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愛しのヤクザ

作者:ミジンコ
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第五章 覚醒剤

 昨夜は、祭りの前日であることから危険と判断し、向井支配人とハヤシコンビの3人が泊まりこんだ。相沢も23時まで残り、帰りが遅くなったが、今朝、目覚めると普段より1時間も前である。やはり気になっていたのだ。三人は今頃どうしているだろう。
 相沢はこの仕事に入って初めて宿直という体験をしたのだが、夜は人を不安にさせることを実感した。ましてやヤクザ対応していると尚更だ。しかし、東の空に暁が現れ始めると、不安は徐々に薄らぎ、安堵と平安が心の底から涌きあがってくる。
 そして、太陽が顔を覗かせた時、何ともいえない躍動感と開放感が体を駆け巡る。原始人も同じように感じたに違いない。彼らの不安材料はヤクザではなく夜行性の肉食獣だった。そして相沢は、原始人もそうしたであろうように、太陽に両手を合わせるのだ。

 車を停め、靄のかかる駐車場を横切り、事務所に入ってゆくと、向井支配人は机に突っ伏して寝ている。林田と林は机に座り話しこんでいたが、二人とも晴れやかな顔を相沢に向けた。どうやら、何も起こらなかったようだ。林が嬉しそうな声で言った。
「課長、おはようございます。何もなかったですよ。本当に良かった。ゆんべは、緊張しまくっていたけど、こうして何も起こらないとなると、ちょっと、肩透かしくったみてえで、がっくりしちゃいますよ」
林田も笑いながら合いの手を入れる。
「まったくだ、今日も泊まりてえくらいだ。今日は何か起こりそうな気もするし。なあ、林、気がつかねえか?今日の課長はなんとなく影が薄いというか、どこか寂しげで、俺達に別れを告げているような、そんな気がする。こういうのを胸騒ぎっていうのかな」
相沢も笑って答えた。
「自分達が終わったからって、随分勝手なこと言ってるけど、明日だってあるんだよ。僕は明日の方が危ないと思う。だってテキヤは、昨日今日は店の準備で忙しいけど、二日目は材料を運ぶだけだろう。その帰りにちょっくら暴れてみるか、なんてどっと押し寄せるんじゃないの」
「うーん、説得力ある。そう言われれば、そんな気がしないではない。でも課長は鎌田副支配人と組だから安心でしょう。なんたって、柔道五段。課長もうまくやっているんだから」
「馬鹿言え、僕が決めたんじゃなくて鎌田さんが勝手に決めたんじゃないか」
「そうでしたっけ、まあ、そんなことはどうでもいいけど、課長だって大学で空手やってたんだから、それなりに自信はあるんでしょう。ところで、課長は何段なん?」
「別に段なんか持っていないよ。最初の進級試験受けただけだから、覚えていないけど恐らく最初は三級じゃないかな」
「えーっ」と、大きな声をあげて、林田と林が顔を見合わせた。林が言う。
「空手4年もやってて、三級しか取れなかった人を、全面的に頼っていた俺達は何なんだ。この一月の間、感じていたあの安心感は虚構の上に成り立っていたなんて、あまりにも酷すぎる」
と、二人は泣くマネをして、林田が最後を締めくくる。
「これから、俺達は誰を頼りに生きていったらいいんだ」
 朝の掛け合い漫才はこれでちょん。いつまでも付き合っている訳にはいかない。向井を起こそうと背中を向ける。その時、向井ががばっと起き上がった。目は血走っている。
「うわー、大変だ。あんなに刺青がはいってきちゃった」
と、叫んだ。驚いて見守る3人の視線に気付き、もじもじと照れ臭そうに言った。
「何だ、夢か、驚いた。次から次と刺青客が入ってくる夢を見ていたんだ」
思いは誰も同じである。皆、ことさら大きな声で笑いながらも、心から笑えなかった。

 その日は昼も夜も何事もなく、3時の見回りが終わると、そうそうに個室に入ってソファに身を横たえた。遅番の清水郁子が起こしに来ないことを、そして早く夜が明けることを祈りつつ目を閉じた。

 鎌田に起された。大きな顔が目の前にある。とうとう来たかと、一瞬不安が体中を駆け巡ったが、鎌田の笑顔を見て、ほっと胸を撫で下ろした。鎌田が口を開いた。
「今日は本部長の出勤日だから早く起きた方がいいですよ。早めに掃除させますから。そろそろ起きて下さい。」
 鎌田は一人本部長に取り入っている。ここを仮眠所に使っていることも、いつかばらされるかもしれない。そんな不安もよぎったが、その時はその時である。フロントの更衣室を勝手に作り変えたことを、会社にばらしてやれ、と思った。
 その日の帰り、久美子に出会った。とは言っても最初は久美子とは分からなかった。ハーレーが相沢の車の横にぴったりとついて並走していた。腹に響くエンジン音を聞きながら、ちらちらと視線を走らせた。ふと、鵜飼則子が言った言葉が蘇った。
「今日はジャガーではなくてハーレーダビッドソンですって。」
あっ、吉野久美子。相沢は走行車線を走るハーレーのライダーを見詰めた。その視線に気付きライダーのヘルメットが相沢の方に向いた。顔は見えないが、胸のふくらみから久美子に間違いない。右手でVサインを出し、すぐにアクセルをふかした。
 ハーレーは相沢の車の前に位置を変え、暫く走っていた。しかし何を思ったか、久美子はお尻を上げ、後ろに突き出した。そして右手で尻をぺんぺんと叩いたのだ。そして一気に加速し、相沢の視界から消えた。
「なんだ、ありゃ。30女のすることか。」
相沢が呆然と呟いた。

 翌日、相沢は出勤すると徹夜明けの林といつものように冗談を飛ばしあっていた。そこに清水郁子がコーヒーを三人分持ってきて仲間に加わる。経理の石田は早々に銀行回りにでかけ、2時間は戻ってこない。取引銀行は一行なのに何が銀行回りだか。
 本部長がいれば一緒に行くが、今日は一人で羽を伸ばしにいくつもりのようだ。コンピューターにはすっかり飽きて、簡単な集計の操作を覚えて悦に入っているが、細かく面倒な作業だけは林に残され、今、林がコンピュータに向かう。そこに調理長が顔を出した。
「諸君、おはよう、元気かね。ところで、林君、君も切り替えが早いってみんなの噂だよ。鵜飼君が失踪してあれほど嘆いていた人間が、もう郁子君と出来てるってのは本当なのかね。うちの若いのも頑張っていたけど、林君に取られたって泣いていたよ。」
 林と郁子は顔を見合わせ、困惑の表情だ。林が耳を真っ赤にして答えた。
「このあいだ、みんなでカラオケに行って、デュエット3曲歌ったくれえで、そんな噂立てられちゃうんだから、油断も隙もあったもんじゃねえや。」
 郁子も顔を赤く染めて下を向いている。相沢はカラオケと聞いて嫉妬に駆られた。これだけ親しくしていながら一度も誘われていないのだ。みんな結構行っているらしい。相沢はことさら真面目腐って、仕事の話を持ち出した。
「調理長、例の新メニュウこと、考えて頂きました?」
 調理長は、ぶっきらぼうな相沢の言葉に一瞬むっとして答えた。
「課長には、随分妥協させられてきたけど、今度の話はなかったことにしてもらいたいと思っている。」
 林田からほぼ大丈夫という情報を得ていたのだが、調理長の厳しい表情に一瞬ひやりとして、昔のやり取りを思いだした。

 調理長との最初の出会いの時だ。調理長は門弟を抱えて職を探していた。だからまさかあんなことで怒り出すとは思わなかったのだ。相沢は会席料理だけではなく、ラーメンや天麩羅蕎麦もやってもらいたいと言ったのだ。一瞬表情が強張り、調理長が言った。
「この話はなかったことにしてもらいましょう。」
 こう言うとすっくと立ち上がって立ち去ってしまったのだ。相沢はその後何度も家に足を運び、頭を下げ、1年の契約にこぎつけた。勿論、今ではラーメンも天麩羅蕎麦も作ってもらっている。しかしこの新メニュウには納得がいかないのかもしれない。

 不安そうに見詰める相沢に、調理長はにこっと例の目が線になるような笑顔を見せた。
「実はね、カツ丼は勘弁だけど、カツ重なら妥協しようと思っているんだ。でも、千円以下じゃだめだぞ。そこらの豚カツ屋なんて真似の出来ない豚カツを入れるんだから。」
 相沢は林と顔を見合わせ頷きあった。カツ丼はやはり大衆食なのだ。こうした施設にはどうあっても必要だった。調理長が続ける。
「あの林田君も、すけべ話ばかりと思っていたら、結構うまいことを言うんだ。割烹で鰻重があるのと一緒で高級料理をだす健康ランドにカツ重がないのおかしいと言い張るんだ。あんまりしつこくて面倒だったから妥協することにしたよ。」
 調理長にとってカツ丼もカツ重も同じである。ただ相沢達の熱意に合わせてくれている。厨房二番手の内村の苦虫を噛み潰したような顔が目に浮かぶ。内村は健康ランドなど最低だと思っているのは明らかだ。相沢は調理長に深々と頭を下げた。

 その日の夕方、事件は起こった。風呂場担当の岩井が例のごとく事務所に駆け込んで来た。刺青男が騒いでいると言う。急いで行ってみると最近入社したばかりの上田が男に絡まれている。男の腕には大きな絆創膏が貼られている。そこに刺青を隠しているのだ。

 相沢はつかつかと二人に近付き声をかけた。
「おい、上田、どうした。何か、お客様に失礼なことでもしたのか?もし、そうならちゃんと謝るんだ。おい、上田。何とか言ったらどうだ。」
 上田は恐怖で体が硬直している。頭を下げようとしているらしいが、ぎしぎしと骨の擦れ合い音が聞こえそうだ。相沢に向かって何か言うのだが、声が震えて聞き取れない。しかたなく相沢がお客に話しかけた。
「誠に申し訳ございませんが、当店では絆創膏を貼ったままの入浴はご遠慮頂いております。お取りいただけませんでしょうか。」
 中にはケロイドや傷を隠そうとする人もいるが、この客は明らかにヤクザまがいの人生を送ってきた顔である。パンチパーマに頬の傷、眼光鋭く、首には図太い金のネックレス。
 ちんぴらの看板背負って歩いているみたいなものだ。男の目がきらりと光る。
「てめえ、俺を怒らせたいのか?俺は人に見られたくないから絆創膏を貼っている。それを見せろと言うのは、喧嘩を売っているのと同じことだぜ。やるか?あんっ。」
 声に凄みを効かせ、相沢を睨みつける。相沢も負けてはいない。絆創膏の下には小さいにしろ刺青が隠されている。睨み合いは数秒続いた。男は、ふんと鼻をならし、
「やる気がねえのなら、風呂に入らせてもらおう。」
と言うと、風呂に向かって歩き出した。相沢は追いかけて、男の前に立ちはだかり、頭を下げた。そしてもう一度言った。
「申し訳ありません、絆創膏を貼ったままのご入場はご遠慮頂いております。」
 男の顔が般若のよう歪んだ。男はとことんやる気なのだ。何故なら風呂に行くのにパンツをはいたままだからだ。フルチンですったもんだするのは、男にとってこれほど情けないことはない。この後、爆発するつもりで、パンツは脱がなかった。案の定、怒声が飛んだ。
「この野郎、とうとう俺を怒らせたな。こうなったらオメエも男だろう。覚悟はできているんだろう。ただで済むと思うな。」
 男はロッカーに戻り着替え始めた。この時、林田が入り口から顔を覗かせ、合図を送ってきた。あと5分の辛抱というわけである。相沢は男が着替え終わるのを待った。上田はへたりこんだままだ。岩井は神妙な顔をして相沢の傍らに佇んでいる。
 漸く着替え終え、男は上着のポケットから何やら取り出した。白い粉の入った袋だ。男は慎重に袋を破り、手の甲に大切そうに落としている。そして甲を鼻に近づけ、一気に白い粉を吸い込んだ。そして恍惚とした表情を浮かべている。
 相沢と岩井は呆然と男の様子を見ていたが、顔を見合わせ、互いの身の不幸を哀れんだ。ほんまもんだ。ほんまもんのヤクザだ。相沢の膝ががくがくと波打つ。岩井は徐々に後退りして、相沢の視界の端から消えた。

 男は不気味な笑いを浮かべて相沢に近づいて来る。胸のポケットに手をつっこみまさぐっている。何を出す気だ。相沢の額に脂汗が浮かぶ。男の手がさっと引き抜かれた。相沢は思わず、声を上げそうになった……あっ……ハンカチ。男は鼻をかんだ。
 そのままハンカチをポケットにつっこみ、あらためて相沢を睨みすえる。そして一歩二歩肩を揺らして近づいた。拳が飛んだ。ぐっと奥歯を食いしばり衝撃に備えた。拳が触れたら大袈裟に仰け反って倒れてやろうと思っていたのだ。
 しかし拳は相沢の一寸手前で止まっている。男がにやにやしながら言った。
「そうかい、そういうことかい。殴られて警察に突き出そうという魂胆だ。その手に乗るかよ。」
「いえいえ、そんな……」
怒声が飛ぶ。
「ざけんな、この野郎。顔にちゃんと書いてある。鯨井が言っていた。3分もしないうちにパトカーが駆けつけたってな。もう呼んでいるんだろう。」
 図星を指され相沢が黙り込む。男はそれと察し、舌打ちして足早に出口に向かう。相沢は男の後を追う。フロントでは相沢を置去りにした岩井が林田に事情を話している。その二人を尻目に男はフロントで清算を済ませ、出口に向かった。

 男は焦っているのかシューズボックスのキーがなかなか入らない。カチッと音がして、中から雪駄をとりだすと、それをつっかけて小走りに駆け出した。二人の警官がやってきたのはそれから一分と経っていない。
「どうしました。奴はまだ中ですか?」
そこで呆然と立ち尽くす相沢ら三人に声をかけてきた。林田はその警官と顔見知りらしくこれに答える。
「山ちゃん遅かったじゃないか。奴が出て行ってからほんの一分も経ってねえ。それよか、手柄立てるチャンスかもしれねえ。」
と言って例のクスリのことを告げた。二人の警官は色めき立ち、目を輝かせ、男を追って駐車場へと駆け出した。途中一人の警官がパトカーから小さな銀色のケースをつかみ出した。相沢も林も岩井も後を追うために裏口に回り、靴を履いて駆けた。大捕り物の現場に立ち会える、そんな興奮に駆られていたのだ。

 三人が漸く駐車場に辿り着くと、警官たちは男の車をちょうど押さえたところだ。男がふて腐れながら車から降り立った。岩井が急に元気になり、お礼参りと言う言葉も忘れ、警官にクスリのありかを告げ口した。
山ちゃんと呼ばれた警官が興奮気味に言う。
「おい、こら、胸のポケットに入ってるものを出せ。隠そうたって、そうはいかん。分かっているんだ、早く出せ。」
 良く見ると、山ちゃんは鯨井組の騒動の時、あのニヒル野郎をねじ伏せた警官である。男が惚けて煙草なぞ取り出すものだから、山ちゃんは胸倉をつかみ胸のポケットまさぐる。
「おいおい、暴力はいかんよ、暴力は。」
山ちゃんが応じる。
「何が暴力はいかんだ。暴力を生業にしてるくせしやがって。」
山ちゃんがようやく二センチ四方の包みを探り出した。そばに控えるもう一人の警官に包みを渡す。もう一人の警官は用意した銀色のケースを地面に置きながら、その包みを受け取る。ケースを開けようとした手が止まった。そしてじっと包みを見詰める。
「あのー、先輩……」
男がくっくっくと笑いを堪えている。山ちゃんが怪訝な顔で振り返る。
「先輩、袋に中央ドラッグストアって……」
男は辛抱堪らず大きな声をあげて笑い出した。そして尻のポケットからくちゃくちゃになった白いクスリ袋を取り出して山ちゃんの目の前にかざした。そして叫んだ。
「やいやい、ポリコー、ヤクザは風邪ひいても、風邪薬飲んじゃいけねえなんて言うんじゃねえだろうな。え、どうなんだ。飲み方だって色々あらあ。俺は鼻から吸い込むのが子供の頃からの癖なんだ。なんか文句あっか、はっー?はっー?」
山ちゃんの顔が怒りで真っ赤に染まる。男は尚も嵩にかかっていたぶる。
「なんだー、その顔は。えー、善良な市民に対して乱暴な態度とりやがって。名札を見せろ、この野郎。山科菊雄だな。な、な、なんだー、菊雄だ。鬼瓦みてえな顔して菊雄?こいつは、笑わせるぜ、がっはっはっはっは。可笑しくて腸ねん転起しそーだぜ。がっはっはっは。」
ここで山ちゃんが切れた。むんずと男の首を右手で鷲づかみにしたのだ。林田ともう一人の警官が必死で山ちゃんを引き離す。男が漸く逃れ、げーげー喉をならして逃げるように車に乗り込んだ。息を整え、エンジンを駆けると、窓を開けて言い放った。
「テメエの顔と名前は覚えたからな。このお返しはたっぷりとさせてもらう、覚えておけよ。いいか、良く聞け、背中に注意しろ、えー、菊ちゃんよ。」
二人に押さえられながら、山ちゃんが吼える。
「ああ、覚えておく。腕に自信がないなら、チャカでも何でも持って来い。受けてたってやらあ。」
男はにやりと笑ってアクセルをいっぱいに踏み込んだ。

 山ちゃんがしゃがみ込んだ。そして涙を拭う。悔し涙だ。林が声を掛ける。
「ご免よ、山ちゃん。てっきりヤクだと思ってよ。まさか風邪薬だなんて。」
「林さん、そんなこといいんです。それよっか、くやしいな、あいつら。あいつら、いつだって俺たちを馬鹿にしやがる。」
林田が笑みをこぼし答える。
「山ちゃん、明日、また例の飲み屋で一杯やりますか。このあいだは奢ってもらったから、
今度はオレッチに奢らせて下さいよ。」
山ちゃんがゆっくりと顔を上げる。その顔に笑みが浮かぶ。誘いに乗ったのだ。相沢が慌てて割って入る。
「そうしろ、林田、交際費でいいから、奢ってさし上げろ。」
林田が人差し指を口の前で横に振り、ちっちっちと音をたてる。
「課長、こんな時、野暮なこと言わないでくださいよ。男と男が互いの傷を舐めあうのに、交際費はないでしょう。」
相沢は真っ赤になってうろたえたが、気を取り直し、笑いながら二人に話しかけた。
「はっはっは、まさにその通り。それより、山科さん、それと……?」
もう一人の警官が答える。
「石橋です。」
「石橋さんもどうそ、コーヒーを飲んでいって下さい。いつも、お世話になりっぱなしですし。」

 感情の振幅の激しい人は、陰と陽が背中合わせだ。一瞬前の悔し涙さえ笑いの種にしてしまう。事務室では相沢や岩井の幾分興奮気味の笑いが響き渡る。殴られることなく終わったことに安堵する気持ちが心を高ぶらせているのだ。
 その横で、真面目くさった顔でコーヒーをすする石橋は、イヤホンから流れる情報に神経を集中させている。相沢が気になって石橋に聞いた。
「そうやっていつも本部からの指示や情報を聞いているんですか?」
「ええ、心の休まる暇もありません。24時間続くのですから……」
「えっ24時間勤務なんですか?」
「ええ、それで次の日は休み。昼過ぎまで寝て、ごそごそ起き出してぼーっとしていると一日が終わっています。あれって思うと、またイヤホンに耳を傾けている自分がいます。」
山ちゃんも頷く。相沢はあの日のことを聞いてみたくなった。
「そういえば、山科さんは鯨井組がここで騒いだ時もいましたよね?」
「ええ、こいつとはコンビですから二人で来てました。」
「ああ、そういえば石橋さんも覚えてます。特に山科さんはあの長髪のニヒルな感じのヤクザをねじ伏せていましたから。」
山科が苦笑いして答えた。
「あの時はつい頭にきてしまって。帰ってから上司に散々絞られました。」
林田が合いの手を入れる。
「山ちゃんは、言葉より先に手が出ちゃう方だから、警察よりヤクザの方が向いてるんじゃない?」
「馬鹿言わんで下さい。それに、あいつの場合は特別なんです。3年前、駅前交番勤務の時、奴は駅前の工事現場で働いてて、それで知り合ったんです。奴の出身が親父と同じ和歌山なんで何となく気があってよく飲んだんですよ。名前は堤隆二」
「和歌山ですって?」
相沢と林田が同時に言った。
「それがなにか?」
「いえいえ、別に。」
と、これも二人同時に声を合わせる。山科が続ける。
「堤は、頭も切れるし、度胸もいいし、いい男だと思ったんですが、何時の間にか刺青入れて、鯨井のいい顔になっていました。まったくがっくりです。」
相沢と林田が視線を合わせ頷きあう。鵜飼則子が失踪したのは鯨井組の騒動の直後だ。則子は堤と和歌山で知り合いだった。そしてあの日、偶然、変わり果てた堤を見たのだ。そして失踪した。どんな事情があるのか分からないが、堤の出現が失踪の原因であることは間違いない。二人は山科の話に耳を傾ける振りをしながら全く別なことを考えていた。

 二人にはどんな事情があったのか?則子は1年前に八王子に現れた。堤は3年前だ。もし則子が堤を追ってきたとするなら、刺青をし、ヤクザになった堤を見て失望し、関わりたくないと思い八王子を去った可能性もある。
 別の可能性もしかりだ。たとえヤクザであろうと気持ちに変わりがなく、堤の胸に飛び込んだという可能性だ。山科が去ってから、林田と二人、あれこれ話し合った。推論を戦わせたところで、意味のないことは分かっていたのだが話は尽きない。
 いつの間にか夕闇が迫っていた。山科との待ち合わせの時間だと言って林田が席を立つ。ドアに手をかけて、ふと、振り返った。そしてにやりとして言った。
「それじゃ、課長、遠慮なく交際費使わせて頂きま。」
 
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