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ドン=カルロ

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第一幕その一


第一幕その一

                 第一幕 フォンテブローの森
 フランスの冬は寒い。雪が世界を覆い狼の咆哮が聞こえてくる。夜は長く太陽が顔を出す時間は短い。その中でも森は特に寒い場所であった。
 遠くに宮殿が見える。宮殿といっても城の大きいものである。この時フランスはようやく文化や文明というものについて微かに知った時である。
 その中で樵達は木を束ねている。そしてそれを着飾った人々に差し出している。
「ご苦労」
 その中の一人が言った。そして彼等に金貨を手渡す。
「もっと多く」
 その中心にいる一際みやびやかな服に身を包んだ貴婦人が言った。
「ハッ」
 先程樵に金貨を手渡した女はさらに多くの金貨を渡した。樵達はホクホクした顔でその場を立ち去った。
 見れば中央にいるその女性は驚く程の美貌を持っている。金色の黄金をそのまま溶かしたような髪に湖の様に澄んだ蒼い瞳をしている。やや細長いその顔は雪の様に白く鼻は高い。そして長身をその豪奢なドレスで覆っている。
 彼女達もその場をあとにした。それを木の陰から見る者がいた。
「あれがエリザベッタ=ド=ヴァロアか」
 それは一人の線の細い青年であった。
 背はあまり高くはない。赤い絹の服とズボンに身を包んでいるがそこからも華奢な身体つきがわかる。背こそそんなに低くはないがその身体つきが彼を実際よりも小柄に見せている。
 その白い顔もやはり細い。黒い瞳の光も強くはなくどこか青白い。細く黒い髪も豊かだが何処かまとまりを欠いている。
 ヴァロア家とは当時のフランス王家である。欧州においてはハプスブルグ家と並ぶ名門であり長い間不倶戴天の間柄にあった。これは家同士の関係もあったがフランスとドイツ、スペインの宿命とも言える対立が根源にあった。
 欧州の歴史は戦乱と権謀術数の歴史でもあるがその中でもハプスブルグ家とこのヴァロア家、そして後のブルボン家の役割は非常に大きいものであった。彼等はことあるごとに対立し常にいがみあってきた。そしてそこにイギリスや他の国が入ってくるといったものであった。当時のイギリスもまだイングランドという小国に過ぎなかった。欧州の覇の主役はこのハプスブルグ家とヴァロア家であった。
 だがそれでも時には周囲の状況の必然性から手を組むこともあった。そうした場合のハプスブルグ家の得意とする方法は婚姻政策であった。
『戦争は他の者にやらせておけ。幸運なるハプスブルグ、汝は結婚せよ』
 こうした言葉がある。ハプスブルグ家は婚姻により勢力を拡げていった家である。
 彼等の特徴は言語に巧みで外交センスに恵まれていたこと、そして非常に長寿の人物が多かったことである。彼等は生きることにより勢力を伸ばし子をもうけていったのだ。これは後々まで続きオーストリアの偉大なる女帝マリア=テレジアの頃にもあった。
 そして彼等の血筋は遺伝が非常に強かった。少なくとも片方の親ははっきりとわかる程であった。
 鷲鼻で丸い瞳をし面長。そして唇は厚く下顎が出ている。これは後にロココの女王マリー=アントワネットにまで受け継がれる。恐るべき遺伝であった。
 それはこの若者にも見られた。やはり瞳は丸く面長で鼻は高い。そして唇は厚く下顎が出ている。彼の名はドン=カルロ、スペイン王フェリペ二世の嫡子である。
 彼の母はポルトガル王女マリア=マヌエラであった。彼女の母はフェリペ二世の父カール五世の妹であった。すなわち従兄妹同士の結婚であった。これは政略結婚の多い欧州ではよくあったことである。
 だがこの母親は若くして亡くなった。次に父が結婚したのはイングランドの女王メアリー一世である。
 彼女はまたの名を『ブラッディ=メアリー』という。我が国の言葉に直すと『血塗れのメアリー』となる。何とも物騒な通り名であるが実際に彼女は多くの者を殺した。宗教の名においてだ。
 彼女は狂信的なカトリックの信者であった。そして新教徒と見ると片っ端から拷問にかけ火炙りにしたのである。遂には腹違いの妹エリザベス、後の処女王エリザベス一世までその手にかけようとした。
 これを夫であるフェリペ二世は快く思わなかった。彼もまた熱心なカトリックの信者であったが国王としての分はわきまえていた。彼は度を過ぎた弾圧は好ましくないことをよくわかっていたのである。 
 この時代からフェリペ二世の評判は今一つ芳しくはなかった。
『ピレネーの南には魔物が棲む』
 これは当然フェリペ二世のことを言っているのである。しかし実際の彼は確かに弾圧こそすれ度を過ぎたことは好まなかった。それどころかドイツにいる同門の者達の行き過ぎた惨たらしい所業に対し眉を顰めていた。
 元々彼の本拠地であるスペインは圧倒的多数がカトリックの信者であった。カトリックの膝元であるイタリア諸国やフランスよりもその割合は多かった。
 その為新教徒の存在はあまり気にならなかった。ネーデルランドは別にしてもだ。彼は植民地の統治もそれ程惨たらしくはなかった。少なくとも後年のイギリスやフランスの統治よりは遥かにましであった。といっても我が国のように学校を建てたりインフラを整備してその地の文化を教えようという発想はなかったが。これは植民地統治としては根本から間違っているがここでは多くは語らないことにしよう。
 彼は少なくとも分別を知る統治者であった。その為緩めるべきところも締めるべきところもわきまえていた。そして国内の何事に関しても目を向け耳を傾けてきた。そうした人物であった。
 
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