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ボリス=ゴドゥノフ

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第四幕その二


第四幕その二

「平和なぞ退屈なだけ」
 彼女は言った。
「それよりも私が欲しいのは野望。こんな小さな城ではなく広大な国土が欲しいのよ。そう、ポーランドの戦士達の栄光に相応しい広大な国土が」
 そこに見えるのは炎であった。戦いで全てを焼き尽くす炎であった。
「それを手に入れたい。その為にはどうするべきか」
 自分に対して問う。
「あの男こそそれを私とポーランドにもたらしてくれるでしょう」
 不敵に笑う。そしてその青い目に先日ここにやって来た鼻と額にイボのある男を見た。グリゴーリィである。
「あの男。ロシアの皇子だと自分を偽るあの男こそ私の野心を適えてくれる者」
 そこには愛はなかった。野心だけがあった。
「彼の婚約者となったことこそが私の運命。そして手に入れるものは」
 きっと上を見据えた。
「太陽。すなわち玉座」
 強い声で言う。
「モスクワのクレムリン。皇帝達の城よ」
 次に自分の着ている白い絹の服に目をやった。
「そしてこの白い服から赤と黄金の服に着替える。そして私はその赤と黄金の光で太陽になるのよ。ロシアを照らす太陽に」
 まるで神にまでならんとする態度であった。
「貴族達もひれ伏させ、民衆達も従わせる。絶対にして至高の存在となる。彼を使って」
 あくまで求めるものは野心のみであった。愛はない。野望に燃えるその青い目にはそんなものは欠片程も見えはしていなかったのであった。
「私は太陽になるのよ」
 そう言い切った。それが終わると中庭に黒い法衣の男が姿を現わした。その外見からカトリックの神父でることがわかる。だが普通の神父ではなかった。その目の光は鋭く、邪悪なものさえあった。
「姫様」
「ランゴーニ神父様」
 マリーナは彼に気付き顔を向けてきた。
「お話を聞いて頂けるでしょうか」
 低く、くぐもった声であった。何処か陰鬱な響きのある声であった。
「はい、何でしょうか」
 マリーナはそれに応えた。
「私で宜しければお話下さい」
「はい、今教会は危機にあります」 
 彼は言った。
「信仰の泉は涸れ、香炉の煙も細くなっております。そして殉教者の傷口は開き、僧院は悲しみと嘆きに満ちております」
「嘆かわしいことです」
 そこには心が篭っていた。信仰の心はあるようであった。
「敬遠な神父達は皆憂いております。今のこの世を」 
 彼はあえてそう芝居がかって深刻に言ってみせた。
「それもこれも全て異端者の為です」
「異端者の」
「そう、モスクワの異端者達の為です」
 ランゴーニは言った。
「彼等はモスクワで邪悪な教えを信じております」
「はい」
 彼女もそれに頷いた。
「それを何とかせねばなりません、貴女が」
「私が」
「そう、貴女がです」
 彼女の心に囁く様にして言う。
「信仰の為に」
「そしてポーランドの為に」
「そう、ポーランドの為でもあります」
 彼女の後ろに回り込んで囁いてきた。
「この国を繁栄させる為には」
「ロシアを討つ必要があると」
「いえ、もっとよい方法があるのです」
「それは」
「ロシアを。こちら側に引き込むのですよ」
 神父の目が邪に光っていた。それは権力と野望を見る目であり神や信仰を見る目ではなかった。
「ロシアを。神父様がいつも私に仰っていることですね」
「左様」
「最初は驚きましたが。ですが私が皇后となり支配者になるには」
「宜しいかと」
 そう告げる。
「ポーランドと私の為にも」
「そうです。カトリックとして、そして」
「ポーランドの傀儡として」
「如何でしょうか。これならばポーランドの利益になります」
「はい」
「あまりにも広大になってしまったロシアは全てを手に入れようとすればポーランドの手に余ります」
 ランゴーニはそこまでわかっていた。シベリアに進出し、広大になったロシアを。その為彼はロシアにポーランドの傀儡政権を立てることを考えているのだ。
「貴女こそそれを為されるのに相応しい」
「そしてロシアをカトリックに」
「そうです。如何ですかな。我等にはもう手駒がありますし」
「あの修道院から逃げて来た皇子ですね」
「左様、彼を皇帝にし」
「私は皇后に」
 その言葉と共に語る者達の心に何かが宿った。
「ですがあの若者は迷っています」
「ここまできてですか」
「困ったことに。皇帝になれたとしても後がどうなるか、そして野望を前にして」
「情ないことです」
 マリーナはこう言って顔を背けさせた。
「野望こそこの世で最も素晴らしきもの」
 そしてその身に纏う紅の衣を映えさせた。
「それを前にして迷うことなぞ」
「では貴女のされることはわかっていますな」
「はい」
「その美貌と甘言で彼を篭絡するのです。愛と野心を混ぜさせて」
「ロシアに向かわせる為に」
「理性なぞ無用なこと」
 驚くことにこれが神父の言葉である。
「野望により他の者を傷つけはしないかという良心の呵責なぞ迷信深い愚にもつかぬものです」
「全くです」
 しかもマリーナも同じ考えであった。満面に笑みを浮かべて頷く。
「おだて、気紛れて見せ、虚言で悩ませる」
「さすれば陥落させるのは容易なこと」
「人の心なぞ城に比べれば弱いもの」
「野望の前には」
「何の意味もないことなのです」
「では姫」
 ランゴーニはマリーナの顔を覗き込んできた。
「頼みますぞ」
「はい、ポーランドの為に」
「ローマ=カトリックの為に」
 二人のいる世界には瘴気すら漂っていた。邪な野望の瘴気である。そしてそれは緑である筈の庭を何故か黒く染めているように見られた。そこには信仰も良心もなかった。それを仮面にした野望だけが存在していた。
 
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