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ボリス=ゴドゥノフ

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第二幕その一


第二幕その一

                     第二幕 暗転
 ある修道院でのことである。真夜中に一人の年老いた僧侶が蝋燭の暗い灯りを前に一人何かを書き表していた。
「ふう」
 彼はふと顔を上げて一息ついた。
「あと少しだな」
 そう言ってふと微笑んだ。
「私の年代記が書き終わるのは」
 ロシアでは十一世紀から一つの習慣があった。修道僧が年代記という歴史について書かれた記録を書き、社会や為政者のことを後世に伝える習慣があったのである。これはロシアについて調べるうえで非常に貴重なものであり、修道僧達の功績の一つである。
 だがそれは少し前に途絶えていた。正確に言うならば途絶えさせられていた。これは他ならぬイワン雷帝が命じたものであった。
 彼の時代は粛清や弾圧、陰謀が相次いだ。彼の母も最初の皇后もこれで死んだ。そしてこれを後世に知られることを嫌った彼が年代記を書くことを禁じたのである。これはボリスの時代にも続いていた。だが彼は後世の為にそれをあえて破って書いていたのである。
「何時かは私の書いたことが陽の目を見るだろう。そしてその時にこの時代に何があったのか知ってくれる。私はそれで満足だ」
 彼は頬笑みを讃えたまま言った。そしてまた筆を手にした。
「もう少しだ。書いていくか。おや」
 ここで彼の若い弟子がやって来るのが見えた。彼はそちらに顔を向けた。
「グリゴーリィ」
「先生」
 グリゴーリィと呼ばれた若い僧侶はそれに応えて顔を向けた。赤茶色の髪を持った青年である。端整な顔だが鼻の上に特徴的なイボが一つある。そして左手は右手よりも少し短かった。その彼がゆっくりと歩いて来たのである。
「目が覚めたようだな」
「少し悪い夢を見まして」
 穏やかな笑顔の老人とは違い彼は苦笑いで返した。
「そうか」
 老人はそれ以上聞こうとはしなかった。だが彼は考えに入った。
(何故なんだ)
 彼は疑問に思っていた。
(同じ夢ばかり三度も続けて。おかしなことだ)
「ところでだ」
「はい」
 だがここで老人は声をかけてきた。やはり穏やかな笑みを讃えている。
「御前は文字が得意だったな」
「はい」
 彼は答えた。
「貴方が教えてくれたおかげです、ピーメン先生」
「ははは、私のことはいい」
 だが彼は自分の功績を誇ろうとはしなかった。
「私はこうしてここで静かに身を沈めているだけだからな」
「いえ、それは」
「ほんのしがない老人が。御前の様な前途ある若者を弟子にできる。嬉しいことだ」
「有り難うございます」
 褒められて思わず言葉が出た。
「私の様な者に」
「ところでどんな夢だったのだ?」
 ピーメンはグレゴーリィに尋ねてきた。
「私は階段を昇っていました」
 彼は師に言われ夢の説明をはじめた。
「急な階段を。そして塔の上に昇っていました」
「ふむ」
 ピーメンはそれを聞きながら思索に入った。
「そこからモスクワを見下ろすのです。ですが」
 ここで声が震えた。
「下の広場にいる民衆が私を笑うのです」
「笑う」
「はい、嘲笑うのです。それに心を砕かれた私は塔から落ち、そして・・・・・・」
 なおも言った。
「そこで目が覚めるのです。これは一体どういうことでしょうか」
「若い血が騒いでいるのだな」
 ピーメンは話を聞き終えてこう言った。そしてグリゴーリィを温かい目で見た。
「わしもかってはそうだった」
「先生も」
「うむ、かつては酒宴や戦場に身を置いたものだ。若い愚かな日々の話じゃ」
「そんなことがあったのですか」
 グリゴーリィはそれを聞いて心を熱くさせた。
「カザンやリトアニアで戦い、そしてあの雷帝の巨大な宮殿を御覧になられたのですね」
「うむ、かってはな」
 彼は答えた。
「素晴らしい。それに対して私は幼い頃より僧房におります」
「それでよいのだ」
 だが師はここで弟子を宥めてきた。
「よいのですか」
「そうだ。罪深き俗世を若いうちに捨てたことはよいことなのだ。豪奢な生活や女共の甘い声はこの世の真実ではないのだ」
「真実ではない」
「左様、皇帝といえどその黄金色の服の下は我々と変わりはしない。同じ人間だ」
「同じなのですか」
「かつてここに皇帝が来られたことがある」
「皇帝が」
 その答えはまたかなり衝撃的なものであった。その皇帝とは。
「イワン雷帝がな」
「何と」
 グリゴーリィはそれを聞いて驚きを隠せなかった。雷帝が修道院を尋ねて来るなど。彼には想像もできなかったことであった。
「あの方は悩んでおられた」
「雷帝がですか」
「そうじゃ。穏やかな言葉を述べられ悔恨の涙を流しておられた。声を立てて啼いておられたな」
「まさかその様な」
 信じられない話であった。だがそれ以上に彼はピーメンが嘘をつくような者ではないことを知っていた。だからこそその言葉が現実のものとは思えなかったのだ。
「次のフェオードル陛下は宮殿をそのまま祈祷庵に変えられてしまった」
「それは聞いたことがあります」
 彼は病弱で信心深い皇帝であった。だからこそそうしたのであった。
「その最後も立派であった。宮殿は芳しい香りに包まれてな」
「それを今まで書いておられたのですね」
「内緒じゃがな」
 彼は微笑みながらそれに応えた。
「清らかな顔でな。天に旅立たれた」
「まことによい話です」
「今に比べれば。少し前の話だというのにもう遠い昔のことじゃ」
「確かに遠い昔の話の様ですね」
 グレゴーリィは答えた。
「今の時代は。何処か暗いです」
「その理由もわかっている」
 ピーメンはここで暗い顔になった。
「わしは知っておるのじゃ」
「何をでしょうか」
「ディミトーリィ殿下のことをな」
「あれは病死だったのではないのですか?」
 グレゴーリィはそう述べてきた。
「確か。何かの発作だったかと」
「うむ、その通りじゃ」
 ピーメンはそれを認めた。
「わしはその場におったからな。よく知っておる」
「そうだったのですか」
「急に引き付けを起こされて。そして馬車から落ちられたのじゃ」
「事故死だったのですね」
 それを問うと。
 
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