょうね。そしてあたしはそれを落とす自信はある」

 その大きな胸を誇らしげに張るキュルケ。ふるるんっ、と揺れる胸を見つめていたロングビルは、肩を竦めて問いかける。

「なら、そうすればいいじゃないか?」
「だから、あんたがそれを言うの?」
だから(・・・)、言うんだよ」

 目を細め、睨みつけるような強い視線をキュルケに向ける。突き刺さるような強い視線を受けたキュルケだが、怯むことなく腕を組むと首を左右に一度強く振った。

「……無理ね」
「理由を聞いても?」

 静かに、しかし、ハッキリと否定の言葉を口にしたキュルケの姿に、ロングビルは背もたれに寄りかかるように背を逸らす。キュルケを見下ろす目に更に力を込め、ロングビルは強く問いかける。
 しかし、
 
「……さあ?」
「『さあっ?』って、どう言う事だい?」

 問いに対するキュルケの答えは同じく疑問であった。

「そんなの、あたしが聞きたいくらいよ」
「揶揄ってるのかい?」

 要領を得ない答えに、ロングビルはムッ、と顔を顰める。
 そんなロングビルから顔を背けたキュルケは、顔の前に上げた手を左右にふるふると振った。

「別にそうじゃないわよ。だた……本当に分からないのよ……そういえば……ねぇ、あなたってあたしの二つ名知ってる?」

 顔を前に戻し、ロングビルに視線を合わせたキュルケは、口ごもりながらも問いかける。

「『微熱』のキュルケだったね、確か」
「そう……『微熱』よ。常に燻り続ける火。切っ掛けがあれば直ぐに燃え上がり、でも同時に冷めやすい。一言で言えば惚れっぽいってことね。気に入ったら直ぐに手を出して、飽きたら捨てる。それの繰り返し。アプローチされてる男どころか、恋人のいる男を奪った事もあるわ。だから色々周りから言われたけど……別に気にしてなんかいやしなかった。奪われるような油断してたあんたたちが悪いんでしょって何時も思ってたわ」
「いや、流石にそれは酷いんじゃ?」

 真顔になったロングビルは、「まて」と手をキュルケに向けて差し出す。

「そう? ま、だからうちとヴァリエール家は犬猿の仲なんだけど……ん、ま、それで、あたしは色んな男に手を出しては、直ぐに捨てていたわ。好き(熱く)になって、手を出して、好きじゃなくなって(冷めて)、捨てて……ずっと繰り返して」
「……あんた友達いないだろ」

 上げていた手を力なく下ろしたロングビルは、ジト目でキュルケを睨み付ける。しかし、キュルケは何処吹く風と『何言ってんの?』っとばかりに不思議そうな顔を浮かべる。

「いるわよ」
「誰だい?」
「タバサ」
「他は?」
「……それで十分でしょ」
「はぁ…………まあいいわ。それで?」

 キュルケとのやり取りで、腕だけでなく身体から力が抜けたのか、ロングビルは背もたれにつけていた身体をだらりと前に倒してしまう。数呼吸分おいて何とか気を取り直したのか、ゆっくりと身体を持ち上げると、先を促すように手を差し出す。

「ん、それで、あたしは顔がいいとか、強いとか、頭がいいとか、そういうのを見て『いいな』って思ったら直ぐに手を出してたんだけど」
「うん。最悪だねあんた」
「うるさいわね。いちいち口出ししないでよ」

 苛立たし気に強く床を足で蹴りつける。
 ロングビルの口が閉じるのを確認すると、気分を入れ替えるように軽く歩き、ロングビルから少し離れたベッドの端に腰を下ろした。

「そういう『いいな』って気持ちが、『好き』ってものだと思ってたのよ」
「……まあ、間違いじゃないとは思うけど」

 ベッドの上に腰を下ろしたキュルケに視線を向けると、ロングビルはゆっくりと足を組み、胸の下に腕を組んだ。

「そう、ね。確かに間違い(・・・)じゃない。でも、正解でもなかったのよね」
「……? どう言う事だい?」

 あやふやな物言いに、ロングビルの眉が眉間に寄る。

「シロウが学院に来たばかりの頃なんだけど……あなたがまだ大人しくしてた頃ね」
「……随分と懐かしい話だね。で、その頃がどうしたんだい?」

 昔を思い出すように天井の方に向けていた視線を元に戻す。

 ―――ロングビルがフーケであった事を知っているのは多くはない。士郎やオールド・オスマン以外では、キュルケ、ルイズ、そしてシエスタの三人がそうだ。バレたという訳ではなく、実はロングビルが自分から伝えたのだ。伝えたのは割と最近のことであった。勿論最初話した時かなり驚かれ色々な意味で危なかったが、そうなってしまった事情等を話したところ、二度としないという事で納得はしてくれたのだが……今はそのことは関係ない。

 ロングビルの視線の先、ベッドの上に後ろ手に手を着いたキュルケがベッドの天蓋を仰ぐ。

「実は一回シロウに迫った事があるのよ」
「……それはまた、唐突な……あんたが興味を惹かれるような事あったかね?」

 突然のカミングアウトに、ロングビルの声が一瞬動揺に震える。

「ほら、ギーシュと決闘したじゃない。あれよ。あれを見て、ね」
「……そう言えば確かにあったね。そんな事……ふ~ん、つまりシロウがギーシュを軽くいなした姿を見て」
「そう、『いいな』って思ったのよ。だから何時も通り直ぐに手を出したの」

 顔を下ろしたキュルケは、顔の前に上げた右手を見つめる。
 何も乗っていない空の手のひらの上をじっと見つめ続けるキュルケに、ロングビルが先を促す。

「結果は?」
「……あっさり躱されたわ」
「だろうね」

 答えを知っていたかのように直ぐに頷いたロングビル。
 ひと呼吸も置かず頷いたロングビルに何か言うこともせず、キュルケは話しの続きを口にする。

「……その時言われたのよ。『君の言う『好き』は、恋の『好き』とは違う』……『面白いおもちゃに対して感じる『好き』だ』ってね」
「そりゃまた……で、あんたはどうしたんだい? 怒った?」

 キュルケから聞く士郎のハッキリとした物言いに、ロングビルの口元に薄く笑みが広がる。

「怒らないわよ……ただ、不思議と納得した」
「納得?」
「多分、今思えばずっと前からその事に気付いてはいたんだとは思う。ただ……認められなかっただけで」
「認められない?」
「だってそうでしょ。それを認めるってことは、あたしが今まで恋だと思っていたのが、ただのおママゴトだって言ってるようなものじゃないの。そんなの認められる訳ないでしょ?」

 ベッドのシーツを強く握り締め、キュルケは伏せた顔の下、唇を噛み締める

「ならどうして、シロウから指摘された時、否定したり、怒ったりしなかったんだい?」
「……だから、分からないって言ってるでしょ。自分でも何であの時あんなに大人しくしてたか分からないんだから……」

 ぷいっ、と首を横に振ったキュルケの姿に、ロングビルは小さく溜め息を吐くように相槌を打つ。

「……そう」
「ただ……あの時、シロウにキスされたんだけど」
「―――キスッ?!」

 思考の外の言葉にロングビルの腰が反射的に椅子から離れ、ガタリッ! と椅子が大きく揺れる。

「……額によ」
「あ、そう……」

 上げかけた腰を下ろしたロングビルは、背もたれに力なく寄りかかった。
 そんなロングビルに同調したわけではないが、キュルケもズルズルとシーツを波たたせながらベッドの上に身体を倒し、ごろりと寝転がる。
 ベッドの上に寝転がったキュルケの頭の位置は、ベッド脇に置かれた椅子に座るロングビルの真後ろにあった。うつ伏せに寝転がったキュルケは、頭の近くに転がっていた枕を顔をベッドに押し付けたまま手探りで掴み引き寄せる。ベッドと枕で自分の頭をサンドイッチにすると、後頭部に乗せた枕を掴む両手に力を加えた。

「キスなんか、もう数え切れないくらいしてきた筈なのに……あんな子供騙しのようなキスが……一番熱かったのよ」
「へぇ……」
「子供を相手するみたいに頭を撫でて、キスして……なのに、何故だか今までで一番どきどきして……胸が痛くなって……苦しくて……」
「ふぅん……」

 顔を向けることなく、背中で呟かれるキュルケの話しに適当に相槌を打つロングビル。
 シーツに顔を押し付けているため、くぐもった声しか出していないキュルケ。
 互いに顔を合わせず、ただ言葉だけのやり取りを行う二人。
 全く理解出来ない己の心の内を必死に吐露するキュルケだが、それを聞くロングビルは話が進むに連れある考えが次第に明確になっていくのを実感。それと共にある種の虚脱感に襲われ相槌も加速度的に弱く適当になっていく。

「ほんと……わけが分からないわ」

 キュルケが結論をベッドに当たって押しつぶされた声で口にすると、

「―――理由(わけ)が分かった」

 何気ない様子でロングビルは自身の中で生まれたものに確信を持った。

「えっ?!」
「そういう事」

 驚きのあまり反射的に枕を掴んでいた両手を離し、ベッドに手をつき一気に身体を持ち上げたキュルケは、ロングビルの背中に顔を向ける。キュルケの視線の先には、ロングビルの背中しか映らない。ロングビルは振り向いていなかった。キュルケの視界の中、ロングビルの後頭部が上下に揺れる。

「ちょ、そういう事ってどういう事よっ!!?」
「あ~あ……何だい、やっぱりただの青春か」

 キュルケの問いに答えず、キュルケはやる気の無さ気な声でぶつぶつと呟く。
 そんな「青臭いガキにかまってる暇なんてねぇ」とでも言いそうな気配を漂わせるロングビルに詰め寄ろうと、キュルケは匍匐前進の姿でベッドの上を這って近づく。だが、その伸ばされた手がロングビルの身体に触れる直前に、ロングビルは椅子から立ち上がってしまう。

「青春って何よっ!?」
「何が『らしくない』だ、『乙女みたい』だ……十分らしくて、乙女じゃないかい」

 椅子から立ち上がったロングビルは、溜め息をつきながら扉に向かって歩き出す。寝ていた身体を起こし、ベッドの上で女の子座りしたキュルケが、去っていくロングビルの背中に向けて声を大にして呼び止める。

「ちょっとっ! 何処行くのよっ!?」
「部屋に帰るんだよ。休んでいた分の仕事がまだ残ってるんでね」

 立ち止まることなく、キュルケに背中を向けたままの姿で手を振る。

「帰る前に教えなさいよっ!? あたしがシロウじゃなきゃ駄目だって言うその『理由』ってやつをっ!!」

 ベッドの上で吠えるように声を上げたキュルケに、部屋と廊下の堺で立ち止まるロングビル。
 立ち止まったロングビルは、背中越しにキュルケに問いかける。

「あんたまだ分かんないのかい?」
「分からないから聞いてんでしょっ!」

 不満を露わにした声に、ロングビルは肩越しにキュルケに振り向く。

「分からないって……あんたさっきから自分で何度も答えを言ってるじゃないか?」
「え?」

 キュルケの眉が中央に寄る。

「あんたはシロウに『恋』してる。それが理由だろ」
「『恋』って……でも、それは……」
「ああ正確には『恋』じゃないか―――」
「え?」

 否定のため横に振られそうになった顔でピタリと止まり、ロングビルに向けられたキュルケの口は大きくぱかりと大きく広がる。
 そんなキュルケを目を細め悪戯っぽく笑んだロングビルの目が歪む。
 楽しげに、微笑ましげに―――。

「―――『初恋』が正しいだろうね」
「―――ぇ?」

 肩越しに顔だけこちらに向けていたロングビルが笑いながら口にした言葉が一瞬理解出来ず、小さく息だけが通れるような細く口を開いた姿でキュルケが固まる。固まったキュルケの視線の先、顔を前に戻したロングビルが肩上に上げた右手を振りながら部屋を去るロングビルの背中が映った。
 ロングビルがドアノブに手を伸ばしても、扉を開けても、背中が部屋の外に向かっても……そして扉がしまっても、キュルケは一切の声を上げることは出来ないでいた。
 一人部屋に取り残されたキュルケは、ベッドの上、固まったように閉じたドアに視線をつけたまま動かない。
 一分、二分と時間が経つと、キュルケは唇を震わせながら酷く動揺した声で独白を始める。

「『初恋』? え? いや、そんな筈……」

 扉に向けていた視線をベッドの上に落とす。

「……え? まさか……」

 視線の先にあるシーツのように頭の中が真っ白になりそうなのを、必死に押し止め、キュルケは無理矢理過去を回想する。伏せた顔。しかし、微動だせずシーツに向けている顔とは違い、目の中の瞳は激しく揺れている。
 どれほどの記憶を遡っていたのか、それとも何度も記憶を回想しているのか? 今までで一番長い閒キュルケは動かない。
 十分? それとも一時間? 長い時を掛け、固まっていたキュルケの身体が動き出す。
 身体が小刻みに震える中、伏せていた顔を上げる。
 褐色の肌を淡く桃色に染め上げ、泣き出す直前のような潤んだ目はどこを見ているのか、その視線はふわふわと揺れていた。
 のろのろと動き出す両手。辿り着いた先は、服の上からでもハッキリと分かる程大きな胸の上。大きく膨らんだ胸の上からでも感じられる程、高鳴っている心臓がある位置。胸を押さえる両手が跳ね除けられそうな勢いで鼓動が鳴っている。その強さと激しさに、訳も分からない恥ずかしさが沸き上がり、褐色の肌を更に赤く染め上げてしまう。
 際限なく高鳴り続ける鼓動に押されるように、開いた口から声が溢れる。

 上気した頬。

 夢を見ているかのように潤み揺れる瞳。

 高鳴る胸を抑え、小動物のように小刻みに震える身体。

 熱く、濡れた泣き声のような声。

 その姿は、何処からどう見ても―――



「―――ッ、ぅ……は、『初恋』……なの?」



 ―――恋する少女の姿であった。





 
 

 
後書き
 答えは『殺意』と『恋』でした。
 
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