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ワンナイト=ジゴロ

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第一章


第一章

                 ワンナイト=ジゴロ
 銀座の洒落たバー。カウンターには洒落たステンドガラスがある。そこには酒とグラスが並んで置かれている。俺はそこで聴き飽きた古いジャズを聴きながらカウンターに座っていた。
 その横には誰もいない。俺は一人で飲んでいた。たまには一人もいいものだと思いながら飲んでいた。
 店には俺の他にはバーテンしかいない。そのバーテンにカクテルを作らせながら飲んでいる。ふと飲むのを止めて煙草を取り出した。それに火を点けて吸う。
 煙を吐く。白い煙だった。それが煙草の青い煙と混ざり合う。そしてその向こうにある洋式ぶったステンドガラスを曇らせる。もっとはっきり言えば俺の前にあるステンドガラスを霧みたいに遮った。
 軽く吸ってその煙草を灰皿に置く。それから手をグラスに戻した。
「隣いいかしら」
 不意に声が聞こえてきた。どうやら俺にらしい。
「誰だい?」
 声からそれが女のものだとわかる。声の主らしき女は俺に答えるより早く俺の隣に来ていた。
「暇を持て余しているのよ」
 耳元で俺に囁いてきた。見れば大人の熟れた女だった。
 歳は二十代後半、若しくは三十代前半といったところか。黒い髪を長く垂らしている。
 顔は白く化粧され紅のルージュがひかれている。眉は黒く長く描かれ、それが二重の目によくあっていた。黒い翡翠の様な目はもう濡れていた。
 そして赤いドレスを身に纏っている。胸も背中も大きく開いていた。
 足にはスリットが。派手に映えている。その白い足は付け根まで見えていた。あやうくそちらに目を奪われてしまう。
「暇をねえ」
 俺はそれを聞きシニカルに笑った。
「それで俺を相手に暇を潰そうと」
「そうよ」
 女は笑って答えた。
「貴方も暇なんでしょ。いいじゃない」
「まあね」
 俺はそれを認めた。
「だからここにいるしね」
「お酒を楽しむ為じゃなくて」
「いや、酒は楽しいよ」
 本当はそうじゃない。だがあえてこう返した。
「飲んでいると嫌なことを忘れられる」
「気軽ね」
 女はそれを聞いてくすりと笑った。
「残念だけれど私はそうはいかないわ」
「じゃあどうしているんだい?」
「その時によって様々ね」
 女はそう言って俺の隣の席に座った。
「空いているとはまだ言ってなかったけれど」
「まだね」
「そう、まだ」
 俺は返した。
「じゃあ今言ってくれるかしら」
「わかったよ」
 俺はグラスを置き女に顔を向けて応えた。
「空いているよ。どうぞ」
「有り難う。それじゃあ」
 女はバーテンに声をかけた。
「アドニス=カクテルを」
「面白いのを頼んだね」
 俺はそのカクテルを聞いて言った。カクテルにはそれなりに知識があるつもりだ。だからこの店にも来ている。
「好きなのよ」
 女はそれを聞いて言葉を返してきた。
「アドニスが」
 ギリシア神話の美少年の名前をつけたらしい。そっちには詳しくはないがシェリーと甘いイタリアン=ベルモットの組み合わせはこうした夜の店に合っている。今飲んでいるのを飲み終えた俺もそれを頼むことにした。
「こっちもアドニスを」
 バーテンに言った。バーテンはそれを聞くとにこりと笑った。そして頷いてくれた。
「畏まりました」
「頼むよ」
「私が頼んだからかしら」
 女はそれを見て笑った。その目が退廃的に曲がる。
「まあね」
 俺は素っ気無い様子でそれに頷いてみせた。
「元々好きなカクテルだしね」
「そうなの」
「シェリーは好きでね」
「合うわね」
 女はそれを聞くとさらに笑った。
「私もそうよ」
「それはまた」
「じゃあ今夜は飲もうかしら」
「それで退屈を紛らわせる」
「ええ」
 ここでアドニスが運ばれてきた。それで乾杯をする。
「退屈は嫌いなのよ」
 女は乾杯の後でこう言った。後ろからジャズの曲がゆったりとしたテンポで聴こえてくる。
「ただ時間が流れていくだけなのは」
「そんなことは忘れてしまいたい」
「そうよ」
 その赤い唇にその赤いカクテルを近付ける。そして口に含んだ。
「それだけはね。許して欲しいわ」
「どんな事情があるのかはわからないけれど」
 俺もカクテルを口に含んだ。それから言った。
「そんなに退屈が嫌なら付き合うよ。今夜はね」
「今夜だけなの?」
「退屈を紛らわせたいだけなら」
 俺は乾いた言葉を出した。
「一夜だけの方がいいだろ?お互いにね」
「それもそうね」
 女もそれに頷いた。賛成してくれたらしい。その時女の吐息が俺にあたった。アドニスの香りの他にもう一つ香りがあった。
 それはムスクだった。身体からもその香りが漂う。だが口からはより強い香りがした。どうやら口の中にもムスクの香玉を入れているらしい。これははじめてだった。
 その香りが俺の心を誘った。今夜はこの女と一緒にいたいと心から思うようになった。ムスクの香りが俺を誘っていた。
「俺も寂しいしね」
 俺は言ってしまった。ムスクに本心を出させられてしまった。
「あら、貴方も」
「今は一人身でね。寂しいものさ」
「私もよ」
 女は自分もそうだと言った。だが俺はそれは信じなかった。
「嘘だね」
 俺はこう言ってやった。
「何でそう言えるのかしら」
「その指さ」
 俺は彼女の左手の薬指を指差して言った。
「その指輪を見ればね」
「今は違うわ」
 だが女はこう言って不思議な笑みを浮かべてきた。
「違う?何が?」
 俺はからかってやった。アバンチュールなら望むところだがこうして突付くのもいいものだ。
「今は誰もいないわ」
「今は、ね」
「そうよ。だからここにいるのよ」
 どんな事情があるのか。だがそんなことは俺には関係はない。気がつけば俺も女もアドニスを飲んでしまっていた。女はそれを見てまたバーテンに声をかけた。
「フローズン=ベリーを。二つね」
「わかりました」
「今度はウォッカなんだね」
「強いお酒の方がいいでしょ?」
 女は頼んだ後で俺に問うてきた。
「退屈を忘れるのには」
「今夜のこれからも考えるとね」
 俺も悪戯っぽく笑って返した。
「強いお酒の方がいいわよね」
 木苺とレモンジュースを入れたカクテルだ。甘口で飲み易い。どうやらこうした赤くて酔いの早い酒が好きなようだ。
「それじゃあまた飲みましょう」
「うん」
 ここで女は髪を掻き分けた。左耳が見える。そこにある金色のピアスがステンドガラスの光を反射する。そしてグラスの赤い酒の光は彼女の白い顔を照らしていた。
 それから暫く飲んだ。気がつくと俺はホテルのベッドの中にいた。安いラブホテルじゃなかった。名前には聞いたことがあるがとても俺なんかが泊まれるようなホテルじゃない。正直ベッドの中で俺は驚きを隠せないでいた。
「驚いたかしら」
 隣にはあの女がいた。身体をシーツで隠して俺に尋ねてきていた。
「驚くも何もね」
 俺は煙草を咥えながら言った。
「まさか。こんなホテルに泊まるだなんて」
「あら、大したことはないわよ」
 女はくすりと笑ってこう返してきた。
「こんなホテルなんか」
「こんなね」
 それに応えながら火を点けた。そして煙を吐き出す。
「お金持ちだったとはね」
「お金だけ持っててもね」
 女の笑みが寂しげなものになった。
「何もならないのよ」
「どうだか」
 俺にはわからない話だった。こっちは毎日必死に働いて金を稼いでいる。生きる為には何だってしなきゃならない身の上だ。そんな人間にはわからない話だった。

 
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