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愛しのヤクザ

作者:ミジンコ
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第一章 カーチェイス

  遥かなる山並みは雲霞に煙り、緩やかな稜線がうっすらと幾重にも連なる。その背後に昂然と聳える急峻な峰々は雪に覆われ、どんよりとした灰色の空とくっきりと境をなし、その不動の地位を誇るかのようにあたりを睥睨(へいげい)していた。
 そんな雄大な眺望に目もくれず、相沢の視線は前を走る車のテールランプに釘付けになっていた。峰峰に向かって真っ直ぐに伸びる道路は、車のスピードが増すに従い視界の中でがたがたと振動し、あたりの風景も瞬時に後方へと飛び去ってゆく。ふと、常緑樹に混じり黄色に染まった銀杏の樹が視界の片隅をよぎり、一瞬、秋の気配を捉えた。
 既に制限速度を30キロもオーバーし、フロントガラス越しの風景に心を誘われることもなく、相沢は掌の汗を不快に感じながらアクセルを踏み続けた。追い越し車線を先行していた車は左の車線に入り、後続の二台の暴走車に道を譲る。その先は彼方まで直線が伸びていた。

 相沢は、目の前を悠然と疾走するモスグリーンのジャガーのブレーキランプを見詰め、それが赤くなるたびに必死でブレーキを踏んだ。掌の汗はハンドルを濡らし、握り締める両手を滑らそうとたくらんでいる。その一瞬の悪魔と戦いながらハンドルにしがみつき、僅かな車間距離をこれでもかこれでもかと詰めてゆく。
 若造がとろとろ走る相沢を一瞬のうちに抜き去り、まして追い越し際に嫌味な一瞥を投げかけた。しかもその車が若造には分不相応であったことが、彼をこのような暴走に駆り立てた訳ではない。
 今日の相沢は、朝から普通ではなかった。他人の不幸まで背負い込んだような苦虫潰したような顔、眉間に寄せた深い縦皺、血走った目、どれをとっても、普段の彼を知っている人間が見たら、相当機嫌が悪いことは瞬時に分かったはずだ。
 しかし、このカーチェイスを引き起こした心理をさらに掘り下げてゆくと、意外にその根は深く、相沢の人生を変えた一瞬、あの辞令を受け取った時から始まっており、ここ3年近く欝積されてきたものが、些細なことをきっかけに爆発したと言うことも出来る。

 相沢は、大手スーパーに勤務して10年になる。3年前までは本社企画部販促課課長で、同期では出世頭であった。現場に出ることはあっても、それは企画部員としての仕事の延長であり、心の何処かで現場とは一線を画する心理が働いていたことは確かだ。
 一生本社ということはあり得ないにしても、現場へ出る時はそれなりのポジションが用意されるものと勝手に思い込んでいた。何故なら、同期入社で本社に残れたのは相沢を含め数人であったし、これまでの実績からみてもそれが順当と思えたからである。
 それが、今、何故こんなところに居るのか、それが相沢にとって納得出来ない。あの辞令は正に晴天の霹靂としか言いようがなかった。それを受け取った時、相沢は驚愕のあまり膝ががくがく震えた。本社から事業部への明らかな降格人事で、しかもそこにはこうあったからだ。「健康産業事業部課長を命ず」と。

 この健康産業事業部は、会社が新規参入した事業で、風呂を中心とし、食事、喫茶、映画、リラクゼーション、アミュズメント等を提供する温泉娯楽施設の企画、運営、管理を実施する部門である。その企画が持ち上がった時、本部の誰もがお風呂屋さんにだけはなりたくないと心の中で恐れていた。
 しかし、相沢は対岸の火事よろしく誰が選ばれるのか興味の対象でしかなく、まさか自分が矢面に立たされるなど思いもしなかった。唯一引っかかる点は一号店の候補が相沢の地元だったことだが、まさかそんなことはあるまいと高を括っていたのだ。
 その辞令を受け取ってから、瞬く間に3年という月日が過ぎた。何にでも夢中になる性格のため、すっかりのめり込んでしまったが、ふと、冷静になれば、相沢はこんな仕事をするために大学で経済を学んだわけではと言う思いが頭をもたげ、憂鬱になる。
 八王子健康ランドは16号線沿の郊外型スーパーに隣接して建てられた。竣工一週間前、オープンの実地訓練とオープンセレモニーが同時に行われることになり、昔の仲間がお客となって押し寄せると思うと、相沢は憂鬱で朝まで一睡もできなかった。

 その日、一連のセレモニーが終わると、フル稼働を想定し、本部の社員やスーパーの幹部等を集めて宴会がとり行われた。最初、相沢は人目につかない裏方に位置した。勿論、誰にも見られたくないという思いもあったが、別の理由もあったのだ。
 それはこの施設の問題点を実地で見る必要があったからだ。宴会場と厨房が離れすぎていること、そして洗い場が狭いことがネックとなって麻痺状態になることが予想された。この問題については何度も改善案をあげてきたのだが一顧だにされなかった。
 宴会が始まってみれば案の定、引き上げた食器が裏の通路にうずたかく積まれ、宴会係は右往左往するばかりで収拾がつかない。宴会係りがまだ不慣れであるという点を差し引いても、出来上がった料理と空いた器を置く中継点と、新たな洗い場の設置が不可欠であることを思い知らされた。
 相沢は汗だくで駆け回り、終いには宴会場まで出っ張って、指示を出し、食器を片付け、目立たぬどころの騒ぎではない。揶揄を含んだ元同僚の「おすっ」などという挨拶に答える余裕すらなく、ふと気がつくと宴会場には客は誰もおらず、食器の山をぼーっと眺めていた。

 その翌朝、相沢は携帯を取り出し、ゼネコンの監督に電話を入れた。
「あれ、相沢さん、どうしたの、こんなに早く」
「例の中継所と新たな洗い場、以前僕がいっていた位置に作って下さい。大至急」
「でも統括事業本部長の了承は取り付けたの?」
「あんな奴にいくら言っても無駄です。事業本部長は無視。僕が責任取りますから、一週間、突貫工事でお願いします。オープンまで10日しかありません」
「俺、知らないぜ。統括事業本部長に何か言われたら、相沢課長の指示だと答えますけど、それでいい?」
「ええ、かまいません。兎に角、今日から始めて下さい。」
 こうして、相沢は、山本統括事業本部長によって「上司を蔑(ないがし)ろにし、独断専行しがち」というレッテルを貼られるのであるが、当の本人は、ゼネコンの監督が匂わせていたのだが、子飼いの業者を工事に無理矢理入れマージンをもらっているという。
 悩みはこれだけではない。本社ではあれほど熱い視線を投げかけていたレストラン事業部の石田京子が、宴会中、相沢に気付かぬ素振りをしていたのだ。これまで本社に週一で出かけるが、その度に、京子はにっこりと微笑みかけ、屈辱にまみれた心を癒してくれた。
 あの態度は何なのだ?あのオープンセレモニーの当日、石塚調理長が、ズボンが汚れるからと前掛けを貸してくれた。現場の社員達からは似合うと褒められたが、普段背広姿を見慣れて入る京子には惨めな姿に映って嫌われたのか。或いは、惨めな姿を気の毒に思って、気付かぬ振りをしてくれたのか。
 どうも、前者のような気がする。何故なら、あれ以来、本社で京子と出会っても、俯いて顔を合わせようとしない。今朝、起きた瞬間、京子のあの俯いた横顔が浮かんだ。困ったような顔で横を通り過ぎる京子の後姿をじっと見詰める自分がいた。

 暗澹とした心に火をつけたのは、やはり、あのジャガーであった。追い抜かれる瞬間、若者の馬鹿にしたような視線にかっとなったのだ。もっとも、若者はサングラスをしており、馬鹿にしたような視線は相沢の勘違いに過ぎない。
 今、スピードメーターは100キロの数値を示している。ブレーキランプを凝視し、距離を更に詰める。一瞬、ジャガーが唸り声を上げたと思うと、相沢の視界から消えた。視線を上げると、遥か彼方をゆうゆうと遠ざかってゆく。
 慌ててアクセルを踏み込むが、1500ccのカリーナでは追いつくわけもなく、緩いカーブを曲がりきると既にその姿はない。相沢は緊張の糸がぷっつりと切れ、左の車線に移り、暴走前ののろのろ運転に戻った。へへへと自嘲気味に笑った。
 高速道路でさえ120キロ以上出したことのない相沢が、一般道路で、ジャガーとカーチェイスするなどお笑い種である。そして、いよいよ現場が近付いてきた。15メートルを越す煙突が聳えている。いよいよあのことに向き合わねばならない。そう、あのことに。

 相沢は、駐車場に車を停めた。暫く車の中で考え込んだ。深呼吸をし、一言呟いた。「まあ、いっか」
 車を出ると、何事もなかったかのように歩き出した。ガードマンとにこにこと挨拶を交わし、裏口へ向かう。ふと、ため息を洩らした。一瞬、肩の力が抜けた。下っ腹に力を込め「よしっ」と声に出した。そうだ、この試練に耐えねばならない。
 八王子健康ランドの入り口は、既に掃き清められ、『祝八王子祭り』の看板と垂れ幕で飾りつけられている。駐車場を振り返ると、山々が相沢の決意を称えているかのように、雲靄も晴れわたり清々しい姿を見せている。
 おやっと思って駐車場の一角に視線を向けた。例のジャガーが駐車している。運転手はいない。隣のスーパーの開店まで2時間ある。ということは例の若者は健康ランドに来ているということだ。まさか、後をつけてきたのか。ひゃっとする思いを抱きながら、先ほどの決心を実行すべく、事務所の中に入っていった。
「おはよっす」
相沢の何時もの挨拶だ。向井支配人は机から顔を上げ、丁寧に「おはようございます」と笑顔で答える。その机に、それが、無造作に積み上げられている。相沢は迷うことなくその机に向かった。そして、その積み上げられた物を、むんずと掴み、さっと開いた。
 すぐさま袖を通して羽織った。おもむろに、手拍子をとって声を張り上げた。
「へい、いらっしゃい、いらっしゃい」
向井支配人がにこやかに笑いながら応えた。
「課長、ハッピ着るのは明日からですよ。まあ、今日からってことにしてもかまわないけど。でも、いい男は、何着ても似合いますね。ハッピだって着こなしちゃうんだから。これで、八王子祭りもいやがうえにも盛り上がりますよ。」
そう言われてみれば、全員着用は明日からだった。一日勘違いしていたのだ。しかし、ハッピなんて着こなすも糞もあるものかと思った。こんな姿は石田京子には見せられない。まして向井支配人に似合うなどと言われてはよけい落ち込む。鵜飼則子に見せようと思った。徹夜明けでフロントにいるはずだ。
 あのオープンセレモニーのおり、石塚調理長が前掛けを差し出した時、調理長との信頼関係を築くために、咄嗟にそれを腰に巻いた。現場の人間としての心意気を見せるためだ。でも、ハッピだけは着たくなかった。理由はいくらでも言い繕える。
 向井支配人は系列の食品スーパーの店長を歴任してきたが、その実力を買われ本部の新規事業であるこの健康ランドの支配人に抜擢された。本部事業部の課長である相沢に一目も二目も置いて接するのだが、何故か相沢はこの向井支配人に頭が上がらない。
 自分より職階が下の向井支配人の意向など無視しようが、誰も文句は言わない。しかし、何故か、今、相沢はハッピを着こんでいる。しかも一日前に、誰よりも率先して。背中に視線を感じて振り返ると、向井支配人が微笑みながら何度も頷いている。
 相沢は一瞬にして心の葛藤の意味を理解した。相沢は向井支配人の期待に応えようと、自分のプライドと戦っていたのだ。そして、向井支配人は、今、初めて、相沢を本当の仲間と認めてくれた。胸にじーんときたが、向井にはお茶目に笑いかけただけだ。そしてドアを開けてフロントに出た。

 鵜飼則子が眠そうな目を前方に向けて、ぼーっと立ちつくしている。則子は立ったまま眠る特技の持ち主だ。にこりとして相沢が話しかけた。
「どうだい、似合うだろう?」
鵜飼は、何度か瞬きして目覚めると相沢に焦点を合わせた。ようやく相沢を認めると、どうでもいいといった調子で答えた。
「まあね、でも、その色、センスがないわね。真っ青なんて。それに真っ赤な文字。ハッピはいなせなものなのに、まるでスーパーのバーゲンって感じ。まあ、しかたないか、元がスーパーなんだから」
 相沢はハッピそのものを評価する則子の視線に安堵し、一回りも年下の流れ者に言い知れぬ親しみを覚えた。ましてハッピ作成にしつこく反対する相沢に一人同調してくれたことを思い出したのだ。と、急に則子がしゃきっと胸を張り声を張り上げた。
「いらっしゃいませ、こちらでキーをお受け取り下さい。入場料は1200円でございます」
見ると、ボーイッシュな女が下足キーを持ってカウンターに近付いて来る。相沢も気持ちを切り替えて、「いらっしゃいませ」と声をだしてお客を迎えた。則子が受付をしている間、その女は相沢を睨んでいる。不審に思ったがとりあえず笑顔を返した。すると女が、胸元からサングラスを取り出してくるくる回し始めた。
 相沢はしばらくそのサングラスを何気なく見ていたが、突然、雷にでも打たれたように体が跳ねた。「やばー」と思っているうちに冷や汗が脇の下を伝う。謝るとか、どう繕うかなど思いも及ばず、顔面蒼白になってひたすら立ち尽くすのみである。
 則子からロッカーキーを受け取ると、女は相沢に近付き、低く冷たい声を発した。
「さっきの人ね、まったく頭にきたわ。どんなに怖かったか分かる?あんなことしていると、いつか命落すわよ」
そして、相沢を頭の天辺からつま先まで眺め、続けた。
「いい年した男が、なによあれ。ハッピ着て、いらっしゃいませって頭下げている男がやることかよ」
 この言葉は、相沢の心にぐさりと刺さり致命傷を負わせた。「いい年をした」も「ハッピ着て」も「頭をさげて」も、どれも相沢のプライドをずたずたに切り裂いた。その場に倒れ込まなかったことが不思議なくらいだ。相沢は呆然と立ち尽くした。女はその場を去ってロッカー室に消えた。則子がカウンター越に声をかけてきた。
「何かあったの、あの人と?でも、あんな美人とならどんな係わり合いでも、グーじゃない」
 相沢はこの言葉を聞いていなかった。いや、聞こえなかったのだ。則子の口がぱくぱくと動くのを見ていただけだ。則子は見かねて、二階から降りてくる林田と林のハヤシコンビに向かって声を張り上げた。
「ねん、そこのハヤシコンビ、早く来て。本部の課長さんが落ち込んで、今にも死にそうよ。早く来て自尊心をくすぐってあげて」
 林田と林は則子の声を聞くと、目を輝かせて階段を下りてきた。そしてぼーっとつっ立っている相沢を前にして、まず林田が則子に向かって第一声を発する。
「そのハヤシコンビは止めてよ。こんな奴といっしょくたに、しねえでもらいてえ。こいつとは、赤の他人なんだから。それよっか、課長、何かあったん?」
相沢がようやく自分を取り戻した。
「いや、その、何でもない……」
林田が視線を則子に向けると、則子は外人のように肩をすくませた。林田が言う。
「課長、何があったか知りませんが、元気出してくださいよ。こっちは課長だけが頼りなんだから、課長が落ち込んじゃあ、こっちは、(しかばね)になっちまう。」
林も林田に負けじと声を張り上げる。
「課長、どうしたんですか、その顔。世の不幸を一身に背負ったみたいな顔しちゃって。考えすぎない方がいいですって。考えたって何も良くはならないに決まってんだから、だったら考えない方がいいってことですよ」
 二人は現地採用の社員である。年が近いこともあり、特に親しくしている。相沢も二人の陽気なお喋りに漸く気も落ち着いてきた。
「別に落ち込んでなんていないさ。今のお客、本当に厭みな奴なんだ。とにかく厭なお客っているじゃないか?あの女、あの年でジャガーなんて乗り回しているんだ。ここに来るとき、車でトラブったんだ。全く今時の若い者ときたら、何様のつもりなんだ。」
林田が怪訝な声を上げた。
「ジャガーだって?」
「うん、ジャガー。林田さん心当たりあるの?」
「いや、別に……」
その時、則子が相沢に声を掛けた。
「それはそうと、相沢さん。相沢さんがどう思ってるかは知らないけど、それとってもよく似合う」
相沢はハッピのことは忘れていた。則子は意地悪そうな視線を向け、にっと笑った。

 
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