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薔薇の騎士

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第一幕その十三


第一幕その十三

「いずれはなんて。誰が貴女の耳にそんな言葉を」
「それは」
「嘘ですよね」
「いい、カンカン」
 夫人はあえて優しい声でそのオクタヴィアンに言うのだった。
「時は全てのものを変えはしないの」
「はい」
「けれど時は不思議なもの」
 しかしこうも言うのだった。
「ただ夢中で生きている時は全く無に過ぎないの。けれど突然時の他何物も気に留めないようになるのよ」
「そうなのですか?」
「そうなのよ。時は私達の周りを囲み私達の中にもいるわ」
 また言うのだった。
「顔の中に時はざわめいて鏡の中にもざわめいて」
「一体何が」
「あらゆるものの中にも流れているわ。私と貴方の間にも」
「僕と貴女の間にも」
「そうなのよ。音もなく砂時計のように」
 ここで部屋の片隅にあった砂時計の砂が完全に落ちた。それで終わりであった。
「カンカン」
「はい」
「私は時々時が流れるのを聞くのよ」
「時をですか」
「そうなのよ」
 悲しげに俯いて呟いた。
「絶え間ないその流れる音を。それで私は」
 また夫人は呟いた。
「夜中に起き上がって時計を全部止めてしまうのよ」
「それ程までに」
「時のことを恐れる必要はないのかしら」
 またこうも呟いた。
「時もまた神の創られたもの、ほかのあらゆるものと同じなのに」
「強いて悲しまれようとしているのですか?」
 オクタヴィアンは時を恐れてはいない。だから言うのだった。
「私が側にいてその指が貴女の指と絡み合っているのに。私の目が貴女の眼差しを探しているその時に。貴女と私が共にいる時にどうしてそう思われるのですか」
「貴方は何時か私のところを去るわ」
 夫人はまたオクタヴィアンに告げた。
「私よりもっと若くもっと美しい人の為に私の前から去るのよ」
「嘘だ」
 オクタヴィアンはそれを信じない。
「そんな筈がない。何があっても」
「いえ、来るわ」
 夫人はわかっていたのだ。だから言うのである。
「その日は必ず。黙っていても来るものなのよ」
「そんな日は絶対に来ません」
 それでも彼はわからなかった。どうしても。
「そんな日が来るとしても考えたくはない。僕はそんな恐ろしい日は見たくもないし考えた雲ありません。どうしてそんなことを言って僕と貴女自身を苦しめられるのです?」
「貴方を苦しめるつもりはないわ」
 夫人はそれは否定した。
「私はただ貴方と私のことを言っているだけ。本当のことを」
「嘘だ、それは」
「本当なのよ。それに優しく堪えたいから」
 声が優しいものになった。目も潤んでいた。
「軽い気持ちで軽い手で受け取って支えて逃がしてやる」
 達観したような言葉になってきた。その中で。
「それができないと駄目なのよ。人というものは」
「まるで司祭様みたいだ」
 オクタヴィアンは今の夫人の言葉をこう受け取った。
「何が言いたいのか。僕には全くわかりません」
「もう行って」
 今度は突き放した。
「私は教会に行くから」
「教会に」
「そして伯父様のところに。グライフェンクラウの伯父様のところに」
「あの伯父様ですね」
「そうよ」
 彼のことはオクタヴィアンも知っていた。
「もう身体が満足に動かなくなっているから私が顔を見せると喜んでくれるの。だから」
「そうですか」
「午後に使いをやるわ」
 オクタヴィアンにも気遣いを見せる。
「プラーターへ行くかどうかね」
 ウィーンの公園のことである。
「私の馬車の傍に馬を持って来て。けれどそれまでは」
「それではまた」
 オクタヴィアンもフランス風のお辞儀をして夫人の前を後にする。夫人はその彼を見送るが暫くしてあることを思い出してまたその顔に憂いを漂わせるのだった。
「最後に接吻を」
 忘れてしまっていたのだ。それでベルを鳴らして従者達を呼ぶ。しかし。
「もう行ってしまわれました」
「もうなの」
「はい。門の前ですぐに馬にお乗りになりました」
 彼等はこう答える。
「馬丁が待っておりましたので」
「まるで風の様に速く馬にお乗りになり」
 彼等はこう夫人に述べる。
「そのまま去られました」
「そう、わかったわ」
 それを聞いて頷く。オクタヴィアンは朝に来たことになっていたので話はこれで済んだ。だがここでまた黒人の少年を呼んで彼に手渡すのだった。
「これを。オクタヴィアン伯爵のところにね」
 それは一通の手紙であった。
「わかったわね」
 少年は無言で頷いてその場を後にする。夫人はそれを見届けてから大きく溜息を吐き出しソファーに座り込んだ。それでその場は憂いの中に沈むのであった。
 
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