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悪役だけれど

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第四章

「お見事でした」
「どうでしたか、今日の舞台は」
「最高でした」
「お客様が喜んでくれましたか」
 客を第一とした問いだった。
「そうですね」
「はい、皆さんとても」
「それは何よりです」
 マルツィターノはイヤーゴのメイクのまま笑顔で言った、悪の権化の筈がそこにあるのは聖者の笑顔だった。
「私としましても」
「そうですか」
「はい、ですが」
「ですが?」
「何か不思議ですね、さっきとある人ともお話をしましたが」
 記者との話を思い出しつつの言葉だ。
「舞台ではあれだけ憎々しいのに今は」
「違いますか」
「イヤーゴを取材している様に思えません」
「では誰を取材していると思えますか?」
「マエストロをです」
 マルツィターノ、彼をだというのだ。
「そう思えます」
「そうですか、私をですか」
「はい」
 ジャーナリストは穏やかな笑顔で彼に述べた。
「そう思います」
「よく言われます、舞台から降りるとそうだと」
「本当に舞台は違いますね」
「舞台ではおそらく私の一面を出しているのでしょう」
「マエストロのですか?」
「人は誰にも悪意やそうした感情があります」
 ここでこう言ったマルツィターノだった、哲学者の様な顔で。
「私はそれを舞台で出しているのでしょう」
「イヤーゴの役等を演じている時にですね」
「不思議と悪役をやっている時はストレスが溜まらず」
 そしてだというのだ。
「気持ちよく穏やかに過ごせます」
「悪役の時程ですか」
「悪役が一番気持ちいいです」
 記者に今度はこうしたことも話した。
「実は」
「そうなのですか」
「ではここでお話するのも何ですし」
 彼からも記者に声をかけた、穏やかな笑顔で。
「楽屋でお話をしますか」
「宜しいですか?」
「どうぞ。コーヒーやお菓子もありますよ」
「何か悪いですね」
「遠慮なさらずに、それでは」
 マルツィターノは記者を自分の楽屋に案内してそこで話したのだった。
 メトでの公演が終わってからイタリア、彼の母国であり活動拠点に戻った、そこで彼はモナコにまた言われたのだった。
「次の役はね」
「うん、何かな」
「プッチーニだよ、西部の娘のジャック=ランスだよ」
 恋敵の役だ、西部の保安官である。
「それだよ」
「あの役だね」
「君が得意とする役だけれど」
「スカルピアの方が得意だね」
 マルツィターノはこうモナコに返した。
「君は」
「うん、そうだよ」
「それでも嫌いな役じゃないね」
「嫌いな役はないよ」
 彼が演じているどの役でもだというのだ。
「悪役は確かに得意だけれど」
「じゃあ今度も頼むよ」
「恋敵としてね」
 マルツィターノは笑みを浮かべて言う。
「頑張らせてもらうよ」
「そうしてね、それじゃあね」
「うん、じゃあ」
 こう話してそうしてだった。
 彼はそのジャック=ランスも前を見て歌うのだった、そしてこの時もだった。
「今度はナポリでの公演だったね」
「そう、あそこでだよ」
「じゃあ今度はナポリの子供達を招待して、後は」
「君はナポリの身体障害者施設にも寄付していたね」
「あの施設の人達も呼ぼう」
 こう言ったのである。
「是非ね」
「そうするんだね」
「うん、歌は誰もが聴けるものだから」
 子供でも、身体の何処かが悪くても同じ人間だからだ。
「招待するよ」
「そうしよう、今回もね」
 モナコもマルツィターノのその言葉に頷く、マルツィターノは悪役や恋敵を歌い続ける。しかしその素顔は心優しい聖者だと誰もが言うのだった。彼は心の中にある悪を舞台で出し切りそうなっていたのである。


悪役だけれど   完


                   2013・5・2 
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