| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

日本人に生まれた者の全ての仕事を保証する法案についての考察。あるいは追い詰められた人間の選択

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
< 前ページ 次ページ > 目次
 

日本人に生まれた者の全ての仕事を保証する法案についての考察。あるいは追い詰められた人間の選択 新しい話を登録する

 刃に指を滑らせて、切れ味が出ていることを確認する。
 悪くない出来だと思う。人生で三本目にしては。
 包丁を水でゆすぎ、よく、水気をふき取る。
「ステップ1完了!」
 俺は携帯端末を操作して、仕事の過程を報告する。
 百年も昔は、現在のような仕事形態を「まるでゲームみたい」と揶揄されていたが、結果は成功だったと言われている。
 日本で生まれた者のすべての仕事を保証する。
 どんな人間でも、その人に合った仕事を提供する制度であり、基本的人権の中の社会権に追加された項目だ。当時のニュースは自由権を著しく損なうものだ、共産主義社め! と大騒ぎを起こしたが、いざ、可決されてみると、その実ほとんど何も変わらなかった。
 資本主義と、共産主義のいいとこどりというのがウリだ。当然、悪いところもあり、現在でも一部の団体が猛烈な抗議を行っている。中には過激派も多いらしく、ニュースなんかでも報道される。国会議事堂前での日本人による自爆テロは記憶に新しい。
 自由に仕事したい、と主張する人には、直接関わりがない法律であった。
 自由なんかいらない。とにかく、安定した仕事が欲しい、という申請を国にしたとき、その法律は真価を発揮する。
 国から支給される端末には、毎日いくつかの仕事が送られてくる。そのうち、できるものをいくつか選んで実行に移す。そうすると、お金がもらえる。ただし、もらえるのは円ではなく、ポイントと呼ばれる通貨だ。日本で生きている分には円と変わらない。個人でのお金のやりとりができないという点で不便だ。
 こなした仕事はすべて記録される。それによって、その人に合った仕事を効率よく提示し、よい仕事循環をつくれる。
 だがしかし、この制度で生きている以上、豊かな生活は望めない。日々、生きるために仕事をするので精一杯で、贅沢は月に一度。がんばっても週に一度だ。
 急に病気や事故で働けない体になっても、以前の働きによって変わらない給料がもらえるのがうれしい。補償金が支払われないというニュースは聞いたことがないが、もしもの時が一番不安だ。
 もしもの時が不安なのは、百年前も今も変わらない。一生懸命はたらいて、それだけだ。
 今回みたいに、オイシイ仕事が入ってくることもある。ある程度信頼を積めば、簡単で高い給料をもらえる仕事とも巡り会える。
 依頼された和包丁研ぎも終わり、あとは指定された場所まで運ぶだけの簡単な仕事。その給料は破格で、二週間働き詰めてやっと手に入る額だ。
 聞いた話によると、こういう仕事は信用を確かめる為の仕事らしい。いかに言われたことを忠実にこなせるかの勝負だ。
 愛情込めて水をやった金の成る木が芽生えた気分だ。
 俺は、乾燥した和包丁の輝きを確認して、丁寧に布に包むと箱に収めた。
 指定された場所は近所だった。
 小さなアパートのポストに投函する。ポストには南京錠がかけられて、簡単にはあけられそうもない。は何が入っているのか分からないポストをあけるために、鍵をこじあけるような人はいないと考えたのだろう。
 ステップ2も完了。
 次が最終ステップなのだが、その内容がいささか不可解だ。
 場所と時間が指定されていて、その場所で、時間まで目立たないようにすごす。
 推測するに、このあたりに俺の信用を計るミソがあるのだろう。
 俺は周囲を探るように見渡してみる。アパート周辺は閑静な住宅街ってやつだ。犬を連れて散歩しているおっさんが一人通り過ぎたが、ソレ以外に人の気配はない。車の走り去る音が聞こえる。少し歩けば車が走るのに適した通りがあるので、そこから聞こえるのだろう。
 どこからか、誰かが俺の事を見張っている。そう感じると、背筋が伸びた。
 指定された場所は、デパートの屋上だった。一般人が出入りできること自体初めて知った。
 目立たないようにと言われていたので、帽子とサングラスを掛けてきたのだが、杞憂だったようだ。屋上には誰もいない。いるのはハトくらいなもので、こいつに見つかっても問題ないだろう。
 屋上の中心には、寂れたステージが用意されていて、囲むようにベンチがこしらえてある。あとは申し訳程度の自販機くらいしかない。
 ステージ自体小規模で、イナバ物置に乗るみたいに詰めても、三十人乗れそうもない。土台は木製で、年期のこもった黒ずみかたをしている。常に雨ざらしにされているのだろう。所々カビているようで、百人の体重は支えられそうにない。
 メインステージがこれで、他には何もないのだ。周囲の景色も、高いフェンスに囲まれているせいでよく見えない。まだ、一階下で窓越しに眺めた方が見応えがあるというもの。
 俺はベンチに腰掛けて、持ってきた文庫本を開いた。あと、三時間はここにいなければいけない。読み終わったら、寝よう。
「よう。こんな時間にこんな場所でなにしてる?」
 小説を読み始めて十五分ほどたった頃。一人の男が話しかけてきた。
 いつの間にここに居たのか。もしかして、ずっと居たのか。
 頭にひらめくものがあった。コイツは例の僕を監視している者ではないか。十五分もぼーっとしていて、人目につかないようにする仕事を忘れているのを咎めにきたのか。
 いや、違うな。こういう場合にどうするかを試しているのだ。一体どうすればいいのだろう。この場を離れて、撒いてから戻ってくるべきか。
「あ、貴方こそ。こんな場所でどうしたんですか?」
「君は殺人鬼になる。君が今日足を運んだ202号室の男を包丁で刺し殺したのだ」
 この男は何を言っているのだ。どうやら、俺の仕事内容を知っていたようだ。つまり、依頼人、あるいは関係者だ。
「殺人鬼? 冗談じゃない。どれだけ金を積まれたって、殺人なんかできるもんか!」
「いやいや。僕は君に仕事を依頼した訳でも依頼しにきたわけでもない。ただ、忠告をあげようと思ってね。隣、いいかい?」
 聞いておきながら、勝手に座ってしまう。安っぽいジーンズに、プリントティーシャツを着た男は、人を不快にさせる笑みを浮かべる。童話に出てくる悪い狼を思い出した。獲物を品定めしながら、言葉巧みに誘い出し、一口に丸呑みしてしまう狼。
「もしもの話だが。君が研いだ包丁が殺人に使われたとしたら、どうなると思う?」
 何だと? 理解はおいつかない。しかし、血の気が引くのがわかる。
 あの包丁が殺人に使われたらどうなるのだ?
 俺はあの包丁を素手で扱った。指紋は当然俺の物が検出されるだろう。
「ば、ばかばかしい。俺は国から正式に依頼されて仕事をしたんだ。それが、俺の無罪を証明してくれるだろう」
 俺は端末に実行中の仕事リストを表示させると、男に見せた。確かに、包丁研ぎの仕事が表示されている。
「そう怒るなよ。落ち着かないと、取り返しのつかないことになるんだぜ。たとえ話の続きをしよう。包丁研ぎの仕事を依頼したのは国だろう。だが、包丁研ぎは口実で殺人の手伝いをして欲しいという内容だったと考えてみてくれ。その依頼人は、誰だい?」
「だ、誰って。内容が偽物なら、依頼人が誰かなんて、分かるわけないだろう」
「そうかな。簡単に考えてみろよ。この端末に送られてくる仕事の依頼人は元をたどれば一つの組織にしかぶつからないよ。国だ。国が殺人を依頼してきたんだ」
「殺人なんか依頼されていない。俺は包丁を研いだだけだ。誰も殺していない!」
「もし、本当に国が殺人を依頼してきているとすれば、君に有利なことなんか一つもないぞ。犯行は被害者を包丁で一突き。包丁からは君の指紋が検出される。話を聞くと、確かに包丁を研いだのは君で、その時間アリバイはない。そして、君のいま見せている端末からは、包丁研ぎの仕事依頼は消えていることだろう。なにせ、管理は国が行っているのだから。造作もない」
 頭が真っ白になる。俺が、殺人!
 信じられない。殺したい、と思った事がないわけじゃない。でも、実際に殺人を犯すことはなかったし、これからもないだろう。その、俺が。殺人?
「う、嘘だ。ばかな。そんなはずはない。俺に、殺人なんか、できるわけないだろう!」
 いや。殺人は行われているのだ。間違いない。そう確信できた。
 すでにバカな事をしたものだと後悔の念が生まれ始めていた。
 きっと、俺が間抜けにも凶器を届けた直後に殺人は行われたのだ。
 もう遅い。俺に冤罪を負わせる段取りは済んでいるのだ。今にも警察が俺の元にくるにちがいない。
 吐き気がした。生きている気がしない。
「に、逃げなくちゃ! 何もしてないのに、どうして!」
「へいへい。どうどうどう。だから落ちついて。もうこれで最後だからな。落ちつけ」
「ま、まさか。お前は警察か。警察もグルなのか?」
 ぱちん。と、神主が柏手を打つような大仰な動作で手を打つ。男の堂々とした動きを見入ってしまう。
「落ち着いたな。俺はお前を殺人事件から救いにきたんだ。当然、慈善事業じゃないが、警察でもない」
「た、助けてくれ。いったい俺はどうすればいいんだ?」
「ひとまず落ちつけよ。ひどい顔してる。コーヒーでも買ってきてやるからその間におちつけな」
 男が立ち上がるのを思わず止めそうになる。
 ずいぶん余裕がない。そう、この男が逃げ出す訳がないのだ。話は向こうから持ちかけてきたのだから。俺を不安にさせることで誰かが得するとは思えない。
 だから。落ち着け。話を整理するんだ。今必要なのはそれだ。
 男に目的があるはずだ。それはおそらく殺人なんかよりもずっと重い。無罪の証明をしてくれる代わりに、何か、とんでもないことを命令してくるに違いない。
 俺は自販機に向かう男を睨みつける。騙されるものか。
 もし、男の思惑が、俺にひどい罪を負わせようとするものなら、慎重にならなければ。一瞬でも隙を与えてはいけない。
 男がコーヒーを2本持って戻ってきた。
「ブラックでいい?」
 疑問符の付いた台詞だが、やはり俺の発言を待つようなことをしない。
 受け取った缶コーヒーをあけもせずに聞く。
「お前の目的はなんだ?」
「世界平和でないことは確かだな。むしろ真逆だと言っていい。僕には思想を持っていないから、革命とは違う。システムの破壊だとぐっと近づく」
 全くわけがわからない。自称ワルってやつか。
「抽象的すぎる。もっと具体的に、特に俺に何をやらせたいのかをはっきりさせてくれ」
 男は待て待てとまだ俺をなだめようとする。
「ちょっとは落ち着いたようだけど、具体的にどうするつもりなのか聞くのは僕が先だ。あんたはここから先どうしたいんだ?」
「どうするだって? それは今回の殺人事件をどう処理したいかって話だよな。決まってる。無罪にしたい。あんたに俺のアリバイを証明してもらえれば俺の件はかいけつするんだろ」
「よく考えて見ろ。本当にソレで終わると思うか?」
「ち、違うのか。待てよ。もしかして、アンタ俺の無罪を証明できないのか」
「いや。その辺にぬかりはない。お前は犯行が行われた時刻、偶然一般人にカメラ撮影されている。その写真は日記に使われるために撮られたもので、その場でインターネットにアップロードされている。写真の隅に小さくではあるが、鮮明に写っている」
 さすがに偶然撮影されたという言葉を鵜呑みにはできない。しかし、その話が本当だとすれば、肩の荷が降りる思いだ。
「用意周到だな。しかし、どうもアンタは事件が起こるのを知っていたようだな」
「その通り。だけどね。今回みたいなケースは別に珍しいものじゃないんだ。パズルに例えてみようか。君が関わっている事件を1ピースだとすれば、僕が追っている事件の全貌は数兆という数のピースで形成されている。なにせ、百年以上描かれ続けてる長大作だ。すでに、当初あったパズルのテーマなぞ消え失せて、腐りきり、取り返しのつかない事になっている」
「よく分からないな。俺の無罪は証明できるのだろう。ならば後はアンタとの取引じゃないか。俺の無罪を証明する代わりに、その事件とやらに関われと言っているのだろう?」
「根本的な話をしよう。僕が証拠を提示して、君の無罪を証明する。さて、このあと君は元の生活に戻れるとおもうかい? まず、ムリだね」
「な、なんだと。そんなはずはない。だって、罪がないんだぞ。誰が俺に手出しできる」
「言っただろう。お前の敵は国だ。そして、君と同じように冤罪を被るケースはごく日常的に行われている。君は殺されるぞ」
 心のどこかで、常識が崩れる音がした。そうか。俺は殺人の罪をなすりつけられたみたいな、利己的な理由で事件に巻き込まれたのではない。
 人が殺されたのに、罪を償う人間がいない。つじつまを合わせるために罪を償わされるのだ。無関係であるはずの、俺が。
 いや、無関係なんかではあり得ない。つまり、国はこの日のために俺を生かしておいたのだ。
 俺は養殖された豚のようだ。時期がきたら屠殺場に連れていかれて殺される。多少抵抗しようが無意味。作業員も国のためにと心を殺してなんとも思わない事だろう。
 罪をなすりつけられた後にも人生は続くのだろう。まるで、流れ作業で解体されていく家畜そのものだ。
 刑務所で働き、外に出て働き、やがて殺される。
 ぐるり、と世界が回転した。天井が俺をめがけて落ちてくる。
 あれ、ここは屋上?
 あぁ。地面だ。俺は倒れていたのか。
「おいおい。気持ちは分かるけどな。いつまでも寝てると本当に手遅れになるよ。僕は君を助けにきたって言ってるだろう。絶望するにはまだ早いぜ」
 体がだるい。しかし、動かせない程じゃない。
 まだ助かる。その言葉に導かれて俺は再びベンチに座った。
 想像上の俺はまだ豚の姿をしている。
 自暴自棄である自覚があった。もうロースからホルモンまでおいしくいただいちゃってくれ。
 だが、俺は豚と違って、幸か不幸か、すぐに死ぬわけではない。希望があるならば、せめてそっちに進みたい。
「アンタは俺にどうして欲しいんだ。無罪の先に未来がない事を説明した。つまり、有罪を認めた方がいいってことだろう。司法取引みたいに罪を認めれば罰は軽くしてやるとかそういうことなのか」
「確かに有罪を認めて罰を軽くする取引をする手もある。だが、。僕は警察ではないし、司法省の人間でもない。更に僕らの都合を言えば、君には無罪を訴え続けて欲しい」
「はっ。訳が分からん。だったら、そう言えばよかっただろう。お前が説明しなければ俺はバカみたいに喜んで無罪を主張し続けただろうよ」
「それじゃ意味がないんだ。君にはいくつかの道がある。その道を見つけた上で、どの道を進むか決めなければいけない。その先に地獄しか待っていないと分かっていても、それでも進まなければ意味がない」
 地獄を目指して進むだと。狂っている。
 でも、そうか。今までと変わらない。俺が気づいていなかっただけで、地獄はすごく身近な存在なのかもしれない。
「俺は、何も罪を背負っちゃいない」
 俺は、先に地獄がある道を選んだ。


 突き破るような勢いで、屋上の扉が開く。
「そんなことされてたまるか。貴様には罪がある!」
 屋上に、さらにもう一人男が現れた。
 男の割には長い髪。フレームなしのメガネに背広姿。いかにも仕事のできそうな若者だ。
 しかし、それも普段であればの話だ。表情には怒気がうかべ、肩で息をしている。余裕がない。射抜くような視線は敵意を感じさせる。こいつは俺の敵だ。俺が国に飼われていた豚だとすれば、コイツは犬だ。
「罪だと。ふざけるな。俺は誰も殺していない。証拠だってある」
 はっ。犬がさげすむように笑う。檻で暴れる動物を見て哀れむ視線だ。その檻は君には壊せないんだよ。とでも言うように続けた。
「無罪の証明がなんだ。お前になにができる。いいか。お前は出された餌を食うことしかできない家畜だ。それに比べてこっちは屠殺の専門家だ。貴様等の小細工なんぞが通用する相手ではない」
「そう言う割には息が荒いぜ。プロが専門分野でずいぶん苦戦しているじゃないか」
 男は苦虫を噛み潰した表情。青白い額には血管まで浮き出るようだ。
「豚は黙ってろ! 苦戦してるのは貴様にではない。そこの、豚を盗み食いしようとしている薄汚い狼にだ。コイツが誰だか知っているのか?」
「犬が血管浮き立たせて興奮しているところを見ると、国家権力者ではないらしいな。誰だろうが関係ない。敵の敵は味方。そんな簡単な話ではないだろうが、このままお前に捕まるよりはましだ」
 ちらり、と協力者の顔を見る。コイツはまだ部外者だ。表情に余裕がある。いざとなれば俺の事を易々と切り捨てていくだろう。
「そいつらは非国民だ。国家が治める恒久平和の世を乱す蛮族。正義にたてつき、利己的な理由で破壊行為を繰り返す無法者。時に仲間の命さえ爆発させるテロリストだ!」
 動揺が表情に出ないように苦心する。こいつ、テロリストだったのか。ニュースで何度もみかけた。過激派の恐ろしい団体。
 だが、だからどうした。だからどうする。
「僕たちだって、人を傷つけたり、物を壊したりするのは嫌なんだよ。でも、口で言うだけじゃ解決しないこともあるし、まだ統制がとれていないところもある。少なくとも、君に爆弾を持ってもらう仕事をして欲しい訳じゃない」
 くそっ。どうして今になってこんな情報が出てくるんだ。顔を隠してうずくまってしまいたい。
 落ち着け。男の真意はどこにある。爆弾を持たせるようなことはしないから、こっちにこいと言っている。
 犬について行って殺人犯の汚名をいただくよりかは、狼についていった方が未来はありそうではある。だが、どうしても狼の言葉は落とし穴に誘導しようとしているように聞こえてしまう。
「ふん。テロリストの言う事なんか信じられるものか。それより、私と取引をしよう。安心しろ。何年も刑務所に入れようってわけじゃない。すぐに釈放する。君さえよければ顔を変え、新しい名前を作ってもいい。新しい人生を始めるんだ」
 狼が犬と向かい合う。
「善良な市民を前にずいぶんな言い方をしたじゃないか。ついさっきまで人を豚扱いし、あまつさえ彼には罪がないというのに。罪がない人間の名前と顔を剥奪する行為がまるで当然のようなふるまい。とんでもない放漫さを感じるよ。とても、許されることではない」
「黙れっ! お前らゴミなんだよ。だっていらないだろ。お前ができることは全部、機械ができるんだから。しかもより素早く、正確に」
 たまらず言い返す。以前より薄々感じていた不安が爆発しそうだった。
「なんでお前にそんな事言われなくちゃならない。俺たちには生きる権利があるはずだ!」
「ねぇよそんなもん。クソが。お前、誰かに生きてて欲しいって言われたことがあるか。お前が生きていなくちゃいけない理由がどこにある。誰が望む。誰が生きる権利なんかお前に与えるものか。権利なんてモノはないんだよ。あるとすれば勝ち取れ。誰かに必要とされて初めて手にできるものなんだ。だから、死ねよ。お前は殺人の罪を負うことではじめて生きてる意味が認められるんだよ。殺人の罪を償ってはじめて人間になれるんだよ。黙って償え! それが、お前が生きるための代償だ」
 犬がほえる。その気迫に、必死さに思わずひるむ。
 しかし、犬にほえられてひるむ豚はいても狼はいない。
「話にならないね。君は自分の事を特別扱いしているようだけれど。それはどうしてかな?」
「当然だ。私は機械を扱う人間なのだから。家畜を管理する人間だ。人類は、それができる者だけで十分だ。ソレ以外はいらない。せいぜい維持コストを最低限に押さえて、なるべく利益を生み出して死んでもらわなければ」
「結構な意見だね。だが、最低でも少々の修正を加える必要がある。機械を操る人間は、誰でもいいんだ。当然家畜の管理が必要なら管理する人間が誰であっても構わない。つまり、見方を変えればお前自身もタダの家畜。誰かもっと上の人間に飼われた豚野郎だよ。もっとも、その誰かを探そうと思ったら堂々巡りになるけどね」
「なぜお前はその上にいる誰かが私たちであると認められないんだ」
「その誰かがいたとして、お前につとまるとは到底思えないんでね」
 二人はぴたりと言い争いを止める。まるで武道の型の演舞を見せられたようだ。うんざりするほど繰り返してきた発表会を終えたような。しかし、変化としては虚無感が増しただけにすぎない。二人の間に最善解が生まれない事を知っているのだ。
「さて、では整理しようか」
「君は、どちらについて行くんだ?」
「私と。国の為に罪を背負い。顔を変え、名前を変えて新たな人生を始めるか」
「僕と。国の為に罪を背負い。テロリストになってでも国を正しい方向に導くか」
 俺は。どちらを信じる。犬か、狼か。
 どちらが正しい。
 落ち着け、整理するんだ。
「思えば、俺は変わらなければいけないのかもしれない」
「変わるだと。豚が心を入れ替えたところで、何ができる」
「そう。豚であることがいけないんだ。問題はそこにある」
「どういうことだい?」
「俺は犬についていくか、狼について行くかで迷っていた。どちらにも地獄が待っているのだろう。落とし穴もクソもない。道の先にはしゃあしゃあと死が吊るされている」
「今更なにができる。お前はもう、取り返しが付かないところまできている。後戻りは許されるはずはない。先に進むしかない」
「たとえ、その先に地獄しかなくても進むしかないんだ。ほかにできることがあるとすれば、ちょっとだけ立ち止まるくらい。しかし、あまり呆然としている暇はない。足場は今にもこぼれ落ちる」
「あぁ。その通り。だが、俺は立ち止まる気も、後戻りする気もない。俺は、俺の道を行く。それを信じる。たぶん、この先は崖になっている。後になって考えればバカなまねをしたものだと後悔することだろう。生きていればな。でも未来なんか無くてもかまわない。最後くらい、豚としてでなく、人間として死んでやる。自己主張をして死んでやる!」
「おもしろい。豚の分際でよく言った。では、その自己主張とやらを聞かせてみろ」
 俺は深呼吸する。話をまとめる。ここから先は、誰も描いていない道筋。誰もが進むことを望まない混沌の道。
「二人は仲間なんだろう。国の犬役の方は、狼がテロリストである事を知っていたし、それに初対面にしては息が合っている。最後なんかは積極的に合わせているようだった。事件のきかっけになったのは、俺の端末に仕事が入ってきた事だった。偶然の出来事にしては都合がよすぎる。だから、二人はテロリストではなく、国の人間であることがわかる」
「どうした? 答え合わせなんかないぞ。続けろ」
「そして、全てをつなぐ鍵は、日本で生まれた全ての者に仕事を保証する法律。一般人でその法律に保護されている立場の俺にこんな事をする理由があるとすれば、実験だ。法律に賛成か反対のどちらかを煽るための実験の場なのではないか?」
「お前は、そのために人が一人死んだというのか?」
「いいや。もともと殺人なんか起こっていなかったんだ。狼のセリフがなければ、俺は殺人なんて想像すらしなかった。アンタら二人が口実を合わせられる関係にあって、政府の人間だとすれば、今回架空の殺人をでっち上げることなんか簡単だったろう」
「なるほど。それで、人間くん。君はこれからどうするつもりだ?」
「殺人は行われなかった。それが俺の意見だ。ならばやることは一つだ」
「どうするね?」
「帰って寝る。どうやら仕事で指定された時間はすぎているようだ。本日の仕事はこれにて終了」
 俺は肩を落として屋上を後にしようとする。
 ただの現実逃避だ。
 俺は、罪を逃れる手も罪を軽くしてくれる手をも払い除けた。愚かな行為だ。
 でも、だからなんだというのだ。ここにくるまでの人生、地獄の一歩手前まできたのは俺の意志だ。俺が今まで生きて選択してきた結果だ。
 地獄に落ちるのにわざわざ人の手を借りることもないだろう。
「おい、君。待てよ」
 振り向くと、二人の男は初めて表情を崩している。浮かぶのは笑みだ。苦笑いに近い。
「うぅん。見事不正解だ」
「まぁ、しかし。合格だ」

 
< 前ページ 次ページ > 目次
ページ上へ戻る
ツイートする
 

感想を書く

この話の感想を書きましょう!




 
 
全て感想を見る:感想一覧