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隅々に眠る

作者:眼蝋
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隅々に眠る


1-1

 走るタクシーは揺れる。
 時折道路にできた大小のある起伏をいくつも乗り越えては大きく揺れる。
 ただそれはなんというか、とても外側の話で。内側における揺れはあまりないように思う。それはきっと――いや間違いなく――この窮屈さにあるに決まっているんだけど。
「おい姫希(ひめき)。そんなに変なところばかり触るんじゃねえよ」
「事実無根だ。オレはそんな変なところを触っちゃいない」
「よく言うぜ。このラッキースケベ」
「仮にそうだとして、それをお前が言うもんじゃねえんだよ。お前はラッキースケベの被害に会う側なんだから」
「あたしは別にいいんだぜ? 姫希に些細な幸福プレゼントってな。へへっ。サンタクロースにはまだ早いか」
 狭い後部座席にはオレを入れて三人の人間が窮屈にまとまっている。
 その内の一人、オレから見て左にいる女が分母(ぶんぼ)。大小分母(だいしょう ぶんぼ)。
 変わった名前だと思うよ。
 そう言うと決まって嫌な返しをされるから言わないんだけど。
「ねえ姫希。本当に分母にいやらしいことをしたの? 私が隣にいるのに」
「してない。断言する。葉(よう)は良い子だからオレを信用するだろ?」
「良い子って言い方は好きじゃないわ。私はもう十歳よ? そんな子供じゃないの」
「あっはっは! 笑わせるな葉! お前なんて十歳にしてもガキっぽい風体じゃないか」
「そりゃあババアから見ればそうに決まってる」
「ババア!? おい葉! 今お前ババアって言ったのか!」
「ほら、もう耳がババアじゃない。やーいババア。この若さが恐ろしいのかしら。恨めしいのかしら。ああいやだ。老女の僻みほど醜い物ってないわ」
「うるせえなちんちくりん! あたしがババアならお前は一生あたしや姫希と同じレベルにはこれねえんだろうよ。そうやって置いてかれるんだばーか! あたしは姫希と一緒に上からお前を見下ろしてるからな!」
「姫希!」
「なんでオレだよ!?」
「分母はババアでしょ!?」
「葉はクソガキだ! なあ!?」
「どっちもクソガキだろ……」
 左。幼女。
 本名は瑞菜葉(みずな よう)。
 オレと分母からすれば随分といい名前だと思う。とっても瑞々しくて、それに――兎に角、とってもいい名前なんだ。
「でもなあ葉。分母がババアならオレはジジイだぜ。それは間違いない」
「姫希はいいの!」
「どうして。そうはならないよ。オレは分母と一緒に、老人同士仲良くやるさ」
「イエア! 子供はなんて名前がいい?」
「武だな。男らしい名前がいい」
「ダメーっ! ダメダメダメ! 二人は結婚なんてしないのよ! ダメなんだから!」
「ははっ。そんなにダメならしょうがないな」
「ダメじゃない! ダメじゃねえぞ姫希!」
「頼むから十歳に張り合わないでくれよ分母。収集がつかない……」
 このタクシーに乗り込んでから経過した時間を考えてみれば、もう到着していてもいい頃合だった。
 ただ進行具合から考え直してみると、それは少し難しいように思える。
 ともかく混んでいたのさ。道路が。
 急ぎの用事ではないのが幸いで、あとは両脇に控えるこのふたりの人間の、軟弱で脆弱な辛抱がどれだけ持つかという問題になってくるだけ。それだけだった。
「遅くねえ? おいおっさん。いつまで走ってんだよ。金を稼ごうと思ってズルしてもあたしの目はごまかせねえぞ。おお?」
「や、やめろ。運転手さんに絡むんじゃない。あと、そんなにお前の目がすごいならこの状況がわかるんじゃないのか? 道路を見てみろよ」
「うおあ。すげえ混んでる」
「ぷぷっ。節穴をどうやって誤魔化せって言うのよ。バッカみたい」
「あのなあ葉。一々あたしに絡むのはいいけど、後悔すんのはお前なんだぜ? 家に帰って、お前のケツが今より百倍も膨らむほど殴ってやるからな。覚悟しておけよ」
「嫌! 幼女のお尻を殴るなんて、腐ってるよ!」
「こんな時ばっかり幼女面かお前は!」
「なあ分母」
「なんだよ姫希。お前も葉のケツをぶん殴りてえの?」
「そうじゃない。そうじゃなくて、このタクシー代のことだけど。払うのはオレ達じゃないんだ。だからそんなに怒ることもない」
「ええ? タダ!?」
 バックミラーに写った運転手の顔がぎょっとしてオレと目が合う。
 参った。
 そんなつもりで言ったわけじゃないんだが。
「そうじゃない。そうじゃなくて、依頼主さんが代わりに払ってくれるんだと。受け渡し前の電話でそう言ってた」
「すごいわ。なんて太っ腹なのかしらね」
「いや、依頼主はほら、どっかの社長だっただろ。なあ姫希」
「そうだな。言い方が悪いけど、相当金を持っているように見えた」
「すごい車だったものね。一体いくらほど報酬をもらえるのかしら」
「五十万だな! 多分!」
「分母ったらスケールが小さい。二百万よ」
「はいはい、そういういやらしい勘定は各自心の中で勝手にやってくれ。一緒にいるオレの身分まで疑われる」
 やがてタクシーは予定を随分と超過したものの目的地へと到着。
 広い玄関の大きな自動ドアを超えた先には警備員が立っていて、当然のようにオレ達は声をかけられる。
 十歳の少女を連れた男と女がなんの用だと、訝しい目で見られても仕方がないと思う。
「十時に来る予定だった嬢宮(じょうのみや)なんですけど。学長からお話を伺っていませんか」
「ああ、嬢宮様。ええと…………少々お待ちくださいね」
 警備員服を着た老獪な男は葉をまじまじと見つめたあと、窓口の後ろへと下がっていった。
「嫌な感じだわ。私がいくら可愛いからって、あんなふうにまじまじと見つめた挙句、カメラを取りに行かなくてもいいのに」
「アホかよ。てめえがあまりにもガキっぽすぎるから慌てて確認してんだ」
「本当? 姫希」
「きっと本当。葉のような小さい子が入るような施設じゃないからな、ここ。ましてやそいつが学長への来客を名乗れば、不審も不審だろ」
 ここは大学だった。
 地方都市に根付くことを第一に考えていて、研究内容や取り組みもそういったものが多いと、いつかに出会ったとき、そう説明していた気がする。
 葉は眠っちゃうし、分母はトイレって言って一時間は戻ってこなかったな。
 こいつらって、気遣うって心を知らないんだから。
 それと、葉と分母のような世間知らずには、大学の学長と企業の社長とは違わないらしい。
 頭が痛いよ。
 分母はともかく、葉はモノを知らないといけないのに。
「すみません。お伺いしていた通りでした。どうぞ。学長室は総務課の上、三階にあります。案内を?」
「いいえ、大丈夫ですよ。どうも」
 許可証を三人分もらい、首から下げたところで、自動ドアをくぐった。
「あれ、葉がいねえ」
「はあ?」
 振り返ると、葉は警備員室の窓口によじ登っている。
 懸垂をするにしては低すぎるし、彼女の今の可愛らしいワンピースはそもそも運動に向いていないだろう。
「あ、あのねえ!」
「何かな、お嬢ちゃん」
「それ! それをやめなさい! 私は立派なあの二人の同業者なの!」
「はあ? しかし――うっ!?」
「あ、おいこら! どうもすみません! 何やってんだ葉!」
「だって……」
「あははは! やってやった! いいぞ葉! 警備員のど頭に一発くれてやるなんて、お前も中々男気あるじゃねえか! あっはっはっは!」
「葉も分母も男じゃねえだろ!」
 いじらしくよじ登った葉は、荒々しく警備員の頭を小さな拳で殴りつけたのだった。
 普通ならここでつまみ出されていてもおかしくない。
 子供扱いされて怒るようならまだ子供なんだと、常々言っているんだけどなあ。教育って難しい。
「さて、学長室はどこかな」
「案内いらねえって言ったくせに、姫希わかんねえのかよ」
「三人で迷ったほうがアミューズメントっぽくて楽しいだろ。特に葉には、こういう貴重な経験はしてほしいしさ」
「どうして?」
「お前が可愛いからだよ。葉」
「えへへ……」
 はにかむ少女の手を握ってやった。
 小さくて、すべすべしていた。
 この少女には学がない。とある事情で義務教育もこなせていないからだ。
 それでも彼女は生きていかなくてはいけないし、いつまでもこんな生活が続くとも思えない。続けていいとも、思ってない。
 だからせめて、学校に行ってるやつの何倍もの貴重な経験をさせてやりたいと望むんだ。それはきっとオレの勝手な節介なんだろうけど。
「むう。あたしは可愛くねえのか? 姫希」
「葉と張り合うなよ。可愛いか可愛くないかって議論の上で、幼いってのは大きんだぞ」
「けっ。姫希はただのロリコンかよ」
「違う! オレはロリコンじゃないぞ!」
「分母、ロリコンって何?」
「ああん? お前みたいなガキ相手に興奮する変態のことさ」
「姫希、変態なの?」
「断じて違う!」
 案内図をスルーして階段を上っていくと、目がくらむほど長い廊下に出る。
 成程二階は教室などが並んでいるらしく、その数は計り知れないくらいのものだ。
 もし仮に、オレが大学に進んでいればこの教室の配置を無意識的に覚えるくらい通い詰めることになっていたんだろうか。
 それってきっとすごいことだけど。
「もう一個上だな。総務課の上って言ってたろ。ちょうどあそこに総務課って書いてある」
「本当だ。よくあんな難しい漢字読めるね、分母。そうむかって読むんだ、あれ」
「へっへ。あたしはこれでも高学歴だからな!」
「ねえ姫希。分母が高学歴って言葉の意味をわかってないわよ。教えて頂戴」
「嫌だよ。葉から教えてやってくれ」
「お、おい! そういう反応って本当に傷つくからやめろよ!」
「そうだったな。分母って意外と内面は女の子らしいから」
「褒められてんのか? それ……」
「男らしいって言われて喜んじゃったら、それはそれでやばいんだよ? 分母」
「うおー……、こんなちんちくりんに女を説かれた……」
「はは。女としては葉の方が上手だったのかもな」
 さらにもうひとつ階段を行く僕ら。
 そこまで長いものではないはずなのに、度々人間とすれ違う。
 格好からすると学生のようだった。案の定、向けられる視線は心地いいものでない。
「ここかな。学長室って書いてある」
「本当だ。よし、じゃあ入るか。こんちはー」
「お、おい――」
 止めようと思ったときにはすでに遅い。
 物事は気づいていから対処するようじゃ全く遅いんだってこと、忘れていたみたいだ。
 いや、忘れていたのは分母の礼儀のなさか。
 ノックの一つも知らない馬鹿じゃないはずだけど、ここでそれを行おうという意識が出てこないんだから、結局それもいらない知識に過ぎない。
「やあどうも。忘却下宿の方々ですね。今日はわざわざと遠くからお越しいただいて、本当にありがとうございます」
 出迎えてくれたのは真っ白な頭をした初老の男性だった。
 以前にオレ達の職場であり、住処である忘却下宿を訪ね、そうして忘れ物を見つけた人間。
 濃く刻まれたしわを豊かに変化させながら笑顔を浮かべるあたり、あの経験を受け入れるのに障害はなかったようだった。
「今日は。今日は報酬のお話と、それから忘れ物について、最後のお仕事を完了しに参りました。電話で先日に説明したとおりなんですけど、よろしいですか」
「ええ、それはもちろん。それで、ええと、何をするのでしたかな」
「いえ、そんなに大げさなことじゃないんです。ただ、僕達が担当する忘れ物というのは特別なシロモノで。あなたの人生から捨てられたあの忘れ物の存在を知っただけでは、思い出したことにはならないんです。忘れ物自体が象徴化した、僕らがオブジェクトと呼んでいるものを、適応していただかないと」
「簡単に言えばよ、おっさん。あんたは今、忘れ物をしているってことに気がついている状態で、それを取り戻してる状態にはねえってこと。大事なのは、この適応の瞬間なのさ」
「成程。流石についていきかねる話ではありますが、いえ、疑いません。この身で体験したことをどうして疑いましょう。あれだけ自分を嫌悪した経験も、あれが初めてなもので」
「大丈夫だわ」
 葉は、何食わぬ態度でつぶやくように返す。
 その口ぶりはとても無機質で、こんな日常に生きている人間らしく、異常に見えた。
 オレが言える身分ではないのだけど。
「誰だってそんなものだもの。邪魔なものは切って捨てるの。そして切って捨てたことも忘れる。自分勝手な保身の結果。人間なんて、所詮そんなもの。邪魔なら捨てるの。現実も、思い出も、縁も、そして実の子供であっても――」
 オレ達はそんな風に捨てられたものを取り扱う仕事。
 明確な呼び名はない。
 ただとある下宿に非常に依存した仕事であるから、通称として、忘却下宿、だなんて呼ばれているだけなんだ。
 仕事の内容は、一口では決して言い難い。
1-2

「仕事の話をしましょうか。最後の、仕上げについて」
 学長に導かれた先の柔らかなソファーに腰をかけたオレは、出された飲み物には一切手をつけずに正面に座る彼のみを見つめる。
 緊張感がないといえば嘘になるかもしれない。
 今目の前に座る彼は、間違いなくオレよりも多くのことを知っているだろうし、そういった過去は往々にして人間を大きくするものだ。
 だから、現状において下手な余裕は意味がないと思うわけだ。
 こんなもの、直ぐに話をつけて金をもらって、はいさよならが一番いいに決まっている。
 偉そうな人間も、事実偉い人間も、オレは好きじゃないのさ。
「葉、出すんだ」
「うん」
 彼女の小さなポーチから取り出されたのは、真っ黒なカメラだった。
 こ汚い安物に見えたとしても、彼にとってはとても大事なはずの一品である。
「以前忘却下宿の方で、忘れ物は見つけましたね。その正体も、見届けさせてただきましたし」
「ええ。私は辛い過去と一緒に大事な友人の存在を、忘れていたのです。全く情けない」
「そんなものです。僕らが取り扱うような特殊な忘れ物は、忘れていることすら忘れてしまうから特殊なのですから」
「だからこそ、あたしらが必要なんだけどな」
「しかし、不思議なものですな。喪失感と共に奇妙な鍵を拾ったと思ったら、あなたがたの話を聞いて、ここまで。運命とでも言いましょうか」
「どうでしょう。そのあたりは、僕らもよくわかっていないもので。ただ忘れ物というのは誰しもしているものですからね。あなたのように、偶然僕らが近くにいて、こうして思い出せることなんて本当に稀なんです」
「でしょうな。周囲が知っていることと自分が知っていることとにずれを感じるというのは、よくある話です。それがもしかしたら大事な大事な忘れ物の足がかりかもしれないのに、それすら忘れている」
「仕方ありませんよ。人間、何でも受け入れられるほど強くはないんですから」
 ひょっとしたら、オレ達は何も受け入れられないのかもしれない。
 そう思ってしまうほどにオレ達はとても弱くて、貧弱で脆弱で惰弱で。
 おそろしいほどに弱々しい。
 他人を見ていればそれがどんなに分かることか。
 最も恐ろしいのが、他人からでなければそれが学べないことにあるのだけど。
「私をここまで導いてくれた友人が死に、きっと周囲は私を気にしたはずなのです。だけど私はどうして、彼のことをすっかりとなかったことしていた。今考えれば恐ろしいですよ。親や友人が、私の親友が死んだと知らせたはずなのに、それに対して私がどう返したかを考えると」
「記憶の修正って言います。そういうのは」
「修正?」
「ええ。忘れ物に合わせて、記憶を欠落させるんです。それが修正。周囲に軋轢が生じますが、それだって、知らなければ無かったということですからね」
「なんと……。では私も?」
「さあ? それはオブジェクトを、適応してみてから、あなたが思い出すことです。記憶の修正を無効化して、全部を知るんです。覚悟がいりますよ」
「ああ。なんたってあんたの親友はあんたのせいでくたばったのに、あんたは葬式にも、病院にも顔を出さず、知らず、聞かずの耳なし目なし状態で何十年も生きてきたってんだからな。あたしが親友なら恨むぜ。あんたをな。恨んで、呪う」
「おい分母!」
「あんだよ。間違ってないぜ」
「余計なお世話だって言ってるんだ。そんなの、この人なら全部分ってらっしゃるんだから」
「……ふふ。中々、はっきり言われると辛いものがありますね」
「どうもすみません。このバカが」
「彼には、それくらい直接的に罵ってくれた方が良かったと……。呪ってくれた方が、ありがたいです。それほどのことをしましたからね……。いや、してるんでしょうから」
 高級そうに黒光りするテーブルに、カメラを置く。
 レンズは割れていて、本体には汚れが目立っている。
「いいですか。これを適応すれば、あなたの記憶の修正は解かれます。ですが、適応しなければ、それはない。嫌な言い方をすれば、忘れ物から逃げることもできるんです。あなたがそれを選択しても、僕は全く軽蔑もしません」
「どうして」
「……お気持ちは、わかりますから」
「……お互い、大変ですな」
「いえ……」
 オレには、軽蔑する資格がない。
 それはオレ自身、現在まで、逃げ続けている脱兎のような男だからだ。
 逃げて逃げて、いつでも死ねるだなんていうおかしな状況を作った張本人が、この嬢宮姫希という男なんだ。
 葉が必要としてくれている。
 分母が引き止めてくれる。
 それだって、時折、逃げ口上にしか思えなくなる時がある。そんな晩は、決まって切ない一日の最後に、シーツにくるまったあたりで訪れるんだ。
 生きた心地がしないよ。この時ばかりはね。
「――大学の時、ジャーナリズムに真の正義があると思ったわけではありませんでした」
「あんの話だよ。葉のヤツ半分寝かけてるぞ」
「いいから。どうぞ、続けてください」
「ええ。ありがとう」
 にっこりと笑った年老いた顔面に伝った涙を、見ないふりをして話に聞き入った。
 それは確かにオレ達が既に経験した話ではあったけど、本人の口から改めて聞くというのには新しい何かが眠っている気がする。
「ですから、このオブジェクトとやらを適応してみなくてはわかりません。あの日あの時、なぜ彼とあそこにいたのか」
「中東でしょうか。どこかの部族の集落を訪れていたようでしたが」
「……別の友人から、航空機のチケットを見せられてなにやら叱られた覚えがあります。きっと、その時のことを言っていたんでしょう。それでも私には記憶の修正が……かかっていて」
「今もだろ、おっさん。全部思い出すのはそのカメラを適応してからだ。逃げるのか。受け入れるのか。はっきりしな」
「……私の記憶には、こんなカメラはない。きっと、友人のカメラなんでしょう」
 カメラを手に取り、優しく一度撫で、オレの目を見た彼の双眸には、強い意思が感じられる。
 これが年の功なんだろうかな。
 おそろしく芯の強うそうな、覚悟を決めた男の目なんだと思う。
「葉。おい、葉。仕事だぞ。カメラを適応してくれ」
「ううん……? 何、結局適応するの?」
「お願いするよ、お嬢ちゃん」
「むう。お嬢ちゃんって言わないで頂戴! 私はこの二人と同じなの! 同列なのよ!」
「葉。早くするんだ」
「姫希が冷たい……」
 わかったわよ――と続けて、葉は立ち上がる。
 カメラを手に取り、そのまま学長の隣へと座ってから一度だけ髪を整えた。長くて綺麗な黒の髪だ。
 一体なんだって言うんだよ。
「何も。何も考えなくていいの。ただじいっと無心でいてほしいわ。そうすれば、沈んでいくもの」
「沈む、とは?」
「いいから黙ってな。うちの葉が今からやってみせる」
 口が悪いなあ。
 相手は報酬をくれる、いわば客だというのに。
オレのそんな考え方も失礼ではあるんだけど。
「……むう。まだまだ。もっと集中しなさい。じゃないと適応できないわ」
「は、はあ」
 どうやら葉は意外に手こずっているようだった。オブジェクトの適応が葉しかできないので、その感覚は全くわからないのだが、いつもはもっとスムーズにこなしていなかったか。
 そんな風にして見ていると、ようやく葉の小さな両手に握られたカメラが学長の胸の中へと侵入し始めていた。
 物理的におかしな状況が起きていることは、物理が苦手なオレにもわかる。
 衣服に穴を開けず、肉や骨をくだいて突き破っているわけでもない。だのにカメラは、沈んでいく。
 忘れ物が、彼の体に戻っていく瞬間だ。
「――はい、終わり。終わったわ。完了。完遂したの」
「へえ。完遂だなんて言葉、どこで覚えてきたんだ? 葉」
「この前姫希が貸してくれた本よ。これでも随分と漢字を覚えたほうだわ。でしょう?」
「そうだなあ。葉は頭もいいし努力家だから、きっと天才になるな」
 恥ずかしそうにはみかみながら、葉はオレの隣へと戻ってきた。心なしか距離が近いのは、褒めろということなんだろう。
 仕事中だから無視だけどな。
 体すり寄せてんじゃねえっての。
「記憶の適応にはしばらく時間がかかります。ゆっくり、ゆっくり咀嚼して理解して、適応していってください。誰も、急かしたりはしません」
 
 一応、これで仕事は終わり。
 依頼主が鍵と喪失感と、あと知りたいという願いと持って忘却下宿を終えてから、こうして忘れ物が具現化した姿――オブジェクト――を適応して、最後に報酬を要求する。
 無理強いはしないけど、断られたことはなかった。
 それだけ大事なものを取り出したんだろう。
 オレ達が忘れ物の正体を見つける方法は少し特殊で(これまでも十分特殊ではあったけど)、少しだけ、その忘れ物に関わる記憶を覗くことになる。
 つぶった目から涙をこぼす目の前の男性と共に見た記憶の断片では、どうやら友人と訪れたらしい外国が見えたのだが、そこで起きた凄惨な出来事というのが、彼を学長にし、そして修正されたのだった。
 その出来事というのがなんなのかは、まあ、どうでもいいんだろう。
 少なくとも、部外者であるオレ達がどうこう言う話ではないさ。
 キーワードは――
 ――中東。
 ――正義。
 ――ジャーナリズム。
 ――部族。
 ――カメラ。
 葉の教育にはどれも必要ではあるけど、あれだけ凄惨な暗い部分は、まだ先に教えるほうがいいんだろうなあ。
 
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