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Cherie

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第三章


第三章

 手をつないで帰る。君が子供みたいにはしゃいでいたのを覚えている。それは全て儚い思い出でしかない。何もかもが儚い思い出だ。
 それから暫く経って彼女のアパートに二人でいた時だった。たまたま彼女はコンビニに買い物に言って席を外していた。ここで僕の携帯が鳴った。
「あっ」
 鳴ってはじめて気付いた。電源を切っていなかったことに。
 彼女もいないのでそれに出た。すると出て来たのは妻だった。
「あっ、どうしたんだい?」
「実はね」
「うん」
 僕は妻の話を聞いていた。彼女のことは頭から離れていた。
「予定が早くなったの」
「何かあったの?」
「別に何もないけれどね。用心なのよ」
 妻は僕に言ってきた。
「入院するのは」
「入院なんだ」
「そうよ」
 妻は答える。
「出産にはまだ早いじゃない」
「そうか」
「そうよ。それでね」
「うん」
「その時になったら来て」
 こう誘ってきた。
「ほら、お仕事今順調なんでしょう?」
「まあね」
 僕は作家だ。この前一作脱稿したばかりだ。当然彼女もそれを知っている。そのうえでの言葉のやり取りなのだ。
「だったら」
「わかったよ、じゃあまた連絡して。それから」
「来てね」
「うん、それじゃあね」
「ええ」
 これで電話を切った。彼女の部屋にいることは頭から消えていた。妻と子供のことだけが頭にあった。だから扉が開いたことも気付かなかった。そこに彼女が帰っていたことも。全く気付いてはいなかったの。
「・・・・・・そうだったの」
 不意に声がした。彼女の声だった。
「いたんだ」
「・・・・・・・・・」
 彼女に気付いた。気付いたが何も言えなかった。真実がわかったからだ。
「御免なさい」
 彼女が謝ってきた。
「気付かなかったから。私」
「待って」
 部屋を飛び出した彼女を追う。それまでの明るい日差しが急に消えて暗がりになっていく。雨の中で僕は彼女の後を追いかけていった。
 彼女はあの公園に来ていた。僕もその後を追う。そのまま噴水のところへ行くから僕も向かう。そしてそこでやっと一緒になった。
「御免」
 僕はそこで彼女に対して謝った。
「嘘をついていたよ」
「いいのよ」
 けれど彼女はそんな僕を責めたりはしなかった。こう言って街を眺めていた。
「だって。いえ」
 そして言った。
「こうしたことってよくあるから」
「・・・・・・・・・」
 その言葉に何も言えない。僕には言う資格がなかった。
「だから。仕方ないな」
「そうなの」
「だからね」
 彼女は言ってきた。
「さよなら」
「終わりだね」
「ええ」
 僕達は傘もささずそこに立ち尽くしている。その中で話をしていたのだ。
「これでね。何もかも」
「そう」
「だから」
 僕の方を振り向かない。
「最後のお別れまでは。一緒に行きましょう」
「一緒にいていいの?」
「最後だから」
 君の最後という言葉が今でも耳に残っている。それが離れない。
「駅まで」
「わかったよ。じゃあ駅までね」
「そうよ」
 こうして僕達は駅まで向かった。雨の中を傘もささず二人で。冷たい雨が身体よりも心に滲みた。こんな冷たい雨は今までなかった。
 駅につく。僕はバス停に向かった。
「それじゃあ」
「そうね」
 お別れの時だった。あまりに唐突でそして何も言えない別れだった。それが今僕達にやって来た。
「じゃあ」
「うん」
 丁度バスが来ていた。それに乗る。最後に僕はバスの硝子越しに彼女を見た。見れば彼女は僕に対して優しく笑ってくれていた。
 けれどその目は泣いていた。涙の笑顔だった。その笑顔で僕を見ている。僕はそんな彼女から目を離すことができない。僕の身体も心も濡れていたが彼女程じゃなかった。
 雨が何時の間にか止んでいた。その中で僕達は見詰め合う。けれどそれはほんの一瞬だった。運転手さんの声が耳に入ってきた。
「出発します」
「じゃあ」
 お別れだから。彼女を見る。その時だった。
 泣いた笑顔のまま上を指差していた。そして僕に対して呟いてきた。
 それは言葉は聞こえなかった。それでも唇の動きでわかった。雨雲が遠ざかっていく中で僕はその唇の動きを追うのだった。彼女は言っていた。
『親愛なる貴方に。最後にさようなら』
 それで終わりだった。僕に対する最後の言葉だった。バスは発進して彼女の前から消えた。それで何もかもが終わってしまった。
 雨雲も遠くへ行ってしまっていた。通り雨だった。激しいけれどそれは通り雨だった。
 そして僕達のことも。結局は通り雨だった。
 何も言えなかったし言わなかった僕だけれど。その通り雨は受け止めていた。その雨を受けてそれが過ぎ去ったのを感じて今思った。
「運命だったけれど。通り過ぎるものだったんだ」
 今はそう思う。けれど忘れはしない。嘘をついてそれで潰れてしまった恋だけれど本気だったから。それは自分でも受け入れたのだった。今も。


Cherie   完



                 2007・1・15
 
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