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土壇場の意地

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第三章


第三章

「じゃああとほんの少しだけ頑張ろう。そうしたら後は胴上げだ」
「はい」 
 伊東はこれでいいと思った。そして安心してキャッチャーボックスに戻った。
 渡辺はこれで落ち着いていた。少なくとも心は。だが投球んそれが伝わるのはもう少しだとだった。
 投げた。ストレートだ。だが僅かだがコントロールが狂った。
「ム!」
 伊東はそれを見た瞬間まずい、と直感した。そしてその時にはもう遅かった。
 大島のバットが一閃した。そしてボールはセンター前に弾かれていた。
 石井は当然の様にホームインした。まさかの同点であった。
「こんなところで・・・・・・」
 渡辺は思わず顔を顰めさせた。だがこの回は何とか後続を断った。
「おい、こんなところで同点やで!」
「大島、よくやった!」
 一塁側の近鉄ファンはもうお祭り騒ぎである。まさかの同点タイムリーに皆大騒ぎだ。
 見れば帰ろうとしていた客も戻っていた。こうした時のファンは実に現金だ。
 だが森はこうした状況でも冷静だった。
「こういうこともある」
 ごく普通のこととしてとらえていた。
「むしろプラスに考えなければいけない」
「プラスにですか」
 コーチの一人が問うた。
「そうだ。あれを試すいい機会じゃないか」
「あれですか」
 そのコーチはそれを聞き顔を険しくさせた。
「その時が来ればだがな。どうだ」
「そうですね」
 彼は問われて暫し考え込んだ。だが顔を上げた。
「やりますか」
「よし」
 まずマウンドに渡辺にかわって守護神潮崎哲也を送った。
「ん、潮崎か」
 近鉄ファンはそれを特に不思議に思わなかった。
「渡辺も九回投げとるし妥当なとこやな」
 老ファンは予定事項の様にそれを見ていた。同点とはいえ延長に守護神が登場することは充分考えられたことであったからだ。
「今日は流石に何をしても勝ちたいやろからな」
「しかし森はここからがわからへんで」
 三色帽のファンがそこに口を挟んだ。
「そやな、あの男はホンマに頭が回るやっちゃからな」
 作業服の男も言った。近鉄は今まで森の知略に対しても数限りない死闘を繰り広げていたのだった。
 敵だからこそよく知っていた。森はそれにあえて気付かないふりをしていた。
「今気付かれると何にもならん」
 それは彼が最もよくわかっていることであった。
「ふむ」
 見ればファンの中には何かを察している者はいるようだ。だがそれが何かまではわかっていない。
「当然といえば当然か」
 森はそれを見て安心した。
「流石にこれはわからないだろう」
 彼はニンマリと笑った。
 試合は進む。近鉄のピッチャーも守護神赤堀元之に替わっていた。
「赤堀、がんばらんかい!」
 一塁側から声援が飛ぶ。近鉄の誇る絶対的な守護神である。彼もまた敵の目の前での胴上げは何としても阻止するつもりであった。
 制球に苦しみながらも抑えていく。十回は両者共目立った動きはなかった。
 十一回表、西武の先頭バッターは鈴木健であった。
 鈴木は赤堀のボールを引きつけた。そして思いきり振った。
「いったか!」
 その打球を見た西武ナインもファンも思わず総立ちになった。
「入るな!」
 近鉄ファンとベンチは思わずそう叫んだ。打球は際どいところを飛んでいく。
「どうなる!」
 今にもきれそうだ。だが中々きれない。打球はそのままライト線ぎりぎりをかすめるようにして飛ぶ。
 巻いた。打球はポールを巻いた。鈴木の値千金のソロアーチだった。
「やった、やった!」
 鈴木は満面の笑みでダイアモンドを回る。森はそれを見て今度こそ勝利を確信した。
「よくやった」
 そして帰って来た鈴木を出迎えた。
「有り難うございます」
 鈴木は監督に迎えられ笑顔のままで答えた。
「これで勝ったな」
 森はベンチに引っ込む鈴木の姿を見て言った。そしてスコアボードに目を移した。
「よし」
 森はここで先程から考えていることを実行に移す決意をした。
 彼は電話を手にした。ブルペンに電話をかける。
「行くぞ」
「わかりました」
 電話の向こうから元気のいい声が聴こえてきた。
「ライオンズ選手の交代をお知らせします」
 ここでアナウンスが入った。
「ん、守備固めか?」
 近鉄ファンはそれを聞いてまずそう思った。
「レフト潮崎!?」
「何!?」
 近鉄ファンだけでない。西武ファンもこのアナウンスには仰天した。
「ピッチャー杉山賢人」
 左のルーキーである。速球を武器としこのシーズンの新人王を獲得した。
「杉山はわかるが」 
 劣勢の時でも冷静だったあの老ファンですらすっかり狼狽していた。
「レフト潮崎やと!?森は何を考えとるんじゃ!」
 思わず絶叫していた。潮崎がレフトに入り杉山がマウンドに登っても球場はまだざわついていた。
「ふふふ」
 森はそのざわめきを不敵な笑みを浮かべながら聞いていた。
「これには誰も気付かなかったようだな」
 彼の声は自信に満ちていた。
「それはそうでしょう」
 傍らにいたコーチもそれに頷いた。
「こんなことは今までなかったことですから」
 ピッチャー複数を同時にグラウンドに置く。しかもマジック一のこの場面で。森は何を考えているのか。誰にも理解することができなかった。
「監督ホンマに森か!?」
 作業服の男が思わず口にした。
「長嶋とちゃうやろな」
 長嶋茂雄はこのシーズンから巨人の監督に復帰していた。相も変わらず奇妙な采配を執っていた。
 
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