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ホフマン物語

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第一幕その一


第一幕その一

                 第一幕 ミューズ
 ここはベルリンのとある酒場である。すぐ側に有名なオペラハウスがあるこの酒場ではいつも客でごっががえしていた。そんな賑やかな酒場だがまだ賑やかになる時間ではなかった。
 夕暮れにならないと店は開かない。これは何処の酒場でもそうである。だからこの日も夕暮れまでは静かなものであった。フランスでオレルアン朝が倒れ、そして第二共和制からナポレオン三世が立ってから暫く経った時代、ベルリンにおいても不穏な空気はようやく消えてきており庶民達はまた享楽に目を戻そうとしていた頃であった。
 その享楽の中には酒が中心にあった。この時代もベルリンでは酒は最も人気のある存在であった。人間というものは酒がなくては何もできないし何も楽しめはしない。酒は全ての享楽の父であり母であるのだ。
 それを最もよく知っているのは他ならぬ酒自身である。夕暮れが近付くにつれて彼等はその眠りを覚ましてきた。
「トクトクトクロク」
 広い酒場であった。ホールには椅子とテーブルが置かれ木製の洒落たカウンターがある。そこにはボトルが何本も置かれている。
 そして酒場の隅々に酒樽が置かれている。そこから声がしていた。
「おいらはビール!」
 酒樽の中から声が出て来る。
「トクトクトクトク」
 また声がする。今度は別の樽からだ。
「おいらはワイン!」
 彼等は口々に言う。
「おいらはその泡でグラスを銀色に輝かす!」
「おいらはその色でグラスを金色に輝かす!」
 樽は唄う。
「おいら達は人の永遠の友達。愁いも悩みも消してしまう」
 どうやら彼等は酒の精であるらしい。その声で酒場を早速朗らかなものとしていた。
 次第に夕暮れから夜になっていく。ベルリンの夜は長い。夕暮れだというのにそろそろ月の姿も見えようとしていた。
「月よ来い!」
 精霊達はまた唄う。
「そしておいら達と今日も遊ぼう!」
「夜はあんたとおいら達のものだからな!」
「そして私のものでもありますね」
「おや」
 彼等はその声を聞いてまずは声を止めた。
「あんたも来たのかい」
「はい」 
 白い服に身を包んだ女性が出て来た。茶色い髪を短く切った細い顔立ちの女性である。目は黒く切れ長で何処か中性的な面持ちである。容姿もスラリとしており男だと小柄、女だと普通位の背であった。
「ミューズ、暫くぶりだね」
「ええ」
 ミューズと呼ばれたその女性はワインの精の言葉に頷いた。
「今まで何処にいたんだい?」
「少しね」
 ミューズは応えて微笑んだ。
「仕事で色々と飛び回っていました」
「それは何より」
「相変わらず勤勉だ」
「私がいなくては。この世の芸術はありませんから」
「確かに」
「そしておいら達もいなくちゃね」
 酒の精霊達はまた騒ぎだした。
「トクトクトクトク」
「今日も飲めや騒げの大宴会」
「そこから何が出て来るのか」
「何が出るのか」
「それは飲んでみないとわからない」
「酒は全てを生むけれど」
「飲まない人にはわからない」
 彼等は口々に唄う。自然と唄う声が増えていっていた。
「そう、お酒は飲まないと駄目です」
 ミューズもそれに同意した。
「飲まないと。特に芸術家は」
「芸術家!?」
 酒の精霊達はそれを聞いて言葉を一旦止めた。そしてそれから尋ねた。
「あの詩人のことかい?」
「ええ、その通りです」
 ミューズはそれに頷いた。
「彼も。詩人であり音楽家である彼は決して水なぞ飲みません」
「確かに」
「だからこそ彼は芸術家になれた」
「全くその通りです。しかし」
 だがミューズはここで言った。
「今彼は道に迷っています」
「道に迷っている」
「はい。愚かなことに」
「そうは言っても仕方ないんじゃないかな」
 ビールの精の一人が言った。
「彼も人間なんだしさ」
「僕達精霊でも迷うのにそれはいいんじゃないかな」
「それで一人の芸術家が潰れるとしたら残念なことではないでしょうか」
「それでもね」
「仕方ないと言えば仕方ないよ」
 酒の精霊達にとっては他人事でもあった。どうでもいいことのように言う。
「そんなに大事に思ってるのかい、彼を」
「ええ」
 ミューズは頷いた。
「だったら貴女が何とかしたらどうかな」
「元よりそのつもりです」
 そう応えるとにこりと笑った。
「それではあれをしましょうか」
「ああ、あれね」
 精霊達にはあれが何なのかわかっているようであった。
 
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