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ボリス=ゴドゥノフ

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第五幕その四


第五幕その四

「陛下の御声だ」
「うむ」
 貴族達はそれを聞いて頷く。
「寄るな、幼な子よ!」
 ボリスは叫んでいた。まるで何かに怯えるかの様に。貴族達はそれを聞いていよいよ覚悟を決めようとしていた。
「終わりか」
 彼等は呟く。そしてそこにボリスがやって来た。
 寝巻のままである。髪も髭も乱れその顔は憔悴しきっていた。目はくぼみ、光だけが無気味に放たれていた。だがその光は普通の光ではなかった。爛々と輝き、そして視点が定まっていなかった。明らかに狂気の見られる目であった。
「わしではない!」
 彼はまだ叫んでいた。
「御前を殺したのはわしではないのだ!あれは事故だった。いや・・・・・・」
 ボリスはもう自分で何を言っているのかわかっていなかった。
「わしが殺したのか・・・・・・。だから今ここに」
「終わりだ」
 貴族達は錯乱するボリスを見て絶望に沈んだ。
「ロシアはもう」
「陛下」
 だがシュイスキーだけは違った。彼は恭しくボリスの前に来ると声をかけてきた。
「!?」
「ようこそおいで下さいました」
「その声はシュイスキー公爵か」
「はい」
 彼は答えた。
「陛下の御前に」
「何用でか」
 ボリスは次第に落ち着きを取り戻してきていた。
「今回の騒動の対処についてです」
「うむ、それであったか」
 ボリスは平常に戻っていた。だがやつれた顔にはまだ不吉なものが漂っていた。貴族達はそれに気付いていたがここは黙っていた。
「では卿等に話を聞きたい」
「はい」
 侍従達がボリスに皇帝の衣を着せる。彼はそれを着てから威厳を正して貴族達と向かい合った。シュイスキーはその間に自分の場所に戻っていた。
「偽の皇子の件に関して知恵を借りたいのだが」
「陛下、その前に」 
 またシュイスキーが前に出て来た。
「どうした」
「陛下にお目通りを願う者がいるのですが」
「誰だ?」
「修道僧でございます。陛下にお話したいことがあるとのことです」
 そうボリスに述べた。
「修道僧か」
「どうされますか?」
「会おう」
 彼は言った。
「何か気になる。ここに呼んで参れ」
「畏まりました。では」
 シュイスキーはそれを受けて一旦部屋を後にした。そして暫くして一人の年老いた修道僧を連れて来た。それはピーメンであった。かつてグレゴーリィに神の道を教えていたあの修道僧である。
「そなたか」
「はい」
 ピーメンはボリスの前に跪き応えた。
「陛下にお話したことがあって参りました」
「それは聞いている。してその話とは」
「はい」
 ピーメンは一呼吸置いてから述べた。
「奇跡の話でして」
「奇跡か」
「左様で。私はこの前一人の年老いた羊飼いと出会いました」
「羊飼いとか」
「その羊飼いは赤ん坊の頃に失明したそうで。長い間それで苦しんでいたと私に話しました」
「ふむ」
 ボリスはその話に興味を持った。そして静かに聞いていた。
「長い間暗闇の中にいて。夢でさえも暗闇であったそうです」
 これは当然のことであった。見るものが映るのが夢である。それがなくては夢も現われないのは道理であった。
「しかしある時突然見たこともない子供が夢の中に出て来たそうです」
「それが奇跡か」
「いえ、まだです」
 ピーメンは答えた。
「その子供が彼に言ったそうです。ウーグリチのプレオヴラジェーニエ大聖堂で祈るといいと」
「ウーグリチの」
 それを聞いたボリスの顔が不吉に動いた。
「はい。そこでディミートリィ皇子の墓の前で祈ると。目が見えるようになると」
「何ということだ」
 ボリスはそれを聞いて色を失った。
「して」
 ピーメンにさらに話すように急かす。また先程の様に狼狽が見られてきた。
「その子供はさらに言ったそうです。自分は天使になったから奇跡を起こせるようになったのだと」
「ふむ」
 ロシア正教では聖人と天使が混同されている部分がある。その為その天使もまた奇跡を容易に起こせるのである。これはロシアに元からあった土着の信仰も影響している。
「そして言われるままにそこに行き、祈ると」
「見えるようになったのだな」
「左様です。以上で私の話は終わります」
 そこまで言うと彼は立ち去った。ボリスは彼が去った後でいよいよ心の均衡を乱しはじめていた。
「わしのせいだ」
 彼は呟いた。
「わしが殺したからだ。そしてそれで皇子は天使に」
「お待ち下さい」
 貴族達が彼を制止する。
「では今ポーランドに来ているのは偽者なのですね?」
「皇子が亡くなられているのなら」
「いや、あれは皇子だ」
 ボリスはうなされたように呟く。
「生きているのだ。だから今こうして」
「陛下」
 最早貴族達の言葉は耳には入らなかった。
「わしが殺して、その恨みを晴らし、そして天使に・・・・・・。わしは罪を犯した」
「あれは事故です!」
「陛下は何も」
「事故か?果たしてそうなのか?」
 ボリスは誰に問うということもなくまた呟いた。
 
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