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【旧】銀英伝 異伝、フロル・リシャール

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狐を罠にかけろ(上)


狐を罠にかけろ(上)

 宇宙暦794年11月15日、ヤン・ウェンリー大佐は総司令部の旗艦にて、キャゼルヌで言うところの非常勤参謀の身にあった。彼は彼自身の能力によって大佐まで昇進しており、他の参謀と比べても格段と有能と言われるべきであったが、彼の風貌と言動が風格というものを彼に与えようとはしなかった。この第6次イゼルローン要塞攻略戦という華々しい一大作戦において、ヤンは明らかに外野に追いやられていたというところだった。もっとも、彼自身、自分から作戦案を売り込むような積極性からは皆無の男だったから、それ幸いと連日資料室に入り浸り、過去の資料を読み漁っている。本人の弁を借りれば、作戦案の独自的研究というところだったが、それが「むだ飯食《めしぐ》いのヤン」という呼び名の由縁でもあった。

 だがそんなヤンに来訪者が現れた。
 フロル・リシャールである。
「よう、無駄飯食らいはいるか?」
 フロルは資料室に入りしな、そう言った。資料室の照明は消され、正面にあるディスプレイには古い映像資料が流されている。その前に座っていた人影が動いた。
 フロルは入ってすぐ横のスイッチを手探りで見つけ、明かりを付けた。

「フロル先輩、どうしたんですか?」
 ヤンは突然の訪問と照明に目を細めながら、椅子から立ち上がった。
「いや、座ってていいよ」
 フロルは近くの椅子を引っ張って自分もそこに座った。彼の左手にはマグカップが二つ。フロルはこの資料室に来る直前、紅茶を入れて来たのである。
「おっと、フロル先輩の紅茶ですか」
「まぁね」
 フロルは気の効く男である。
「でも、資料室は水気と火気厳禁じゃなかったですっけ?」
「こんな真っ昼間からこんなとこで時間を潰している参謀殿に言われたくないね」

 フロルは素っ気なく言ったが、これにはヤンも苦笑せざるを得なかった。少なくとも、彼が人並みに働いているわけではないのである。仕事がない、という理由は現状を説明する上でもっとも適切なものであったが、それを強弁する気はヤンにはない。
「どうも」
 ヤンはありがたくフロルの手からマグカップを一つ受け取った。この香り、シロン星産のものである。彼はコーヒーが嫌いな紅茶党であったが、コーヒー党であるはずのフロルの入れる紅茶は、彼を満足させるだけの味わいを持っていた。ヤンが入れてもどうしてもこんな味は出ないのである。もっとも、最近のヤンの家にはフロルよりも美味い紅茶を入れる少年がいて、いささかヤンは恵まれ過ぎている、というところであった。

「ワイドボーンが負けたって聞いたか?」
 フロルはそう切り出した。ヤンはカップに口をつけながら、頷く。
 マルコム・ワイドボーンはヤンの同期で首席だった優等生である。かつてヤンが戦闘シミュレーションでこれを敗ったのはヤンも記憶するところであった。そのワイドボーン大佐は参謀長としてラムゼイ・ワーツ少将分艦隊に配属されていたが、2週間ほど前、同盟艦隊を悩ます”小賢しい敵”によって敗北を喫していた。常識外の中央突破戦法で、密集したほぼ同数の敵を半包囲しようとしていたワーツ分艦隊の中央を攻め込み、旗艦は中破。指揮が混乱したところを手酷くやられたそうである。だが敵の狙いに寸前で気付いていたらしいワイドボーンは半包囲を即座に中止していたため、戦死は免れたようだった。フロルはそれを聞いた時、小さく溜め息を零した。自分の介入で、また死ぬはずの人間が生き残った。だが、これがどのように影響を及ぼして行くのか、彼には予測がつかなかったのである。

「ワイドボーンは瀕死の重傷らしい。後方に回された」
「ええ、まぁ、そうでしょうね」
 ヤンはもっともらしく頷いていたが、それはワイドボーンではなく、それを破った敵に対しての肯定だった。あの艦隊は誰が指揮しているか、彼はまだ知り得なかったが、その戦術的手腕と艦隊運動の見事さはヤンも大いに認める所だったのである。ワイドボーンあたりの硬直した頭では、柔軟に対応できるわけもない、と考えていた。
「二日前にはまた違う艦隊がやられたんだろ?」
「ええ、キャボット少将の高速機動集団がこれまた上手い側背攻撃にやられて、壊滅しました」
「なかなか、敵さんもやるな」

 フロルは無論、それがラインハルト・フォン・ミューゼル少将の仕業だと気付いていた。今、この同盟遠征軍の中で、誰よりもこの”小賢しい敵”を重視しているのは、フロルと言って差し控えなかった。彼はできることなら、ここでラインハルトを亡き者にしようと企んでいた。このあと、ラインハルトが致命的なミスを犯すことがない、と彼は知っていたからである。そしてここでラインハルトを斃せば、同盟が帝国に飲み込まれずにすむと確信していたのである。この世界に、ラインハルトほどの男は他にはいない。彼を失えば、帝国はこのまま惨めな衰弱死に向かって進み続けるのだ。

「ヤン、どう思う?」
「……フロル先輩、もしかして相手をするつもりですか?」
「当たり前だろう!」
 フロルはにやりと笑った。彼は温和な顔立ちだったが、この皮肉げな笑いをする時だけはまるで別人のように見えるのである。そしてそれは、人には言えない悪戯や児戯をする時に現れることを、ヤンは気付いていた。
「まぁ、フロル先輩なら簡単にはやられないでしょうが」
「だが、俺も勝てるとは思っていない」

 ヤンはフロルの言葉に驚いたように、フロルの顔を見た。フロルは複雑な人格を内包した男であったが、自分の軍事的才覚には揺るぎない自信を持っている、とヤンは思っていたからである。もっともそれはヤンの買い被りというところで、フロルは未来を知っている、という点において自らの行動に不安を持ち合わせる必要がなかっただけであった。無論、フロル自身も、周りの大半よりは多少有能だと思っていたが、ラインハルトやヤンなどに比べればそれも霞む程度だと理解していたのである。

「だから、ヤン、おまえさんに助けが欲しくてな」
「助け、ですか?」
 ヤンは困ったように顔をしかめた。そして軍帽も被っていない頭をかいた。
「敵さんが次に現れる宙域と作戦、それを俺なりにある程度絞り上げた」
 フロルはヤンにズボンの後ろポケットに突っ込んでいた資料を渡した。ヤンは丸まったそれを広げ、その内容に目を通しながら、心中で感心していた。正直、ヤンが考えていたこととほぼ等しい内容だったのだ。もっとも、よほど時間に急かされたらしく、内容は使えるレベルではなかったが、それだけでもフロルの能力がヤンにはわかるというものだった。
「ええ、やはりフロル先輩も、敵が戦術パターンを片っ端から試していると思いますか」
「そりゃあ、あんだけ手を変え品を変え、翻弄してくれればな、嫌でもわかるさ」
 フロルは肩を竦めながら、足を組んだ。真面目に考えているようなヤンの顔を見る。ヤンは軍人という職業を誰よりも嫌いながら、誰よりも有能だ。そしてこいつのこんな顔は、誰かがけしかけるか、尻に火がつかない限り見られないのだ。
「まだ宙域は算定できていませんが、おそらく次の戦術パターンは側面逆進・背面展開あたりだと思うのですが」

 フロルはヤンの言葉に無言で頷いた。彼はその言葉が正しいことを、知識から知っていたからである。言わば彼はズルをしてその事実を知っているだけだが、恐ろしいのはこのヤン・ウェンリーという男だ。彼は相手のラインハルトのことを全く知らず、伝えられて来る情報から、ラインハルトの性格、軍事的思考、果ては艦隊運用の癖まで読み取っている。

「うん、わかった。じゃあ俺がいる艦隊を囮に使ってくれないか?」
「先輩を、囮ですか?」
「ああ、おまえが算出した宙域で、わざと孤立して囮になる。そこをどうにかして敵を倒せるよう、作戦案を作ってくれ」
「私が、ですか?」
 ヤンは資料に視線を落としていたが、それを上げてフロルの顔を再度見た。
「ああ、俺はおまえさんを信用している。できるなら、おまえさんがそれを総司令部に提出しておいてくれ」
「私が?」

 ヤンは同じ言葉を繰り返した。それは彼が驚いて頭を使っていないということの証左でもあったが、何より彼にはフロルの意図がわからなかった。だが、数瞬後、おそらくこれは怠けている自分に対する一種の抗議だと、思い至った。無駄飯食らいと呼ばれる自分に、仕事をさせるつもりなのだ。

「わかりました。作戦案を作ってみます。ですが、採用されるかは別ですよ?」
「それはそうだ。だが総司令部だって、この”小賢しい敵”をこのまま放置しているだけの度量はないよ。いい加減、誰かがこれを叩こうとするだろうさ。ヤン、おまえもたまには働け」
 フロルはそう言ってヤンの肩をぽんと、叩いた。それにはフロルのヤンへの信頼が、籠っている。ヤンもそれに気付いていた。
(やれやれ、仕方ない。紅茶のお礼分は、しっかり働くか)
 彼はそんなことを考えていた。





 小賢しい、とは、ラインハルトに対する過小評価であるが、とにかくその存在を認識したことは、確かな事実だった。言わば味方である帝国軍よりも先に、敵方の同盟軍がその存在を重視したというのは、戦場の皮肉であった。ロボス元帥より指示を受けた参謀長、ドワイト・グリーンヒル大将がそれに留意して対策を指示したのは、彼の地位と権限からいえば当然というところである。だが彼には、まず何よりもイゼルローン要塞本体への攻撃計画を検討し、決裁し、改良し、実施する責務があった。そのため誰かに、「こざかしい敵」への対処をまかせようと思ったのである。

 そこに現れたのは、ヤン・ウェンリー大佐であった。グリーンヒル自身も、総司令部にて「むだ飯食らいのヤン」と呼ばれているヤンに、この案件を託してみようと思いついたところだったので、いささか驚いたのである。

「ヤン・ウェンリー大佐であります」
 ヤンはまるで似合わない服を身につけながら、敬礼をする。これでもちゃんと敬礼しているつもりなのだが、フロルあたりと比べるとどうしても似合わないのである。
「ヤン大佐か、ちょうどよいところだった。今、君を呼ぼうと思っていた所だ」

 総司令部の中で唯一、グリーンヒルは参謀たちの中に、かつてエル・ファシルの英雄と呼ばれた男がいることをしっかりと記憶していたのだった。否、他の高級幕僚たちも記憶はしているのだが、無視しようとする傾向があったのだ。あの時、図らずも彼は妻子を、この風体の上がらぬ男によって救われている。少なからずその軍事的才覚に目をかけているというところだった。もっとも、ヤンを見る度に、彼が功を上げて昇進して来た軍人には見えないと思っていたが。

「は、私も総司令部にこれを提出しようと思っておりました」

 ヤンはそう言うと、手に抱えていた資料を提出した。それはフロルに急かされて、一日かけて作った敵の小艦隊に対する作戦案だった。
 グリーンヒルはそれに目を通しながら息を飲んだ。それはまさに、今からヤンに任せようとしていた作戦案だったからである。その作戦案には、敵の行動パターンより次に使われる戦術として、側面逆進・背面展開がありうることを調べ、さらにラインハルトの出撃地点を分布図にして行動パターンを解析したのであった。仕上げとして、合計一万隻におよぶ兵力配置図まで示してある。およそ、万全を期した隙のない作戦である。

「……私が君を呼ぼうとしたのも、この小艦隊の対策案を君に考えてもらおうと思ったからだったが」
「はぁ」
 ヤンは困ったように、言う。なんと言葉を返せばいいのか、悩むところだったのである。
「ふむ、なかなか悪くない作戦案だと私も思う。もう少し時間をかけて読ませてもらおう」
 ヤンはこの作戦案が恐らく採用されると知っていたから、そのまま参謀長室を出ようとしたのだが、思い出したように付け加えた。
「参謀長、言い忘れておりましたが、作戦案にある初めの囮は第5艦隊のチェン分艦隊を使っていただきたいのですが」
「チェン艦隊?」
 グリーンヒルはビュコック提督の元にある、分艦隊の名に眉をひそめた。確か、あれは士官学校の教授をやっていた男が率いている分艦隊だったはずだ。なかなか優秀な男で、囮役として十分な能力を有してると思われた。
「まぁ、あの分艦隊ならば役目を果たしてくれるだろう。わかった、もし採用する場合は、そう手配しよう」
 グリーンヒルは2時間後、再びヤンを呼び出して、作戦の採用を告げた。ヤンはそれに頷き、「はぁ」と言っていたが、
「ひとつお願いがあります」
「言ってみたまえ」
「この作戦案は、グリーンヒル閣下のご発案ということにしていただけませんか」
「しかしそれでは、君が作戦立案にはたした役割を無視することになる。軍としての筋が通せなくなるぞ」
「いえ、私の作戦案だということがわかると、各部隊があまり真面目に動いてくれないでしょう。参謀長閣下のご指示ということであれば、きちんと動くでしょうから」
 敬礼しかけて、その手を止め、ヤンはやや鹿爪らしくつけ加えた。
「ええと、それと、僭越ではありますが、どうか兵力を出し惜しみなさって、大魚を逃がすことがなければ幸いです……。どうかよろしく」
 グリーンヒルはロボス元帥に作戦案を提出し、そのための準備に着手した。そしてその最中、チュン分艦隊には、あの男がいることに気付いたのである。
 その日遅く、フロルはグリーンヒルの参謀長室に姿を現した。5分後、彼が去ったあと、グリーンヒルは更に忙しくなったのである。




















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※訂正※
本部→総司令部
参謀本部→総司令部
ワイドバーン→ワイドボーン
 
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