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ボリス=ゴドゥノフ

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第三幕その四


第三幕その四

「それならばすぐに手を打つが」
「いえ、ポーランドのことです」
「ポーランド」
 この時代ポーランドはロシアと対立関係にあった。領土を接しているだけでなくポーランドはカトリックでありロシア正教のロシアとは宗教までもが異なっていた。そしてポーランドの方もその信仰の違いを利用してロシアに対して何かと政治的に干渉しようとしていたのである。またポーランドは広大な平野を持ち強力な騎兵を持つことで知られていた。ポーランド騎兵と言えば欧州においてはフランス騎兵と並ぶ精強な騎兵隊であった。
「彼等が偽皇子を擁しているとのことです」
「偽の!?」
「はい、そしてその後ろにはバチカンまで」
 ポーランドがカトリックならばその後ろにバチカンがいるのは当然であった。衰えたりとはいえバチカンの力はこの時代もかなりのものを持っていたのである。
 そして貪欲で狡猾であった。神の代理者でありながらその権力と財力、暴力は将に一個の国家であった。教皇領だけでなく教会が持つ様々な特権を意のままに操っていた。贅沢を極め、多くの国家に干渉していた。バチカンは腐敗し、尚且つ野心に満ちていたのであった。
「バチカンまでも」
「既にリトアニアとの国境にいるそうですが」
「一つ聞きたいことがある」
「はい」
「そしてその偽者の名は。何というのだ」
 怪訝な顔で問う。その答えは。
「ディミートリィで御座います」
「何だとっ」
 ボリスはその名を聞いて色を失った。
「それはまことか」
「はい」
 シュイスキーは答えた。その顔から表情を消して。
「生きていたと自称しております」
「すぐに手を打て」
 ボリスはうろたえる声で命じた。
「すぐにだ。まずはロシアからリトアニアへの全ての道を封じよ」
「はい」
「関所の兵を増やしてな。そして軍を編成する」
「征伐の軍ですな」
「そうだ。指揮官はおって指示する。すぐに取り掛かれ」
「わかりました」
 シュイスキーは頷き部屋を後にしようとする。だがボリスは思い直し彼を呼び止めた。
「待て」
「!?」
 シュイスキーはそれを受けて立ち止まった。
「何で御座いましょうか」
 そして振り向く。その顔からはやはり表情を消していた。そしてボリスの様子を窺っていた。
「そなたは聞いたことがあるか」
「何をでしょうか」
「死んだ子供が墓場から出て来て生きているという話を」
「それは」
「そして皇帝を裁くという話を。この正統な皇帝を。聞いたことがあるか?」
「いえ、ございません」
 彼は今度は率直に述べた。
「ですが何故その様なお話を」
「そなたは見た筈だ」
 ボリスは暗い声で問うてきた。
「あの場面を。皇子が死んだ時を」
「はい」
 彼は答えた。
「死んだな。事故で」
「はい、確かにあれは事故でした」
 事実をありのままに述べる。それはボリス自身もよくわかっている筈であったがそれでも彼は問うていた。それが妙にも感じられた。
「あれは確かに皇子であったな」
「皇子はてんかんの発作をお持ちでした」
 彼はまた真実を述べた。
「そしてその発作で馬車から落ちられ。そして」
「そうだな」
「血の中に。お気に入りのオモチャを持っておられ。けれど顔は晴れやかでございました」
 彼は続ける。
「傷口は大きかったですがその口元には無邪気な微笑みまで」
「てんかんの中でもか」
「死の恍惚だったのでしょう」
 シュイスキーはこう述べた。
「だからこそ。笑っておられたかと」
「つまり死んでおるのだな」
 その死の光景が瞼に浮かんでくる。それは彼も知っていたのだ。
「はい」
 シュイスキーはまた答えた。
「間違いなく」
「わかった」
 こくりと頷いた。だが心の狼狽は消えてはいない。
「もうよい。下がれ」
「はい」
 シュイスキーを下がらせた。ボリスは一人になると部屋の端に向かった。そしてそこにある椅子に崩れ落ちる様に座り込んだのであった。
「あれは私がやったのではない」
 彼は力無く呟いた。
「私は殺したのではない。あれは事故だ」
 自分に言い聞かせるようであった。
「それなのに何故。心が痛むのだ」
 それがどうしてか、自分でもわからなくなってきていた。ここで時計がなった。
 ボリスはその音にハッとした。そして不意に辺りを見回す。
「時計か」
 時計から人形が現われる。それは機械仕掛けの子供であった。だがその子供の姿を見てボリスの顔に怯えの色が走った。
「私ではない!」
 彼は叫んだ。
「その血は私がやったものではない!そなたは事故で死んだのだ!」
 彼は言う。
「そして私が今ここにいるのは民衆の声によってだ!私は本来ならそなたに皇帝になってもらいたかったのだ!いや・・・・・・」
 徐々に自分の言葉さえ信じられなくなってきていた。
「殺したのは。私か?オモチャを与えわざとはしゃぐようにして馬車から」
 自分で自分の考えがわからなくなってきていた。
「そして皇帝になったのも。総主教の芝居を止めさせなかったのは」
 以前の自分の考えと今の自分の考えがわからなくなってきていた。ボリスは次第に自分が皇子を殺し、そして皇帝になったのだと思えてきた。
「いや、違う」
 だがそれは必死に否定する。頭を抱える。
「私ではない、ロシアだ」
 彼は言う。
「ロシアがそう望んだのだ。だがこのロシアは私のものだ」
 それに気付き愕然とする。
「では私が殺したということなのか。そして私は皇帝に」
 そう思えてきた。もう自分で何を考えているのか混沌としてきた。
「結果はそうだ。では私が殺した。私の手は・・・・・・」
 血に塗れている様に見えた。幻覚ではあったが確かに見えた。
「これが皇帝の手・・・・・・。私はもう罪から逃れられないのか」
 幻覚の罪であったが彼の中では真実の罪になろうとしていた。ボリスはその中に沈もうとしていた。またそれを止めることはもうできないところまで辿り着こうとしていた。
 この日からボリスの様子は一変した。塞ぎ込み、ただ神の名を呟くことが多くなった。そして政治に関して消極的になってしまい、シュイスキーが大きく権力を握ることになった。ボリスは中から破滅しようとしていた。そしてそれを止めることはもう誰にもできなくなってしまっていた。ボリス自身が沈んでいくだけであったのだから。
 
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