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木ノ葉の里の大食い少女

作者:わたあめ
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第一部
第一章 純粋すぎるのもまた罪。
  1-3

 アカデミーに就学している全ての生徒が忍の家の出とは限らず、時に才能を持った一般人がスカウトされることもある。隠れ里のようにいつ忍びの闘いに巻き込まれるかもわからない里に住む者など大抵が貧困な家庭の生まれだったり、移民だったりすることが多く、だから忍びという任務によっては膨大な給料を得られる上に大名からの援助を受けることも出来る職業をやらないかと問われて食いついてくる者も多い。いとめユヅルが正にその代表例だった。
 ぼろくさそうに見えていながらとても頑丈そうな小さな家が、里の隅の村に建てられていた。曰く、ユヅルの父、いとめヤジリは雲からの移民であり、彼の家には父と妹しかいないのだ、という話だった。

「あんだよ? あんたのとーちゃん、こえーの?」

 ぼろくさい家を見上げて、目に見えて入りたくなさそうな顔つきのユヅルにマナが問いかける。しかし孵ってきたのは、

「怖くはない、けどさあ。でも、ええと」

 と濁りに濁った返答でしかなかった。
 はじめはいない。一文字家にて、嫡子であるはじめが下忍になった祝いがあるそうだ。はじめは相変らず無感動な顔だったが、よくよく見ている内に、彼はあまり乗り気していないのだな、とわかった。
 一族が滅んでいるマナは許可を取りにいかなくてもいい。火影が彼女の後見人だ、問うまでもないだろう。
 じゃあアタシが聞くぞ、と前置きして、マナはいとめ家に向かって怒鳴った。

「誰かいますかー?」
「……何」

 家に呼びかけたはずが、声が返ってきたのはその裏の畑からだった。ボンネットを被った少女が立っている。鋭い赤の瞳に、短く切った白い髪。ユヅルの姉ちゃんかな、と見当をつける。なんとなく、それっぽいと思った。
 
「失礼ですが、貴女は?」
「いとめヤバネ。悪かったね、大人じゃなくて」
「いや……そんなことは」
 
 問いかけたハッカに、そっけない言葉で返す。不機嫌そうな顔には汗が滴り、右手には鋤を握っていた。両手には手袋、足には長靴を履いている。肌の垢を落として可愛らしい服をきたら、すごく美人になるんだろうなあと思わせる綺麗な顔だ。同時に、どこか異国の雰囲気を纏っている。

「入りなよ。一応客なんだしね。狭苦しい家だけど、どうぞ」

 つっけんどんとした口調でそういわれ、ハッカは頭を下げて中に入った。ヤバネから隠れるようにして、ユヅルも中に入る。マナはヤバネをまじまじと見つめてから、中に入った。
 家の中で横たわっていた男に、ヤバネが声をかけた。

「父ちゃん、お客さんだよ」

 むっくりと体を起こしたやせこけた男は白い髪を掻き揚げ、じろっとユヅルを見て、それからまたじろっと黒い目でハッカを見た。雲の人間らしい浅黒い肌の男は礼儀正しく正座して頭を下げたハッカを一瞥し、なんだ、とこちらを睨みつけてきた。

「いとめヤジリさんですね。息子さんの担当上忍になりました、シソ・ハッカと申します。息子さんが下忍として任務に参加するにあたって、死の危険がつく場合もございます。息子さんが承知した任務にて息子さんに万が一のことがあっても、残念ながら私どもでは責任をおうことはできません。ですからこの書類に署名いただけらと」
「わしは字が読めんし字も書けん。ヤバネとておなじじゃ」

 ヤジリはきっぱりと言い切り、黒い目を細めてユヅルを睨んだ。憎しみと恨み、怒りと畏怖の入り混じった目。その目つきにユヅルが俯き、マナは戸惑いをあらわにした。
 ――なんか……変
 家族を見るのってこんな目だろうか。もっと慈愛に満ちた優しい目とかじゃないんだろうか。持ったことがないからわからないけれど、しかしユヅルとヤジリ、ヤバネの関係はあまり普通の家族らしくないということはハッキリと感じられた。

「ユヅルのような疫病神などどこで死んでいようがどうでもいいわ。――ユヅル、自分で署名しろ」

 吐き捨てられたその言葉に微かに頷いて、ユヅルは鉛筆を取り出す。その指が微かに震えていた。その手をハッカが握って、そしてハッカは前に進み出た。

「お言葉ですが、それは度が過ぎるのではないかと」

 真剣な顔つきでヤジリを見上げている。ヤジリは白い片眉を上げて、黒い目でハッカをじろりとにらみつけた。
 確かに、疫病神だとかどこで死んでいようがどうでもいいだとか、実の息子に向けるにしては酷すぎる言葉ではないのだろうか。いつも自信がもてず縮こまっていたユヅル。アカデミーを卒業して晴れて下忍となれた途端に、そんな言葉を実の父に言われて、彼はきっとひどく傷ついたはずだ。
 ――家族なら、こういう場合、よく頑張ったねって、褒めるんじゃないのか?

「度が過ぎる、だと? 家の六人の子供と家内は、こいつの所為で死によったんじゃ!」

 唾を飛ばして怒鳴るヤジリに、ユヅルは縮こまった。そんなユヅルの肩を摩りながら、マナはヤジリを呆然と見つめた。
 ――違う
 違う。何が違うって、マナが夢想していた家族というものと、違った。
 ――悪いことしたら叱る。いいことしたら褒める。それが父親ってもんじゃねえのか? 子供を疫病神だって言って、他の子供と妻が死んだことを全部その子の所為にするのが愛ってもんなのか? 家族ってもんなの、か?

「……先生、あの、ほんと、俺自分で書くから」

 泣きそうに顔を真っ赤にしながら、ユヅルは言って、震える文字で書類の上に「いとめユヅル」と署名する。

「出てけ。もう二度と帰ってこんでもええわ!」
「……はい」

 涙を零して、ユヅルは家を飛び出た。その後をハッカが追う。ヤバネは父親を寝かせると、こっちにきな、と未だに呆然としているマナに向かって合図した。

 +

「ほら。粗茶だけどさ、どうぞ」
「あ、どうも」

 ヤバネはボンネットを脱ぎ長靴を脱ぎ、手袋を取り、お茶をいれてくれた。ぼろぼろの色褪せた茶色っぽい服を着ている。どうやらそれは元は赤だったそうだ。ヤバネ曰く、この服は長女のものだったらしい。

「あたしとユヅルはな、双子なんだ。そんで、あたしが妹。皆信じないけどね。皆あたしのこと姉だと思ってんだよ。ユヅルがあんまりナヨナヨしてる所為かな」

 粗茶とヤバネは言っていたけれど、お茶はとても美味しかった。
 マナもユヅルが前もってヤバネが妹だと教えてもらえなかったら、ヤバネの方が妹だとは気づかなかっただろう。なんというか、おどおどとしているユヅルよりも、つっけんどんで、でもしっかりしているヤバネの方が姉、という感じがする。

「あんたがユヅルのチームメイトになる女ってことだからこそ言うんだけど」

 と彼女は前置きして、そして

「あんね」

 という一言と共に話を始めた。

 +

 いとめヤジリとその妻、いとめユギは従兄妹同士であり、また従兄妹同士での婚姻は雲に於いて基本禁止されていたのだ。二人は所謂「駆け落ち」というものを実行し、木ノ葉に逃れてきた。忍びではないために追い忍に追われることもなかったし、近親婚ということが影響してか子供達は白髪に白い肌、赤い目をして日に弱かったけど、それでもヤジリとユギは幸せだった――ユヅルとヤバネが生まれるまでは。
 いとめ家はひどく貧困で、新たに生まれた双子のユヅルとヤバネを養う力はなかったのだ。どちらか一方だけならまだなんとか出来る。でも二人までは。だから二人は双子の片方を殺すことを決意した。
 普通なら、畑仕事が出来る男のユヅルではなく、女のヤバネが殺されるはずだったのだろう。だけどその時いとめユギが泣きながら絞めたのは、ユヅルの首だった。ヤバネもどうしてだったのかわからないし、ヤジリだってよくわからなかった。ただわかったのは、ユヅルの首を絞めたユギは、突然家の中に入り込み、襲い掛かってきた野良犬にかみ殺されて死んだのだという。
 ヤジリはユギの死を悲しみ、嘆いた。彼はユヅルを殺すのも、ヤバネを殺すのもやめた。けれどヤジリはユヅルを忌々しく思うようになり、ヤバネを疎ましく思うようになった。そして次々に、ユヅルの姉と兄が死んでいった。ヤジリはユヅルを、憎むようになった。

 +

「双子だったからね。もし母ちゃんが死んだのがユヅルの力だったなら、あたしにもその力が宿ってるかもしれないだろ。あたしにはないけど。――あんね、ユヅルは呪いの力を持ってるんだよ」
「……呪い?」

 ユヅルが、頭がよくて羨ましいと言った兄は、三日後に高熱を出して、そのまま死んでしまった。
 ユヅルが、背が高くて羨ましいと言った兄は、二日後に山に出かけて以来帰ってきていない。
 ユヅルが、長い髪が綺麗で羨ましいと言った姉は、一週間後にその髪で自分の首を絞めて死んでいた。
 ユヅルが、力持ちで羨ましいといった兄は、五日後に街に出かけて、馬に踏まれて死んだ。
 ユヅルが、誰にも好かれて綺麗で羨ましいと言った姉は、その日の内に人攫いに攫われて、どこかへ売られてしまった。
 ユヅルが、友達がたくさんいて羨ましいと言った兄は、四日後に友達の一人に殴られて死んでしまった。

「あたしも、すっげえ怖かったんだ、ユヅルがいつあたしのこと羨ましいって言うんじゃないかって。怖くて」

 だから疫病神なのか、とマナは納得した。なるほど、確かに呪いのようだ。
 ――ごめん、これから食べ物とか出来るだけわけるから、アタシのこと羨ましいだなんて言うなよ

「そんでね、八歳ん頃にね。貴方忍びの才能あるんじゃないって言われて、ユヅル、アカデミーに連れてかれたの。父ちゃん、すっげえ喜んでね」

 でもきっとその父が喜んだ理由は、ユヅルがアカデミーに行ったからじゃない。家を離れたからだ。

「だからこうして会うのは、すっげえ久しぶりだよ。でも家のことは、なんも話さない。いったら、羨ましいって言われちゃうかもしれないしね」

 妹のヤバネでさえ、恐れているのだ。六人の姉や兄たちが死ぬきっかけとなったユヅルの言葉を。「羨ましい」という呪文を。
 ちょっとだけ、悲しくなった。自分が思い描いていた「家族」の像とは全く異なった「家族」の像に、現実はそんなに甘くないんだぞと、冷や水をかけられたみたいだった。

 +

「ユヅル」
「……ん」

 泣き腫らしたユヅルの肩を、ハッカが抱いていた。その髪を撫でて、ヤバネに向かって手を振ると、ヤバネも手を振りかえしてきた。その顔はちょっとだけ寂しそうだった。
 ヤバネに言われたことは――忘れておくことにしよう。心の中で呟いて、マナたちはその村を離れた。

 +

「すいません、はじめくんは――」
「ヒトツの姫さまですね。少々お待ちくださいませ」

 にこりと笑った茶髪の召使いがすっすと広い廊下を突き進み、マナ、紅丸、ハッカとユヅルはぽかんとしてその場に立ち尽くした。

「ヒトツの姫ぇ? 確かに無駄に可愛い顔してっけどさぁ」

 と呟き終えるか終えないかの内に、廊下の向こう側から、誰かが歩み寄ってきた。
 紫の地に水色の小鳥が空を舞う着物に、淡い水色の帯。紅を塗った唇、真っ白い瞼に頬紅を塗ったのか薄っすらと赤い頬。あやめ色の髪にはオレンジ色の髪飾り。

「ようこそいらっしゃいました」

 頭を下げたどうみても女にしか見えないその子の声は、間違いなく声変わりした少年の――はじめの、もので。

「一文字ヒトツでございます」
「「「ええええ!?」」」
「わうーん」

 泣きそうに潤んだ灰色の目でこちらを見上げたはじめ――ヒトツの姫に、マナたちは暫く唖然としていた。

 +

「父上、ヒトツが参りました」
 
 指を整えて、お辞儀。入れ、という声に戸を開け、優美な仕草ではじめは中に入っていく。自然と体が固まってしまい、こわばった仕草でマナとユヅルもお辞儀をした。ハッカもお辞儀をし、紅丸は服従を示す為か腹を上へ向けている。
 ――この犬、アタシにすらそんな仕草見せたことないくせに 
 長いあやめ色の髪の男性が、静かにそこに座っていた。左側の髪だけを低いところで団子状に纏めている。彼こそが現一文字家当主、一文字一矢(いちもんじかずや)だ。中性的な顔をしている。
 ハッカがはじめが任務に赴くにあたって命の危険があるかもしれないことなどを述べると、彼はすんなりと頷いた。一文字は忍びの一族。そんなことなど承知の上だったはずだ。

「だが――現時点でこの家を取り仕切っているのは私ではなく、長女の初だ。彼女は大層ヒトツのことを気に入っていてな、」

 つまり一文字初の許可を得ねばならないらしい。びくっと体を震わせて、オレンジの髪飾りをしゃらしゃら鳴らしながら、はじめは「失礼します」というなり、ゆっくりと歩き出した。

 +

「……姉上、ヒトツが参りました」
「どうぞお入りなさい、ヒトツちゃん」

 優しい声が答えて、はじめはそろりそろりと中に入った。ハッカがお辞儀をし、ユヅルがそうっと戸を閉める。
 初姫は、長い紫の髪を垂らした美しい少女、いや、二十代はじめあたりの女性だった。はじめとおそろいの着物を身に纏い、赤い帯を締め、小首をかしげてゆったりと微笑んでいる。日向ぼっこしていた猫のようにとろんとやや眠たげな目だ。

「初と申します。本日はわざわざお越しいただき、誠にありがとうございますわ。いつも妹のヒトツちゃんがお世話になっておりますわね」

 ――妹?
 はじめがこの家での身分はどうやら初の妹、一文字一矢の娘であり一文字家の次女、ということになっているらしい。はじめはアカデミーで一番早く声変わりしだした少年だ。そんな彼が、どうして女の身分で女の服装で過ごさねばならないのだろう。しかもはじめは、明らかにこれを喜んではいないのだ。もしこれが一族の掟だったり、もしくははじめ自身の特殊な性癖であるとしたら話は別だが――これは強制されているようにしか見えない。

「え、ええ――お、いえ、妹さんは大層優秀で」
「次席などに意味はございませんわ。火影の名は誰にもずっと覚えられます。ですが火影候補の名はそこまで知れ渡るわけではございません。いいえ、例え覚えられたとしてもそれは、火影になりきれなかった火影のなり損ないとしてです。一でなければそれは恥。――これが一文字家の座右の銘でございます。そうでしょう、ヒトツちゃん」
「……はい。私は一文字家の恥でございます」

 戸惑うハッカに笑顔でそんなことを言ってから、初ははじめに視線を戻した。どきっと身を竦ませてから、泣きそうに静かな声ではじめは言う。俯いてしまったままその頭が持ち上げられないようだ。
 なんて姉だろう、と思った。はじめが一文字の恥であると、彼女は直接には口にしなかったものの、っでも言外ではっきりそういった。一でなければそれは恥、すなわち、一になりきれなかったはじめは恥であると、そういったのだ。そして間接的に、はじめがそれを口にするようにも促していたのだろう。
 日向ぼっこをいていたかのような柔和な笑顔で、初は笑い、少しの間二人きりでいさせてくださいませんかと言った。一瞬こちらを振り返ったはじめの無感動な灰色の瞳が、縋るような色を映していた。

 +

 別室にて、マナとハッカは胡坐をかいていた。ユヅルは膝の上の紅丸を撫でている。

「……俺さ、始めて見た。はじめがあんなにびくびくしてるの」
「アタシも。嫌いなものは特に無いとかぬかしやがってたけど、ありゃ嘘だろ」

 二人ともはじめが心配で仕方ないのが、ハッカにも感じ取れた。
 それから約十五分後のこと、青白い顔のはじめが中に入ってきた。頬紅には涙の筋が伝い、額にはびっしりと冷や汗をかき、衣装も僅かながら乱れている。

「はじめ、てめー大丈夫かよ?」
「……大差ない」

 そう言えば手裏剣を手足に突き刺していたときも、そういいながらそれを引っこ抜いていたっけ。けれどそれを抜く彼の顔には脂汗が滲んでいたのを憶えている。嘘をつくのが下手だな、と思った。

「ヒトツの姫様。お手当てに参りました」

 茶髪の召使いが入ってきて、救急箱を開けた。はじめの顔が一層血の気を失う。「い、いやだ……」と掠れた声で呟いて、はじめは這うようにしてハッカの後ろに隠れた。
 だめですよ、はじめ様、と召使いの少年は言う。呼称がヒトツからはじめへ変わった途端、はじめはハッカのシャツを掴む手を緩めた。ほら、とハッカははじめを前に出す。見るな、とはじめは小声で懇願したけれど、マナもユヅルもハッカも紅丸も、それを聞いてはいなかった。
 その召使いがハッカの着物を脱がせ、帯を緩めた。襦袢も慣れた手つきで脱がしてしまうと、はじめの冷や汗が滲んだ背中が露出した。そこに引っかいた後やら大きな火傷の跡がいくつかあって、ひっと悲鳴をあげてユヅルがしがみついてくる。

「では、ちょっと我慢しててくださいね」
「……っ」

 茶髪のその召使いにしがみつくはじめ。その召使いは傷痕を見て顔を顰めると、消毒液に浸した綿をそこにつけた。叫び声を上げることこそ必死に我慢しているはじめだが、呼吸はどんどん荒くなり、体の震えは大きくなるばかりだ。その召使いにしがみ付いたまま身を捩る。

「今回は焼いたクナイの刃ですか? 全く、クナイは投擲に使うためのものなのに、初姫さまも困ったお方だ」

 呟きながら、召使いはさっさと着物の裾を翻すと、太腿あたりの青アザに布で包んだ氷の塊をあてた。 
 他にも、足裏には鞭で打たれた痕があったし、膝の裏に出来た傷からは血と組織液とが流れ出ていた。よく頑張りましたね、と一言言って、召使いはようやくはじめを離したかと思うと、はじめをさっさと彼が普段着ている服に着換えさせ、部屋を退出した。そこで部屋に沈黙が降りる。

「――なんでさ、お前らはさ。我慢してんだよ」
 
 はじめの痛々しい傷痕を見て、マナの怒りは爆発寸前だった。

「なんでさ、とーちゃんに疫病神だとか言われても何にも言い返さないんだよ! なんでねーちゃんにあれだけ虐められてもいい子の妹のふりして綺麗な服きて頭下げてんだよ!」

 はじめがユヅルを見た。ユヅルは口元を引き結んで俯いている。

「なんでいってやらねえんだよ、俺はお前の息子なんだって、それ以上言ったら呪ってやるぞって! なんで殴り返してやらねえんだよ、なんで逃げださねえんだよ!? それが親子の情ってもんなのか!?」
 
 問うたことがあった。
 「お父さんって何」「お母さんって何」「兄弟ってなんなの」。
 羨んだことがあった。
 両親を。兄弟を。親戚を持つ、他の生徒達を。
 夢見たことがあった。
 例えば、お料理上手で、怒ると怖いけどやさしいお母さんや。
 例えば、いつもは厳しいけど、母親にはデレデレなお父さんだとか。
 例えば、一緒にものを取り合ったり喧嘩したりする兄弟だとか。
 例えば、マナちゃん大きくなったねって言ってくるおしゃべり好きな親戚のおばさんだとか。
 そういうのにずっとずっと憧れていた。
 でもこれは違う。こんなのは。こんなのは違う。優しくて一杯の愛をくれるのが家族だと思っていた。そんな家族を夢見ていたのに。でもこれはマナの夢みた家族とは余りに違っていた。
 自らの子を疫病神と詰り、弟に女の服を着せて虐待するのが。そしてそれを泣きそうになりながら、泣きながら、叫びたいのも堪えるのが。親子の、情?
 こんなの絶対、違う。

「お前らさ、もっとなんか言えよ!」

 どうしてされるがままなのだろうか。
 どうしてそこまでして耐えるのだろうか。
 これが親子の情だなんて、思わない。思えない。
 灰色の目と赤い目がそれぞれ自分を見上げている。耐え切れなくなって、マナは一文字家を飛び出た。
 
 +

「マナ」

 どこからか盗ってきたせんべいをバリバリ食うマナに呼びかけると、むすっとした顔で彼女は振り返った。わん、と紅丸が鳴いて、彼女の両足の間に収まる。

「貴様、そう拗ねるな……」

 ただっぴろい丘に胡坐をかくマナに苦笑しながら、ハッカがその傍に腰を下ろす。続いて、はじめもユヅルも腰を下ろした。はじめは無表情で、ユヅルはちょっとだけ怯えているようだった。

「拗ねてねーです。怒ってるだけです」
「……そうか?」
「はいそうです」

 拗ねてるようにしか見えないぞ、とハッカは苦笑いをした。あんたらなんかにわかるもんか、と思いながらマナはぶすっとして自分の手のひらを見つめる。正確には、そこに浮かぶ血管を。
 自分の思い描いた「家族」と、はじめとユヅルの持つ「家族」は余りに程遠いものだった。ずっと憧れてきた「家族」に対する羨望を、憧憬を、全部裏切られてしまったような気がした。裏切られたなんて、そんなのマナが勝手に夢を見て勝手に理想して、そして勝手に幻滅していただけなのに。
 暫くの沈黙の後に、ユヅルが口を開いた。

「皆に知ってもらいたいことがある」

 皆に知らせるのも、知ってもらいたいのも、知ってもらうのも、全部俺のエゴだけど。
 それがチームワークを乱してしまうかもしれないけど。
 自分勝手だけど、でも皆に知ってほしいの。
 一人で抱えるのに、その秘密は大きすぎたから。

「俺が一瞬でも羨ましいと思った人は風邪をひく。何度も羨ましいと思った人は病気にかかる。一年も二年も羨ましいと思って妬んだ人は、――死んじゃうか、持ってるものを失う」

 はじめが眉の根に皺を寄せ、ハッカは片眉を持ち上げた。ユヅルの妹であるヤバネからそのことを聞いていたマナだけが静かにその言葉を聞いている。
 自分を締め殺そうとした母。頭がいいと背が高いと、力持ちだと友達が多いと、そう羨み、妬んだ四人の兄。長い髪が綺麗と誰にも愛されていると、羨み妬んだ、二人の姉。自分を疫病神と散々詰った父は、村一番に力持ちで頭のよかった父は、病にかかってしまった。家には医者に見てもらうためのお金もなく、今は双子の妹がその田を耕している。

「ごめんね。引くでしょ。引くよね。あ、あの、羨ましいって、出来るだけ思わないようにしてるんだ。自分の持ってるものを大切にしようってさ。ごめん。――ごめん」
「……いやさ、なんであんたが謝ってんの?」

 こんな力を、ユヅルは望んで手に入れたわけじゃないはずだ。
 兄や姉や母の死が、父の病が彼の所為だったとしても、それは彼が望んだ力じゃないはずだ。
 他の人を全く羨まず妬まず、自分のもつものだけを見て幸せに感じられるほど高潔な人間は滅多にいないだろう。きっと誰しも他人の何かを羨んだり妬んだりするものだ。ユヅルの場合、そんな当たり前の想いが誰かを傷付けることになってしまっただけで。

「……ユヅルが望んで人を傷付けたわけじゃないんだろ。なら仕方ねえよ。いや、死んだ人達やあんたのとーちゃんやヤバネちゃんとかは仕方なくないだろうけどさ」

 でも謝ったってどうにもならない。死人は戻らないのだから。

「そんなことうじうじ言ってる暇があったらもっと自信をつけろっつーのっ」
「お前の力については承知した。……だが私やマナは大丈夫だろう。私達はどちらもあまり羨ましく思われる要素を持ち合わせてはいない」
「うん、そうだな。大食いになったり女装したり大食いになったり大食いになったりお姉ちゃんにいじめられたり大食いになったり大食いになったりはちょっと嫌だよね」
「え? ……何それ無駄に大食いが多くね?」

 仕方ないと思うぞ、とはじめが溜息をつく。ぶう、とマナが頬を膨らませた。

「姉上は、妹が欲しかったんだ」

 姉の膝を枕にして、姉に纏わり付くような、可愛い妹が。
 けれど生まれてきたのは、弟だった。人形のように愛らしい顔の弟だったから、初ははじめに女物の服を着せては喜んでいた。
 けれどそれだけじゃ満足できなくなって、もっと可愛く、もっと女の子みたいに、もっと妹らしくなって貰いたかったのだろう。口調まで女のものに似せて、召使いにすら彼を姫と呼ばせた。だけどはじめは声変わりをして、低く沈んだ声で喋るようになった。以前の甲高い声とは違った声で。
 初はきっと不満に思ったことだろう。不満に思って、そしてそれを素直にぶちまける余りに、はじめを鞭打った。はじめが余りにも女のようにさめざめと泣くから、それからは彼を度々泣かせた。泣いているときの彼は、どんなときのはじめよりも女らしく見えたからだ。

「なんだそれ。なんつーの、歪んだ愛、ってやつか?」
「……否。歪んではいない。ただあまりにも純粋すぎるんだ」

 純粋すぎて逆にいびつに思える、その感情。
 初のあの灰色の目が映す光も、とても純粋だったことを思い出す。でもそれはあまりに純粋すぎて。純粋すぎて。

「それはマナ、狐者異一族も同じだ。ほら、狐者異一族は食べることに純粋だろう?」

 拾い食いに対しても無銭飲食に対しても罪の意識はない。ただ食べたかったから、食べた。それだけだ。
 人の外見も、人の性格も。全て食べ物に関連した思想で片付けてしまう。だから狐者異は純粋だ。お腹が空いたから食べる。食べたくなったから食べる。マナもそんな、人間だ。

「――そーだなあ」

 問うたことがあった――両親とは、兄弟とは、親戚とは何かと。
 羨んだことがあった――両親を、兄弟を、親戚を持つ人を。
 恨んだことがあった――何故自分はそれを持っていないのかと。
 それでも――今の自分は幸せだから。餓死して死んでしまった彼らに少し申し訳ないけれど、でも今の自分はたらふく食べられて、すっごく幸せだ。
 なら死んだ者のことは考えないことにしよう。死んだ者のことについて考えたって始まらない、だって彼らはもう死んだ。

「まあ、悩み苦しみ間違うのも、青春の一部だ! さて、今日は私が何か奢ってやろうか」
「えっマジ! 先生後で後悔するなよ!」
「ただしマナ、お前は一番やすいものを最低で五杯だけしか食べてはいかんぞ! 忍耐も忍びに必須なことだ」
「えーッ、何それヒッデー!」
「わうーん」

 紅丸に促されて視線を西に向けると、目玉焼きのような夕日が丘の向こうに沈もうとしている。
 どうか明日も、またこの四人と一匹で楽しく過ごせますようにと、マナはそう、願った。
 そしてその願いは、少しの間だけ、叶えられることになった。
 
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