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【旧】銀英伝 異伝、フロル・リシャール

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女の敵 (後)


女の敵 (後)

 その日は奇妙な日だった。
 昨日の不愉快な痴漢のために憲兵隊を再び訪れたイヴリン・ドールトン中尉は、違う憲兵隊の人間に呼び止められたのである。
 その顔は忘れたくとも忘れられない顔だった。
 昨年の忌まわしい事件。あの事件の担当捜査官だったのだ。私に結婚をちらつかせ軍需投機の汚職事件に巻き込み、私の将来に泥を塗ったあの事件。あの憎むべきサローニは妻子や私すら置き去りにして一人、帝国に亡命した……。

「ドールトン中尉、ちょっと来たまえ」

 その中佐が彼女に語ったのは、彼女の予想を遥かに超えた話であった。なんと憲兵隊捜査本部に匿名の封書が届いたと言うのだ。その封書にはあの事件の内実が異常なほど仔細に表記されており、それによるとイヴリン・ドールトンは主犯であるサローニ中佐によって陥れられただけで無実だ、というのだ。

「我々はこのふざけた封書の裏を現在とっているところだ。だが馬鹿げた話だがな、どうやらどれも裏付けあるらしい。今までの捜査で明らかに出来なかったところがほぼ完璧に解明できそうだ。そこで、だ」
 その中佐はなんとも表現に困る表情で彼女に言った。それもそうだろう。
「君も恐らく無罪となるだろう。まぁ、不愉快なこともあったが、安心したまえ」
 彼女には、いったい何がなんだかわからぬ、の一言であった。


 その後あの痴漢男が約束通りに出頭したのだが、彼女はそれを糾弾する気力も覇気も抜けてしまっていた。文字通り牙を抜かれた状態とも言えるだろう。この一年、怨嗟に恨みと呪いをかけていた件が、突如解決したというのである。それで呆然としない方がおかしいという話である。
 結果、男は無罪放免となった。

 その後、フロル・リシャールというその男が彼女をお茶に誘ったのだが、彼女自身なぜかそれを断ることなくそれに応じてしまった。
 彼女がそうなってしまったのも彼女が対応しうるキャパシティーを大幅に超えてしまっていた、という理由が挙げられるだろう。彼女が昨日あれほど、殺気立っていたのも、ほとんどがあの忌まわしい男のせいなのだから。酷い男に振られても、女は立ち直ることが出来るだろう。だが、その男が自らの将来と希望も奪い去ったとき、彼女には絶望しか残り得なかったのである。
 それが一年経った今になって、いきなりその二つが返品されてきたのだ。



 さて、ここで突然だが、フロル・リシャールの前世であった、相沢優一について語るとしよう。彼が唐突な死を迎えたとき、彼は4年にも及ぶフランスでの修行を終えて、日本に帰ってきた時だった。
 彼は、将来が期待された、パティシエだった。
 むろん転生しても彼の記憶はそのままだったので、彼の菓子作りの腕は一流のままだった。彼は前世では無類の甘党であり、転生してもそれは変わらなかった。彼は士官学校に入学したため、ほとんど男に囲まれた思春期を過ごしてきたものだが、甘党であるアッテンボローなどに言わせれば「驚愕に値する腕前」と称された。もっとも、それが女性に披露されたことは、この世では一度もなかったのだが。



「イヴリン・ドールトン中尉」
 二人がやってきたのは、近くの喫茶店だった。まだ午前中のため、人もまばらである。フロルから見てもドールトン中尉は心ここにあらず、といった様子である。
(どうやらこれはやはりショックを与えなければならないだろうな)

「イヴリン、今回はおめでとう」
 そう言ってフロルがテーブルに出したのは、彼が持ってきた見事なホールケーキだった。細やか装飾はもちろん、生クリームのきめ細やかさにまでフロルが気を使った、渾身の一作である。もしこのケーキを食べたことのあるアッテンボローなどが見たら、自然に唾液腺から分泌される液を抑えられなかっただろう。もっとも、イヴリンも唐突に目の前に出されたケーキを見て、ようやく意識を戻したようだった。それだけ見事なケーキなのである。

「え……このケーキ……何?」
「実は、俺が作ったんだ」

 フロルは多少の照れを隠しつつ、それを明かした。ケーキ作りが趣味、というのは悪くない趣味だと、自分でも信じているのだが、ことそれを女性に言うのは心理的に壁が存在するのであった。

「……何が、おめでとうなの?」
「サローニ事件」

 見事なケーキに目が移っていたイヴリンは、いきなり出てきた名にぎょっとしたように、目の前の男を睨んだ。
「君の無実が証明されたらしいじゃないか、おめでとう」
「……なんでそのことを知ってるの?」

 しかも、彼女よりそれを先に知り得なければ、ケーキを作ってくることなどできないのだ。このケーキには憎たらしいことにも、『おめでとう! イヴリン!』と書かれたチョコレートプレートが刺さっているのだから。

「実は俺はちょっとしたコネがあってね、今回それを使ったんだ。君のことは前から知っていたし」
「あんた、何者?」
「フロル・リシャールだよ」
「……フロル……リシャール……」
 イヴリンはその名を初めて聞いたように、口にする。
「君、本当はあの事件、無実じゃないんだろう?」
 フロルは顔は穏やかなまま、鋭い目線でイヴリンを射抜いた。イヴリンは絶句する。そう、彼女が何よりも今回の無罪放免で驚いたのは、彼女は本当は無罪ではないことを知っていたからだ。彼女はあの男に利用され、口車に乗せられたにせよ、彼女自身の意志であの事件に関わっていたのだから……。

「あんた、いったい何をしたの?」
「あんたにとってサローニって男は、そんなにいい男だったのかな」
 フロルは目線を外した。喫茶店の窓から、外を流れる車に目をやった。
「俺はね、不思議に思ってたんだ。いくらいい男だといっても、妻子持ちの男との不倫。結婚をちらつかせられたにせよ、そんな簡単に事が進むわけがない、わかってたんだろ?」
「……」
「だがな、それで捨てられ、何かが壊れちまいそうになってるあんたを見てて、こっちまで可哀想になってきてさ……。まぁ昨日痴漢扱いされたのは参ったが、そのおかげであんたと会えてよかったよ」
「どういうこと?」
「もし昨日までのあんたが、サローニを見つけたら、どうする」
「殺すわ」
「じゃあ今も殺したい?」
「それは……」
 わからなかった。なぜか昨日までの熾烈なまでの憎悪が、その濃度を薄くしている。

「あんたは優秀な軍人だ。今回の事がシロとなったおかげで、また活躍できる場も出てくるだろう。士官学校の卒業者名簿で見たぜ、イヴリン。俺はあんたの二つ下の後輩だよ」
 そう、このイヴリン・ドールトンはフロルの二つ上の先輩だったのだ。卒業時の学年順位は13位。まず人並み以上に優秀なのだ。
「もっとも不倫はやめた方がいいぜ、と言っておこう。もうこんなくだらんことで身を潰すな」
「あんたはそのために?」
「俺は美人には手を差し伸ばす主義でね」
「これは借りにしないわよ」
「……昨日の痴漢を取り下げてくれたことでチャラにするよ」
「いいえ、今日のお茶に誘われてやった借りが、あなたにあるわ」

 フロルはそれに抗議しようと口を開けて、そのまま口を閉じた。イヴリンの右目から涙が零れ落ちるのを見たからである。


「……なんで、あんなクソ野郎を好きになったのかしら……」
「知るか、おまえがバカだっただけだろうよ」
「ええ……まったくバカよ……私って……ホントにバカよ……」
「……ケーキ食えよ。自信作だぜ」
 フロルはそっとフォークを差し出す。顔を伏せながらそれを受け取ったイヴリンはケーキを一口とって、口に含んだ。

「女って……あれだろ? 失恋したらやけ食いして憂さをはらすんだろ?」

 フロルはそう言って納まりのつかない頭をかいた。前世でも、この世でも、ケーキ修行やら士官学校で女性経験がほとんどなかったものだから、傷心の女性を慰める手段すら知らないのである。こういった男の一種の純情さは、ラップのためを思ってジェシカから身を引いた際にも現れたものだったろう。彼には、自分のケーキくらいしか、女性が好みそうなものを知らなかったのである。敢えて言えば、ケーキだけは自信があったということだが。


「あんた……やっぱ女の敵よ」

「な、なんでだよ!」

 イヴリンは顔を上げた。
 頬を伝る涙。
 だが、そこには笑みがあった。

「こんな美味しいケーキ食べたら、太っちゃうじゃない」

 フロルは、唐突に胸の中に広がる感情が、恋愛感情のそれに近いということに、未だ気付いてはいない。

























 
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