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死んだふり

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第九章


第九章

「しかしな」
 だがここで目の光を取り戻した。
「まだ勝負には負けてないで。裏がある」
 その通りであった。九回裏、阪急にはその最後の攻撃があったのだ。
 うなだれていた山田がだ気を取り直した。そして三番の門田をライトフライに討ち取った。これで悪夢は終わった。
「次は反撃や」
 西本はナインに対しそう言った。そして打席に向かう大熊と大橋に対して言った。
「思いきり振っていけ」
「わかりました」
 二人はそれに対して頷いた。そして打席に向かった。
 だが力が足りなかった。大熊は元々二番である。大橋は守備は凄いが打撃はそれ程ではない。二人はいずれも外野フライに終わった。
「あと一人か」
 野村は感慨を込めて言った。既に球場はあと一人コールで満ちている。大阪からこの西宮までファンが駆けつけてきていたのだ。
「よし、ここが最後の正念場や」
 佐藤を見た。どうやらあと一人はいけそうである。そう、あと一人は。
 その最後の一人がバッターボックスに入った。キャッチャー種茂雅之の代打当銀秀崇である。
 佐藤は既に限界にきていた。スタミナはあと一人が限度である。
「けれどあと一人や」
 彼はここで気力を奮い立たせた。これを凌げば胴上げである。
 だがそうはいかなかった。阪急にも意地がある。西本も阪急もまだ諦めてはいなかった。
「させるかい!」
 当銀が打った。打球はそのままスタンドに入った。まさかのホームランであった。
「よっしゃ、よお打った!」
 西本は彼を出迎えてそう言った。そしてすぐに動いた。
「遂にお出ましやな」
 阪急ファンの一人が期待に満ちた声で呟いた。
「ああ、ここぞという時の男や」
 その隣にいるファンもそう言った。彼等は西本の動きを見守った。
 西本は告げた。代打を。
「代打、高井」
 それを聞いた時阪急ファンのボルテージは頂点に達した。そしてそれを背に一人のズングリとした体型の男がベンチから出て来た。
「高井、頼むで!」
「ここは御前に全部任せたぞお!」
 観客席からファンの声が響く。高井はそれを背に受けながら静かに打席に入った。
「遂に出て来たな」
 野村は彼の姿を認めてそう呟いた。
「今のあいつやと抑えられへんな」
 マウンドの佐藤を見る。最早その疲労は見ただけでわかる。肩で息をしていた。
「よし」
 彼は立ち上がった。そして審判に対して告げた。
「ピッチャー交代」
 そして江本を投入したのだ。
「えっ、わしか!?」
 江本はそれを聞いて驚いた。まさかこんな時に出番があるとは。
 一応ブルペンで投球練習はしていた。だがここで出番があるとは夢にも思わなかったのだ。
「そうや、監督が言うとるで」
 ブルペンにいるコーチが彼に対して言った。
「トリは頼む、ってな」
「トリか」
 はじめてであった。江本は南海では先発である。東映では敗戦処理の中継ぎであった。こういった時に投げたことはなかった。
「じゃあやったるか」
 気の強い男である。忽ち持ち前のその強さが出て来た。
「エモめ、乗っとるな」
 野村はブルペンから出て来た江本を見て言った。そして今まで投げていた佐藤に対して声をかけた。
「よおやった。今日は御前の働きのおかげや」
「有り難うございます」
 佐藤はそれに対し感謝の意を述べた。そして江本にボールを渡すと静かにマウンドを降りた。
「エモ」
 野村は彼に顔を向けた。
「相手は高井や」
 そして打席にいる高井を親指で指した。
「わかっとるとは思うが下手なことしたら全てが終わる」
「はい」
 江本はギラギラする目で高井を睨んでいた。
(よっしゃ、気では負けとらんな)
 野村はそれを見て心の中で言った。
(ここは思いきったことしたるか)
 彼は決断した。そして江本に対して言った。
「御前の命、わしに預けてくれるか」
「命ですか!?」
「そや、あいつの討ち取り方はわしのここにある」
 そう言って自分の頭を右の人差し指で叩いた。
「わしのリードの通りに投げるんや。そうしたら御前は勝てる。どや」
 そして江本の目を見た。
「わかりました」
 江本は強い声でそう言った。
「わしの命、監督に預けます。存分に使って下さい」
「よっしゃ」
 野村はそれを聞くと満足したように頷いた。
「腹は決まったな。じゃあ勝負するぞ」
「はい」
 その声に迷いはなかった。野村はニヤリ、と笑った。
「御前を南海に呼んで正解やったな」
 そう言うと背を向けた。そしてキャッチャーボックスに戻っていった。
「わしを南海に入れたことをそんなに有り難がってくれとるんやな」
 江本の心に熱いものが宿った。
「わしが今こうしてここで投げとるのも監督のおかげや」
 彼は野村に拾われたことを深く感謝していた。
「じゃあ今、この命監督にくれたるわ!」
 そう言うとボールを握った。力で指が白くなる程に。
 野村は高井を見た。全身から威圧感が漂ってくる。
「やっぱりこういう時には一番怖いな」
 彼は思った。その太い腕には勝負を決めるバットがある。
 
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