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ボリス=ゴドゥノフ

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第四幕その四


第四幕その四

「そして皇后に」
「では私が皇帝では駄目ですかな」
「さて」
 この言葉にはとぼけてみせた。
「あまり考えたことはありませんわ」
「では今から考えましょう」
「どうでしょうか」
「ゆうるりとワインでも楽しみながら」
「あれだけ飲まれたのに?」
「何の、まだまだこれから」
 赤い顔を崩していた。
「これからですぞ」
「もうすぐモスクワへ進軍ですな」
 貴族達は口々に言う。
「そう、そしてそこに我等の栄光と財宝がある」
「ロシアの国土が」
 見れば彼等の目はマリーナやグリゴーリィと同じになっていた。野心に燃えていたのであった。
「ポーランドの為に」
「その栄光の為に」
 彼等は半ば歌いながら口々に言う。
「兵を進めようぞ」
「モスクワに」
 意気高くそう言う。そしてグリゴーリィ達の隠れている部屋から消え去ってしまった。
「ランゴーニ」
 彼は声が聞こえなくなるとランゴーニに顔を向けて来た。
「はい」
「あれはどういうことだ?」
 そして彼に尋ねてきた。
「何故マリーナが老人と共にいたのだ?」
 彼はきつい目でランゴーニに対して問うていた。
「私に永遠の愛を誓っていたのではないのか?」
「確かにその通りでございます」
 彼は答えた。
「あれはほんの社交辞令」
「辞令なのか」
「左様です。ですから御気になさらないで下さい」
「その言葉、私が信じると思うか」
「無論です」
 彼はその平然とした態度を崩すことなく述べた。
「姫様の御言葉も御耳に入られた筈ですが」
「うむ」
「あの御老人に対してはつれなかったですな」
「確かにそうだな」
「そういうことです。姫様の御心にあるのは貴方だけ」
「私だけ」
「はい」
 ランゴーニはここでグレゴーリィの顔を目だけで覗き見た。
「左様でございます」
「ふむ」
 彼はそれに納得しようとしていた。ランゴーニはそれを見て自分の話が上手くいっていることを感じていた。
「ですから。御安心下さい」
「わかった、その言葉信じよう」
 まだわだかまるものがあるとはいえそれに納得しておくことにした。
「さすれば陛下」
「何だ」
「先程のあの方々の御言葉にあったようにモスクワに行く準備をしますか」
「剣と兜を」
「はい。そして馬を」
「わかった。その先に全てがあるのだな」
「左様です」
 グレゴーリィの後ろに回り込んだ。そしてマリーナにした様にまた囁いたのだ。
「愛と」
 彼は囁く。グレゴーリィの耳元で。
「そして皇帝の紫衣と冠が」
「モスクワにはある」
「すぐに向かいましょう。それは本来貴方のものであった筈なのですから」
「それをボリスが不当に簒奪した」
 そう思わせることが肝心であったのだ。
「その簒奪者を滅ぼして。お戻り下さい」
「モスクワに、そして玉座に」
「そうです。では参りますか」
「マリーナの場所に」
「はい」
 こうして二人は部屋を出た。そしてまたマリーナの部屋に向かうのであった。
「では私はこれで」
 ランゴーニはマリーナの部屋の扉の前まで来るとグレゴーリィに別れを告げた。
「ごゆっくり」
「うむ」
 グレゴーリィは鷹揚に頷くと彼を見送り目の前にある扉を開けた。
 扉を開けると花の香りがした。香水のものである。そして部屋の中は紅を基調としており女らしい雰囲気があった。だがその紅は同時に彼女の心も表わしていた。しかしグレゴーリィにはそれは目には入らなかった。
「マリーナ」
 彼は熱い声でマリーナの名を口にした。するとそこに彼女がいた。
「皇子」
 マリーナは晴れやかな顔を彼に向けて来た。
「わざわざおいで下さったのですね」
「貴女に会う為なら」
 彼は言った。
「例え何処でも」
「嬉しい御言葉」
 彼女はこの時グレゴーリィの顔に愛とは全く別のものを見ていた。これに対してグレゴーリィはマリーナの顔に同時に二つのものを見ていた。
 一つは野望、そしてももう一つは愛。彼とマリーナの違いはそこであった。
「マリーナ」
「モスクワへ行ったら何を為されますか?」
「!?」
 愛の言葉を語ろうとしたところでマリーナは問うてきた。グレゴーリィはそれを受けて言葉を止めた。
「何を?」
「ロシア女を愛されるのですか?あの大柄で太った女達を」
「馬鹿な」
 グレゴーリィは首を横に振ってそれを否定した。
「何故私があの眉の太い毛深い女達を」
「お嫌ですのね」
「そうだ。私は髭の生える女は好きではない」
 ここまで言った。
「私には貴女だけだ」
 そしてまたマリーナを見据えた。
「貴女だけなのだ」
「けれど貴女は私しか見ていない」
「どういうことだ」
「私が見ているのはロシアの玉座と皇帝の赤と金の衣、そして王冠」
「無論それも望んでいる」
 彼は言い切った。
「あれは本来私のものだったのだ。そしてそれを奪い返すまで」
 半ば自分が本物の皇子の様に思えてきていた。野心の為か現実とそうではないものの区別がつかないようになってきていたのかも知れない。
「奪い返すのですね」
「そうだ」
 そしてまた言い切った。
「この手に。明朝出陣する」
「進む場所は」
「モスクワだ。他に何処があろうか」
 グレゴーリィは言う。
「ここに集う将達と共に。運命が定めた父の玉座まで私は行く」
「では私は」
「共に来てくれるか」
 グレゴーリィは問うた。
「はい」
 断る筈もなかった。マリーナは即座に頷いた。
「勿論でございます」
「よし。ならばよい」
 グレゴーリィはそれを聞き満足そうに頷いた。
「それでこそ皇子です」
 マリーナはそんな彼を恍惚とした眼差しで見詰めた。そこには皇帝の冠があった。
「栄光と強大な権力を求められるその凛々しい御姿こそが貴方には相応しい」
「そうか」
「はい。それこそが夜のしじまにも昼の太陽にも映えます。そんな貴方だからこそ心からお慕いするのです」
 彼が権力に燃えているからこそ。今彼女は彼を権力と見ていた。
「その言葉、偽りではないな」
「はい」
 彼女は頷いた。
「どうして。嘘なぞつけましょうか」
「わかった。では行くぞ」
「はい」
「モスクワへ。栄光と繁栄が我等を待っている」
「そして玉座が」
 彼等は抱き合い共に野望を成就させることを心から誓い合ったのであった。今彼等はそうした意味で完全に結ばれたのであった。
「これでよし」
 その二人がいる部屋の扉の向こうで呟く声がした。ランゴーニであった。
「明日からロシアは我々の手に落ちる。このローマ=カトリック教会の手に」
 彼にもまた野心があったのだ。教会としての。
「その為には何でも使わせてもらおう。駒としてな」
 最後に邪な笑みを浮かべた。そして扉から離れ暗い闇の中へとその姿を消していった。
 次の日の朝早くグレゴーリィ率いるポーランド軍は進撃を開始した。行く先は最早言うまでもない。彼等は今野望に燃えていた。そしてそれを阻もうとするものは全て焼き尽くさんとしていた。ロシアは戦乱の炎をも受けようとしていたのであった。
 
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