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【旧】銀英伝 異伝、フロル・リシャール

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涙と幸せ


涙と幸せ

 フロルがハイネセンに到着したのは、5月20日のことであった。その航海はイヴリン・ドールトン大尉の正確無比な航海技術によって、本来の予定よりも短い時間で到着したのである。

 ハイネセン国際空港にはキャゼルヌ一家に連れられて、カリンがやってきていた。フロルはまだ立って歩き回ることができなかったため、イヴリンに支えられてタラップを降りた。そして用意されていた車椅子に座ったのだった。カリンはそんなフロルの姿を見つけると、一人とことこ走り寄って、視線の低くなった彼をひしと抱きしめた。フロルは多少の恥ずかしさを感じながらも、彼女の背中を優しく叩いて、
「ただいま」
と言った。
 カリンもその言葉に応えようとしたが、必死に泣くのをこらえていて、それどころではなかった。そこにキャゼルヌと夫人がやってきた。キャゼルヌはどことなく申し訳なさそうな顔である。キャゼルヌ夫人はフロルとカリンの様子に、微笑みを浮かべていた。

「よう、フロル。死にかけたそうじゃないか」
「たまには自分の命をかけなきゃいけないと思いましてね」
 フロルは肩を竦めてみせた。その程度の動作は既に出来るようになっている。
「うちのも、意識が戻ったと聞くまで、かなり心配してたんですよ」
 これはキャゼルヌ夫人の言葉であった。
「おまえ、いらんことは——」
「あら、本当じゃありませんか」
「ありがとうございます、キャゼルヌ夫人、それにキャゼルヌ先輩も。ご心配をおかけしました」
 不毛な夫婦の会話を、フロルは衣に包んだ言葉でそっと止めた。
「いや、何はともあれ、無事に帰ってきてよかった」
 キャゼルヌがそれを引き継ぐように言葉を繋ぐ。
「あ、シャルロットお嬢さんですね。随分大きくなりましたね」
 フロルはキャゼルヌ夫人の横に居る小さな少女を見て言う。
「ええ、それに今私のお腹の中に二人目がいるの」
 キャゼルヌ夫人は幸せ一杯という顔で、お腹を撫でた。
「それはおめでとうございます」
「ありがとう」
「まぁ、これも慶事だがな。ところで——」
 キャゼルヌは車椅子を押しているイヴリンに目線を移した。フロルに問いかけているのだろう。

「イヴリン・ドールトン大尉です。まぁ……私のガールフレンドと言うところです」
「イヴリン・ドールトンです」
 イヴリンが猫を被って挨拶をしている。最近気付いたことだが、イヴリンはほとんどフロルの前以外は常に猫を被っている。素で接する、ということが信頼や愛情の証なのだとすればそれは結構なことなのだが、フロルは猫を被った時の彼女も彼はそれなりに気に入っているので、惜しい気も、しないでもない。

「そうか、あのときのお嬢さんか」
「ええ、まぁ」
 フロルは少し照れながら頭をかいた。だが冷ややかな視線を感じて、その主を見ると、それはカリンだった。なぜか彼女は私をジト目で見ている。

「カ、カリン?」
「フロルさんは、私が心配している時に、女の人といちゃいちゃしてたの?」
「え、いや、そんなことはないよ!」
 フロルは狼狽えた。それは当たっていたからに他ならない。さすがに負傷してからはそんなことができる体ではなかったのだが、作戦前数ヶ月はそれなりに甘い時間だった、と言っても過言ではなかったのである。それは三年という時間的距離を、肉体的距離で埋めようとする作業であり、今までフロルの有してきた清貧・勤労・貞淑からは大きくかけ離れたものであったのだ。

「ホントだって、信じてくれ」
 フロルは上辺だけの言葉を重ねるが、無論カリンには通じない。彼女は疑っている顔のまま、フロルの腕の中から逃れて、キャゼルヌ夫人の後ろに行って隠れてしまった。
「どうやら、嫌われたようだな」
 キャゼルヌがその様子を面白そうに見て笑っている。
「シャルロットも年頃になれば、同じようになるんですよ」
 フロルはそう言ったが、それはほとんど負け惜しみ、というものであった。

「でも本当に良かったわ。いつ、リハビリは終わるのかしら?」
「あと2か月と、聞いています。ミセス・キャゼルヌ」
「それまでは病気療養、ということになるだろう。せいぜい家でゆっくりしてるんだな」
 キャゼルヌがそう言いながら封筒を手渡してきた。中を開いて確認すると病気療養につき、休職という記述されていた手続きの書類控えが入っていた。これは頼んでいたことだった。
「ありがとうございます」
 無論、手続きを済ませておいてくれたことに関してである。キャゼルヌは他にもイヴリンや|薔薇の騎士《ローゼンリッター》連隊の処理も頼んであった。仕事の早い彼は既にそれも済ましていることだろう。
「治ったらシトレ本部長に会いに行くといい。恐らく大佐に昇進してもらえるだろう。今回の戦いじゃ、おまえさんは十分戦ったということさ」
 フロルは一つ頷いたが、一つだけ気になっていることがあった。

「そういえば、セレブレッゼ中将はどうなったんですか?」
 彼が命をかけて守ったシンクレア・セレブレッゼ中将は途中でフロルたちを宇宙船を別にしたのだが、彼の精神状態が不安定になっていたことを、フロルは気にしていたのである。
「それがだな……」
「何か不味いことでも?」
「不味い、と言ったら不味いことなんだが、|心的《P》|外傷後《T》|ストレス《S》|障害《D》と診断されて、軍の病院で病気療養となっている」
 フロルは目覚めたあとも、日に日にやつれていった彼の姿を思い出した。彼はよくも悪くも軍人に向く人間ではなかったのだろう。今回のことで、今までは経験せずに済んできた戦闘経験が、彼の精神的支柱を何本か叩き折ったのかもしれない。
「まぁ、それは仕方がないと言えば仕方のないことかもしれないが、困ったことにセレブレッゼ中将が病気療養に入ったせいで、彼の仕事が俺に回ってきたんだ」
 キャゼルヌは表情に苦みを加えて、愚痴をこぼした。
「ほぅ、すると相対的に軍での地位が上がるのではないですか?」
「ああ、もしかすると、今年の第6次イゼルローン要塞攻略戦のあと、昇進するかもしれん」
「ほぅ、キャゼルヌ准将ですか」
「あまりありがたいとも言ってられないがね」
 皮肉屋のキャゼルヌはそう言ったが、彼は着実にエリートの道を進んでいるのである。フロルはそれを素直に祝福した。フロル自身もまた、大佐という地位に昇進すると聞かされたのだから、これは一応喜ぶべきこと、という類のものだった。
 だが彼らの地位は、敵と味方の屍の上に立っているのだ。軍隊とはそういう性質上、昇進を素直に喜べるものではないと言えるであろう。現にフロルは昇進、と聞かせれても、あのヴァンフリートで死んでいった者たちの顔が脳裏をよぎり、右胸が疼く思いをしていたのである。

 フロルはキャゼルヌ家と別れ、カリンとともに家に向かうことになった。イヴリンは自分の官舎に一度戻るという。別れの時に、二人はここ数ヶ月ですっかり習慣となった別れのキスをしたのだが、そのあとになって横にいる小さな|淑女《レディ》の存在を思い出し、赤面した。だがそれ以上に不満だったのはそのカリンであったろう。彼女はほとんど無表情で、フロルの家に着くまで、無人タクシーの車内では一言も口を聞かなかったのである。




 フロルは半年強ぶりに戻ってきた我が家を見て、一種の感慨を覚えた。数ヶ月前、彼はこの家の玄関でカリンと涙の別れをしていたのである。それが今は彼女に車椅子を押され、まるで葬送の行列のような重みのある沈黙が二人を包んでいた。
 鈍感、唐変木と言われることのあるフロルであっても、この沈黙の意味はよく理解していた。恐らくこの繊細な少女は、自分の新たな家族が見知らぬ土地で、見知らぬ女と親しくしたことに立腹しているに違いない、とわかっていたのである。この場合、いささか複雑なのはカリンで、彼女はいったい自分が何に対して怒っているのか、それが漠然としてわからなかったのであった。理性的に考えて、自分の保護者であるフロル・リシャールは健康な20代の独身男性であり、成熟した女性との健全な交際に異常性は生じえないのである。だが彼女は何かにとても失望しており、さらには何かを恐れる気持ちが心にあったのである。
 だが、それを読み取って、安心させるのはまさにフロルの仕事だ。
 彼は車椅子を器用に動かし、お湯を沸かして、ポットと茶葉でもって、彼とカリンの分の紅茶を用意した。カリンはカリンで無言ながら冷蔵庫から、明らかに彼女お手製と思われる小さなチーズスフレを取り出した。無論、そこにはなんの説明も加えられなかったが、お互い無言のうちに、まるで神聖な儀式を執り行うかのように、ティータイムの準備をしていたのである。

 そして数分の後、フロルとカリンはリビングのテーブルに向かい合って腰かけていた。カリンは紅茶を一口、その作り物のように可愛らしい口で飲みこんだ。そしてその繊細な味と、確かな深みに懐かしさを爆発させていた。紅茶の入れ方は、どれだけ練習してもまだまだフロルが遥かに上手いのであった。カリンは待ち望んだその紅茶を、不本意な気持ちのまま口にしたのである。

「カリン」
 まず口を開いたのはフロルであった。
 カリンは呼びかけに、小さな肩の震えで応えた。

「カリン、私はイヴリン・ドールトン、という女性と付き合っている」
 カリンは戦々恐々として、視線を手に持ったティーカップから、フロルに移した。フロルはその視線を真っ正面から受け止めて、小さく頷く。
「彼女とのお付き合いは真剣なものだし、彼女も多分、私を気に入ってくれているだろう」
「それは、結婚するってこと?」
 カリンはどこか辛そうに、そう訊いた。
「わからない」
 フロルは正直に応えた。
「私と彼女が知り合ったのは、かなり昔になるけど、男女として付き合うようになったのは最近のことなんだ。私はまだ彼女のことを知り尽くしてはいないし、彼女もそれは同じだと思う。だから、結婚するとしても、これから時間をかけて、考えていくと思う」
「じゃあ、すぐかもしれないの?」
「どうだろうね」フロルはそこで、カリンに微笑みかける。「だけど、カリンは安心していいよ」
「え?」
 カリンは目を見開く。
「カリン、君は私のことをどう思っているのか、だいたいは想像がつく。だけどね、私はカリンのことを、血の繋がった家族だと思っている。だから、これからどんなことがあろうと、君を最優先に考えようと思っている。これは、イヴリンにも言ってある。私は何があっても、カリンからは離れていかない。君が私の元から旅立ちたい、と思うその日まで、君は私の元にいて欲しいんだ」
 カリンは言葉の途中から、泣き始めてしまった。
(なんだか、いつも泣かしているな)
 フロルはそう思って、心の中で苦笑した。彼は椅子からなんとか立ち上がって、彼女のの横に行って、カリンを静かに抱きしめた。彼女は明らかに半年前よりも大きくなっていて、その成長ぶりはフロルにも眩しいほどだ。

「……ぐす…私……また、一人になっちゃうんじゃないかって」
「大丈夫だ」
「……フロルさんが…っ……私からっ……離れていくんじゃないかって」
「離れたりしないよ」
 フロルはカリンの顔をそっと掴み、零れ落ちる涙を指で拭いてやった。
「私は、君が君にふさわしい男を連れてくるまで、ずっと君を見守っている。近くても、遠くても、私は君を常に想っている。それを、忘れないでくれ」
「……っ……はい」
「笑って、カリン。カリンには笑顔の方が似合う」
 泣きながら、それでも笑おうとしたカリンの笑顔は、フロルに何にも勝る安心感を齎していた。
 この子は強い。
 だが、その強さは一度挫けたら、もう立ち直れない類の強さだ。だから、彼女が一人で立っても、決して折れないで生きていけるようになるまで、フロルはこの子を支えて上げようと決心していた。それは2年前、キャゼルヌの部屋で彼女の名前を見つけた時に立てた誓いであった。

「…っ……このスフレ…私が作ったの」
 カリンは形は不器用でも、美味しそうなチーズスフレを指差して言う。きっとフロルが帰って来ると聞いて、彼のために作ったものなのだろう。
「そうか、じゃあ一緒に食べようか」
「うん!」

 フロルは、カリンの頭をそっと撫でた。その子供特有の細くて柔らかい髪がさらさらと光り、カリンの目から零れ落ちる滴も、ようやく止まろうとしていた。彼は生きてここに戻れたことを、世界のどこかにいるであろう神に感謝した。どんな種類の神でもよかった。
 この笑顔が見られる今、フロルは確実に幸せだったのである。

























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※訂正※
イブリン→イヴリン
 
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