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乱世の確率事象改変

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彼の救い


「夏候惇将軍、左目負傷! しかし敵将張遼と一騎打ち継続中!」
 疲労からか、それとも焦りからか……その伝令は正確に報告を行ったが額から止めどなく汗を垂らし、しかし拭う事もせず片膝をついてその場に頭を垂れ続けた。
「……報告ご苦労、下がりなさい」
 黒馬に跨り短く簡潔な返答を綴った自分の主に、自軍の将の負傷報告にいささか冷たすぎではないだろうかと思い、言葉を紡ごうと隣を見る。
 そこには目を瞑り、何かを確認するかのような静かな人が居た。
 あまりの美しさに、自分はただその姿に見惚れた。思考することもできず、口を開くこともできず、戦場であるのにここには彼女一人きりであるような錯覚さえ覚えた。
 永久の時とも、一重の瞬刻とも感じられた沈黙の末に彼女はゆっくりと目を開き、覇気を溢れさせ、戦場を見やりながら命を口にする。
「真桜……洛陽に突入する。共に制圧しつつ進みなさい」
 放たれた命は戦場での自分達のすべきこと。
 戦場は主な将が出払い、もはや制圧するのみとなっている。賊との戦とは違い、殲滅まではしなくてもいい事により自分の心もすこし安堵を感じていた。
 今この場に些細な違和感を感じながらもそれがなんなのか分からず、深く考える事もせずにいつも通り御意と返事をし部隊を率いに向かった。

 †

 ああ、自分はこの時間をずっと続けていたい。
 剣戟を重ねる度に胸が高鳴る。頬の横をすり抜ける鉄と風が脳髄をくすぐる。相手の鋭い眼光に射抜かれる度に歓喜と恐怖が心を混ぜ返す。
 ただこの瞬間、この一振り、この一太刀が生きる全てに同化している。
 研ぎ澄まされた神経が自分と相手以外の全てを遮断し、お互いの心の内までさらけ出された感覚に陥る。まるで子供同士でじゃれ合うように。
 甲高い音を鳴らして互いの武器が弾かれた。肩を大きく上下させ、多くの切り傷から滴った血がそこら中を赤黒く染め上げた衣服を纏い、二人で目を合わせて口の端を吊り上げて笑いあう。
 互いの考えなど通じ合っていた。
 左上段からの袈裟切りも、下から唸る偃月刀で応える。
 互いの武をもって語り合う。まだいけるか?あたりまえだろう。もっとしよう。さあ、もっと続けよう。
 しかし……無情にもどんなことにも終わりはやってくる。
「ぐっ!」
 夏候惇の渾身の一撃を己が武器で防ぎはしたが、耐えきれず膝を付き、勢いに圧されて武器が自分の手から離れてしまった。
 急いで拾おうとしたがすっと目の前に剣が突きつけられる。
「私の勝ちだな、張遼」
 見上げると息を弾ませながら飛び切りの笑顔で自分に告げる勝者がそこに居た。
 全身の力を抜き、仰向けに地に倒れて空を見上げる。
 そこには透き通り、どこまでも色鮮やかな橙の空が広がっていた。
 そうか、自分は負けたんだ。でも……こんなにも清々しい。
 口がにやけるが、すっと胸の奥に吹き抜ける寂しさから瞳が潤む。
「うちの負けや。これで人生に悔いは無い。……惇ちゃん、戦場で殺してくれ」
 仕える主も、誇りを持っていた武も、自分の鍛え上げた部隊も、全て負けてしまった。
 ここで最後に自分が死ぬことに意味がある。
 月の誇りを、想いを、あの子が好きだと言ってくれた自分自身のままで華雄と共に守り抜ける。
 言うとしたら、こんな気分の時に酒が飲めないのが心残りか。
 そんな事を考えているとふいに頬に中途半端な衝撃が走った。夏候惇の拳が軽く自分を打っていた。
「バカかお前は。お前はこれから華琳様の元で戦うんだ。敗者は勝者の言う事を黙って聞け。それに見ろ」
 何を言ってるんだこいつはという顔をしながら腕を引き自分を立たせ、前を見ると夏侯淵の後ろに自分の隊の生き残り達がそこには居た。
「後で逃がしてやると言ってもお前と共に死ぬと言って聞かないらしい。こんないい兵達に敗者の張遼を見せたままで逝って、お前はそれで悔いは無いと言い切れるのか?」
 自分を見る複数の目はずっと信頼を向けてくれてきた力強いモノ。戦場でいつも支えてくれた大切な仲間達。
 その目はいつものように自分に期待していた。

『張遼、お前の戦いはまだ終わっていないだろう?』

 女にしては豪快な笑い声の幻聴とともに聞こえた言葉は、もういない友の声。
 月は、詠は、恋は、ねねは、こいつらは……自分に生きて欲しいと願っていた。
 華雄の事をバカにできない。自分のほうがバカだった。
 うちは華雄とちゃう。うちが華雄のマネした所で、それはうちとして死んだ事にならへんやないか。
 そう考えると心が軽くなった気がした。
「惇ちゃん、一つ聞かせえ。曹操は民を犠牲にするような戦の仕方をする奴か?」
 自分の心のしこりを聞く。夏候惇のような単純純粋バカが仕える主ならば答えは分かっているが、それでも聞いておきたかった。
「ふざけるな! 華琳様がそのような下卑た策を使う訳がないだろう!?」
 返ってきた返答は心底の激怒だった。
「そうか……ええよ、惇ちゃん。あんたの好きにしい。こいつらのためにも、うちの仲間との約束のためにも、まだ死ねへんしな。すまんなお前ら、もうちょいとだけうちの無茶に付き合うてくれ」
 厳しい瞳で自分を見続ける夏候惇に返事をし、自分の隊に片目を閉じ、片手を顔の前に上げて謝る。
「我らが命は常に将軍と共に! 戦場にて神速のまま果てる事こそ我らが望み! どこまでもあなたと共に駆けましょう!」
 片膝をついて口にされたのは兵達全ての心の内。
 こんなバカ達と戦場でずっと駆けていけるなら、それこそ神速の張遼その在り方だ。
「クク、あははは! バカだらけや! 最高やなぁ! ほんなら今は大人しく勝者の言う事聞いて力溜めよか。惇ちゃん、案内して――――」
 言いながら振り返ると同時に夏候惇の身体が崩れ地面に前のめりに倒れる。
「姉者!」
 駆け寄った夏侯淵にどうにか抱き止められたがその息は荒い。
「ああもう、あないな事の後に無茶するからや。まずは手当やな。夏侯淵、うちも肩貸すさかい救護の陣まで連れてくで」
「すまない張遼」
 その表情は武人ではなく一人の泣きそうな少女のモノだった。
 心配で心が折れそうになりながらも姉の勝利を疑わず将として動いていたのか。
 これは確かに自分の完全敗北だ。でもいつか勝とう。自分が一番だと言わせてみせよう。
 そう考えながら新たに自分の所属することになった軍へと向かった。
 
 †

 城門付近は連合が完全に抑え、後は外の戦場と中の敗残兵を制圧し、洛陽の民の安全を確保するのみだった。
 呂布が去った後、張コウと共に周りの敵兵を制圧、急いで白蓮殿の所に向かった私は無事に合流できたが、主の顔は戦の勝利に浸るでもなく翳っていた。
「戦の勝利が確定し、周りに敵もいない。なのに何故そのような浮かない顔をしておられるのです、白蓮殿?」
 ハッと顔を上げこちらと目を合わせてくれたが、その瞳には疑問と……静かな怒りがあった。
「……秋斗がな、洛陽内部に煙が立って少ししたら隊を連れて一番に洛陽に突入していったんだ。私の目の前を通って」
 己が主から話された事は信じられないモノだった。飛将軍との戦闘に集中していてその間の戦場の出来事は全て把握できてはいなかったから。
「バカを言いなさるな! 倒れまでした将に対して劉備殿がそれを命じたと!? それとも秋斗殿の独断専行だとでも!?」
 あまりの驚きに白蓮殿にきつく詰め寄ってしまった。私の剣幕に少し怯えながらも睨み返し、口を開いた。
「私が知るか! あいつが独断専行しようとしたのは最初の、初めての賊討伐の時だけだったんだろう!?」
 言われて思い出す。確かに最初こそ逸る気持ちを抑えきれずそのような事を行おうとしたが以降は全く無かった。冷静に状況を判断できる立派な将になったはずだ。では劉備殿が命じたという事か。
「……怒鳴ってしまってすまない。秋斗は私に見向きもしなかったんだ。いや、その程度の事はいいんだ。だけど、だけどさ! あんな痛々しい表情をしたあいつを見たのは初めてなんだ! あいつに……何があったんだ……」
 消え入る声は悲しみに包まれていた。
 私達はシ水関の時以降、忙しくて合う機会が無かった。
 あの時は普通だった。いや、普通に見えただけなのか。あの時は雛里が隣に居たし、それに戦場では無かった。
 確かに戦場での秋斗殿は恐ろしいと感じることがある。しかし痛々しいと感じた事は無い。哀しげな瞳で命を奪う事を心に刻みつける様はそう取れなくもないが白蓮殿がここまで騒ぐのはおかしい。
「こちらも取り乱してしまい申し訳ありませんでした白蓮殿。重ねて非礼をお許し頂けるのなら……申し訳ないのですが今日の夜にでも劉備殿の所へ伺いを立てて頂きたい」
「気にするな星。私も桃香に大事な話がある。ただし一人で行く。お前は牡丹を連れて秋斗と話して来い」
 この方なりの気遣いなのだろう。
 きっと私は劉備殿の前に立つと苛立ちを隠せなくなる。たとえ白蓮殿と共に居たとしても。
 個人の感情は割り切ったなどと……笑わせる。
 こんなにも焦燥に駆られてしまっているではないか。
 牡丹を共につけてくれるのは客観的に物事を判断できるようにするためか。どちらかが熱くなればどちらかが冷静になれる。確かに私と牡丹はそんな関係だから落ち着けるだろう。
「白蓮殿。できれば劉備殿から話を聞いた後、雛里に詳細を聞くがよろしいかと。あの子が一番秋斗殿に近く、彼の事を考えているのですから」
「鳳統に? ……ああ、そういう事か。確かに止めないのはおかしいな」
 そう考えるとおかしい。何故雛里が止めなかった。いや、止められなかったのか。
「星、多分な。これは誰も間違っちゃいない。だけどあいつらは全員大切な事に気付いちゃいない」
 謎かけのような言葉の意味はあやふやで、それでいて難しいモノだった。
「それはどういう――――」
「責任と感情、調和と争い。まあ、詳細が分からないとどうだかは分からないんだけどな」
 苦笑しながら告げる彼女の顔は凛々しく、それでいて優しいものだった。
「一応教えとくよ。あいつらはな――――」
 その答えは単純で、くだらなくも大切な事だった。
 確かにそれは私達の軍ならば明らかな異常事態だ。
 しかし……秋斗殿に対しては自分が行う前に雛里にその役目を取られるやもしれんな。
 それは少し悔しい。二番目だとしても、私もたまには素直になってみようか。
 そんな事を考えながら、白蓮殿と共に自分達の陣に一旦戻る事にした。

 †

 負けを悟って街で暴徒と化した兵達や、それに乗じて獣に堕ちたモノ達の制圧はほぼ完了に向かっていた。
 しかし都での火災は家から家へと伝播し、その勢いは恐ろしく、轟々と燃える火は未だにそこかしこで消えきらずにあった。
 徐晃隊と曹操軍と共に忙しく救援と避難活動を行っている私達の元に思春が報告にやってきた。
「冥琳様達本隊も洛陽に入ったようです。その後に続くように曹操も」
「そう、報告ありがと。じゃあとりあえず民達の中から長老格の人を探してきてくれる?」
「はっ」
 言うが早く目の前から姿を消し、民の集合避難場所に向かう。
 しかし驚いた。徐晃隊の避難誘導は的確で、決して乱れる事無く、それでいてあまりに迅速だったから。人々を慰撫する兵達一人ひとりが暖かさを持ち、決して投げ出したりせず、皆が助けるためという目的のために一つになっていた。
 何をおいても民の為、か。
 劉備が掲げる理想を思い出す。
 私は今、そんな余裕があっただろうか。
 思えば母様が死んでから、王になるために余りに多くのモノを捨ててきた。
 力無き自分を憎み、力を求めやっきになって突っ走ってきた。
 見回すとあの頃のような、守れなかった民達の住んでいた街がある。
 気付くと拳を握りすぎて血が滴っている。
「雪蓮、無事だったか。良かった」
 後ろから声を掛けられ振り返るとそこには心底安堵した顔の冥琳がいた。
「ねえ、冥琳。私達は弱いね」
 零してしまっのは自分の弱さから。でも耐えきれなかった。
 周りには自分の仲間しかいないから気が緩んだんだろうか。
「見慣れてるけどさ、やっぱり……」
「雪蓮、弱音など口にするな」
 自分を見る目は軍師のモノ。そして……その奥には自分への変わらない信頼の色。
「お前は文台様の意思を継いだのだろう?ならば弱音など吐くな。お前の優しさは分かっているが……それは覇業の妨げになる場合がある」
 厳しく諭してくれるのは自分を思っての事。そうする事で自分を支えてくれている。
「ごめん、冥琳」
「いいのよ、雪蓮。二人の時は言ってもいいから、ね?」
 私はどれだけこの大切な人に世話になるのだろう。
 強くなるのだろう、孫伯符。
 そうやって自分を誇示し、心を奮い立たせる。
「ふふ、ありがと冥琳。じゃあ民達のために仮設天幕の準備と、炊き出しもしましょうか。未だ燃えている火の消火も。洛陽にしばらく留まっても……いいわよね?」
 言うと彼女は一つため息を尽き額に手を当ててこちらを見る。
「計画に多少のズレができるが……この状況では仕方ないか」
 冥琳の口元は言いながらも綻んでいた。
 いつも支えてくれてありがとう、と心の中で呟いて、私達はそれぞれが出来る事を行いに兵に指示を出しに向かった。

 †

 戦は終わった。
 投降する兵達の移動も終わり、私達は洛陽に入場した。
 入るとあまりに酷い有様に言葉が出なかった。
 戦の爪痕。焼け落ちた家。死んだ民や兵の死体。黄巾の時にも見てきたがいくら見ても慣れる事は無い。
「劉備様。民の避難、曹操軍と孫策軍の迅速な対応の助けもあり、終了しております」
 先に入っていた徐晃隊の人が報告をしてくれる。
 細かな報告を朱里ちゃんが聞いている。
「桃香様、いくつかの場所に分けて避難を行ってくれたようなので、私達は東側に向かいましょう。すみません、炊き出しと仮設天幕の準備を」
 後ろに控える兵に指示を出すのを確認し、避難場所に向かう。
「朱里ちゃん、ここからが私にできる事、だね」
「はい。民達の元へ着いたらこちらに炊き出しと家を失った人たちへの仮設天幕の用意がある事を伝えましょう」
 強く頷き民の避難集合場所に向かう。
 しばらくするとそこに着いた。
「劉備様!」
 徐晃隊副長さんが大きな声を上げると同時に民達の視線が一斉に集まる。
 その眼には期待と感謝の色が映っていた。
「おお! 劉元徳様! あなたの軍のおかげで我らが洛陽の民の安全は確保されました!」
「無理を押して戦場を抜けて一番に助けに来て下さるとは……ありがたや、ありがたや」
「我らの事を一番に考えてくださったのはあなた方なのでしょう?」
「なんでも徐晃様は傷だらけにも関わらず我らの救助の為に来て下さったとか、そのような方の仕えるお人だ。まさしく仁君ではないか!」
 口々に話す声には歓喜があった。私はその人たちに応えるために大きな声を張り上げた。
「皆さーん! 炊き出しの準備をしていますからもうちょっと待って下さいねー! それと仮設天幕を建ててるから家を建て直すまではそこで雨を凌いでくださーい!」



 わっとあがる歓声を聞きながら一人思考に潜る。
 徐晃隊が噂を流したのか。あまりに民の人心が安定している。
 これも、ここまで細やかな事まであの人は考えていたのか?狙っていなければ噂の指示など出せない。いや、徐晃隊という特殊な部隊だからこそこうなった。そしてあの人もそれを分かっているはず。
 わざわざ自分が行く事で民達に救いを見せつけた。
 怪我をした自分が一番に入る事によってその効果は何倍にも膨れ上がる。
 それに民をいくつかの場所に纏めた事によりそれぞれの軍で民の救援がしやすくなる。しかし他の軍にしたら厄介な事にそこにも噂が根付いている。
 一番に助けに来たのは劉備軍である、と。
 民は美談を好み、そこに希望を見いだせる。
 まさしく身を切って民の心を救ったんだ。私達が有利になるように。
 桃香様の天性とも呼べる人を惹きつける才によってこれからよりいっそう民達は感銘を受けるだろう。
 ほら、もう民達と打ち解けている。
 この現状を作り出したのはあの人だ。軍師の私じゃなくて。
 ズキと胸に痛みが走る。
 あの人は……この軍には絶対に必要な人だ。
 そして私にも……。
 私も……あの人に惹かれてしまった。
 私とは異なる思考のあの人が欲しい、全てを知りたい、教えて欲しい、導いて欲しい、あの時みたいに黒い私も見抜いて受け止めて欲しい。
 ふいに親友の顔が浮かんで暴走する思考が中断される。
 ダメだ。雛里ちゃんを裏切る事なんて出来ない。
 そう考えても初めての感情が抑えきれない。
 再度ズキリと胸が痛む。
 これは、この痛みは……嫉妬だ。私は嫉妬している。
 秋斗さんの私とは異なる異常な思考に、雛里ちゃんが私よりも先にそれに触れていた事に。
 あの人に対しての嫉妬は……いい。悔しいけど、ここまで見事なモノを見せつけられたら、見せつけられたからこそ受け入れられる。
 雛里ちゃんに対してはダメだ。親友にそんな気持ち持っちゃいけない。自分の浅ましい感情なんか抑え付けないと。
「朱里ちゃん」
「はわわ! ど、どどどうしました桃香様!」
 急に声を掛けられ思考が中断し、いつもの口癖が出てしまった。それを見た桃香様が少し呆気にとられてからクスクスと笑う。
「ふふ、朱里ちゃんのおかげで戦が終わったんだなーって実感したよ。本陣の皆にお願いをしてきて欲しいの。動ける人は手助けに来てくれないかって」
 桃香様もやはり優しい。命令すればいいのにお願い。兵達の事も気付かってのこと。
「わかりました。皆に伝えてきます」
 返事をすると桃香様はまた民達の和の中に溶け込んでいった。
 この優しい人のために才を振るえる私は幸せ者だ。
 そう考えて先ほどの思考の続きを行いながらも幾人かの兵と共に本陣へ向かった。

 †

 雛里と朱里なら気付くだろうな。俺の狙いに。
 民の人心掌握の先手を取る事が一番の目的だった。
 責任を果たすとはよく言ったものだ。俺はそれを利用しただけ。
 偶然の産物であるこの状況をうまく使えただけだ。偽善も貫き通せば被害者にとっては救いになる。
 乱れた世に疲れ切った人々は自分達を救ってくれる英雄を望む。天の御使いなどと胡散臭いモノの噂が流れていたのは数多の英雄でさえ期待できないと思い始めたからだ。
 そんな中、桃香の綺麗事は役に立つ。そんな事を声高に掲げるモノなどいやしないのだから。
 異常ともとれる思想は一際特別に見えて、桃香が漢の由緒ある血筋ということも相まって、そして現場での行動で全てがいい方向に行く。
 自分自身が耐え切れなかったと言う事も確かにあるが長く雛里や朱里と関わってきたおかげで感情とは別に冷えた頭で思考が回るようになった。
 桃香を成長させ、自分達の語った言葉の責を果たし、民の心を救い、あわよくば実を得る。それが今回の狙いの全て。
 実は……幸運な事に得られた。
 俺の天幕に連れて行かせた二人の証人。二人には董卓の真実を語ってもらう。もちろん桃香の前で。
 真実を知った桃香はどうするか。俺の行動で自身の言葉の責を確認した彼女はどうするか。周りはどう考えるか。
 袋小路に追い詰めて叩き潰す。完全には潰れないように予防線は張ったから大丈夫だろう。これで迷うようなら俺が……
 気付くと劉備軍本陣の前で、よく見ると雛里が陣の入り口に立っていた。
 俺を見つけるや駆けてきて……ただいまと言う前に胸に飛び込んできた。受け止めると涙をボロボロと零しながら口を開いた。
「秋斗さんの、ばか。心配、したんですから。あんな、死に場所を、求めるような、顔で、戦場に、向かって」
 しゃくりあげながらもなんとか紡がれた言葉に衝撃を受ける。
 俺はそんなふうに見えていたのか。
「ごめん、雛里」
 ただ泣きじゃくる雛里は軍師ではなく一人の少女だった。
 こんなにも心配を掛けて、不安にさせて、俺は大馬鹿だ。この優しい子にだけ話してしまったから余計不安が大きくなったんだろう。
 申し訳なさが胸にこみ上げてくると同時に、最低だとも思うが少しの嬉しさが湧いた。
 雛里はそれでも耐えて送り出してくれたんだ。どれだけの言葉を呑みこんで、どれだけの想いを抑え付けたんだろうか。俺は雛里に本当に支えられているな。
 バカ、バカと何度も繰り返す雛里の背を撫でながら落ち着くまで待つことにした。

 少し落ち着いたのか、まだ少ししゃくりあげているが身体を離し、俺と目を合わせて来たので何か言いたい事があるようだった。
「……戦場に安らぎを求めてはダメです。自分を大切にしないとダメです。自分の命を投げ捨てるような戦いをしてしまったら、あなたに従う徐晃隊も、死んでいった人たちの想いも、助けた人々の願いも、誰が助けるんですか。今回は私達の未熟から秋斗さんに全てを押し付けてしまいました。民のためにも、私達のためにもなったでしょう。でも……それでもダメです。それではいつか一人になってしまいます」
 たくさんの偶然が重なったからこそ俺は大した怪我も無く今回は切り抜けられた。雛里の戦場を見る目があったからこそ生き残る事が出来た。徐晃隊が命を張って従ってくれたからこそ俺は死ななかった。
「兵と将は違います。命を賭けるのは正しい。でも絶対に命を投げるように戦ってはいけません。将が倒れてしまえば、率いる隊も死んでしまうのですから。あなたの想いも繋げなくなるのですから」
 矛盾した事柄だが、まさにその通りだった。
「それに……私は秋斗さんがいない世界は……嫌です」
 最後に零したのは優しいわがまま。無茶を咎め、理論的に諭す軍師のモノではない。生きてくれと願う、ただ一つの強い想い。
「ありがとう、雛里。……それと……ただいま」
 多くは語らない。言葉はこれ以上いらない。
 雛里を緩く抱きしめて耳元で囁き、
「おかえりなさい、秋斗さん」
 少し身体を離し顔を見ると見惚れてしまう綺麗な笑顔で返してくれる。その笑顔は暖かくて、自分が見たかったモノだった。
 ああ、俺はこの子に救われている。俺はこの子に何か返せないだろうか。
 そう考えても答えは出ず、再び抱きついてきた雛里を抱き上げて、あわあわと慌てているのを苦笑しながら流して、次にするべき事のために動き出した。


 
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