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真・恋姫†無双~現代若人の歩み、佇み~

作者:Duegion
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第二章:空に手を伸ばすこと その五



 日が東より登っていく。燦々とした光に照らされて膨大なまでの死体が晒されていた。その数はまともに数える気にもなれないほどであり、眠るように斃れた者もいれば、惨たらしい姿を晒す者もいた。一夜における襲撃において、彼らは黄色の頭巾を血と土によって汚してしまい、さらには通りすがりの野鳥に身体を貪られる始末であった。『生活が少しでも良くなれば』、という思いよりはせ参じた王朝への反乱がこのような結末を迎えるとは、生前の彼らは露とも思っても居なかったであろう。
 無造作に晒された死体の間を幾百もの者達が歩き回り、死体に近付いてはその都度、様子を窺っているようであった。彼らは二人でペアを作り、その手には粗製の槍が握られている。

「おい、気を付けろ。そいつはまだ生きているぞ」
「ん?おお、言われてみれば」
「油断するなよ。賊徒は死ぬ寸前まで潔さというのを知らん。討ち漏らしは無いようにと皇甫嵩将軍からの御達しだ」
「分かってるって。連帯責任なんかとりたくないっての」

 ぶすりと、槍が男の首元に突き刺さり息の根を止めた。彼らはこうやって、死にぞこないの賊徒らに慈悲をかけているのであった。捕虜となる者達は大概が無傷か軽傷である。それ以上の怪我を負った敵兵の面倒を見る責任は取らないというのが、長社の将軍らが下した決断であった。無情であると思われるかもしれないが、しかし将軍らの決意に揺るぎは無い。一度反旗を翻されれば、それを徹底的に潰さぬ限りまた新たな反旗が翻ってしまう。それがこの中原の血の掟でもあった。
 仁ノ助はそれらの様子を、高々と牙門旗がはためている長社の城壁より見下ろしていた。地面に向けられた視線は賊徒らの最期を見ているようで、実際は何も見ておらず、遠くにある何かを見ているようにも感じられた。まるで戦場の騒々しさとは正反対である、川の清流のような穏やかで懐かしいものを見るような、そんな遠い視線であった。
 その時、城壁の階段を上って夏候惇が現れる。まだ戦の滾りが残っているのか、勇ましい美顔がやや紅潮している。返り血を浴びていないのは流石といった所であった。

「ここにいたのか、仁ノ助」
「! 夏候惇将軍!御無事でしたか」
「当り前だ。私は畏れ多くも華琳様より兵を預かる身だ。これしきの戦場で傷を負うようでは、天下泰平の世を築くまでに何度死んでいる事か。貴様はどうなんだ。無事か、そうでないのか」
「怪我はありません。馬を失ってしまいましたが、ですが万事問題ありません。それよりもお見せしたいものが」
「なんだ?戦場で見つかるものなどたかが知れているが・・・」

 仁ノ助は傍にあった木箱を抱えると、その蓋を取って見せる。中身を見て夏候惇は顔を顰めた。

「不快なものを見せおって。それは誰だ?」
「敵将です。当て勘で、波才って叫んでみたら振り向いたので、多分そいつかとーーー」
「ちょ、ちょっと待て!今、波才って言ったな!?言ったよな!?」「え、ええ」
「何も言わずにそれを私によこせ!!悪いようにはしないから!」「へ?ま、まぁいいですけど・・・」

 そう言って木箱を差し出す。むんずとばかりに夏候惇はそれを奪うと恐ろしい勢いで階段を下って、愛すべき主の下へと駆けて行った。奇怪な叫び声を残しながら。

『華琳様ぁぁっっっ!!私の軍が、私の兵が、敵将を討ち取りましたぞぉぉっ!!!』
「・・・褒めてもらいたいなら最初っからそう言えっての・・・。あんなの俺いらねぇし」
「すまぬな。姉者は自分の心の機微を悟られると羞恥心を覚える人間でな」
「おや、夏候淵将軍。あなたも御無事で」「ああ、何とかな」

 夏候惇とは入れ違いに夏候淵将軍が現れる。美麗な水色の髪は少しばかり乱れており、戦場における彼女の活躍を想像させた。
 仁ノ助の瞳がまた夏候惇の背中をちらりと見遣ったのに気付き、彼女は苦笑気味に言う。

「案ずるな。姉者は人の手柄を奪うような邪な真似はしない。あなたの事もしっかりと報告されている筈だ。敵将は討ち取られ、長社における危険はすべて払われたとな。・・・どうだ、戦場の空気は。これほどの大規模な戦いに参加するのは、あなたも初めてでは?」
「まぁ、実を言うとそうなんですよね。今まで相手してきた連中ってのは、みんな大して訓練をしていない賊徒ばっかりで、相手する時も多くて二、三十が限界でしたから。もっとも、その時は逃げてばっかりでまともに戦っていませんでしたけど」
「だがこうやって生きているではないか。何か秘訣があると見た。戦場を生き残るための大事なものが」
「将軍に御目を掛けてもらえるほどのものではありませんよ。・・・まぁ強いていえば、戦場の空気を支配する者・・・たとえば指揮官とか、軍師とか。或は精神的な支柱となっている人物とか。そういうのを真っ先に斃して、後はなるべく自分に近い奴から倒す。これが俺の生き残るための秘訣みたいなものです。これに従ってきた御蔭で、俺は一年近くも生きられた。それだけですよ」

 謙遜するように言うが、彼のやっている事は素人がおいそれと出来るものでは無い。一体多数の苦労を知っているのか、夏候淵は首を振った。

「なにがそれだけだ。あなたは立派に戦いの道理というものを御存知だ。中途半端に狡い真似で生きてきた人間なら、もっと卑しい事を言ってのけるのだが、そうではないのだな。今更聞くのもなんだが、仁之助殿は何処の出身なのだ?楊州か?或はもっと北の・・・徐州とか」
「・・・俺がこのやり方で生きて行こうって決めたのは、豫州の沛国にいた時でしたね。そこで友人を作って、そいつと人生相談をしながら決めたんですよ。『俺は乱世の中に飛び込んでいく』って」
「・・・その時にはもう、世は乱世に入っていくと悟っていたのか」
「ええ。黄巾党の走りみたいな連中が村に来たので。御蔭で武器を持たざるを得ませんでしたよ。こいつよりかは軽いやつですけど、ハハ」
「・・・それで仁之助殿。あなたの故郷は?」
「あ、あれ。誤魔化しに乗ってくれないんだ?参ったな・・・」

 仁ノ助は後ろに手をやって指の腹同士をすりすりと擦り合わせる。何かに窮するとついやってしまう癖であった。とりわけ、出身地という重大な事に関しては。
 彼はこれまでの旅すがら、出身はどこかと聞かれれば地方の農村であると答えてきた。そうすれば相手もそれとなく空気を呼んでくれて、追及を避けてくれるからだ。しかし軍のような大規模な組織に所属するのであればその言い訳は通用しなくなるだろう。否応なしに家族の扶養という概念が発生するからだ。もし自分の嘘がバレてしまえば、誰と面しても微妙な空気を出さざるを得なくなってしまう。かといって真実を、自分は異世界から来ましたと告げてしまってもいいものだろうか。狂言を吐いたと罰を受けてしまうのではないか。そんな危惧が仁ノ助の胸中に生まれてしまい、二の句を告げなくなるのであった。
 夏候淵は彼の葛藤を見抜いたのか、一歩妥協して、会話が途切れないようにした。

「・・・何か言えないような事情でもあるのか?」
「ないって言ったら嘘になります。ただ、これを言っていいものか、まだ決心がつかないのです。・・・何となく、曹操様は察していそうですけど」
「? 言ってもないのにか?」
「ええ。あの人は常人とは違う視点をお持ちです。その視点の置き方を工夫すれば、俺が言葉を濁したとしても、あの人には分かってしまうでしょう。そんな気がします」
「・・・えらく華琳様を買っているのだな。つい最近遭って、その旗を仰いだばかりなのに」
「は、はは。御噂は旅すがらかねがね聞いていましたので。・・・主に、悪い方の噂を」
「ふっ。悪事は千里を走るという事か。やれやれだ・・・っ!そうだ、あなたの連れについて話さねばならぬ事があった」
「っ!詩花は無事ですか?」

 仁ノ助は自分の相棒を心配しながらも、それ以上の追求が避けられた事に感謝した。後に、これが夏候淵が気を回してくれたものであると知ると、彼は再び彼女に謝意を抱くのであった。

「ああ。あいつは見事な働きぶりだったぞ。怪我も負っていなかったし、初戦の割にはまぁまぁの出来だ。だが少し面倒な事があってな」
「なんです?あいつの助けとなるなら、何でもします」
「では、なんだ・・・城に行って様子を見てやってくれ。手を借りたいという奴がいるからな。できれば穏便な方向で頼むぞ?いいな、穏便だぞ?」
「??」

 仁ノ助は疑問を抱きながらも、彼女に従って首肯する。なぜ念を押されたのか。なぜ夏候淵の表情は、『私はあんなのには関わりたくないから』と言わんばかりの、必死めいたものであるのか。
 それらの答えは城の一角に設けられた、客将向けの一室にて判明した。部屋を前にして首の入った木箱を放り出し、目を回して昏倒する夏候惇。寝台の上にてくんずほぐれつの醜態紛いのせめぎ合いを繰り広げる、錘琳と荀イク。二人を引き離さんと渾身の力を込める、曹操軍の誉れ高く美しき棟梁、曹孟徳。あまりに意味の分からない光景を目にして仁ノ助は茫然とし、そして彼女等の声を耳にしてようやく事態を呑み込んだ。

「はぁ、はぁ・・・ええろがっ。わしはな、戦いに苦しんだ後は癒しな『ぱわぁ』を補給せにゃならんのよ!そう、例えば猫耳な頭巾が可愛い、君みたいなおんにゃのこの胸に飛び込むとかさぁっ」
「卑しぃぃっ!!なんて卑しい女っ!!あ、あっち行きなさいっ、このっ、子宮馬鹿っ!!」
「うっほっ!なんて新しい罵詈雑言!ええよっ、それでええっ!もっと言ってもいいのよ!わしがあんたを味わえるならぁっ!」
「や、やだぁっ!こんな女に処女膜をぶち破られるなんて屈辱の極みよ!!ちょっと、外の衛兵!この変態精嚢野郎!何ぼさっとしてんの、さっさと助けっ・・・ひぃっ、胸は駄目ぇぇ!」
「ちょっと詩花!やめなさい!あなた、こんな事をしてただで済むと・・・ああもう!今日は吉日なの、それとも厄日なのっ!?」

 ーーー俺、なんでこいつをパートナーにしたんだっけ。

 もう考えるだけで頭が痛くなる。仁ノ助は幾分、いや幾時間か頭を抱えていたいと本気で思い始めた。しかし目の前の現状は、とりわけ新しき主がほとんど素の表情を出しながら奮闘するのを見て、放置できる筈が無かったのだ。
 彼は戦で疲労を覚えている身体に再び鞭を入れるべく、自分の顔をぱちんと叩き、荀イクを押し倒さんとしている獣じみた相棒を睨み付けた。



ーーー数分後ーーー



「助かったわ。一時は本気で、大切な軍師を失ってしまうかと思ったわ。荀イクの才知の鋭さは何よりも代え難いから・・・」
「・・・なんで戦った後に、こんなに疲れなくちゃならないんですかね」
「結果論で言ってしまえば、あなたの監督が足りなかったのかもしれないわね。獣はしっかりと躾なさい。アレは危険よ・・・」
「は、はい・・・申し訳ないです」

 俵のように雁字搦めとされ気を失っている錘琳を他所に、仁ノ助と曹操は疲労困憊した様子で息を吐いた。過失なき被害者二名を寝室に横たえた上で、二人は眩暈を覚えつつも、城下を見下ろせるバルコニーのような場所へと移動した。ここならば新鮮な朝の空気を浴びれる。兵達が見つけても、それとなく空気を察してくれるだろう。
 曹操はすぐに気を立て直すと、やや非難が混じった視線で仁ノ助を見据えた。

「それにしても、仁之助。あなたは意外と容赦がないのね。彼女だって落ち着いていれば、仮に落ち着いていればの話だけどっ、いたいけな一人の女性。それに向かって、いきなり飛び膝蹴りってどういう了見なの?女性の尊厳を何だと思っているのかしら?」
「あいつに対しては別です。ほら、長年連れ添った相方に対する、不器用な愛情表現みたいなもんですから」
「今、凄く違和感のある単語を聞いた気がするけど・・・まぁいいわ。今回はあなたが立派に仲裁をしたという点に重きを置きましょう。これに拘っていても、これから控えている事はもっと大事なものだから」
「これから、ですか」

 ちらりと仁ノ助を見遣って、曹操は城下を見渡す。長きにわたる籠城と黄巾賊の襲撃により、街は外縁部に向かうにつれて暗澹とした色を纏っているように思えた。城壁にたなびく牙門旗とは対照的な表情である。よく見ればその城壁においても、幾つかの箇所では攻城によって傷つけられた跡が散見している。これらを立て直すのにはかなりの労力が割かれるであろう。
 そう、その労力こそが、曹操が今一番重要視している事であった。

「戦後処理よ。長社に元の平和を取り戻す。戦いは準備や実行も大切だけど、後片付けも大事なのよ」
「そう、ですね。俺には政治の知識なんてありませんけど、でも事の後始末が大事というのはとてもよく理解出来ます」

 彼女の迷い無き言葉に、仁ノ助も心からの同意を表す。彼には後始末を怠ったために盗賊の残党らに追い回された苦い記憶があったのだ。錘琳と会う数か月も前の出来事であったが、しかしそれの御蔭で三日三晩の逃避行を余儀なくされてしまった。ていていのの身体で何とか魔の手から逃れた仁ノ助はその時に思い知ったのだ。『準備や実行がいかに手際よくても、詰めを誤ったら終わり』であると。
 戦争における詰めとはまさに戦火からの復興である。敵に勝利する事は戦術が求める事であって、戦略が求めるのはそれ以上のものだ。せっかく奪われたものを取り返しても、それが正常に機能するためには更に時間を要する。面倒だからと手を抜けば敵対勢力に侮られ、また組織内の反対派にも後ろから刺される恐れがあった。指導者たるものは最後の最後まで油断をせず、俯瞰的に情勢を見守る。仁ノ助にはできない事だが、上に立つ者達になら当然の如くできる事であった。それは年端のいかぬ少女であっても、十分に可能なものであった。
 暫しの沈黙が二人の間に流れた。かんかんと金槌を打つ音が城下に響き、人々の声も聞こえ始めてきた。朝日に照らされる長社の街並みを見て、ノスタルジックな思いとなったのか、曹操は静かに訊いた。

「仁ノ助。戦いの炎がどうしてあんなに明るく、妖しいものなのか。あなたは気になった事はある?」
「・・・今はそうではありませんが、剣を持った時に一度だけあります」
「・・・私が思うに、あの火には戦いに勝利した人々を讃える、天の意思が現れているに違いないわ。覇道は血塗られずして満願成就の赤い花を咲かせない。それを知らせるための光が、戦争の炎に姿を変えて、私達に常に覚悟を問いかけている。『その思いは揺るぎのないものか』、『後悔せずに歩めるのか』と」
「・・・一軍の指導者らしい凛然と解釈です。たしかに、戦いの惨禍を見渡せばそう感じても不思議ではないかもしれません。でもきっとこういう捉え方もあるんだと思います。『ここに散った人々はすべて天の息子であり、大地の息子。好悪に関わらず、彼らの命はすべて報われるべし』と」
「優しい解釈ね。悪くは無いわ。『王道』を進むというのならそれもありでしょう。でも、覇道が仰ぐにはあまりに色褪せた旗ね。すぐにでも風に飛ばされて、空に消えてしまうわ」
「消えても旗にとっては願ったり叶ったりでしょう。自分を息子と認めてくれた、大いなる大自然に還っていくんですから。俺はごめんこうむりますけど」

 曹操は悟られぬように頬を緩めた。それは半分は呆れからきたものでもあり、半分は興味から沸いたものでもあった。

(たかが客将の立場なのに、騎都尉相手によくも堂々とそんな言葉を言えるわね。相手が相手だったら不快と取られかねないのに。よほど図太いか、あるいは本当に・・・)

 一つの疑いが彼女の中に生まれる。それはほとんど冗談、それもセンスの無い部類に属する、と大した差が無いものだったが、不思議と仁ノ助相手なら冗談にならぬような確信が曹操にはあった。そしてそれを彼女は聞く。

「一つ聞きます。あなたはそれに対して誤魔化さずに答えなさい。・・・あなたは中原の人間かしら?それとも匈奴?」
「・・・・・・いえ、違います」
「・・・つまり、天から来たのね」「っ!!」

 面白いまでに仁ノ助は反応した。といっても瞼をびくりと震わせただけであったが、海千山千の政治の世界に入っている曹操にとっては、ただそれだけの動揺で全てが把握できてしまうものであった。曹操は堪え切れぬように小さく笑みを零す。 

「くっく・・・くくく・・・」
「・・・曹操様。できればこのことはどうか、他の人には内密にしてもらいたいのです。私の出身が露見した所で何か困った事が起こるとは考えられません。ですが万が一、何者かが手心を加えんとして曹操様の御近くを騒がすかもしれません。ゆえに、秘匿すべき情報は戸外に漏らさないでいただければ・・・」
「ええ。そんなの大丈夫よ。あなたに不利が働かぬよう出身については伏せておくわ。それにしても天とは・・・つくづくこの曹孟徳、自分の運の巡り会わせというものに笑いたくなるわね。くく・・・」
「・・・あの。どうしてわかったんですか?」
「ただの直感、といっても納得しないでしょうね。ではこう言いましょう。男性にとっての真名は、本人が心を許した証として呼ぶことを許した名前である点では女性と同じよ。けれど普通は家族とその伴侶にだけ許すものであって、主従の差を越えて伝えられるものではないわ。勉強が足りなかったようね、仁ノ助?」
「まったくですね、ほんとに」

 まさか男女による意識の違いがこのような形で現れるとは。ぎくりとしっ放しの胸を楽にするように、仁ノ助は自分自身への落胆が篭った息を吐く。まだバレたのが曹操であったから良かったものの、荀イク当たりに漏れてしまえば体の良い罠の実験台として扱われ、『うっかり』事故死してしまう事は必定であった。あの妄執的な忠誠心を持つ彼女の事、未知の人物を説き伏せるよりはそれを滅する事を好しとするだろう。そして主人の機嫌を窺う犬のように尻尾を振りまくるだろう。微笑ましいようで全く笑えない冗談であった。
 曹操は手摺に手を突き、大海原の如く広がる快晴を仰ぐ。その背から放たれる威厳と強烈な存在感に、慧卓は心をぐっと掴まれる思いを感じた。覇者の風格というものを全身で体現しながら曹操は告げる。

「聞きなさい、仁之助。私の父である曹嵩は、巷では忠孝を重んじる役人だとか言われているけど、その風評は正しくない。権力にものを言わせて官職を得て、それによる権益で一財を成す。それが父の真の姿。父の口から出る言葉は、一に金、二に食べ物。部屋からは常にかしがましい女の声。それが現実だった。
 私はそこで、この漢王朝に巣食う膿の正体を見たわ。即ち人間の罪深き業である貪欲さと、それを助長する浅はかで物欲的な精神。それが始祖劉邦から始まった漢王朝が辿り着いた最後の姿。彼の後を継いだ重臣たちが願い、羨んだ天下泰平の先にある、貧者でさえ簡単に予想できたであろう在り来たりな末路よ。
 彼ら漢王朝の君臣達の思想には間違いは無かった。ただ、彼らの思想は正しい形で継受されなかったのよ。城陽王、劉章という傑物もいたけれど、彼は例外中の例外。人々は経世済民に正しさを求めるよりも、あぶく銭を拾い集めて、それで家を造った方がはるか得で、安全だと判断した。それを歴代の漢王朝の役人達は・・・ことごとく実行した。私の父もその一人だった」

 仁ノ助は閉口せざるを得なかった。まるで大地の底より登ってくる溶岩のように重く、そして熱を帯びた言葉であった。これを生み出すのにどれ程の葛藤や覚悟が必要だったのだろう。どれ程の修羅場を潜り抜ければ、これ程までに圧倒的な覇気を放てるのであろうか。自分よりも年少であるのに幾万もの人間の命を背負っている彼女の、何と聡明で健気な事か。国家の礎を変革させるような若き才人を生み出す中原の奇跡、その代表格を目の当たりにした仁ノ助は、ただ彼女の言葉に圧倒されるしかなかった。
 手摺につかれた指がとんと音を立てた。曹操は長社の街並みを見下ろしす。その瞳には不断の決意が浮かんでおり、路地の暗闇に潜んでいるであろう下卑た盗賊一人ですら逃がすまいとする、殺意じみたものすら滲んでいた。

「私は世を変えるわ。不断の武による政治で、この大陸に新しい王朝を築き上げる。そのためにはより多くの烈将が必要よ。血を流す事を厭わぬ勇敢な者達が。そう、あなたも含めてね」
「・・・」
「あなたに、この曹孟徳が作り出す新しい世界を見せてあげましょう。そして襲い掛かる怨敵を滅した後に、あなたを迎え入れましょう。この中原の真の住人としてね。仁之助。私の背中を見守り、そして、守護の刃を掲げなさい」

 神の宣告の如く、堂々として曹操は言った。睥睨する全てを呑み込んでしまうような気を放ち、ただ静かに来るべき乱世を待ち構えている。内心には歳相応の幼さを抱えているだろうにそれをおくびとも出さず、指導者としての威厳を細やかな所作に至るまでありありと見せつける。その様は仁ノ助の胸に深く染み入るものであり、彼は心より感嘆の念を覚える。目の前に立つ少女は『英雄』の名に相応しき御仁であった。
 仁ノ助は彼女の小さくも大きな背中を見ていたが、ふと何かに気付いたか、懐より一本の短刀を取り出した。剣呑な刃の音に曹操がきりっとした眉を顰める。

「・・・何をしているのかしら」
「・・・曹操様、そのまま動かないで下さい。背中についたカナブンを取り除きます」
「えっ!?ちょ、やだっ、取って!!カナブンは駄目なの!早くっ、お願い!!」
「わーお。カリスマが欠片すらぶっ飛ぶのね。曹操様、俺はあなたに付いていきますよ。カナブンを駆除した後でも」
「いいから取りなさいっ!!早くッ!!」

 丸まるように身を竦ませる彼女の姿は中々に御目にかかれないだろう。仁ノ助は言われるがままに短刀の切っ先を曹操の背に近付ける。てくてくと、カナブンが曹操の背を伝って刃の上に乗っかる。未だぞくぞくとしたものを感じる主から刃を遠ざけつつ、仁之助は問う。

「はい、取りましたよー。なんでカナブンが駄目なんですか?」
「・・・昔ね。春蘭や秋蘭と一緒に野原で昼寝をしたことがあったの。それで思いのほか心地よくて、深く寝入ってしまったのよ。護衛の者が付いているというのに無用心だったわ。・・・眠りから醒めたら、もう夜になっていた。さすがに寝すぎたなって思ったら、胸のあたりでもぞもぞと何かが動く感覚がして、それは段々と顎を伝って口元に登って来たの・・・。そして私は見てしまった、黒く、巨大で、二本の触覚を蠢かせる嫌悪感の塊を。
 それ以来、私はカナブンが嫌いなのよ・・・。用兵家の裏をかく奇襲は見事であると思うけれど、あんな気持ち悪い生物なんて認められない。絶対無理。近付いてくるだけで鳥肌が立つわ」
「あの、多分それカナブンじゃなくて、ゴキブリなんじゃ・・・」
「・・・・・・・・・え?ゴキブリって・・・憚りや台所とか関係なしに出て来るっていう・・・」
「ええ。黒い身体に二本の触覚。それで蠢くんですよね?それ、カンペキにゴキブリです」

 空気が死んだ。曹操は仏像を思わせるような静謐さに満ちた表情をしながら仁ノ助を見詰める。ただ、その表情は悟りを覚えたものというよりは、考える事を放棄したと言った方がよい、呆けたものであった。ただの出来心から主の誤りを訂正した仁ノ助はいたたまれぬように口を真一文字に閉ざし、しかし彼女の虚空を見るような瞳から目を逸らせないでいた。なんというか、視線を離したらきっと落涙するだろうという、そんな思いが生じたためであった。暁光に照らされる彼女の容貌は美しいものであったが、煤けたような哀愁が漂うものでもあった。
 数分間の沈黙が数時間のように感じられた。曹操は再び街並みを見遣り、そこに吹き抜ける順風によって髪をさらさらと靡かせた。ふと、穏やかな笑みを零すと彼女は振り向く。悲愴さが滲んだ顔に慧卓は「あっ」と声を漏らしてしまった。

「・・・これから皇甫嵩将軍と朱儁将軍との会議があるから」
「は、はぁ・・・いってらっしゃいませ」
「・・・世の中って残酷ね」

 曹操はそう残して立ち去っていく。足取りも心なしか落ち込んだもので、仁ノ助は彼女の背中を見送った。慰めた方が良かったかもしれないが、あの哀愁を解消する程のものなど思いつかなかったのだ。世の中、知らない方が良かった事も多い。彼女はそれを心より痛感し、慧卓はお喋りな自分の口に反省の念を送った。
 刃の上に乗っていたカナブンがかちかちと羽を鳴らした。仁ノ助は思い出したようにそれを見遣ると、その冤罪を晴らすべくそらに剣を掲げた。

「よし、カナブン。お前は無罪放免だ。飛んでいけ」

 宣告を受けて、『やっとこさ自由になったべ』と言わんばかりにカナブンはうんと身体を伸ばし、空高くに向かって羽ばたき始めた。ささやかな風に揺られながらカナブンは城より降り立ち、長社の街並みに向かって身を溶け込ませていく。明るい陽射しが身体に跳ね返り、あたかも虹を彷彿とさせる色彩を宙に放っていた。
 これより宮仕えとなる自分と比べて、何と自由気儘な姿であるか。短剣を仕舞いながら仁ノ助は暫し虫が消えた方を眺めていたが、いつまでもこうしているわけにはいかず、背筋を正して踵を返す。客将なりに出来る事はやる心算である。仁ノ助は主の許しを得るべく、なるべく早足で曹操の背中を追い掛けて行った。
 
 辰野仁ノ助はかくのごとき顛末を経て、中原の歴史を飾り立てる大乱世への一歩を踏みした。彼は新しき生を受けたような気持ちで、この世界を歩んでいく心算であったのだ。そこに待ち構える試練の壁も、必ず乗り越えてやろうという気概が彼にはあった。まだ、その時には。
  
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