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ボリス=ゴドゥノフ

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第一幕その一


第一幕その一

                   第一幕 即位
 寒い時代だった。雪だけでなく全てが凍っていた。国も人も。何もかもが凍っていた。そんな時代だった。
 イワン雷帝が死にその次男であるフェオードルが即位した。だが病弱な彼は補佐役であり事実上の支配者である摂政達にその殆どを任せざるを得なかった。その中に一人の男がいた。
 ボリス=ゴドゥノフ。彼は純粋なロシア人ではなかった。そのルーツを東のタタールに持つロシアにおいては決して大きくはない家の貴族であった。
 だが彼はその叔父が優れ者であったこととイワンが大貴族の専横を嫌っていた為に取り立てられることとなった。彼自身も能力がありそれがさらにイワンの気に入れられた。
 そして自身の妻にはイワンの親衛隊であるオプリーチニクの指揮官であるマリュータ=スクラートフの娘を迎えた。皇帝の反逆者達を容赦なく引き出し、そして惨たらしく処刑していく残酷な者達であったがその指揮官の娘の夫となることで血縁というバックも手に入れることとなった。こうして彼は着々と力を蓄えていった。
 イワンが死に次の皇帝の摂政の一人となると激しい権力闘争を繰り広げた。そしてそれに勝ち抜きロシアの最高権力者となった。彼は雷帝とは違い温厚な人物であり多くの政治的成功を収めた。
 宿敵クリミア=ハン国やスウェーデンとの関係の安定、内政では市商工民の育成と勤務士族層の保護育成、官僚機構の整備、農奴制の開始等がある。とりわけロシアの精神風土の一つとなった農奴制は特筆すべきであろうか。以後ロシアの暗い一面となり十九世紀以後大きな問題となるがこれを定めたことによりロシアが定まったのもまた事実であった。正義や批判されるべきものは時代によって変わりこの時代においては画期的な政策であった。しかも彼は農民の保護も忘れてはいなかった。そうした細かい気配りもできた。
 その気配りは宗教にも向けられていた。ロシア正教において総主教座を設けたのである。これによりロシア正教のシステム化も確立させた。
 こうしてロシアを安定させることに尽力していたが彼は今一つ信頼を得られないことがあった。それは彼自身の問題ではなかった。
 皇帝の腹違いの弟ディミートリィが急死したのである。ウーグリチという場所で突如として事故死してしまう。彼はてんかん持ちでありその発作のせいであった。だがこれに異を唱える者がいた。
 彼の母であり雷帝の後妻であったマリーアであった。彼女は幼い息子の死をボリスによる謀殺だと決め付けたのだ。彼が帝位を狙っていることの根拠として。この時彼は自身の妹を皇帝に嫁がせており帝位の継承権も持っていた。事実が問題なのではなかった。そうした状況が問題であったのだ。
 彼はそれに対して事実を述べただけであった。人によってはそれで納得した。しかし全ての者が納得したわけではなかった。全ての者を納得させられるにはあまりにも立場が悪かった。何故なら皇帝の弟であり第一の帝位継承者が死んで得をするであろう、すなわち皇帝への道が開かれる人物であったのだから。こうした意味で彼は運のない男であったと言えた。
 その病弱な皇帝が死んだ。こうなっては疑惑の声はさらに高まる。また彼を信じる者達は彼を皇帝にしようとする。彼はこの時板挟みに遭っていた。そして同時にロシアもまた板挟みになっていたのであった。
 その寒い冬の時であった。モスクワの街に民衆が集まっていた。
 モスクワはリューリク朝の都であった。巨大であり大きな壁に囲まれている。その中にあるノヴォーヴィチィ修道院に民衆達はいた。彼等はこのモスクワを代表する小さな塔がある修道院に集まっていた。だがその動きは緩慢で覇気が感じられなかった。一言で言うと無気力であった。みすぼらしい服を着てただ歩いているようにしか見えなかった。
「どうしたんだ、そなた達は」
 毛皮を着て長い髭を生やした警吏が彼等に声をかける。彼の服は民衆に比べると豪勢であった。
 その長い髭はロシアの髭であった。ロシアは寒い。従って髭を生やして寒さを少しでも和らげる。長い間ロシアでは髭は男の誇りとされこれを切ることは最大の侮辱とされていた。見れば民衆達も長い髭を生やしていた。女でも髭が生えている者がいる程である。
「そんなにぼんやりとして」
 警吏はそんな民衆達に対してまた言った。
「早く座れ」
「はあ」
 民衆達は言われるがまま跪く。
「ではいいな」
「わかりました」
 言われるがままであった。警吏は彼等に命じ続ける。
「言え」
「ボリス様」
 民衆達は言った。無気力な声で。
「私達のことを忘れないで下さい」
 その声は大きさこそあったが空虚であった。
「私達は貴方が必要なのです」
「まだだ」
 警吏は彼等になおも言う。
「まだ言うのだ」
「はい」
 彼等はそれに従いまた声を出した。
「どうか私達の声を御聞き下さい、どうか」
「なあ」
 その中にいる農民の一人が仲間に囁いた。
「どうして俺達は大声を出しているんだ?」
「さあ」
 仲間の一人がそれに首を傾げさせた。
「何でだろうね」
「何だよ、わかっていないのか」
「御前だってわかってねえだろ」
「へへへ、まあな」
「それはそうと喉が渇いてきたよ」
 中年の農婦の一人が声を止めてこう言った。
「水はないかえ」
「水はないけれど酒ならあるぜ」
 夫らしき濃い髭の農夫がそれに応えた。
「それおくれ」
「飲み過ぎるなよ、俺も飲むんだからな」
「わかってるよ」
 農婦は夫から酒が入った水筒を受け取るとゴクゴクと飲みはじめた。飲んでふう、と一息ついた。
「寒いしねえ。やっぱりこうした時は酒だよ」
「わかってるなら返せ」
 夫は横からこう言って酒をひったくるようにして受け取る。
「こっちも寒いんだからな」
「わかってるさ。しかし何でこんなに皆集まってるのかわからないね」
「俺達の宴会の為さ」
 誰かが言った。当時のロシアでは権力者がそれに相応しい地位に就くと民衆を宴に招待する習わしがあった。彼等はその為に自分達が呼ばれているのだと思っていた。
 
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